シャローム!
今日で箴言の通読が終わります。31章ある箴言です。もし可能なら、これからも毎日その日の日付に合わせて箴言を朗読してみましょう。この知恵の書には福音がちりばめられています。イエス様の御姿が至る所に見えます。イエス様こそ知恵が形となられたお方です。イエス様を愛し、イエス様をもっと知りたいと願うなら、箴言を毎日朗読してみましょう。求める者には必ず与えられます。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)
今日の通読箇所:箴言28章〜31章
■アウトライン
●むなしいものを追い求める者:28章(1-28節)
●幻がなければ:29章(1-27節)
●三つある、いや四つある:30章
・その名は何か:1-4節
・純粋な神のことば:5-6節
・二つの願い:7-9節
・主人に中傷しない:10節
・世代:11-14節
・飽くことを知らないもの:15-16節
・親を敬わない目:17節
・不思議なこと:18-20節
・震え、耐えられない:21-23節
・小さいもの:24-28節
・歩きぶりの堂々としているもの:29-33節
●しっかりした妻:31章
・王のすることではない:1-9節
・しっかりした妻:10-31節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【28章】むなしいものを追い求める者
1節、いつも正しいことを行っている人は若獅子のように堂々としています。ところが、心にやましいことがある人はそうではありません。意識していても、無意識でも負い目のある人はコソコソと逃げたり隠れたりします。もしくは、わざと派手に振る舞ってみたりします。
それが国家レベルになった場合、国にそむきがあるときは多くの首長がいます。「船頭多くて船山に登る」といったところでしょうか。しかし、ひとりの分別のあるリーダーによって安定した国家となります。5節には、悟るものと悟らないものが出てきます。悪人は公儀を悟りませんが、主を尋ね求める者はすべてを悟ります。彼らは同じ者を見たとしても、その見方が違います。悪者の目は覆われており、主を尋ねる者の覆いは取りのけられ、真理をはっきりと見るようになります。6節は富よりも人格が大切であると教えています。また、7-8節は富に飲み込まれる人の例が書かれています。富を得ても放蕩者、つまり財産を湯水のように使う者とつきあうなら、それは父の恥です。また、自分の手で稼ぐのではなく、利息や高利で儲ける者は、主のご計画によってその利益が貧しい者たちに分配されることが書かれています。
13節、とても大切な事です。私たちが祈るときに心がけたいことが書かれています。自分のそむきの罪を隠す者は成功しないとあります。主に信頼しないことがそむきの罪です。しかし、そのことを告白して捨て去る者はあわれみを受けます。人の目ではなく、神様の目を気にする者となりたいです。
19節、自分の畑を耕す者は食料に飽き足ります。しかし、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きるようになります。むなしいものとは偶像の事です。偶像礼拝は私たちに貧しさをもたらします。
20節、忠実な人は多くの祝福を受けます。黙示録2:10の後半には「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と書かれています。忠実さ、勤勉さは知恵と悟りを得る秘訣です。
21節、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダのことでしょうか。人をかたより見るのは良くないとあります。確かに、あまり良く思っていない人から思いがけないちょっとしたプレゼントをもらうと、そのように思っていた自分が恥ずかしく思えるときがあります。誰にでも公平な目を持って接していきたいものです。
25節、争いは欲の深い者同士が争って起こります。欲と自分の正義を持って争います。これは子どもが集まっている時に見ることができます。今まで見向きもされなかったおもちゃをひとりが取り上げて遊びだすと、他の子も自分の持っているおもちゃを投げ出して「それがほしい」と言ってけんかが始まってしまいます。争いを避けるにはどうすれば良いでしょうか。主に拠り頼むことです。
【29章】幻がなければ
責められてもうなじのこわい者の事が書かれています。「うなじが強い」と書きます。「はい」と首を縦に振ることができない事を意味しています。自分の罪を認めることができない人です。つまり、いつまでも悔い改めない者は滅ぼされて、癒やされることがないと言うことです。
11節、ここでも怒りをコントロールすることが書かれています。愚かな者は怒りをぶちまけます。自制がありません。一方、知恵のある者はそれを内におさめます。8節には怒りを静めるとあります。この静めることは、イエス様が嵐に向かって「静まれ」と言われたことと同じです。前にもお伝えしましたが、怒りが落ち着く数秒を自制を働かせ、なお怒りが収まらないなら、イエス様のお名前で静まるように自分のたましいに言い聞かせてみましょう。
15節、17節、子どもに対しての事が書かれています。子どもをしつけることの大切さです。中には、子どもに遠慮をする親がいます。子どもに対して申し訳ないことをしたと思っている人もいます。子どもに負い目がある人もいます。しかし、聖書は親の権威をはっきりと示しています。どのような状況であっても、親子という立場は変わりません。みことばの言うとおりにすれば、間違いないのです。
しかし、いざ子どもをしつけようとすると、子どもはあらゆる方法でそれを回避しようとします。時には泣いて憐れみを乞うたり、巧妙な言い訳をしたり、話をそらしたり、言い訳をしたりします。子の心に寄り添うことは大切ですが、それとこれとは別です。はっきりと大人の厳しさを教える必要があります。子どもに妥協すると、小さいときにはいいですが、大きくなると手を着けられなくなります。不従順の目は小さい内に摘んでおく方が良いのです。
このように、子どもをしつけることはかわいそうに思うかもしれませんが、しつけられていない子どもの方がよっぽどかわいそうです。子どもに媚びてはいけません。しかし、どこまでも広い愛を持って受け入れる必要があります。このバランスを保つためにも知恵が必要です。18節、幻がなければ、民は欲しいままにふるまうとあります。この幻とは主からの幻です。啓示、黙示です。また、預言です。口語訳では「預言がなければ民はわがままにふるまう」とあります。預言とはみことばです。つまり、みことばが無ければ好き勝手するということです。しかし、律法を守る者は幸いな者です。
19節、しもべをことばだけで戒める事ができないとあります。これは子育てでも同じです。子どもに「聖書を読みなさい」「祈りなさい」と言って、親が全く聖書も読まず、祈らず、ネットドラマばかり見ていたら、子どもは言うことを聞くでしょうか。子育ても、仕事で部下に対しても、まず自分が行い、背中を見せることが大切です。
25節に書かれていることは、人を恐れることです。人の顔色を見て行動するなら心は疲れてしまいます。人に振り回される人生です。もちろん、他人をおもんぱかる事は大切ですが、必要以上に人の顔色を見て恐れて暮らす必要はありません。主に信頼することです。
【30章】三つある、いや四つある
・その名は何か:1-4節
ここからはアグルと言う人が書いた箴言です。ここにしか出て来ない人物なのでよくわかりませんが、一部の神学者は、ソロモンの別名ではないかと言われています。
2節を見ると、自分は人間の中で最も愚かだと言っています。おそらく、知恵を追求していく中で自分の愚かさに気づいたと言うよりは、神様の偉大さに気がついたのでしょう。4節からそのことがわかります。パウロも自分を「罪人の頭だ」と言っています。主の本物の真理に触れるとき、私たちの中にへりくだりが与えられます。
・純粋な神のことば:5-6節
詩篇にもありました。神のことばほど純粋なものはありません。このことばに付け足しをしてはいけません。それは混ぜ物となります。おいしい水に、動物のフンが一粒入った水を飲みたいと思うでしょうか?主のことばに混ぜ物をするというのはその様なことです。もしかしたら、このコラムもそのような事をしているかも知れません。ですから、みなさん自身で純粋な神のことばを朗読してください。
・二つの願い:7-9節
ここでは二つの願があります。不真実と偽りから遠ざけて欲しいと言うこと、もう一つは財産に関してです。非常にバランスが取れています。「貧しさも富も私に与えず」と書かれています。人は貧しすぎても心がすさんでしまいますし、富みすぎても高ぶってしまいます。そう考えると、初代教会の時代は兄弟たちがいっさいの物を共有にしていましたので、このような生活ができていたのかも知れません。
・主人に中傷しない:10節
要するに、言いつけるなと言うことが書かれています。他人の事に首を突っ込みすぎないようにとの忠告です。お節介をしすぎてはいけません。ペテロが復活のイエス様に三度赦していただいた直後、「では、あの者はどうなんですか?」とヨハネを指さしました。すると、イエス様は「あの人の事あなたと関係ない。あなたはわたしに従いなさい」と言われました。何か不正があるのを目撃したなら、まず祈りましょう。そして、主にさばきをお委ねしましょう。
・世代:11-14節
ここに4つの世代があります。両親を敬わない世代、自分を正しいとする世代、高ぶる世代、いじめをする世代です。まるで今の世の中のようです。これらをどのようにしてなくすことができるのでしょうか。まずは私からです。まず自分がこのような世代にならないことです。それを子どもたちに伝えていくのです。時間はかかるかも知れませんが、これが一番確実です。
・飽くことを知らないもの:15-16節
飽くことを知らない事が書かれています。むさぼりです。それは三つあります。いや、四つあります。ひとつはよみです。この世を去って行く人は後を絶ちません。また、不妊の胎です。子どもを宿したいという母の願いです。そして水に飽くことを知らない地です。地は無限に思えるほど水を吸い込みます。そして火です。一度火が付くとどんどん燃え広がって行きます。
・親を敬わない目:17節
このように、飽くことを知らず、自分が満たされることに主眼を置く生き方は、両親をあざけり、さげすむようなものです。そのような者の目は烏にえぐりとられ、わしの子に食われてしまいます。
・不思議なこと:18-20節
ここでの三つある。いや、四つあることは不思議な事です。天にあるわしの道です。どうしてそこを正確に飛べるのか不思議です。岩の上にあるヘビの道も同様です。海の真中にある舟の道も、何も目標物がないにも関わらずほぼ正確に目的地にたどり着けます。そして、おめへの男の道です。恋は落ちると表現されます。恋は盲目にするとも言われています。ある大食いの若い男の子が教会にいました。しかし、あるときから急に食事を食べなくなりました。理由を聞くと恋していたそうです。しかし、ここに書かれているのはそのようなかわいらしいものではありません。肉体関係の事が書かれています。姦通する女は行為に及んだ後も口を拭って「私は不法を行わなかった」と平気で嘘をつくと書かれています。恐ろしいです。
・震え、耐えられない:21-23節
続いての三つ、いや四つは震えです。奴隷が王になることです。権力や富の使い方を知らない者が王になると非常に危険です。また、しれ者がパンに飽きることです。貧しい者が、本来ならよるべのない人に与えられるパンを自分のものとして、自分の腹を満たすために使うことです。権力者の横領もこれにあたるかも知れません。続いてはきらわれた女が夫を得ることです。このようになれば調子に乗って高ぶって、夫も制御できない暴走をしてしまいます。結果、神の立てた夫婦の秩序が壊れてしまいます。そして女奴隷が女主人の代わりになることです。もしそのようになれば、今まで自分が受けてきたうっぷんを一気に晴らすかも知れません。
・小さいもの:24-28節
ここは素直に四つあると書かれています。小さいものです。それは知恵者中の知恵者だとあります。私も男性の中ではとても身長が低いので、この仲間に入れると思うことは高ぶりでしょうか?
小さいものの最初は蟻です。蟻はリーダーもいませんが、やがて来る冬に備えて夏のうちに十分な蓄えをします。
次の岩だぬきは、うさぎほどの大きさですが、荒野の岩場の間に上手に巣を作っているので、外敵から守られます。私たちに取って主は救いの岩です。岩間に自分と家族の身を置く岩だぬきから学ぶことができます。
続いてはいなごです。イナゴもリーダーはいませんが、集団で秩序を持って行動します。出エジプトの時のいなごも東風が吹いて集団でやってきました。私たちも理由はわかりませんが、主に促されて行動するなら、それが一致した神の家族の動きとなることを信じます。
最後はやもりです。あのような姿ですが、王の宮殿に入ることができます。人に踏み潰されてしまうような小さな存在ですが、王宮の中ですべての富を得ているかのように暮らすことができます。
ダビデもアサフも、その願いは主の宮に住むことでした。もちろん、私たちの願いも同じです。やもりから学びましょう。
・歩きぶりの堂々としているもの:29-33節
ここでは、先ほどと対照的に堂々としているものです。このような生き物のように生きていくことは、ある意味高ぶりを持って生きると言うことです。その様な生き方をするなら、争いが起きます。愚かな事をしたり、たくらんだら手を口に当てましょう。鼻をねじると鼻血が出るように、怒りをかき回すと争いが起こります。怒りをコントロールする自制の実を求めましょう。
【31章】しっかりした妻
・王のすることではない:1-9節
ここはレムエルが母から受けたことばです。レムエルもソロモンの幼い頃の名前ではないかと言われています。今までは父から受けた教えでしたが、最後に母からの教えを記しています。
イスラエルでは、子どもを教育するのは主に母の役割です。父は子どもたちを見て、その教えが実行されているかどうかを判断します。実行されていたら子どもを称賛します。しかし、実行できていなかったら厳しく叱責します。共に子どもを心から愛して、聖書の教育をするためです。
ここで簡単に考えたいと思います。教育とは何でしょうか?国語、算数、理科、社会、英語でしょうか?それは教科学習です。教育とは生き方を教えることです。本当の教育は聖書に基づいた教育であることを信じます。
まず初めに母から教えられるのは、女性たちに自分の人生を費やすなと言うことです。もし、レムエルがソロモンの幼い頃の名前だとすると、母はバテシェバとなります。つまり、ダビデとの過ちを犯した本人です。誰よりも性的な過ちの恐ろしさを知っているので、この事を教えたのでは無いかと思います。
続いてはお酒に関してです。強い酒は私たちを気持ちよくさせるかも知れませんが、同時に判断力を鈍らせます。ですから、瞬時に冷静な判断が必要な運転は飲酒後に禁じられています。酒を飲むことは王にふさわしくありません。御霊に満たされる必要があります。
・しっかりした妻:10-31節
箴言の最後はしっかりした妻が書かれています。不思議に思わないでしょうか。どうして最後に妻に関する事柄が突然出てくるのでしょうか。これはキリストの花嫁を意味しています。もちろん、女性のみなさんもこれを目指すことは大切です。よく、女性の人から「箴言31章を読むのは私にとってプレッシャーです」という声を聞きます。そうですね。このような事はとても難しいかも知れませんが、あきらめずに求めましょう。主は求める者に与えてくださるので、少しずつでもこの状態に近づけてくださると信じます。
そして、キリストの花嫁として、全員がここを目指しましょう。今まで箴言を朗読して学んできた一つひとつを思い起こしながら、しみも傷もない、キリストの花嫁を目指していきましょう。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主に信頼する者は守られることを感謝します。
キリストの花嫁となれるように祈ります。