シャローム!
私たちは生まれてから今まで、あらゆるものを選択してきました。過去の選択が今の私たちを作り上げたと言っても過言ではないかもしれません。
よく、聖書の初歩の学びをしているときに「神様は人間にあれはだめ、これはだめと禁止ばかりしているようでいやだ」という意見があります。確かに、みことばをそのまま読むならそのように見えるでしょう。しかし、神様の心を知るなら、その全てが私たちのためであるということがわかってきます。
今も私たちの目の前には祝福とのろいが置かれています。今日、そしてこの先もその良い方を選び取って行くことができますように。
今日の通読箇所:申命記10章~12章
■アウトライン
祝福とのろい
●主の赦し:10章
・とりなし:1-11節
・神の偉大さ:12-20節
●祝福とのろい:11章
・偉大な御業を見た者:1-7節
・乳と蜜の流れる地:8-25節
・民の選択:26-32節
●主の選ばれる所:12章
・御名を住まわせる場所:1-14節
・血を抜いて食べる肉:15-28節
・神々への好奇心:29-32節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【10章】主の赦し
私は小さい頃、母によく「一回失敗しても許す。でも、同じ失敗を繰り返したらだめ」とよく言われていました。その通りですね。同じ失敗を繰り返すというのは学んでいないと言うことです。
私たちの信じている神様は私たちが悔い改めるなら、許してくださるお方であり、再びチャンスをくださいます。
神のことばが刻まれた石の板をモーセは割ってしまいました。イスラエルの民の失敗に対する怒りの表現です。
しかし、神様はもう一度チャンスをくださいました。今度はモーセが石を切り出し、主がそれに直接書かれました。
6節で、レビ人が取り上げられています。イスラエルの民は確かに神様に選ばれた民です。しかし、だからといってイスラエルの民全員が神様に出会える訳ではありません。レビ人と祭司の働きによって神と出会うことができます。
彼らには相続の土地がありません。9節には何が彼らの相続地と書かれているでしょうか?他の部族の相続地とレビ族の相続地、どちらがいいですか?
また、10節からはモーセのとりなしを見ることができます。このとりなしがあった故にイスラエルの民は滅び失せませんでした。
私たちの小さいと思えるとりなしの祈りも、神様によってこのようなとりなしへと変えられると信じます。
12節を見てください。驚くべき事が書かれています。すべてをお持ちのはずの神様が私たちに求めているものがあると書かれています。それは一体なんでしょうか?これは非常に重要なことです。なぜなら、神様は私たちに求めると言うことはめったにされないからです。愛する方の願いは聞きたいと思わないでしょうか?私たちの最も愛する方の願われていることがこれです。
15節、「彼らの先祖を恋したって」と書かれています。主にこれほどまでに思われたいですね。実際、私たちもこのように思われているはずです。
だからこそ16節があります。心の包皮を切り捨てる必要があります。
本来は割礼は肉体に施す者ですが、これは型です。主の願いはこちらの心の割礼です。
心に割礼を受けていない者とは、神のみことばに対して心を閉ざしており、みことばに対して鈍感であると言うことです。そのような者がうなじのこわい者です。
ですから、心に割礼を行うとは、みことばに対して心を開き、みことばを素直に受け入れる従順な者となるということです。コロサイ2:11を見てみましょう。
【11章】祝福とのろい
1節、何度も繰り返されるこのことばは、読む度に心に刺さります。
7節にかけて、いままでの歴史をもう一度振り返っています。この時、モーセは焦点を誰にあてているかわかるでしょうか?
モーセ自身では無く、主にフォーカスがあてられています。
8節からは、これから向かう地の事が語られています。それはどのような所でしょうか?また、そのところを所有し、長生きするためにしなければならないことがありますが、それは何でしょうか?
13節の出だしも同じようなみことばです。何度も繰り返されます。それほど大切ですが、私たちが見落としてしまうからです。
そして、14節には二種類の雨が出てきます。これは「季節にしたがって」と書かれています。これは「主の例祭ごと」という意味です。ですから、この二つの雨は主の例祭の時に降ります。今のイスラエルでも雨は主にこの二つのシーズンに降ります。
先の雨と後の雨です。先の雨(ヨーレー)とは秋の例祭に降る雨です。秋の祭りは何だったか覚えていますか?夏の間は乾期ですので、乾ききった大地を潤す雨です。この先の雨が降るから大地を耕すことができます。そして、大麦と小麦の種が蒔かれます。
そして、後の雨(マルコーシュ)は春に降る雨です。あるの祭りは何だったかわかりますか?春の雨は農作物が豊かな実を実らせるためには必要不可欠な水分です。
これは私が勝手に「二段階の法則」と読んでいることですが、聖書の中にしばしば見られることです。
天地創造でも1-3日に神様は器を創造され、4-6日目にはその中身を満たされました。モーセも契約の板を2回受け取りました。イエス様も盲人の目を開けるとき、二回に分けて目を開けられました。また、イエス様も二度来られます。(二回目の訪れはまだですが)そのほかにもこの二段階の法則をみつけてみてください。
16節、このみことばに従うことが大切です。なぜ迷うのですか?選択肢があるからです。選択肢が無ければ迷う必要がありません。「ただ主だけ」とするなら、迷うことがありません。
18節、ことばを心とたましいに刻みつけるとありますが、原語の意味では「心とたましいの上に置き」というニュアンスがあります。私たちの心とたましいの上にみことばがいつもあるでしょうか?
この箇所はシェマ・イスラエル(申命記6:4-9)と同じ事が繰り返されています。
22節、主を愛するとありますが、主を愛することは具体的には何だったか思い出しますか?
そうするならこの後に書かれていることが成就していきます。
26節、先ほど16節で書きましたが、これがあるから迷います。何が祝福で何がのろいですか?
これは園の中央にあったいのちの木と善悪を知る知識の木に似ています。善悪を知る知識の木の実を食べたなら、その人は神々のようになってしまい、神様よりも自分が高くなってしまいます。
【12章】主の選ばれる所
1-3節まで、ここではあらゆる偶像を破壊することが語られています。これをとって、過激なキリスト者が寺院などを破壊する事件を聞いたことがあります。気持ちはわかりますが、このみことばはそのような意味ではないのではないかと思います。これは私たちの内なる人について書かれているのでは無いでしょうか?
神のイメージとして造られた私たちが神のイメージと違うものを私たちの内に造ってしまっていることがあります。それらをことごとく破壊しなければなりません。
それは何のためでしょうか?5節に書かれている事のためです。「そこ」とはどこでしょうか?それは聖所です。
この聖所には何があるでしょうか?7節を見てみましょう。これが礼拝です。
8節、この言葉が心にささりませんか?今の時代ほど個人主義の時代はありません。あらゆる人が、団体が、国が「自分こそ正しい!」と言っています。おのおの自分の正しいことが行うことが本当の正義ではありません。主の願われることを行うことこそが本当の正義です。なぜそのような事が起こるのでしょうか?答えは直ぐ後の9節に書かれています。主の所に行き、そこに住み、主と共に過ごすなら私たちの正しさの基準から主の正しさの基準へと変えられていきます。
13節、いけにえは主の規定通りに献げる必要があります。勝手な場所でささげてはいけません。なぜ勝手な場所でいけにえを献げたくなるのでしょうか?それは、主のためでは無く、自分のために献げようとしているからではないでしょうか?これは目的と手段が入れ替わっていることです。14節が正解です。
15節から、主は何もかも禁じられるのではありません。エデンの園でもそうだったのではないですか?禁じられたのはたったひとつでした。私たちは神様によって窮屈にされているようにだまされているかもしれませんが、自分で自分を窮屈にしています。2コリント6:12を見てみましょう。
むしろ、「何でも自由にしていい」というより、ルールの中を行かされる方が楽で安全な生き方です。
この肉を食べても良いという箇所で、禁じられていることは何でしょうか?これを守るなら肉を食べていいと言われています。
なぜそれほどの事をしなければならないのでしょうか?28節のためです。
申命記を読むにつけ、一貫したテーマを見ることができるでしょうか?主を愛することです。それは主のみことばを聞き、従うためです。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主を愛し、み言葉に親しみ、聞き従えば、主は喜んで祝福してくださる。
しかし
聞き従わなければ、呪いがある。
素晴らしいみ言葉に慣れてしまうことがありませんように。
いつも新鮮に主のみ言葉を聞き、主のみ心を悟り、
喜んで従う者でありますように
10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、【主】が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、【主】を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、【主】に仕え、
10:13 あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、【主】の命令と掟を守ることである。
10:16 あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。
10:17 あなたがたの神、【主】は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、
10:18 みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。
10:19 あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。
これを読むとき、涙が出ます。
神様は、誤解なさらないし、正しく裁かれる。
主のご性質のすばらしさ
安心して、慕い求めて良い方
こんな素晴らしい主に仕えられるのに、何の不足がありましょうか
主はえこひいきされる方でないこと感謝します。
私は甘え上手じゃないし、おべっかいが苦手で、単刀直入な性格なので、
可愛げがなくて、えこひいきされる立場の人間じゃないからだろうと思うのですが、
昔から、えこひいきが大嫌いでした。
公平でないこと、理不尽なことが苦手でした。
理不尽なことが起こるたびに傷つき拒絶された思いになるのです。
しかし神様は
人を偏らない公平な見方をして、ご自分の保身より、真実を喜び、弱いものを守ってくださり、能力のないものを軽んじられない。そして弱い者だからと言って、ひいき目にもなさらず正しく裁かれる方。
私を見たものは父を見たのですと主イエスは言われるとおり
天のお父様のご性質が、ヨハネの福音書にある、あの姦淫の女に対する主イエスの言動に現れていると思います。
ヨハネの福音書8:1-11
1 イエスはオリブ山に行かれた。
2 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
私は、この個所を読んで、主イエスを信じ受け入れました。
そう証したところ、ある牧師に「あなたは姦淫の女なのですか?」と聞かれたのですが・・・
神が偶像を拝むことを姦淫だと言われていることを聖書で知ったその日から、偶像礼拝はしていません。それまでは、祖母に頼まれると仏壇に供え物をしていたのですが、聖書では禁じているので断りました。それがもとで、家族の中で争いが起こりました。
でも後になって、その祖母から、信仰を持つことを赦され、信仰を持つなら一流の信仰を持つようにと言ってもらえました。
なので、偶像には拝んでないのですが、
自分の中に低いイメージ(劣等感がある自分像)という偶像を作ってしまうことに関して、姦淫の女だと思います。
この心の傷は長い期間を経て、主に癒されています。
これがなぜ、いっぺんに癒されないのか・・・
それは同じように劣等感に悩まされている方のつらさを知る為と
謙遜を学ぶためで、これも主の祝福のご計画の内であるのだということを近頃やっと知ることができました。
主を知ることは、奥が深すぎて、聖すぎて、素晴らしすぎて、理解を超えています。でも今私の持てる知性を尽くして主を見たとしても、
だれよりも憧れの存在です。本物の知性に富まれた方、喜んで従いたい方です。
実際には、我が強い私には、素晴らしいはずの主のみ言葉に従う力が足りなくて、従えてないということが、日々分かってくるのですが・・・
それでも主と出会うたびに、安心して愛する主に従っていきたいという信頼できる思いが起こされます。
この素晴らしい主である神が私の創造主であることは幸福なことです。
主イエスの血潮によって一歩一歩、主にすがって進んでいきたいです。
10:20 あなたの神、【主】を恐れ、主に仕えなさい。主にすがり、御名によって誓いなさい。
10:21 この方こそあなたの賛美、この方こそあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大いなる恐るべきことを、あなたのために行われた方である。
アーメン