聖書通読クラブ Day 182

聖書通読クラブ Day 182【篇120篇〜130篇】

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シャローム!

今日の通読は詩篇を10篇分読みます。といっても、昨日の119篇より短いです。今日の箇所は「都上りの歌」と言われるものです。イスラエルの人々は年に三度、主の例祭ごとにエルサレムに集まり、主を礼拝します。
イスラエルは南北に長い地形です。その端々からも人はやってきます。今のように交通手段もありませんので、遠方からエルサレムに来るのに時間がかかります。しかし、その道程で彼らはエルサレムで主を礼拝できることを心から喜びます。その時にうたわれていたのがこの都上りの歌です。

今日の通読箇所:篇120篇〜130篇

■アウトライン

舌:120篇
  ・偽りの唇と欺きの舌からの救い:1-2節
  ・勇士の鋭い矢:3-4節
  ・哀れな私:5-7節

●守ってくださる方:121篇
  ・助けはどこから:1-4節
  ・いのちを守られる:5-8節

●エルサレムの為に祈る:122篇
  ・良くまとめられた町:1-5節
  ・エルサレムの平和のために祈れ:6-9節

●あわれんでください:123篇
  ・私たちの目はどこに向く:1-2節
  ・もういっぱいです:3-4節

●主が私の味方:124篇
  ・もしも主が味方でなかったら:1節
  ・いきたままのみこむ:2-5節
  ・歯のえじき:6-8節

●主が私を囲まれる:125篇
  ・イスラエルの上に平和があるように:1-5節

●涙とともに蒔き、喜びながら刈り取る:126篇
  ・主がシオンの繁栄を元通りにされたとき:1-6節

●家と子ども:127篇
  ・主が家を建てるのでなければ:1-2節
  ・子どもたちは主の賜物:3-5節

●主を恐れる家族:128篇
  ・勤労の実:1-6節

●悪者の綱を断ち切る:129篇
  ・ひどく私を苦しめた:1-4節
  ・シオンを憎む者:5-8節

●主を待ち望む:130篇
  ・あなたが赦してくださるからこそ:1-4節
  ・待ち望む:5-6節
  ・主を待て:7-8節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【120篇】舌

・偽りの唇と欺きの舌からの救い:1-2節
ここでは、著者は偽りのくちびる、欺きの舌から救い出される事を祈っています。ヤコブ3:6には「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」とあります。著者はこの事を知っていたのでしょうか。

・勇士の鋭い矢:3-4節
自分の舌を「おまえ」と呼んでいます。おもしろい表現です。この舌に向かって、何も加えられないと言っています。「勇士の鋭い矢、えにしだの熱い炭火だ」と書かれています。
確かに、使徒2:3-4には「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」とあります。
私たちの舌は小さな器官ですが、自分で制御しようとしてもできません。これを聖霊様に明け渡すとき、本当の力を発揮します。舌は神さまを誉め称えるために造られました。

・哀れな私:5-7節
最後に悲劇のヒロインのような嘆きが書かれています。この著者は平和を求めています。エルサレム、それは平安の町です。主の住まいです。地上のエルサレムにも祝福がありますが、それ以上に祝福ガアルのは天のエルサレムです。私たちはここに上って行くことを目指しています。そのために私たちの舌を主に取り扱っていただきましょう。

【121篇】守ってくださる方

・助けはどこから:1-4節
日本の山と言えば富士山です。東京からでも、天気の良い日は肉眼で見ることができます。標高が高いからです。
この詩篇の著者は山に向かって目を上げています。それはエルサレムです。エルサレムは山の上にある町です。その周りを城壁で囲むと敵から攻められにくいので、カナン地方では山の上に町が造られることが多かったようです。
祭りのためにエルサレムに向かう者たちの目は山に向いています。主の住まわれる山です。道すがら大変なことがあっても、「私の助けは主から来る」と自分のたましいを励ましてエルサレムへと向かいます。私たちを守って下さる主はまどろむことはありません。ローマ8:26には「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして下さいます。」と書かれています。また、同じ章の34節には「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。私たちの助けはこの主から来ます。

・いのちを守られる:5-8節
この時代の長旅は危険が伴いました。ですから都上りの時、彼らはこの詩篇を歌い、主への信頼を思い起こしています。盗賊や飢えや嵐など、あらゆるものから守ってくださるのは主だと自分のたましいに言い聞かせています。
7節には「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる」とあります。この事を信じますか?主はとこしえまでも守ってくださるお方です。

【122篇】エルサレムのために祈る

・良くまとめられた町:1-5節
ダビデによる都上りの歌です。エルサレムの町の中に入っています。ダビデは喜んでいます。なぜかというと、人々が「さあ、主の家に行こう」と言ったからです。ダビデの願い、それは主と共に住み、その麗しさを仰ぎ見る事です。
そのダビデが憧れ、ダビデの町を建設したエルサレム、それはよくまとめられた町であると書かれています。確かに、現在もユダヤ人地区、キリスト教地区、ムスリム地区、アルメニア地区など、きれいに区画整理されています。しかし、それ以上にダビデが見ていたのは新しいエルサレムの姿であると信じます。それは美しい立方体で、天から降りてくるものです。主が完全に統治され、よく整えられた美しい町です。

・エルサレムの平和のために祈れ:6-9節
ダビデはエルサレムの平和のために祈れと言っています。エルサレムは平和の町です。もう一つ、私たちの内なるエルサレムもあります。そこには王座があります。自分が座るか、イエス様に座っていただくかを選ぶことができます。実際のエルサレムの平和の為にも祈ることが大切ですが、わがうちのエルサレムの平和のためにも祈りましょう。主は平和の君です。

【123篇】あわれんでください

・私たちの目はどこに向く:1-2節
ここでは、「天の御座に着いておられる方よ」と祈っています。イエス様は永遠の大祭司です。地上の幕屋で仕える大祭司は、幕屋の中で絶対に座ってはいけませんでした。ですから、幕屋の器具には机はありますが椅子はありません。
しかし、イエス様は十字架で「完了した」と叫ばれたとき、地上での祭司の働きも完了しました。それで、イエス様は永遠の大祭司として天の幕屋に入られ、そこで御座に着かれたのです。完了したと言う意味です。
そして、この著者は奴隷が主人の手に向けられているように、目を主に向けています。それは、「主人がいつ手を上げて自分をたたくのか」という恐れではありません。その手で真実な憐れみを施すことを期待して見ています。私たちの考える奴隷と、聖書に書かれている奴隷のイメージは必ずしも一緒ではありません。

・もういっぱいです:3-4節
ここでは憐れみを求めています。迫害されているからです。安逸をむさぼるとは、何もしていなくても平気な状態です。そのような者のあざけりと高ぶる者たちのさげすみに悩まされています。だから主にあわれんでくださいと求めています。私たちも主に祈りましょ。「主よ、憐れんでください」と。

【124篇】主が私の味方

・もしも主が味方でなかったら:1節
「もしも主が味方でなかったら」という、印象的なことばから始まります。考えてみてください。もし、万軍の主が私たちの敵であったら、私たちには絶対に勝ち目はありません。このように、考えすぎてはいけませんが、「もしも」と考えてみることは、私たちに感謝の心を思い出させてくれます。

・いきたままのみこむ:2-5節
もし主がダビデの味方でなかったら、サウルから、アブシャロムから追われた時、自分は生きたまま飲み込まれていたと言っています。それはまるで大水が、荒れ狂う水が襲うようだったと言ってます。

・歯のえじき:6-8節
ダビデは強力な軍隊と賢い知恵のある人々の策略から助け出されたことを、わなから抜け出す取りに例えています。わなは獲物を仕留めるためにあります。隠されています。一度かかると抜け出す事は困難です。
主は私たちを守られるとき、相手から私たちを見えないように導いてくださることもできるお方です。
私たちをおとしめようと、わなを仕掛ける者もあるかもしれません。主はそこから私たちを助け出してくださいます。私たちの助けは天地を造られた主の御名にあります。

【125篇】主が私を囲まれる

・イスラエルの上に平和があるように:1-5節
主に信頼する人を山に例えています。山はゆるぐことはありません。世の終わりに起こるような天変地異がない限り、何年も同じ所にあります。そのように、主に信頼する者はふらふらしません。安定しています。
そして、山々がエルサレムを囲むように、主は御民を永遠に囲んでくださるとあります。確かに、エルサレムの周りには山々があります。また、ゼカリヤ3:5には「しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。ーー主の御告げーーわたしがその中の栄光となる」とあります。3節以降は、私たちが真剣に考えなければならないことが書かれています。エルサレムに住んでいるからと言って、救われるわけではないという意味のことが書かれています。教会に通っているから救われるのではありません。イエス様を心で信じ、口で告白し、このお方のいましめに従って歩む者が救いの達成に至ります。もちろん、主を信じることで永遠のいのちが与えられますが、その先にある報いは違ってくるのではないかと思います。
エルサレムに留まりながら、不正をする者が連れ去れています。私たちにあてはめたらどうなるでしょうか。祈って考えてみましょう。

【126篇】涙とともに蒔き、喜びながら刈り取る

・主がシオンの繁栄を元通りにされたとき:1-6節
この詩篇は、バビロン捕囚からかエルサレムに帰還したときに歌です。70年の捕囚の後、ペルシャのクロス王の心を主が動かされ、ユダヤ人をカナンの地に帰される事をされます。彼らは夢を見ているようでした。黙っていても喜びが溢れ、押さえることができません。
私たちは罪の奴隷から解放され、私たちの造り主のところに帰ることができました。その喜びを忘れてしまっていないでしょうか。救いの喜びを返してくださいと祈りましょう。
バビロン捕囚の一連を見ても、この事を実感します。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びならがら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる。」と。
人はエデンから追放されました。しかし、やがてイエス様が迎えに来て下さり、私たちは喜びながら新しいエルサレムに入っていくのです。

【127篇】家と子ども

・主が家を建てるのでなければ:1-2節
この詩篇は、おそらくエズラ・ネヘミヤの時代、バビロン捕囚から帰ってきて町を再建しているときの歌だと思われます。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしいものです。イエス様は山上の垂訓の最後で「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」と言われています。主のみことばの土台の上に、主の言われるとおりの家を建てていく必要があります。みことばの朗読を意味します。
続くみことばは、」主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」とあります。守ることは祈りです。
主は私たちが眠っているときにも忠実にこの事を行って下さいます。その主の愛に応え、私たちはみことばを読み、祈ります。

・子どもたちは主の賜物:3-5節
ここでは子どもの祝福が語られています。子育ては大変です。しかし、大きな祝福があります。胎の実は報酬です。主がいのちを与えてくださいます。この与えられた子どもは親のものではありません。主のものです。主が私たち親に託してくださったいのちです。ですから、子どもを神さまの願い通りに育てる責任があります。もし子育てについて詳しく知りたいなら、「神さまの願う聖書的子育て」と言う本をおすすめします。目からうろこが落ちるような、ユダヤ的視点から書かれた聖書に基づく子育ての本です。
そのように、主の御心通りに育てられた子どもたちは、勇士の矢のようにまっすぐに目標に向かって飛んでいきます。

【128篇】主を恐れる家族

・勤労の実:1-6節
幸いなことが出てきます。主を恐れ、主の道を歩む者が幸いと言っています。そのとおりです。
自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福でしあわせだと書かれています。確かに、主の恵みによって私たちは祝福を受けます。しかし、主にだけ頼って、自分は何もしないというのは恵みを放縦に変えてしまっていることになります。
主がして下さる事と、私たちが行うことがあります。何もかもが自動的に行われるわけではありません。血を流すまで罪と戦い続ける者に、主は勤労の実を与えてくださり、しあわせを与えてくださいます。
また、ここでは妻について触れられています。また、子どもたちが出てきます。主を恐れる家族の姿があります。主を恐れる家族はこのような祝福を受けます。日本の家族の回復を祈ります。これ以上家庭が壊されませんように。強い家庭が強い教会をつくり、強い教会が強い国家を作っていくでしょう。みなさんの家族がみな、主を恐れる者となりますように。

【129篇】悪者の綱を断ち切る

・ひどく私を苦しめた:1-4節
「彼らは若い頃からひどく私を苦しめた」と書かれています。しかし、主を信頼する者には勝つことができません。主ご自身が悪者の綱を断ち切ってくださいます。

・シオンを憎む者:5-8節
シオンを憎む者がどのようになるかが書かれています。恥を受けて退きます。伸びないうちに枯れる屋根の草のようになります。誰も手に取りません。祝福があるようにとも言ってもらえません。
聖なる都、シオンを憎むことはそこに住まわれる主を憎むことでもあります。「私たちは主を憎んでなんかない」と思うかも知れませんが、主の戒めに従おうとしないことが主を憎んでいることにつながるかも知れません。
私たちの心の中にいつのまにか入ってくる不正を成す者がことごとく断ち切られていきますように。

【130篇】主を待ち望む

・あなたが赦してくださるからこそ:1-4節
主の赦しはどれほどでしょうか。十字架を思い出してください。神さまは人をご自分と愛を分かち合うために創造してくださいました。ところが、人が勝手に神の戒めを破ってしまいました。本来ならそこで終わりのはずでしたが、主は恵みによって人を生かしてくださいました。ここで整理すると、被害者は神さまで、加害者は人です。
ところが、イエス様は被害者であられるお方なのに、加害者である人に近づいて来て下さり、一方的に赦してくださったのです。ありえないことが起こっています。
私たちは、主が赦してくださるからこそ、主を恐れることができます。もし、主が私たちの不義に目を留められたなら、誰ひとり主の御前に立つことはできません。しかし、イエス様の血潮の購いにより、私たちは義とされたことを感謝します。

・待ち望む:5-6節
ここでは、ひたすら待ち望むことが書かれています。現代で最も失われた物の一つがこの忍耐だと思います。しかし、ヘブル10:36には「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手にいれるために必要なのは忍耐です。」と書かれています。
いつ聞かれるかわからなくても、祈って主が必ず成してくださると信じて待ち続けます。
夜回りは夜が明けるのを今か今かと待ちわびます。そのように、私たちは主の御約束を楽しみ、期待を持って待ち望みます。

・主を待て:7-8節
イエス様は十字架の後、天に戻られるとき、「エルサレムにとどまっていなさい」と言われました。その時、イエス様のおことばを信じて、留まり続けた者120人の上に、聖霊様が降り注ぎました。
主が「行け」と言われたら行く必要があります。主が「待て」と言われたら、いつまででも待つ必要があります。今こそ、主を待ち望む忍耐が与えられるよう、主に求めていきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 私の助けは天地を造られた主から来ることを感謝します。
    主よあわれんでください。主を恐れる家族になりますように。

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