聖書通読クラブ Day 165

聖書通読クラブ Day 165【詩篇36篇〜40篇】

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シャローム!

私たちは自分の心を制することがとても難しいと感じるときがあります。御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。愛にはじまり、自制に終わります。そして、またより深い領域で愛からはじまっていきます。そして、豊かな実を結んでいきます。自分を制することは人格者として、また信仰の大人としてとても重要なことです。セルフコントロールは、どのようにして身につけていくことができるのでしょうか。ダビデの詩篇からそのことも教えられていきましょう。

今日の通読箇所:詩篇36篇〜40篇

■アウトライン

●主の高さ:36篇
  ・悪者に語りかける罪:1-4節
  ・いのちの泉:5-9節
  ・注いでください:10-12節

●正しい者と悪者:37篇
  ・枯れる悪を行う者:1-2節
  ・善を行い誠実を養う:3-4節
  ・主にゆだねよ:5-6節
  ・腹を立てるな:7節
  ・怒りをやめ憤りを捨てよ:8-9節
  ・いなくなる悪者:10-11節
  ・主は彼を笑われる:12-13節
  ・おのれの心臓を貫く:14-15節
  ・ひとりの正しい者のもつわずかなもの:16-17節
  ・全き人の日々:18-19節
  ・悪者は滅びる:20節
  ・借りるが返さない:21-22節
  ・まっさかさまに倒されはしない:23-24節
  ・正しい者は見捨てられない:25-26節
  ・悪を離れて善を行う:27-28節
  ・正しい者は地を受け継ぐ:29節
  ・心に神のみおしえがある:30-31節
  ・正しい者を殺そうとする悪者:32-33節
  ・主を待ち望め:34節
  ・過ぎ去る悪者:35-36節
  ・平和の人:37-38節
  ・主から来る救い:39-40節

●わが救いの主:38篇
  ・私を責めないでください:1-4節
  ・悪臭を放つ傷:5-12節
  ・急いで助けてください:13-22節

●私の一生:39篇
  ・自分の道に気をつける:1-3節
  ・私の終わりはどれだけなのか:4-6節
  ・何を待ち望むか:7-11節
  ・私の涙にだまっていないでください:12-13節

●救いを愛する人たち:40篇
  ・泥沼から引き上げる:1-3節
  ・主の奇しいわざ:4-6節
  ・巻き物の書に書かれる:7-9節
  ・主の義を心に隠さない:10-12節
  ・あざ笑う者が色を失うように:13-15節
  ・貧しい者:16-17節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【36篇】主の高さ

・悪者に語りかける罪:1-4節
罪は悪者の心に語りかけるとあります。人が誘惑されるのは自分の欲におびき寄せられて誘惑されるとヤコブ1章には書かれています。エデンではヘビは女の心に語りかけました。今の時代もサタンは私たちの心に語りかけてきます。その原因が続くみことばに書かれています。「彼の目の前には、神に対する恐れがない」と。確かに、主を一番に恐れるなら他の者が心に語りかけることはありません。
続いてへつらいについて書かれています。基準のない者の生き方です。士師記の時代の人々のように、めいめいが自分の目に正しいと思うことを行っている生き方です。
そのような者の口からはいつも不法とあざむきが出てきます。寝床でも不法を計画し、良くない道に堅く立っています。このような者が満ちる中で、どのように信仰を保てば良いのでしょうか。

・いのちの泉:5-9節
不法が満ちるこの地で信仰を保つためには主の恵みに拠り頼み、神の恵みの偉大さをほめたたえることです。神様の恵みは天にあります。地の何者もそれを奪い取ることができません。真実も義もはるかに高く、私たちが及ばないほどです。恵みは私たちの目で見ることができない領域にありますが、真実と義は高いですが見える領域に置かれていることがわかります。
恵みは私たちに安らぎを与えます。主の御翼の陰に入れ、守ってくださいます。また、いのちの泉から流れる楽しみの流れを私たちに飲ませてくださいます。光も泉もその源は主にあります。

・注いでください:10-12節
主の恵みはどのような者に注がれるでしょうか。恵みを知る者にです。主の義はどうでしょうか。心の直ぐな人にです。
恵みは、神様にいつも飢え乾き、この方を慕い求める者に注がれます。義は神様の御前でいつも正直な心を持ち、自分は貧しい者だと自覚している者に注がれます。自分ではなく、主の正しさを本当に知る者です。

【37篇】正しい者と悪者

・枯れる悪を行う者:1-2節
今の時代は正義がぶつかり合う時代です。自分の正しさが通らないときに、相手に対して腹を立ててしまいます。
ダビデは悪を行う者に対して腹を立てるなと言っています。怒りは神の義をあらわすものではないからです。また、不平を行う者に妬みをおこすなと言っています。かれらは放っておいても枯れていきます。
使徒の働きの中でチウダという人が出てきますが、彼らは異端の教えをもってイスラエルの人々を導いていましたが、自然に消滅してしまいました。そのことをもってガマリエルはナザレ派と言われたイエス様に従う者を放っておきなさいと言いました。神の御心であれば自分たちが神の御心を損なうことになりかねないからです。
私たちも自分の目から見て腹立たしいことを感じることがあるかもしれませんが、さばきを神様におゆだねしたいと思います。

・善を行い誠実を養う:3-4節
私たちがフォーカスすることは、悪を行う者の揚げ足を取ることではありません。彼らがどれだけ悪いかを細かく探すことではありません。それらは忘れて、主に信頼して善を行う必要があります。しっかりと地に足を着け、誠実を養うのです。
そして、悪者の失敗を喜ぶのではなく、主を自分の喜びとするのです。主はそのような者の願をかなえてくださいます。

・主にゆだねよ:5-6節
結局はこれです。主に信頼できるかどうかです。主以外は誰に信頼するのでしょうか。自分です。もしくは主以外の神々です。偶像です。いのちを生み出し、滅ぼすことができる方とそれ以外のもの、どちらに信頼しますか?なぜ主に信頼仕切れないのでしょうか。どこに原因があるのでしょうか。祈りの中で主に教えていただきましょう。そうるなら、主ご自身が成し遂げてくださいます。

・腹を立てるな:7節
腹を立てないようにすることはとても難しい事です。そのために必要なことは主の前に静まり、耐え忍び主を待つことです。
最近読んだ記事で、怒りを抑えるには数秒間深呼吸をすれば良いと言うことが書かれていました。5秒くらい黙って呼吸を整えたら怒りは収まるそうです。
また、腹立たしいことはコントロールできないと思っている人がいるでしょうか?それでは、こういうことはどうでしょうか。例えば、自分の子どもに対してとても腹が立ち、怒り散らしていたとします。そして子どもも親に腹を立てて家を出て行きました。しかし、親は子が財布を持たずに出て行ったのに気づきました。その時に電話がかかってきて、いきなり怒鳴り散らしましたが、それは子どもの学校の先生でした。するとその人は別人かのように高い声で優しく電話に答えるでしょう。しばらくして子どもが財布を取りに戻ってくると、また怒ります。どうですか?怒りはコントロールできるものなんですよ。
信仰と意思を働かせて栄える者、悪者に対して腹を立てないようにしましょう。腹を立てても顔のシワが増えるだけです。良いことは何もありません。

・怒りをやめ憤りを捨てよ:8-9節
怒ること、憤りは悪への道だと書かれています。有名な映画、スターウォーズで主役のアナキン・スカイウォーカーという人物がいます。彼は子どもの頃から傑出した才能を持っていて、将来が期待されていました。しかし、彼は自分の母が殺されたこと、妻が双子を産んだ後に死んでしまったことで怒り、復讐心に燃え、ダークサイドに引き込まれ、ダースベーダーと言う悪のリーダーになったのです。
怒りが生み出すエネルギーはものすごいものです。クリスチャンの医師がある実験をしました。入院患者でいつも怒っている人の脳波を調べるととても高いエネルギーが検出されたそうです。そして、いつも主を礼拝し賛美している人の脳波も計ってみたそうです。すると、怒る人の何倍ものエネルギー、検査機械の針が振り切れるほどの値が出たそうです。
怒りよりも主を待ち望む者、その者に主は地を受け継がせてくださいます。「柔和な者は幸いです。その者は地を受け継ぐから」(マタイ
5:5)

・いなくなる悪者:10-11節
繰り返されますが、悪者はいなくなります。たとえ生き残ったとしても、黙示録を読んでみてください。最後には悪者、つまり主に従わない者は滅ぼされてしまいます。
勝手に滅んでいく者を更に追い詰める必要はありません。自分もそちらに引っ張り込まれてしまうかも知れません。私たちがすることは揺るがない神の恵みに立ち、彼らのためにとりなし祈ることです。
そのようにする者の心はいつも飢え乾いています。自分の無力さを痛感します。ですから切実に主に祈ります。そのような人はやがて主と共に地を受け継ぐ者とされます。

・主は彼を笑われる:12-13節
アニメや戦隊ものなどをみていて安心するのは正義が勝つことがわかっているからです。時代劇の水戸黄門も同じでしょう。印籠を出して悪者が「へへー」と言って土下座することがわかりきっています。
それ以上に、主は悪者の行く道を知っておられます。ですから、悪者を見て主は笑われます。

・おのれの心臓を貫く:14-15節
ここも今までの繰り返しになります。悪者は自分の策略で滅ぼされてしまいます。さばくとおりにさばかれ、量るとおりに量られます。(マタイ7:2)
自分がこのような悪者にならないように気をつけましょう。墓穴を掘って自分がそこに落ち込んでしまいます。

・ひとりの正しい者のもつわずかなもの:16-17節
主はいつも小さなものから偉大な事をされるお方です。からし種はとても小さい種ですが、それが芽を出すと鳥が巣を作れるほどの大きさになります。イスラエルの残されたわずかな者から福音を全世界に広げさせてくださいます。正しい者の持つわずかなものは多くの悪者の豊かさに勝るものです。
私たちの内にも神の種が蒔かれていることを感謝します。

・全き人の日々:18-19節
全き人とはどのような人でしょうか。主に信頼し、信仰を全うした人です。完全な者です。主はそのように歩む人々の葛藤も苦悩もすべて知ってくださっています。
その様な人のゆずりは永遠に残り、わざわいの時にも恥を見ず、ききんの時にも満ち足ります。

・悪者は滅びる:20節
一方、悪者は一瞬で消え去ってしまいます。それはまるで牧場の青草のようだと言っています。

・借りるが返さない:21-22節
悪者の特徴が書かれています。借りるが返さないとあります。人から借りたものがあれば、返しましょう。そして、最も大切なのは、主からお借りしているあらゆるものを自分の栄光にしてしまい、主にお返ししないことです。つまり、その矢印はいつも自分に向かっている人です。
一方、正しい者は情け深くて人に施します。レ・ミゼラブルという歌劇で、奴隷から抜け出してきたジャンバルジャンが教会で盗みを働きますが、神父はそれを神様からのプレゼントだといって彼に盗みの罪を犯させませんでした。慈愛に満ちた行動です。
このような信仰だけではなく、信仰から来る整えられた人格を切に求めています。

・まっさかさまに倒されはしない:23-24節
この箇所は非常に励まされるみことばです。人の歩みはただ、主によってのみ確かにされます。
若者が「自分探しの旅」などと言って旅行に行く時代がありました。今ならインターネットで検索する旅に出るのでしょうか。しかし、そこには答えはありません。答えを探したければ、私たちを造られた方の所に行くのが一番です。主の道に従って歩むことを主は喜ばれます。そのように歩む者は倒れることもあるかもしれませんが、まっさかさまには倒されません。なぜなら、主がいつも傍らで私たちの手を支えてくださっているからです。このお方だけに信頼しましょう。

・正しい者は見捨てられない:25-26節
正しく歩む者は一見、損をしたように感じることがあります。しかし、イスラエルの人々は出エジプトして、荒野で飢え死にしましたか?毎日マナが与えられ、服はすり切れず、くつもすり減ることはありませんでした。彼らは不平不満を言いましたが、それでも主の道を歩み続けたからです。
私たちの人生を振り返っても、苦しいことがあったかもしれませんが、今、生かされています。そのように、主の恵みを知っているので、たとえ自分が貧しくとも情け深く人に貸すことができます。そもそも、自分の持ち物は自分のものではなく、主のものだからです。

・悪を離れて善を行う:27-28節
悪を離れる事が大切です。子育ては環境づくりが大切です。いつも争いのある家庭で子育てすると、子どもはそれが当たり前だと思ってそのように育ちます。植物も子どもも、私たち自身も環境次第で成長するか、枯れてしまうかが決まります。自分の環境を今一度見直してみましょう。そして、環境が良くないと思うなら、思い切って別の所に移るというのもひとつの選択肢です。
心がいつも悪いことを求めてしまうと言う環境もあるでしょう。そういう人は、主を住まいとすることを意識しましょう。人は満ち足りない時に誘惑にあいます。主はすべてを満たしてくださるお方です。
主はご自分の聖徒を見捨てることなど、決してなさいません。

・正しい者は地を受け継ぐ:29節
繰り返しこの詩篇で語られていることです。正しい者は地を受け継ぎます。そこにいつまでも住むことができます。

・心に神のみおしえがある:30-31節
正しい者の口はいつも知恵を語ります。知恵は主ご自身のことです。そして舌は公儀を告げます。どうしてそういうことができるのでしょうか。心に神のみおしえ(トーラー)があるからです。
心に満ちていることを口が話します。口のことばを本当に変えたいなら、心を変えていただく必要があります。心は私たちが見たもの、聞いたもので形成されています。みことばを見つめ、主のことばを聞き続けるなら私たちの心は主でいっぱいになり、口から知恵と公儀が流れ出します。

・正しい者を殺そうとする悪者:32-33節
箴言でも何度も出てきますが、悪者は正しいものを待ち伏せて殺そうとします。ですから私たちは必死に自分の心を守らなければなりません。悪者はやがてさばかれます。

・主を待ち望め:34節
悪者はなかなかいなくなりません。ですから「主よ」という叫びが出てきます。祈ってもなかなか抜け出せない葛藤から飢え乾きが出、忍耐が生じます。忍耐は練られた品性へとなり、それが希望となります。その希望は失望に終わりません。この希望というのが主は再びこられるという希望です。主を待ち望みましょう。それまで、その道を堅く守りましょう。

・過ぎ去る悪者:35-36節
何度も繰り返されます。悪者はそのうち自分で滅びます。ハマンのようです。悪者が栄えるのを見るのはくやしいでしょう。だから彼らのために祈りましょう。主の正しいさばきが成されますようにと。

・平和の人:37-38節
私たちが目を留めるのは全き人です。心の直ぐな人です。なぜなら、主もそのような者に特に目を注いでくださるからです。神様と同じ目線に立つことができます。
たとえ、苦手な人がいたとしても、その人に一つくらいは良いことがあるはずです。その人の中にあるキリストのご性質の一部を見る目を与えていただきましょう。

・主から来る救い:39-40節
この結びの2節を特に音読して、自分のたましいに聞かせてあげましょう。救いはどこから来ますか?苦難の時のとりでは何ですか?主はどのようにしてくださいますか?これが私たちに与えられている約束です。

【38篇】わが救いの主

・私を責めないでください:1-4節
ダビデは神様から怒りを受けていると感じています。その怒りとはどのようなものでしょうか。
主の矢が刺さり、主の御手が激しく下っています。自分の不完全さを嫌と言うほど見せられ、骨にまで至っています。咎は大きすぎて頭を越えるほどになり、その重荷に耐えられなくなっています。
おそらくは、バテ・シェバの一件の事ではないかと思われます。

・悪臭を放つ傷:5-12節
その傷は悪臭を放つとあります。確かに、私が子どもの頃、山を走り回って汚した所を消毒もしないで放置しておくと、なんとも言えない悪臭がしたのを思い出します。肉の香りでしょう。
しかし、これは私たちの肉体以上に、心の傷でもあると思います。私たちは心は見ることができません。実はそこに大きな傷を負っているのに、無理に作り笑顔で大丈夫と言っている人を見ると、心が張り裂けそうになります。
心に傷があるなら、それは腐敗し、悪臭を放ちます。隠そうとしても悪臭は周りに広まっていってしまいます。この傷はどうすれば良いのでしょうか。
「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたが、いやされたのです。」(1ペテロ2:24)イエス様はその心の傷の痛みも知ってくださっています。私たちの痛みに同情してくださるお方です。もし、心の傷を隠したままで生活していると、自分ではばれていないと思っているかも知れませんが、傷から放たれる悪臭によって、周りの人に影響を与えることになります。
傷の原因が何か、みことばに書いています。それは愚かしさのためです。知恵の反対語です。みことばが蓄えられていない状態です。心に傷があると感じるなら、口や鼻から溢れるほどにみことばをいっぱいに心に蓄え、溢れるほどにすることです。時間の許す限り聖書を音読し、ひれ伏すことをひたすら繰り返してみましょう。主は心の傷を癒やしてくださると信じます。そして、傷が癒やされたなら悪臭は止み、代わりにキリストのかぐわしい香りが放たれていくと信じます。

・急いで助けてください:13-22節
ダビデは親しい者からも裏切られ、打ちひしがれていますが、その時にいつも以上に主に信頼しました。主を待ち望みました。
主の前に正直に自分の罪を告白するダビデを敵はあざ笑います。そして、敵はどんどんと栄えていきます。
主のためにと献身したのに、逆にどんどんと後退しているように感じることがあります。しかし、それは主の訓練です。自分の歩みから主の歩みのペースへと変えられているプロセスです。
しかし、依然として苦しみはあるでしょう。ですから、ダビデのように祈りましょう。「私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。」と。

【39篇】私の一生

・自分の道に気をつける:1-3節
ダビデはあることに気をつけると言っています。それは何かと言えば、舌で罪を犯さないようにと言うことです。
口のことばで失敗しない人はいないでしょう。私も過去、本当に沢山失敗をし、多くの人を傷つけてしまいました。本当に申し訳なく思います。
ダビデを見ると、特に悪者の前で黙ることを選び取っています。良いことにさえ黙っています。しかし、そのことは痛みを伴います。その苦しみは火のようです。
沈黙を選択するとき、本当にこのような事が起こります。言いたいけれど、主が「黙りなさい」と言われたときは、拳を堅く握り、唇をかみしめてひたすら沈黙を守らなければなりません。それは本当に苦しいことです。
この事を完全に実践された方がいます。イエス様です。十字架の時、様々な人から言われるいわれのないことにひたすら黙っておられました。何かを言うことはある意味簡単です。しかし、時には黙ることも大切です。いつ語り、いつ黙るか。そのことをいつも主に祈りながら口から出すことばを軽々しく扱うことをせず、気をつけ発するようにしましょう。

・私の終わりはどれだけなのか:4-6節
人はなぜか不思議な信仰があるようです。自分はいつまでも死なないという信仰です。しかし、人のいのちの長さは誰も知りません。ヤコブ書には人の一生は現れて直ぐに消える霧のようだと書かれています。「いつまでも生きる」という考えから「いつか自分はこの地上で終わりを迎えるのだ」という、終わりを意識した生き方は私たちの時間の使い方を変えます。何かを成し遂げるには人生は短すぎます。自分の葬儀の時にどのような人が来て、どのような故人を偲ぶことばを自分に言って欲しいかを考えてみましょう。地上での時間は限られています。生まれた瞬間から死へのカウントダウンがはじまっています。残された時間を何のためにどのように使えばいいのか、祈ってみましょう。

・何を待ち望むか:7-11節
そのような短い人生で、ダビデはただ、主を待ち望みました。そして、罪からの解放を祈ります。そしてなお、口をつぐんでいます。どうしてでしょうか。主がそうなさったからです。
主は人の中にある主にそぐわない望みを消し去り、自我を衰えさせます。そして、キリストだけが残されるように導いてくださいます。

・私の涙にだまっていないでください:12-13節
自分に絶望するからこそ、この祈りが出てきます。切実な思いで主を求めるようになります。私たちのこの地上での人生は借りぐらしです。私たちの国籍は天にあり、そこで永遠に暮らします。ですから、その永遠という時間を主と共に過ごすため、地上でしなければならないことがあります。それは何か、主に祈って教えていただきましょう。地上での時間は無限ではありません。有限です。

【40篇】救いを愛する人たち

・泥沼から引き上げる:1-3節
ダビデはこれまで、何度も何度も主に心を打ち明け、涙を持って祈っていました。そして、その祈りはついに聞かれます。
主は身を傾け、叫びを聞いてくださいました。大人が子どもの訴えに「どうしたんだい」と言って目線を合わせてくれるようなものです。ようやくダビデの祈りは聞かれました。不安定な泥沼からしっかりとした巌の上に置いてくださった事を宣言しています。
それゆえに、ダビデは神様を賛美し、新しい歌を歌っています。その喜びはどれほどでしょうか。そして、祈りが聞かれ、揺るがない地位にダビデが置かれ、賛美をささげている姿を見て、人々は主を恐れます。出エジプトの出来事を見て、諸外国の人々が主を恐れたのと同じです。

・主の奇しいわざ:4-6節
これで何度目でしょうか。ダビデはまた幸いな事が何かを語っています。ここでは主を信頼している人です。高ぶる者や偽りに陥る者たちちに向かなかった人です。つまり、神に信頼しないで自分の知恵や力、正しさに頼っている人です。
ダビデは主の素晴らしさにことばを失うほどに感動しています。私の好きな賛美でマット・レッドマンという器がつくった「Ten thousand reasn」という賛美があります。その中の歌詞で「あなたをたたえる理由なら 幾千万も見つかる」という歌詞があります。主はことばに表せないほど素晴らしいお方です。みなさんは主の素晴らしさを具体的にどれほどことばにして表すことができますか?普段から主はどのように素晴らしいお方かと言うことをメモしておきましょう。そのために、聖書通読クラブのノートには「主はどのようなお方か」と言うことを書き記す箇所があります。毎回の通読から主の素晴らしさを教えていただき、書き記し、蓄えておきましょう。

・巻き物の書に書かれる:7-9節
ダビデは不思議な事を言っています。「巻き物の書に私のことがかいてあります」とあります。これはどういうことでしょうか。
天にはいのちの書があります。(参考:黙示録21:27)イエス様もこのように言われています。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされている事を喜びなさい。」(ルカ10:20)
ダビデは主との関係の中で救いを受け取っていました。自分の名前がいのちの書に書かれていることを確信していました。私たちも同様です。
ダビデは主のみこころを行うことを最上の喜びとしました。主の喜びはダビデの喜びでした。

・主の義を心に隠さない:10-12節
ダビデは神の義を心に隠しませんでした。会衆にも隠しませんでした。義の良い知らせとは福音の事です。
続いて、ダビデは主のあわれみを祈っています。主を惜しみなく賛美した直後に、また病が襲ってきたのでしょうか。同時に数えきれないほどの災いに取り囲まれています。そして咎が追いついたと言っています。あまりにも大きなものであったので自分の心も自分を見捨てるほどでした。

・あざ笑う者が色を失うように:13-15節
この病と災い、おってくる咎に押しつぶされたなら、敵は喜んでしまいます。そして、このような状態からでもいやしを受け取り、再び立ち上がるときに、敵が恥のために色をうしなうようにしてくださいと祈っています。このような状態にあってもダビデの信仰は熱く燃えていました。

・貧しい者:16-17節
16節が私たちの生き方となりますように。主は私たちに楽しみと喜びをくださいました。それをうわばれることがありませんように。
しかし、私たちは自分を見つめるとき、悩む貧しい者であることを知ります。それは聖さを求めている証拠であり、主を信頼する歩みをしている証拠でもあります。私たちを助け出すことができる方に信頼していきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 主は私の苦難の時のとりで、助け、救ってくださる方であることを感謝します。
    主のために残りの時間を使うことができるように祈ります。

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