聖書通読クラブ Day 150

聖書通読クラブ Day 150【ヨブ記 19章~21章】

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シャローム!

ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書などで何度も語れるのは口のことばです。この口は神様をほめたたえることもできますし、神様を悲しませることもできます。
この口のことばを見張って、神様に対して賛美を、隣人に対しては愛を、自分に対してはみことばの預言を語る口と変えていただきたいです。

今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:ヨブ記 19章~21章

■アウトライン

購い主を見る

●ヨブの答え:19章
  ・私をいじめる:1-6節
  ・道がふさがれる:7-20節
  ・私をあわれめ:21-29節

●ツォファルの答え:20章

●ヨブの答え:21章
  ・手を口に当てよ:1-26節
  ・むだなことだ:27-34節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【19章】ヨブの答え

・私をいじめる:1-6節
ヨブは友人たちに、何度も同じ事で自分を苦しめることを訴えます。十度とは文字通りではなく、何度もという意味です。同時に10は試練や苦難をも意味することばです。代表的な事として、出エジプトの時の10の災いがあります。
ヨブはビルダテの厳しいことばに対して「そんな論法で私を砕くのか」と言っています。そして4節では「たとえ私が誤って罪を犯したとしても、それは私と神様との間の問題であって、この苦しみをうけるに値しない」というようなことを言っています。

・道がふさがれる:7-20節
前の18章ではビルダテが悪者に対する神の仕打ちを、ヨブと重ねて語っていました。しかし、ここではヨブは神ご自身がヨブの道を塞がれたと言っています。叫んでも助けのない今の状況は、敵に囲まれて、攻め取られる町のようだと例えています。
助けを求めても、それに対して答えがないというのは最もつらいことです。今のヨブには今自分に起こっている事の意味も理解できず、希望も持てず、仲間からはあざけられ、肉体の痛みは増していきます。
慰めも得られないヨブの気持ちはどのようなものだったでしょうか。
13節からを見ると、兄弟や知人が離れていった様子が書かれています。私もかつて、本当に大変なことを経験したのですが、その時に今まで親しいと思っていた人が鬼のような形相でののしったり、今まで疎遠と思っていた人が突然親切にしてくれたりしました。さらに、とても親切にしてくれた人の中には私たちの弱さにつけ込んで、私たちをだまそうとした人もいました。それらを通して、その人の本性は、大変なときに見ることができるのだと学びました。
ヨブは八方塞がりの上、兄弟や親しい仲間が去って行きます。孤独です。人は孤独の中では生きていくことができません。ヨブは生きているのにその意味を見いだせなくなるのも理解できます。
このようなヨブの姿をみるとき、やはりイエス様が頭に浮かびます。イエス様はヨブ以上の苦しみを受けられ、孤独を味わわれました。もし私たちがこのような経験をするなら、イエス様が苦難の道を共に歩くことを許してくださったんだということを知りましょう。

・私をあわれめ:21-29節
ヨブはたまりかねて友人に自分を憐れんでくれと訴えかけます。なぜなら自分の罪からではなく、神様からの苦しみだからだと説明します。23節からは、ヨブはこの一連の会話が記録され、書き物に刻まれれば良いのにと願っています。この願いは見事に聞かれています。ですから私たちは、族長時代に起こったこのやりとりを、まるで目の前で会話が成されてるかのように生き生きとした文を見ることができるのです。
ヨブは先にエリファズに対して、自分には保証してくれる保証人がいることを語りました。25節を見ると、なんとここでは自分を贖う方が生きておられると言っています。
購いとは何でしょうか。代価を支払って買い取ると言うことです。かつての奴隷制度では、お金という代価を支払って奴隷を迎え入れます。そうするなら奴隷の所有権は前の主人から新しい主人に移ります。
私たちは今、義の奴隷、主のしもべです。私たちの所有権は、イエス・キリストを信じるのであればこの地の誰にもなく、ただイエス様だけにあります。このお方は経済では支払うことのできない代価、最も大切な罪なき方のいのちを代価としてくださいました。
私たちの主はイエス様です。
さらに、ヨブはこの購い主は生きておられ、ちりの上に立つと言っています。遙か昔のこの文章の中に、後に来られるイエス様が預言されています。確かに私たちの罪を贖う方はこの地に人の形をとって来られ、ちりであるこの地上に立たれました。そして、十字架の死と葬りを経験された後、三日目に死からよみがえられ、今も生きておられます。
ヨブはこの今の苦しみの中からこの方を見いだすと言っています。肉体は弱いですが、ヨブの内なる思いはこのお方の事を思って絶え入るばかりになっています。
さらにヨブは語り続け、もし、ヨブの中に罪を見つけて「どのようにして追いつめようか」と言うなら、神からの刑罰があることを告げます。ここで注目したいのは、事の原因を見つけただけではその様にならないということです。それを知った上で「どのようにして追いつめようか」というその動機が良くないのです。
私たちも気をつけたいと思います。人を見たときに罪の性質が見えてしまうことがあるでしょう。その事をみことばと共に「だからあなたはいつもこうなんだ。だから悔い改めなさい。」と厳しく迫るなら、ここに書かれていることと同じような事になってしまうかもしれません。確かにその事は正しいのです。しかし、正義を振りかざしてはいけません。私たちが振りかざさなければならないのはキリストの愛です。コリント13章にある愛の性質をもういちどそれぞれで確認してみましょう。そして、ヨブの友人の中にその愛があるかを確認してみましょう。同時に、自分の中にもその愛の性質があるかどうかを確認してみましょう。

【20章】ツォファルの答え

続けてツォファルが二度目に語り始めます。彼らは好意で、善意でヨブの所にまでわざわざ訪ねてきて、それぞれのことばをかけました。しかしヨブはそのことばを侮辱と受け止めています。それぞれの正義と正義がぶつかっています。
その事でツォファルの心はいらだっています。そして、自制が聞かなくなったように、自分の思いの丈を一気に話し始めます。
まず、ツォファルはヨブから富が取られたことを思いながら、悪者は速やかに滅びると言っています。たとえどんなに栄えたとしても、結局は跡形もなくなると言っています。
そして、子どもたちにも災いが及び、結局死んでしまうと言っています。この事をリアルに体験したヨブに対して、あまりにもひどいことばです。
12-16節には興味深いことが書かれています。悪が口に甘いと書かれています。これはよくわかるのではないでしょうか。人の悪口、噂話というのは口に甘いものです。テレビや雑誌、SNS常でも頻繁に行われています。覚えていますか?人に見える罪の性質はその人以上に自分の中にある罪の性質がその人に鏡のように映っているだけです。
13節には、これを惜しんで捨てないと書かれています。やめたくてもやめられない噂話の事を思い出すと、この事も理解できるのではないでしょうか。しかし、それは腹の中で変異してしまいます。そしてそれはコブラの毒となると書かれています。これは現代の科学でも証明されています。
ある人が実験をして、人に大麻の50倍ほどの中毒性を持たせ、世の中のあらゆる快感を超える事が発見されたそうです。それはコブラに自分の舌をかませることだそうです。
ローマ3:13-14には「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの舌には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」とあります。
口のことばは、私たちが考えているよりも、はるかに神にとって重要なことです。
また、人の脳は主語を明確に理解できない造りになっているそうです。ですから、いつも人やテレビ、政治などに対して文句を言い続けているなら、それは相手ではなく自分に言っていると脳は勘違いしてしまうそうです。本当に恐ろしいことです。
ここでは悪が口に甘いとありますが、もうひとつ口に甘いことがあります。「それで、私は御使いのところに行って、『その小さな巻物をください』と言った。すると、彼は言った。『それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』」(黙示録10:9)
みことばもまた、私たちの口に甘いもので、腹に下ると苦くなります。このふたつは同じような減少を起こしますが、悪意は私たちを死に追いやり、みことばは私たちを生かします。どちらを口にしたいですか?
ヨブ記の本文に戻りましょう。ツォファルもまた、ヨブを一方的に決めつけて語っています。彼が豊かだったとき、17節からのように行っていたのだと言っています。
26節からは、天と地が証人となって彼はこのような厳しいさばきを受けると結論づけています。ツォファルは最初に悔い改めと回復のメッセージを伝えましたが、ヨブは全く悔い改めていないと感じて、今回はこのような厳しいさばきのことばで終わっています。

【21章】ヨブの答え

・手を口に当てよ:1-26節
ツォファルは今までに無く厳しくヨブにことばをかけました。それに対してヨブはどのように答えるでしょうか?今までのヨブならどのように答えることが予想されますか?
なんと、あれだけの事を言われたにも関わらず、とても柔和なことばで返答をしています。そしてそれに留まることなく、相手の立場に立って答えようとしています。
なぜヨブは今までのように返答しなかったのでしょうか。それは、この前に肉体の苦痛を通して、ヨブが信仰によって購い主を見たからではないでしょうか。
時に議論を重ねるとき、最初の話題であったり、問題の本質を忘れてしまうことがあります。5節にはヨブは「私の方を見て驚け。そして手を口に当てよ」と言いました。議論をいったん脇に置いて、自分のこの肉体の痛みを直視しろと言っています。
その上で、ヨブは違った角度から話を始めます。今までであれば、正しいものがどうして苦しまなければならないかと言っていましたが、ここでは悪者はどうして長生きし、平穏に生きるのかと言っています。ツォファルは悪者は速やかに滅びると言いました。しかし、現実は悪者ははびこり、楽しそうに長生きしています。それが現実だと訴えます。
その様な悪者の繁栄は神様の御手の中にあり、ヨブは悪者とは一切関係が無いと念を押します。
19節では、ヨブは自分の子どもたちの事を言われたツォファルのことばに対して反論しています。
そして22節では、「あなたは神に教えようとするのか」と言っています。そうです。いつでもさばきを下すのは人ではなく神です。唯一のさばき主は神様だけです。私たちは自分をもさばくことをしません。

・むだなことだ:27-34節
ヨブは友人が自分に尋ねてきそうな質問を先に言っています。
そして29節からは、道行く人に尋ねなかったのかと問います。時に私達はあまりににも熱心になりすぎて、バランスを欠いてしまうことがあります。信仰と人格のバランスが必要です。道行く人は客観的にその事を判断してくれます。狭い世界で物事を考えるのではなく、もっと広い視野を持てとヨブは促します。
そしてヨブは34節のように結論づけます。友人たちは自分の知恵を用いてヨブにアドバイスしますがそこに本当の配慮はありませんでした。ヨブは一緒に悩んで欲しいのです。一緒に苦しみを理解して欲しいのです。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」(ローマ12:15)その様な者になることができるよう、祈り求めていきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 私の口のことばが、イェス様の愛のことばを語ることができるように祈ります。

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