シャローム!
暗闇が暗ければ暗いほど、わずかな光であっても強く輝いて見えます。霊的な堕落が続いていたとき、ヒゼキヤ王が現れ、今までにないほどの宗教改革を起こしていきます。
偶像は破壊され、石の柱は壊されていきます。
私たちの内なる人にもこの事が必要です。主以外のものが私たちの内にあるなら、それを打ち壊していく必要があります。
それでは、今日もみことばに教えられていきましょう。
今日の通読箇所:列王記 第二 16章~18章
■アウトライン
的堕落と希望の光
●一番頼ってはいけない人に頼る:16章
・ユダの王アハズ:1-4節
・エラテから追い出されるユダ人:5-6節
・最悪の助け手:7-9節
・祭壇の複製:10-16節
・アッシリアの王のために:17-20節
●霊的堕落の極み:17章
・イスラエル最後の王ホセア:1-6節
・主に対して正しくないことをひそかに行う:7-18節
・投げ捨てられるユダ:19-23節
・獅子が送られる:24-26節
・主と自分の神に仕える:27-33節
・彼らは聞かない:34-41節
●ヒゼキヤの改革:18章
・ユダの王ヒゼキヤ:1-8節
・アッシリア捕囚:9-12節
・私は罪を犯しました:13-16節
・アッシリア王とのかけ:17-27節
・ラブ・シャケの挑戦状:28-35節
・一言も答えない:36-37節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【16章】一番頼ってはいけない人に頼る
・ユダの王アハズ:1-4節
ユダはしばらくの間は主に対して良い歩みをしていましたが、ここで再び主へのそむきの道へと行ってしまいます。
アハズ王の特長はどういうものでしょうか。3-4節を見てみましょう。もう、めちゃくちゃな信仰です。手当たり次第、何でも良いので信じる姿勢、わらをもつかむような信仰です。しかし、よく見てみると、アハズ王はこれだけ沢山のものに頼っていますが、ヤハウェなる主には頼っていません。
おそらく、彼は不安だったのではないでしょうか。それで手っ取り早い目の前にあるものにより頼んだのだと思います。
・エラテから追い出されるユダ人:5-6節
昨日の通読箇所でありましたが、アラムのレツィンイスラエルのペカがアッシリアに対抗するために同盟を結びました。しかしユダはその同盟に加わろうとはしません。なのでユダを攻めますが、戦いには勝てませんでした。
エラテという町はアラムに取られています。そしてそこにいたユダの人を追い出します。代わりにその前に住んでいたエドム人がやってきて住みます。
・最悪の助け手:7-9節
アハズはここで、最も頼ってはいけない人を頼ります。アッシリアの王です。
冷静に考えてみると、アラムとイスラエルは協力してアッシリアを倒そうとしています。アッシリアはユダにとっても脅威のはずです。ですから、ここはアラムとイスラエルとの連合軍でアッシリアに戦いに行くのが正解のように思えます。
それなのに、ユダのアハズはアラムとイスラエルから攻められるからという理由でその大本のアッシリアに助けを求めます。目の前の大変なことをすぐに解決したいという自分本位の決断です。
確かにこの事によってアラムの王は殺されました。北イスラエルも捕囚されます。アハズの判断は正しかったように思えますが、結局は南ユダもアッシリアの属国となってしまいます。当然の結果です。
私たちは目の前の苦しさを逃れたいがために、主に頼らないで他のものに頼っていないでしょうか。
・祭壇の複製:10-16節
アハズはさらに驚くべき事をなします。なんと、ダマスコの神々の祭壇を複製します。それをエルサレムに運び込みます。さらには、その祭壇の上で今まで通り主に対するいけにえを捧げます。教会の中に偶像を持ち込み、それを礼拝しているようなものです。完全な混ぜ物です。
・アッシリアの王のために:17-20節
どうしようもないほどの背教の姿がここにあります。
【17章】霊的堕落の極み
・イスラエル最後の王ホセア:1-6節
ホセアはイスラエルの最後の王です。なんと彼はヤロブアムの罪を犯さなかったのです!やっとイスラエルにこのような王が現れました。しかし残念なことに主の目の前に悪を行っていました。
その時は突然やってきます。イスラエル王国が滅びます。ペカがアッシリアに反逆したことから攻められました。一方ホセアはアッシリアに貢ぎ物を納めていました。
ところがホセアは密かにエジプトと手を組んでいました。アッシリアに対抗するために南の大国エジプトと手を組んだのです。
結局アッシリアの怒りを買い、イスラエルは滅亡を迎えます。
まずシャマヌエセルはホセアを逮捕します。次に三年かかりましたが、サマリヤを包囲し陥落させました。そしてイスラエルの人々が連れて行かれます。
これがアッシリヤのやり方です。征服した地の人々を自分の国に移動させ、新しい異国の地で虐げられた生活をするのでアッシリアに対抗する力も団結力も奪い取ります。非常に巧妙です。
・主に対して正しくないことをひそかに行う:7-18節
ここからはどうしてイスラエルの人々がアッシリアに連れて行かれたかが書かれています。
端的に言えば、モーセがあれほど約束の地に入るときに気をつけろと言われたことを守らず、他の神に傾いたからです。
その中でも最も大きな問題は「正しくないことをひそかに行い」と言う部分です。密かにということは本心がそこに隠れています。表向きは神様に仕えているように見えても、実際はそうではないと言うことが実となって現れています。
そこで主はイスラエルとユダにすべての預言者、先見者を通してどのように言われたでしょうか。13節を見てみましょう。
しかし、彼らはそれに従いませんでした。うなじのこわい民となりました。
そして15節を見てみましょう。彼らは何に従って歩んだと書かれているでしょうか?「むなしいもの」です。これこそが偶像の正体です。中身のないものです。
更にそれはエスカレートし、金の子牛、ヤロブアムの罪に走ってしまいます。17-18節には歯止めのきかない霊的堕落の様子が見えます。
・投げ捨てられるユダ:19-23節
ユダもイスラエルと同じ運命をたどります。バビロンによって滅ぼされます。
また、21節にヤロブアムの罪が書かれていますが、それはどんなものでしょうか。自分が罪を犯しただけでなく、人々が主に従わないように仕向けたとあります。これは非常に大きな罪です。マルコ9:24も見てみましょう。
・獅子が送られる:24-26節
アッシリアがイスラエルの人々を連れ去った後、イスラエルで何が起こったのでしょうか。
土地も家も、人がいなければ荒れ果ててしまいます。ですから、これは主の計らいでしょうか。アッシリアが誰もいなくなった土地に他国から人々を移住させました。
すると主はそこに獅子を送られました。イスラエルの地にイスラエルの民はいなくなりましたが、今度は主語自身がこの地を守ってくださっています。
その原因を王に告げると、王は祭司を連れて行けと言います。イスラエルの神に関するならわしを教えさせ、これ以上獅子が人を殺さないようにするためです。
・主と自分の神に仕える:27-33節
サマリヤからアッシリヤに移された中から祭司がひとり連れ戻されます。そして、主の礼拝の仕方を教えます。たったひとりで大丈夫なのでしょうか?
北イスラエルの祭司なので、もともとが背教のバックグラウンドを持った祭司です。一応、ヤハウェなる主を礼拝していますが、その実は金の子牛礼拝を続けていた人たちです。
新しく住んだ人々は、この祭司の言うことをみじんも聞こうとしていません。それぞれが自分の国の神を連れてきて礼拝しています。霊的カオスです。
・彼らは聞かない:34-41節
実はこの箇所は、南ユダの民がバビロン捕囚から帰還したときの文章がここに挿入されています。
アッシリア捕囚によってイスラエルの民は連れ去られたのですが、実は貧しい身分のわずかな者が残されていました。彼らが移住してきた民と結婚し、混血児が生まれていきます。彼らがサマリヤ人となりました。彼らを意識して書かれていたのがこの箇所です。これを念頭にもう一度この箇所を読んでみましょう。
【18章】ヒゼキヤの改革
・ユダの王ヒゼキヤ:1-8節
このような暗い背景の中で、希望の光が見えます。ヒゼキヤ王の誕生です。
南ユダに於いても、霊的な堕落は進んでいました。主はエルサレムの神殿で礼拝をすることを指定されましたが、人々は自分勝手な所で礼拝します。
そして、多くの王はダビデの道に歩み、主の目にかなったことは行いましたが、高きところは取り除きませんでした。
高きところでは誰でも礼拝できたので、ユダの人々が礼拝するそばで異教の神の礼拝が行われていました。それを見て、徐々に影響されていきました。
ところがついにヒゼキヤ王はこの高きところを勇気を持って取り除きました。
どうしてヒゼキヤはここまでの宗教改革ができたのでしょうか。それは預言者イザヤの存在が大きかったからです。
イザヤはヒゼキヤの曾祖父であるウジヤの時代から預言をしていました。王に仕える預言者です。それを幼い頃から聞いていたので、ヒゼキヤはこれほどの事ができたのでしょう。
4節にヒゼキヤ王が行った事が書かれていますが、それはどういうことでしょうか?
青銅の蛇はモーセが主に命じられ荒野で作ったものです。蛇にかまれたものはこの青銅の蛇を見上げると生きました。
しかし、いつしかこの青銅の蛇が偶像化してしまいました。この青銅の蛇自体に力があるわけではありません。それを見上げる信仰に力がありました。
現代でも、十字架のアクセサリーなどをつけておけば大丈夫という信仰があるなら、それは聖書を通して吟味する必要があります。それは単なる木材や単なるマテリアルです。私たちがとるべき態度は、十字架を見たときにイエス様の十字架を思い出し、その贖いに感謝するきっかけにすぎないと言うことです。
5-6節にヒゼキヤの信仰を見ることができます。その結果、彼が戦うときにどうなったでしょうか。7節を見て見ましょう。
この勢いでヒゼキヤはアッシリアに反逆します。その信仰はす払い委ですが、これがかえって罠となり、エルサレムが包囲されてしまいます。
・アッシリア捕囚:9-12節
ヒゼキヤが王となって4年目に、北イスラエルにアッシリヤが攻めてきて、滅んでしまいます。ユダにとっては目の前に強敵が来てしまった状態です。
・私は罪を犯しました:13-16節
ヒゼキヤ王はアッシリアの王に自分の罪を告白し、引き上げを願います。そして、金銭で話をつけようとします。
・アッシリア王とのかけ:17-27節
アッシリア王は3人のリーダーに将軍をつけてヒゼキヤの所に送ります。
その中のラブ・シャケがアッシリア王のメッセージを伝えます。その内容はごもっともなことです。これを異邦人の王に言われてしまうとは、なんとも情けないことです。
これはヒゼキヤの弱さを見極め、そこを一点集中して攻撃する悪魔の攻撃の仕方です。
肉による失敗を必要以上に何度も繰り返し私たちに語りかけ、心を弱らせようとします。
22節からは、今度はヒゼキヤの生き方、献身の分野に対して攻撃します。最初の攻撃で心が揺らいでいる状態ですので、献身自体が何か悪いことのように巧妙にすり替えて語りかけてきます。
23節ではかけごとをふっかけてきています。最後には主の御名を使って攻めてきています。主はヒゼキヤの見方ですが、それが敵のように思える嘘を言っています。
悪魔ははじめから人殺しであり、真理に立ってはいません。ヨハネの福音書8:44を見てみましょう。
・ラブ・シャケの挑戦状:28-35節
ラブ・シャケは民の主への信頼を壊そうとやっきになっています。ということはどういうことが言えるでしょうか。ラブ・シャケも主の力を認め、恐れているのです。
31,32節はことば巧みな誘惑です。
この時代の異国との戦いは、神と神のぶつかり合いでした。そこでラブ・シャケはアッシリアの神がヤハウェなる神より強いと言っています。
・一言も答えない:36-37節
ヒゼキヤは知恵のある王でした。民にあらかじめ教育しています。
ラブ・シャケの言っていることは突っ込みどころが満載です。しかし、王は民に「何も答えるな」と教育しました。
実はこれが敵に対しての最高の戦い方です。エバはエデンの園で蛇の誘惑に答えてしまいました。あそこで無視していたら、私たちは今もエデンにいることができたかもしれません。
「イエスの血潮を宣言する祈り」の著者、アテフ神父は、このような話をされていました。
信仰の父的な存在の教師が新人の献身者を教えるとき、お墓を用いるそうです。ある朝に献身者に向かって「お墓に言ってその中にいる人を思いっきり罵ってきなさい」と良い、献身者はそうします。
戻ってきて「どうでしたか」と聞くと、献身者は「何も答えませんでした」と言います。
明くる日にもう一度教師は「お墓に行って、今度は中の人をできる限りほめて来なさい」と良い、献身者はそうします。
戻ってきて「どうでしたか」と聞くと、献身者は「何も答えませんでした」と言います。すると教師は「あなたもそのようになりなさい。人から責められるときも、ほめられるときも、落ち込むことなく、舞い上がることなく、そのままでいなさい」と。
黙ることはとても難しいことがありますが、主が黙れと言えば黙る必要があります。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主だけを恐れる者になりたいです。主は全ての敵の手から救い出してくださることを感謝します。