聖書通読クラブ Day 84

聖書通読クラブ Day 84【サムエル記 第一 16章~18章】

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シャローム!

イスラエルの初代の王、サウルは主に悔やまれる(残念がられる)器でした。しかし、それと対照的な人物が主によって見いだされます。少年ダビデです。
彼はどのように主に見いだされ、成長していくのでしょうか。新約聖書の時代でも度々その名前が登場するダビデの召し出され方、活躍を今日もみことばから教えられていきましょう。

今日の通読箇所:サムエル記 第一 16章~18章

■アウトライン

少年ダビデの活躍

●油注がれるダビデ:16章
  ・エッサイを訪れるサムエル:1-5節
  ・エッサイの息子の紹介:6-13節
  ・わざわいの霊と立琴:14-23節

●ゴリヤテとダビデ:17章
  ・ペリシテの巨人:1-11節
  ・エッサイの息子たち:12-16節
  ・戦地へのお使い:17-19節
  ・ゴリヤテの声を聞く:20-23節
  ・報酬:24-27節
  ・腹を立てるエリアブ:28-30節
  ・ダビデの出陣:31-40節
  ・口述戦:41-47節
  ・石で打ち倒す:48-49節
  ・ペリシテを略奪:50-54節
  ・あの少年は誰か:55-58節

●ダビデの躍進:18章
  ・交換:1-5節
  ・サウルの嫉妬:5-9節
  ・わざわいをもたらす神の霊:10-11節
  ・大勝利:12-16節
  ・政略結婚:17-19節
  ・王の婿:20-24節
  ・陽の皮百枚:25-29節
  ・ダビデの戦果:30節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【16章】油注がれるダビデ

仕事や人間関係で失敗したとき、いつまでもその事を引きずってしまうことがあります。サムエルも同じような心境だったのではないでしょうか。サムエルはサウルに大きな期待をかけていました。その反動は大きなものです。
そのようなサムエルを見て、主は気持ちを切り替えなさいと仰せられます。次の目標を見せてくださいます。主は小さき者の内に次の王を見いだされました。
みなさんは何か悔やまれることをずっと持ち続けていませんか?そこから学んだなら、留まることなく次に進みましょう。
2-3節を見ると、サムエルの謀反のように見えます。これが人から出たのであればそうでしょう。しかし、これは神からの仰せです。
そこで、神様は「新しい王に油を注ぎに行く」と言わないで、「いけにえを献げに行く」と言いなさいと仰せられます。これは嘘ではありません。しかし、わかる人にだけわかるというキーワードです。
神様は事を隠されます。しかし、王はそれを探ります。神様は親密な関係の者にだけ、秘めたことを教えてくださいます。
ベツレヘムはエルサレムの郊外です。そこに突然預言者がやってくると人々は驚きます。「平和なことでおいでになったのですか」と尋ねます。サムエルはそうだと言って人々を安心させます。

6節から、エッサイの子たちが紹介されます。興味深いのはこの時点で、まだサムエルに誰に油注がれるかが告げられていないことです。
アブラハムが出て行くときにも、具体的な場所は示されませんでした。しかし、どこかわからないでもアブラハムは主を信じて行動しました。サムエルも誰かはわかりませんが神のことばに従って行動しています。私たちの信仰生活も同じような者ではないでしょうか。明確な事は語られていませんが、信仰を持って踏み出しましょう。
最初に紹介された兄弟はエリアブです。見た目も素晴らしい王の風格があります。しかし、主はサウルの時の失敗を繰り返さないよう、見た目で判断するなとサムエルに忠告してくださいます。人はうわべを見ますが、主は心を見られます。
七人の兄弟が連れてこられましたが、主の心にかなう人はいませんでした。ところが、もう一人兄弟がいました。それがダビデです。
ダビデはこの七人の兄弟と別のところにいました。そこで羊の番をしていました。
一説によると、ダビデはエッサイのそばめの子なので、本妻の子どもたちと別に暮らしていたということも聞いたことがあります。
毎日毎日羊を野獣から守り、養い育てていました。この事が後のダビデに大きく影響を与えます。主はすべてを用いて益としてくださいます。ですから、今与えられていることをつまらないと思うことなく、感謝して誠心誠意、主のためと思って尽くしましょう。

14節からは、ちょっとかわいそうなサウルの事についてです。主の霊はサウルを離れました。かわりに悪い霊がサウルをおびえさせました。ここで勘違いして欲しくないのは、主は悪い霊を創造して人に送ることはされないと言うことです。ここでは、「守りの御手をひっこめ、地上にはびこる悪しき霊のなすがままにされた」という意味の方が正しいです。後に見ますが、ヨブ記の冒頭でこの事が明らかにされます。主は絶えず火の城壁となり、この地上にはびこる悪から日夜私たちを守っていてくださいます。
15-16をみると、サウルの家来は霊的に優れていたのではないかと思わされます。なぜなら、「神からの悪い霊がおびえさせている」と見分けているからです。そして、対処法もわかっていました。たくみな竪琴、つまり賛美が悪い霊を離れさせます。
18節には、ダビデの評判が書かれています。どのような特徴があるでしょうか?ノートに書き出してみましょう。沢山のよい性質があります。
21節を見ると、サウルはダビデを非常に愛しています。しかし、もしかしたらその愛は自分を癒やす力を持っているからかもしれません。サウルは彼のする「こと」を愛し、「ダビデ自身」を愛していなかったのかもしれません。
22節では、ダビデが竪琴を奏でているときだけサウルは元気になりました。一時的な癒やしです。本来なら、元気になったときに主をもとめれば良かったのでしょうが、それができませんでした。

【17章】ゴリヤテとダビデ

この箇所は少年ダビデの象徴的な箇所です。小さなダビデと巨人ゴリヤテの対決です。

4節を見ると、ゴリヤテの身長は6キュビト半、つまり約2メートル85センチくらいです。信じられないくらいの巨人です。ゴリヤテはガテ出身ですので、アナク人の末裔でしょう。
5-7節を見ると、いかにも強そうな装備をしています。このような強い巨人をどのように倒せるというのでしょうか。
8-11節を見ると、この時の戦いの様子が少しわかります。この時代は、戦いが前に進まなくなると、お互いに代表戦士を出して戦っていたそうです。
ペリシテ人の代表はもちろんゴリヤテです。大きな体で、強そうな武具を身につけ、大口をたたいています。この言葉を聞いて、11節でイスラエルはどうなりましたか?これは正しい反応ですか?イスラエルは何を見ていたのでしょうか。神様を見ずに、目の前のゴリヤテ(問題)しか見ていなかったのではないでしょうか。
問題を見ると意気消沈します。もちろん、問題を見ないようにするのは良くありません。問題を見つつ、その先にあるすべての解決であるイエス・キリストの十字架を見ましょう。

12節からは、挿入的にダビデが紹介されています。時代の変わり目です。ここを見ると、あきらかにダビデだけ別物扱いされています。おそらく、ダビデが取るに足らない者であった事を告げているのでしょう。
さて16節、再びゴリヤテの話です。彼は忠実な器でした。40日間、一日も欠かさず朝早くと夕暮れに出てきて同じ言葉を繰り返しています。これが悪魔が私たちにすることです。私たちは神のことされているのに、毎日毎日私たちの思いにうそを吹き込んできます。そして、いつしか私たちはその嘘を信じ込んでしまいます。
40という数字は試みの数字です。イスラエルは40年荒野をさまよいました。イエス様は40日40夜断食されました。イスラエルはゴリヤテによって試みられていました。
ダビデがどのようにこれに勝利したか、この後注目しましょう。

17節からは、ダビデが兄たちのいる戦地へお使いに出されます。これが運命的な出来事となるとは、この時誰も思っていなかったでしょう。サウルは無事に兄たちのところに荷物を届けますが、その時にゴリヤテのいつもの言葉を聞きます。戦いに出ていた者はいつもの言葉だと思ったでしょうが、ダビデは始めて聞きます。内容は神の生ける陣をなぶった言葉でした。聖なる怒りがダビデの中に燃え上がります。

24節から、ダビデはゴリヤテの声を聞いておびえるイスラエルの戦士を不思議に思ったでしょう。26節のダビデのことばからその事がわかります。
イスラエルの人々は人間の王を頼りにしていました。しかし、ダビデは王の王、まことの唯一の王を頼りにしていました。

28節からを見ると、少し心が痛みます。ダビデは主のために働こうとしています。そういうときに止めに入るのは身内です。
イエス様も預言者は自分の郷里では歓迎されないと言っています。ダビデは身内から義のために迫害されていました。しかし、ダビデはそんなこと気にしません。主に対する情熱の方がはるかに上回っていました。

32節からを見ると、人の目には無謀に見えることが書かれています。戦士でもないダビデがペリシテ人の大男、ゴリヤテと戦うと言い出しています。もちろん、負けたらイスラエルにとってあまりにも代償が大きすぎます。ところが、ダビデは勝利しか見えていませんでした。彼の目に映っていたのは万軍の主のみです。
33節のサウルの言葉も、人の目で見ると当然だと思います。続くダビデの言葉を見てみましょう。
ダビデは巨人ゴリヤテと獅子や熊、野獣を同等に見ています。これは霊的な味方です。なぜだかわかるでしょうか。主のみことばに従わない者は自分勝手な生き方をしている者です。そのような者は獣と同じです。自分の本能にのみ従って生き、御霊の実を結ぶような生き方をしていないからです。ダビデにとって神に従わない者は野獣以下に見えたでしょう。
サウル王はダビデの信仰に押され、自分の武具を着させます。しかし、付け焼き刃的なものは逆に足かせとなります。周りの者は少年ダビデを心配するでしょう。しかし、ダビデは実際的な武具よりももっと強力な神の武具を身につけていました。それ以上の武具はありません。
そして、武器はなめらかな小石です。いつも使っている石投げです。これでどれだけの野獣を倒し、羊を守ってきたことでしょう。
目の前にいる巨人ゴリヤテは動きものろく、的も野獣よりはるかに大きな面積です。ダビデにとってはこんな簡単な事はありません。
ここから何が学べますか?私たちは普段していることがミニストリーのときに現れると言うことです。普段は神様から遠く離れたような生活をして、日曜だけとりつくろったようにして奉仕しても、それはサウルのよろいを着せられたダビデのようなものでしょう。

41節から、いよいよ戦いが始まります。ゴリヤテはダビデを見てさげすみます。そして神々によってダビデを呪います。みなさんならこういうことをされたらどう反応しますか?ダビデは一体どうしたでしょうか。45節を見てみましょう。
ペリシテ人は見えるものでダビデと戦おうとしています。しかし、ダビデは目に見えるものを超えた、霊的な領域で戦っています。ダビデが頼りにしていたのは武力でも武具でもなく、万軍の主の御名です。
ゴリヤテは呪いを宣言しました。しかし、ダビデは46-47節で信仰の宣言をしています。
48節から、勝負は一瞬でつきました。ダビデの勝利です。ダビデはたった一つの石でゴリヤテを倒しました。これは一体どういうことでしょうか。私はこう思います。ダビデは46-47節で信仰の宣言をしました。その信仰の上を石が飛んでいったのです。そして、ダビデの力によって石は投げ出されましたが、聖霊様が石の速度を加速させ、ゴリヤテの額へと導いたのだと信じます。

50節からを見ると、ダビデの勝利をきっかけにペリシテ人が打たれました。今まで臆病になっていたイスラエルの兵士が一瞬で勇者へとなりました。その士気を引き出すダビデは本物の王です。
その後、サウルはあのゴリヤテを倒した者が誰か気になり、アブネルに問います。ここで不思議に思わないでしょうか。ダビデはサウルのところで竪琴を弾いていました。サウルはダビデを愛しているとまで言っていました。なのになぜここでダビデだとわからなかったのでしょうか。
おそらく、サウルは竪琴をひいているダビデと目の前で戦って勝利をあげたダビデが同一人物だとわからなかったのでしょう。しかし、もし本当にサウルが心からダビデの人格を愛していたのなら、ここでもすぐにダビデだとわかったはずです。

主は小さな者を、取るに足らない者を用いて勝利を与えてくださいます。ダビデとゴリヤテの対決は多くの霊的な原則を学ぶことができます。

【18章】ダビデの躍進

この章では、ダビデとヨナタンの麗しい絆が書かれています。ヨナタンはサウルの息子です。サウルはうわべでダビデを愛していました。しかし、ヨナタンは心が結びつけられるほどダビデを愛していました。3節を見ると、ヨナタンはダビデを愛する故に契約を結びます。契約とは別の言葉で言うと交換です。
ヨナタンは王家の上着とダビデが着ていた獣の匂いのする羊飼いの服を交換しました。王家の印の入ったよろいかぶととダビデの羊飼いの汗のにじんだターバンを交換しました。王家だけが持つことが許される剣とダビデの羊飼いの杖を交換しました。宝石の埋め込まれた王家のベルトとダビデがしていた今にも切れそうな腰帯を交換しました。ヨナタンにとってはあまりにも不平等な交換です。
しかし、これがイエス様が私たちにしてくださった契約です。イエス様には何のメリットもないものをすべて十字架で引き受けてくださいました。そのかわりに、私たちに天の御国の王家のものを与えてくださいました。イエス様の十字架での愛の契約を心から感謝します。

6節から、ここを見ると裸の王様のストーリーが頭をよぎります。サウルは名ばかりの王担ってしまいました。
10節、11節を見ると壮絶な霊的な戦いを見ることができます。仕えている主人が、ただ一生懸命仕事をしている部下に槍を投げつけます。現代であれば完全なブラック企業です。
みことばには何と書かれているでしょうか。1ペテロ2:18にはこのように書かれています。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人にも従いなさい。」
もちろん、本当にひどいことをされたり、精神的に病んでしまうほどの嫌がらせを主人から受けているのであれば、法的な機関に相談する必要があるかもしれませんが、それでもみことばは主人に仕えることを勧めます。
以前、私がデザインの仕事をしていたときの上司は、私が描いたスケッチを見もしないで破ってゴミ箱に捨てたことがあります。本当にひどい主人でしたが、何度もトイレで涙を流しながらとりなし、祝福して祈りました。私のデザイン力は彼の訓練のおかげですので、今では心から感謝しています。

12節から、サウルのダビデへのいじめと追放がはじまります。まずはダビデを千人隊の長にして自分から引き離します。戦いで敵に殺されることを期待したのでしょう。
しかし、結果はどうなったでしょうか?逆に勝利をあげ、ダビデの名がさらに知らしめられます。
17節から、今度は自分の娘を使ってダビデをおとしめようとします。自分の手ではなく、人に手を下させるのはサタンのやり方です。
しかし、そんなことを知らないダビデは自分にはふさわしくないと断ります。へりくだった人格を持っています。
結局、サウルの娘メラブは結婚直前で他の男に与えられます。それでもダビデはサウルを恨みませんでした。
続いてはサウルの娘、ミカルがダビデを愛していることを知り、恋愛によってダビデをだめにしようとします。
ところがダビデは経済的にも、身分的にも自分には無理だと断ります。それで、サウルは名案を思いつきます。ペリシテ人の陽の皮100枚を花嫁料とします。サウルにとっては一石二鳥です。
陽の皮とは、男性器の包皮です。これを切り取ることはしたくない作業でしょう。ただ打ち倒す方が楽です。しかし、ダビデは難しい課題を与えられたことに価値を見いだしました。難しい仕事をやってのけます。しかも、言われた二倍の量を持ち帰ります。
29節、すべての面で圧倒する部下であるダビデを、サウルは恐れました。そして、サウルはいつまでもダビデの敵となったと書かれています。ダビデはどんどんと武功を上げていきます。そしてダビデの名は非常に尊ばれます。
この事から何が学べるでしょうか。私たちが仕事をしていて、優秀な部下が出てきたとき、ここから学んだことを生かせるでしょう。
普通なら上司はサウルのような気持ちになってしまうかもしれません。優秀な部下をなんとかして引きずり下ろしたいと思うでしょう。しかし、それは貧しい考えです。むしろ、本当の上司であれば自分の弱さを認め、部下の優秀さを認め、自分が退き道を譲るか、部下を認め尊重して大いに用いるでしょう。
そうするなら、上司に対する部下の信頼は益々深い者となっていくでしょう。
また、神の国とサタンとの戦いとも見ることができます。サタンは私たちを苦しめようとします。しかし、そのたびに神様が助けてくださるので、かえって私たちは聖められ、成長させられます。
ダビデとサウル、この後どうなっていくのでしょうか。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. イスラエルの民、サウルの恐れる心が自分の中にもあると思いました。
    ダビデのように主の戦いを戦いたいと思いました。

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