シャローム!
サウル王は本来良い王様でした。サウル王だけでなく、すべての人は良いのです。しかし、良くなくなる場面があります。今日の通読箇所で、そのことをみことばから教えられていきましょう。
これは私の予想ですが、サウルは自分の人生を生きるのが辛かったのではないかと思います。私たちも人生に辛さを覚えることがあります。それはもしかしたら主からの試練かもしれません。しかしもう一方で、本来の召しではない生き方をしているときかもしれません。
例えば、自分は自動車に作られているのに、一生懸命空を飛ぼうとしてスピードを出して高いとこから落ち続けて、「なぜ自分は飛べないのか」と悩んでいるようなものです。そのようなものを見たなら、「あなたは車ですよ。飛行機が行けない細かいところまで人を運べるじゃないですか」といってあげるのではないでしょうか。
私たちも同じです。一人ひとり神様からの召しがあります。それを一生懸命生きれば良いのです。確かにその日その日に労苦はありますが、召しに従った労苦は喜びへと変わります。
今日もみことばに教えられていきましょう。
今日の通読箇所:サムエル記 第一 13章~15章
■アウトライン
悔いる
●おろかな事:13章
・震える民:1-7節
・待てない:8-14節
・武器を持たない:15-23節
●ヨナタンの活躍:14章
・ペリシテの先陣に渡る:1-5節
・ペリシテ人に起こる神の恐れ:6-15節
・出て行った者の調査:16-19節
・イスラエルの参戦:20-23節
・したたる蜜:24-30節
・民の罪と祭壇:31-35節
・調査:36-42節
・ヨナタンを救った民:43-46節
・敵への懲らしめ:47-48節
・サウルの家族:49-52節
●そむきの罪、従わない罪:15章
・アマレクの聖絶命令:1-3節
・値打ちのない者だけの聖絶:4-9節
・悔いる主:10-16節
・そむくこと、従わないこと:17-23節
・面目を立てたいサウル:29-31節
・切り刻まれるアガグ:32-33節
・サムエルとサウルの決別:34-35節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【13章】おろかな事
ここでは、サウルの息子のヨナタンが戦いの火蓋を切ります。ペリシテの守備隊長を打ち倒します。
ところが4節、よく読んでみましょう。誰がペリシテを打ち倒したと書いているでしょうか?事実と違います。もしかしたら、サウルは自分の息子の手柄も奪ってしまうほどの器だったのかもしれません。
5節からを見ると、敵のペリシテ人はおびただしい数でした。イスラエルの人々はこの状況を見て恐れてしまい、隠れます。
これは正しい態度でしょうか?隠れるというのは誰の特徴でしょうか?創世記の3章をもう一度読んでみましょう。
神の民であればどのような態度を取れば良かったと思いますか?私は、主のための戦いであれば、いのちをかけて戦いたいです。主が責任を取ってくださり、主が戦ってくださいます。生きるのも主のため、死ぬこともまた益です。もともとこのいのちは無きものでした。しかし、主が一方的にこのいのちを救ってくださいました。それであれば、主のためにこのいのちをお献げすることは当然です。
8-12節、サウルの残念な行動を見ることができます。箴言21:5には「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ」とあります。サウルは王でありましたが待てませんでした。自分のしたいと思うことを今すぐしなければ気が済まない性格でした。信仰が試されると忍耐が生じるとヤコブ1:3に書かれています。
8-12節のみことばをもう一度読んでみましょう。事実は何でしょうか。サムエルを待てず、自分勝手にいけにえを献げました。これは律法に正しいことでしょうか?間違っていることですね。
それを受けて、サウルはどう言っていますか?これらはすべていいわけであることがわかります。
サウルは「民が自分から離れ去る」と言っていますが本当でしょうか?民は神に従います。サウルがいなくても、次の王に従うはずです。
また、サムエルに対して「期日までに来なかった」とあります。本当でしょうか?その日がおわるギリギリに来ているので、サムエルは期日を守っています。サウルの自分の都合のいいように事実を書き換えている様子が見れます。
そして、「まだ主に嘆願していない」と言ってます。であれば、すぐに嘆願すればいいだけです。
そして、「思い切って、全焼のいけにえを献げた」とあります。現代風に言うなら、「聖霊様の導きで牧師の任職を受けていないのに牧師の働きをした」と言えるでしょうか。
神のことばも預言者のことばも軽んじるサウルの心の態度が現れています。
13節で、サムエルはサウルの愚かさを指摘します。そのポイントは何でしょうか?「主の命令に従わなかった」です。
19-23節を見ると、イスラエルの民は直接武器を奪われるのでなく、もっと根本的な問題、武器すら作らせてもらえない立場にあったことがわかります。しかし、主が働かれるとどうなるでしょうか。士師記の中で見たように、武器でないもので主は勝利を与えてくださいます。武器の多さではなく、主により頼む信仰の方が大切です。
【14章】ヨナタンの活躍
やはり、ここでも突破口はヨナタンです。素晴らしい息子です。ヨナタンはただ主だけを見上げて、イスラエルの勝利を信じて行動していました。
一方、サウル王はどうだったでしょうか。ざくろの木の下に留まっています。もちろん、指揮官としてここから指示を出すことも大切ですが、現場を知らなければなりません。勇気を持って行動したのは息子のヨナタンでした。
そして、3節を見ると、面白いことが書かれています。イ・カボテの兄弟の子がエポデを持っているというのです。エポデは祭司の服です。それを持っている家系が「主の栄光は去った」という名前の家系です。見てくれだけの張りぼての祭司ごっこのようです。
この事が示唆しています。サウルの栄光は去ります。
6節を見ると、ヨナタンの具体的な信仰を見ることができます。いのちをかけて主を信じ、主に従っています。
ヨナタンにとって自分の味方の数は関係ありませんでした。重要なのは主への信仰です。
8節からのヨナタンの行動は無謀に見えます。しかし、主が彼らを守ってくださいます。自分の行動を持ちながらも、主に伺うことをやめていません。この事が大切です。どんな小さな事でも主に伺い、よりたのむ信仰が大切です。
その結果、どうなったでしょうか。14節を見てみましょう。信仰を持って奇襲攻撃をかけたヨナタンによって20人が打たれただけでなく、全体に恐れをもたらしました。主が戦って下っています。そのためには地を揺れ動かされます。
16節からを見ると、滑稽です。18節でサウルはエポデを持って来させます。しかし、主の栄光は去っていました。ここではなく、ヨナタンと共にペリシテ人の陣営におられました。
この状況を見て、みなさんはどう思いますか?今は誰が自分の陣営から出ていったかを調べるときだと思いますか?違います。敵が混乱しているチャンスにつけ込んで、一気に攻め入るときです。
サウルは正しい采配ができていませんでした。このような王を持った民はかわいそうです。
対照的に20節からは勇敢に戦うヨナタンがいます。民はそれについて行きます。どちらが本当のリーダーでしょうか?えらそうにことばだけで何もしないのは本当のリーダーではありません。
24節から、サウルはさらに愚かな命令をくだします。「私が敵に復讐をするまで」とあります。武功を上げたいのです。そんなの、誰でもいいのです。とにかく、敵を倒すことが目的です。戦い方を全く知らない、自分の事しか考えない王です。
そして、自分の考えを神の考えとして民に押しつけています。このような牧者がいないことを心から願います。
今は戦いの最中です。しかも、チャンスです。兵は力を得て、徹底的に敵を倒す必要があります。
ですから、賢い選択は兵に甘い蜜をなめさせ、力を得させさらなる勝利を得ることです。サウルは反対のことを行いました。自分のためにです。
32節から、サウル王の愚かな決断が招いた結果です。なんと餓えた民は動物に飛びかかり血のまま食べました。
もし、蜜をなめることを禁じていなかったら、このようにはなっていませんでした。
33節では正しいことを言います。しかし、34節では、また自分が出てきてしまいます。「私の所にもってこい」と言っています。本来なら祭司のところに持っていく必要があります。いつまで祭司を気取っているのでしょうか。自分は王であるということを知らないのでしょうか。王には王の仕事がありますが、それもまともにできないで彩色鳥でいます。
36節からはまたすこしずれたサウルの指示があります。夜通しでペリシテ人を打とうと言います。たしかにチャンスですが、ここは兵を休ませて朝早くから戦うのが正解でしょう。
見かねた祭司は主に伺うことを提案します。しかし、主からの答えはありません。それが気に入らないサウルは原因を追及させます。
39節では「ヨナタン」と言っています。サウルはおそらくヨナタンの犯したことを知っていたのではないでしょうか。いやみのような発言です。しかし、民は誰も答えることができません。サウルは権力、つまり力によって民をねじ伏せています。こういう王制は長く続きません。恐れによって支配しているからです。
40節から、ヨナタンが選び分けられます。この期に及んでも、サウルは自分の出した命令が間違っていたことを認めません。
人間ですから、誰でも間違うことはあります。しかし、主に喜ばれないことは事実を隠し、罪を罪とみとめず、それを人に説明しないことです。サウルはここで「あのときの蜜の作戦は私の間違いだった」と認める必要がありました。しかし、それをしなかったので自分の子どもを殺すという事になってしまったのです。
45節から、さすがの民もサウルのおかしさを指摘します。イスラエルに勝利の突破口をもたらし、戦い続けたのはヨナタンです。それを自分の立場を守るというつまらないことでヨナタンを失ってしまうのは押しすぎます。民の声を主が用いられました。
46節、これが残念さの極みです。なぜ最後まで打たなかったのでしょう。チャンスを自分の名声のために失ってしまっています。おろかです。
【15章】そむきの罪、従わない罪
この章は、サムエル記第一のハイライトと言ってもいいかもしれません。
1-3節を見ると、主がサウルに与えられた命令は聖絶です。しかし、サウルは単にアマレクを打ち倒しただけです。
聖絶とは、単にその部族を滅ぼしてしまうことではなく、主が何度も警告しても従わない部族を滅ぼし、そこにある全財産を主の御手に委ねることです。
サウルに関して読むときに混乱することはありませんか?私はよく混乱します。果たして良い王なのか。悪い王なのか。14章は悪い王に見えます。ここでは良い王に見えます。ある意味不安定です。あたりはずれがあります。これが混乱の原因ではないでしょうか。
6節からを見ると、サウル王はケニ人に非難するように助言しています。ケニ人はモーセの妻の父、イテロの子孫です。イスラエルと共に旅をした家族のような存在です。サウルの優しさを見ることができます。
9節を見てみてください。サウルは主の命令を守っていますか?実にもったいないですね。中途半端です。
10節、このようなサウルの行動を見て、主からのことばがあります。神様はなんとサウルを王に任じたことを悔いると仰せられています。この悔いるとは、残念に思う、悲しんでいるという意味です。何度も何度も神様の戒めを裏切っています。
12節、そんなことはつゆ知らず、サウルはカルメルに自分の記念碑を建てます。聖絶せず、打ち倒しただけなのに、それを神様の栄光とせず、自分の手柄としています。
13節、驚くことをサウルが言います。まず「主の祝福がありますように」とサムエルに言っています。これは逆です。この時代は祭司が王を祝福するときに言うことばです。サウルは王です。祭司ではありません。しかし、祭司気取りです。さらに「私は主のことばを守った」と言っています。大嘘です。誰の目にも明らかに間違っています。しかし、私は思います。サウルは本気で主のことばを守っていると思っているのです。これを何と言うでしょうか。霊的盲目と言います。自分のことを知らないことは恐ろしいことです。自分の手柄ばかりを気にして、悔い改めることをしなければ、やがて良心が麻痺してこのようなことばを発してしまいます。自分自身、そのようになっていないか気をつけましょう。
14,15節、サウルは弁が立つのでしょう。よくもこのような巧妙ないいわけをすぐに思いつくものです。牛や羊の良いものを惜しんだのはサウルです。しかし、その責任を民になすりつけています。実に卑怯です。そして、それは主のためだと言っています。その実は自分のためです。さも立派なことをしているようですが、その実は偽りだらけです。
16節、サムエルがこう言うのも納得できます。よくぞ言ってくれたという一言です。時に、私たちはやめることが大切です。ひとつ嘘を言ったり隠し事をしてしまうなら、嘘に嘘を重ねるようになり、つじつまを合わせるために歯止めがきかなくなり、やがて自分が嘘を言っていることもわからなくなり、嘘が事実と思い込むようになってしまいます。危険です。聖霊様に止めていただきましょう。このお方は義について、罪について、さばきについて、世に誤りを認めさせてくださるお方です。このチャンスを逃さないようにしましょう。
17節、サムエルはサウルのことをよく知っていました。「自分は小さい者に過ぎないと思っている」と言っています。王なのに、セルフイメージがとても低いのがサウルです。いつも自信がなく、劣等感を持ち、恐れています。
そのようなサウルにサムエルはもう一度主の使命を告げます。そして、はっきりとサウルの罪を指摘します。このように、みことばに照らし合わせて間違っていることをはっきりと言ってくれる人がそばにいることは何という幸いでしょう。
みなさんも自分の心にもう一度問うてみてください。自分のミニストリーは本当に神様からのものかを。
確信を持って働きをしていますか?みことばを与えられていますか?単に人間的な行為やパフォーマンスをしていませんか?主の御声に聞き従っていますか?サウルから学びましょう。
20節、これだけ言われてもサウルは気づいていません。本当にかわいそうです。悔い改めることのできない人です。黙示録には何度も悔い改めようとしない者の事が書かれています。その者は一体どうなってしまうのでしょうか。
22節と23節は、非常に重要なみことばです。
主はいけにえを好まれます。しかし、それよりも好まれるのはみことばを聞く耳、それにしたがう心です。いくら宗教的な立派に見える儀式を行っていても、その人が普段から主のみことばに聞き従っていないのであれば、それはむなしいことになります。
私たちはまず、聞くことからはじまります。何を聞くのでしょうか。ローマ10:17には「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」と書かれています。信仰がなくては、どんな立派ないけにえを献げても神を喜ばせることはできません。
信仰を持っていなくても、素晴らしい賛美を献げているように見せかけることはできるでしょうか。実はできます。あたかも信仰深いような振る舞いもできます。しかしそれは本当の礼拝ではありません。霊とまことをもって主を礼拝する必要があります。
サウルは聞く「ふり」をして、実際には行動が伴っていませんでした。自分は王という使命を受けているのに、違う召しの祭司になりたがっています。例えるなら、自分はスイカなのに、メロンになりたがっているようなものです。スイカはスイカの良さがあり、メロンはメロンの良さがあります。主が召してくださったその道の通りに歩むことが幸せな生き方です。他の人と比べる必要は一切ありません。
逃げることなく、主の使命を生きましょう。
そして、23節に続きます。
そむくこと、つまり神様を裏切ることは占いの罪と書かれています。占いに頼ると言うことは神様により頼んでいない証拠です。これは大きな罪です。また、従わないことは偶像礼拝の罪です。従わないということは、それがそうだと信じていないことです。また、そこに尊敬の心もなく、聞き耳すら持たないことです。これは誰が王になっているのでしょうか。自分自身が王になっていることです。これが偶像礼拝です。
24節、ここまで言われてやっとサウルは罪を認めますが、極めて表面的です。なぜでしょうか。「民を恐れて」と言っています。自分のせいではなく、民のせいにしています。ずるいです。サウルは神様を本当に知らなかったのではないでしょうか。そうであれば、本当にかわいそうな人生です。いいわけだらけの人生はさぞ疲れることでしょう。28節では、サムエルが「主は悔いることもない」と強調しています。しかし、先ほど「主はサウルを王に任じた事を悔いる」と言われています。そして、この後の35節でまた神様が悔いたと書かれています。一体どっちなのでしょうか?
ここの箇所の「悔いることはない」とは、主の決定、ご計画に関しての事を言っています。「主のご計画は変わらない」と読み替えることもできます。
一方、10節、35節の「悔いる」は残念に思うという意味です。主の感情面について悔いると言うことです。主の戒めを聞き、それに従えば永遠のいのちがあるのにも関わらず、何度も様々な方法でその事を伝えてきたにもかかわらずそれができなかったことについて悲しまれているのです。
30節、サウルの本音がでます。結局、サウルは神の目にどう映るかではなく、人々の目に自分がどう映るかだけを考えていました。
サウルは悔い改めた「ふり」をしていました。それは人によく見られたかったからです。
32節から、祭司サムエルがアガグをズタズタに切ります。本来ならサウルが行わなければならないことでした。
そして、サウルとサムエルは決別し、二度と会うことがありませんでした。サムエルはサウルに何を言っても無駄だと悟ったのでしょう。ある意味賢い決断です。これでサウルは小うるさい人から解放されてせいせいしたでしょう。しかし、実は悔い改める機会を失ってしまったのです。
私たちはいつでもすぐに悔い改めることのできる従順な心を求めて祈っていきましょう。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
旧約聖書は地名や人名、時系列がごちゃごちゃになって難しいですし、
新約聖書はみ言葉の深さについていけなくて把握できないでいることがあります。
きっと何か深い意味があるのだろうな?と、不思議な気持ちになることがよくありました。また分かったつもりになっていたところも多々あります。
でも聖書は類まれな良書だと全世界で紹介されている通りです。
その深さ高さを極めつくせません。
“類ない“ の出番があってよかったです
昨日は、 “類なる” と間違って書いてしまっていたので・・・
送信したら訂正できなくて、
失礼しました。 (._.)
話を戻します。
こうして旧約聖書の事例を見ながら新約のみ言葉をみると、イエス様のみ言葉も今までより深く入ってくるものですね。
ヨハネ5章44節
5:44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。
イエス様は後に生きる私の為に意図的に新約にこのみ言葉を残しておかれたのでは、とすら思えます。
本来大切にすべき主の戒めを守らなかったことに心からの悔い改めがない
サウルは、自分に非があるとは認めても、かえって焦って王としての対面や保身を優先していました。
そんな嘘つき誤魔化しサウル王を神はどうして信じられますかということですね。
私の中にもサウル王的な性質がないかを吟味したいと思います。
劣等感、臆病、そして、不信仰の故の忍耐のなさ。
そして一番決定的な罪、自分が主に取って代わっているところがないか。
地上の生活での問題や病気に対する主の約束も
「日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られその中で息が吹きまくっている」という日本のリバイバルの約束も
来るべき携挙や再臨の預言も。
疫病や戦争、飢饉、災害などの見聞きすることで慌てず、焦らず、
ハバクク書の
「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」
というみ言葉を、握りしめ信仰をもって待ち望むべきなのだと教えられます。
どうか新しい創造、この基準、主の十字架の基準によって進むことができますように。
主が地上で何か与えられれも、主イエスの十字架以外に誇りとするものがありませんように。
ガラテヤ人への手紙6章14~16節
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
今日私には、このみ言葉を与えられました。感謝します。
シャローム!!(*^^*)
今日も、みことばに、
聖書通読クラブのコラムに、
また、分かち合いのコメントに、
慰められ、励まされました。
感謝します☆彡(^○^)
私達は、本来、良い人として、
主に創られた・・・
また、そう生きることができるように、
主は、してくださる。
それを知ってるだけで、どれほどの慰め、
励ましであることしょうか。
神様に、全てを感謝します☆彡(*^^*)
イエスさまがいるから、私は、私達は、
今日も、この地上で生きていけます。
(*^^*)
イエスさまが共にいてくださるならば、
イエスさまが祈ってくださるのであれば、イエスさまが私の全てを、
私に関わる全ての事を、
成し遂げてくださるならば、
私は、生きていける。私は、幸せです。
(*^^*)❤皆さんのために、祈っています!
感謝をこめて♡シャローム!!
かんしゃさんありがとうございます(^^)
どんないけにえよりも、主の御声に聞き従うことが大事だと思いました。