聖書通読クラブ Day 60

聖書通読クラブ Day 60【申命記25章~27章】

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シャローム!

祝福とのろい。エデンの園が作られ、主が再びこの地に来られるまでこの二つがいつも私たちの目の前に置かれます。そして、それを選び取るのは私たちです。
そのためになんのヒントもなく選び取るのではありません。主はみことばを通してすべてを教えてくださっています。これを聞き、行うことがどれほど大切か、今日もみことばに教えていただきましょう。

今日の通読箇所:申命記25章~27章

■アウトライン

約束の地を目前にして

●神の民が守られるため:25章
  ・むちと牛:1-4節
  ・イスラエルの名が保たれるため:5-10節
  ・隠し所をつかむ者:11-12節
  ・公正な取引:13-16節
  ・無慈悲な者へのさばき:17-19節
  ・二種類の種:9-10節

●主からの収穫:26章
  ・初物と三年ごとの十分の一:1-15節
  ・モーセ第二のメッセージの結び:16-19節

●ヨルダンを渡ったときに行う儀式:27章
  ・律法を書き写す石:1-8節
  ・山からののろい:9-26節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【25章】神の民が守られるため

生きていると必ず起こるのが争いです。愛しているからこそぶつかることがあります。しかし、それが度を超すと取り返しのつかないことになる場合もあります。
ここでは裁判の判決で有罪とされた者に対する憐れみの心が書かれています。3節にはむちは何度まで打って良いと書かれているでしょうか?それと2コリント11:24に書かれているパウロが打たれたむちの数を比較してみましょう。同じ数でしょうか?なぜ一つ足りないのでしょうか?
それは、むちを打つ者が数え間違えて、41回打って律法違反を犯さないための防御策でした。金属片などが編み込まれた無知で40回打たれるなら人は死んでしまうと言われていました。イエス様はこのむちに打たれました。私たちの罪のため、贖いのためです。イエス様の愛に感謝します。

4節は動物に対する憐れみです。パウロはこの箇所を1コリント9:9-14で引用しています。働き人が働きに集中し、正当な報酬を得られるように教えています。

5節からはイスラエルの名を継ぐために子孫を残す事が書かれています。世界中の今までの歴史でも、王族はこのような事をして王家の血筋が保たれるようにしてきました。
ここで最も大切な事は何でしょうか。イスラエルの名を絶やさないことです。神様はこの12部族を選び、約束の地に住まわせようとされました。そのうちの一部族でも名が途絶えるなら、これが実現しません。現在は北イスラエルにいた10部族がわからなくなっています。天のエルサレムという主の定められたところに再び集うことができるように祈りましょう。私たちも新しい名が与えられます。そこに異邦人である私たちも招かれていることを感謝します。
7節、これは死んだ者の妻を亡夫の兄弟がめとりたくないときの事です。その場合、長老の前で妻は拒否した亡夫の兄弟のくつを脱がせ、顔につばきをして宣言します。ものすごい屈辱ですね。
履き物を脱いでそれを相手に与えるのはルツ記で出てきます。しかし、ここでの目的は義務を果たそうとしない者に恥をかかせるためです。
顔につばをかけられるのは民数記12:14で見ることができます。ここは恥とセットで書かれています。ヨブ30:10は忌み嫌われる、ヨブ17:6ではもの笑い、イザヤ50:6では侮辱されると書かれています。
マタイ26:6ではイエス様の顔につばきがかけられます。神であるお方にこのような事がされました。私たちを救うために甘んじてこの事を受けてくださった主に感謝がつきません。

11節、興味深い事が書かれています。ここでは男性同士が殴り合いのけんかをしてて、自分の夫が負けそうになった時、相手の男性の急所をつかんではならないと書いています。
自分の夫が滅多打ちにされているのを見て、このような行動に出るのは当然のように思えますが、ここでも自制と公平さが求められているのでしょうか。

13節からは正しいはかりについて書かれています。今でも、正確なはかりをするために経済産業省でも軽量行政が定められています。
ビジネスは信頼によって成り立ちます。買い付けるときに大きなますではかり、売るときに小さなますで計るならそれは適正な計測ではありません。
主は不正を嫌われます。誰も気づかないと思っても、神様はご存じです。正直さと公正さを持ってビジネスをするなら、一時的に負けるかもしれませんが、長い目で見たら祝福されると信じます。

17節からは、アマレクが出てきます。今までは憐れみの心が書かれていましたが、ここでは一転、無情なほどにアマレク人に対する接し方が書かれています。どうしてでしょうか?18節を見てみましょう。こういうことを下からです。
主は公正さを求められます。卑怯者は神様に喜ばれません。なぜなら卑怯者はいつも自分の事ばかり考える自己中心的な者だからです。

【26章】主からの収穫

ここからは、今まで見てきた申命記のモーセのメッセージのまとめです。
1節からは約束の地に入ってからの事が語られています。そこでは荒野をさまようような生活から定住生活へと代わっていきます。ですから、そこでの収穫の初物を献げなさいと言われています。

5節での「さすらいのアラム人」とありますが、これは誰でしょうか?そのような人、今まで出てきたでしょうか?気になって調べてみると、これはヤコブのことでした。
「さすらいの」とは、「失われそうな」「滅びに瀕していた」と言う意味です。
考えてみると、創世記15:13で主はアブラハムに「あなたの子孫は…四百年感苦しめられる」と語られました。それから500年近くたっっています。10節はその感謝の表れとして、みことばの成就を喜んでの行動です。

11節では、相続地を持たないレビ人と共に喜ぶことが書かれています。申命記の12章を思い出します。

12節からは一度きりの戒めの実行を見ることができます。申命記の14:28で語られた三年ごとの収穫の十分の一をささげることです。
これはイスラエルの民がはじめて約束の地に入り、最初に行う一回きりのための戒めです。
十分の一は誰に与えられるでしょうか?分け与える心をここでも学ぶことができます。

16-19節は、モーセのメッセージのまとめです。「きょう」と書かれていますが、今までのすべての戒めをまとめて「きょう」と言っています。
モーセは神様のメッセージを民に伝え、また、民の意思を神に宣言しています。文字通り、神と人との間に立つ者であることがわかります。19節を自分の宣言として、「あなた」に自分の名前を入れて宣言してみましょう。その通りです。

【27章】ヨルダンを渡ったときに行う儀式

体的な律法の教えは一段落し、ここから先は主に「主の命令に従う」ということにフォーカスしていきます。そして、それを守り行うなら祝福、行わないならのろいという構図を見ることができます。それを念頭に置き読み進めてみましょう。

冒頭では興味深いことが書かれています。意思を拾ってきて石灰を塗り、その上に文字を書きます。その文字とはみおしえ、すなわちトーラーです。
その意思をエバル山に立てるよう言われています。エバル山とはゲリジム山のことです。
この石には鉄の道具を当ててはならないとあります。人工的な加工が禁じられています。
私たちの礼拝では、「臨在の雰囲気」を人間的な力で作り出したいという欲望に負けそうになることがあります。
最新鋭の映像や照明、音楽であたかも主の臨在があるかのように作り出すことはできると思います。しかし、それらは主の願われる礼拝ではありません。どんなにつたない賛美であっても、過度な演出が無くても、主を心から慕い求める者が真実な心を持って礼拝するなら、主はそれを喜ばれると信じます。
また、「石」というヘブライ語はとても興味深いものです。ヘブライ語では「エベン」と言います。ヘブライ語のアルファベットのアーレフとベイトとヌンという三つの文字でできています。
このうちの最初の二文字を取るなら「アバ」つまり「父」と言う意味です。そして、真ん中と最後の文字を取るなら「ベン」と言って「子」を意味します。そして、真ん中の文字は「家」という意味があります。つまり、家を中心として父と子が共にいる場所が石です。この上にみおしえが書き記されます。

9節ではうれしいことが書かれています。その前に「静まりなさい」ということばが書かれています。あまり目にしない言葉なので気になって調べてみると、ここにしか使われていない特別な単語でした。
実際のおしゃべりや物音だけでなく、心も静まる様子が見て取れます。何を聞くのでしょうか。「あなたは、あなたの神、主の民となった」とあります。こんな光栄なことがあるでしょうか。
主の民となるということは、主権者は主です。それであれば、自分たちのルールではなく、主のルールに従う必要があります。
それは私たちにとって重荷とはなりません。祝福となります。

12節、十二部族が二つの山に立ちます。
祝福するために立つシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンの部族に共通することは何でしょうか?
それは、ヤコブの正妻によるレアとラケルによってもうけた子たちです。
一方、呪いの側に立つのはレアの女奴隷ジルパによってもうけられたガドとアシェル、ラケルの女奴隷ビルハによってもうけられたダンとナフタリ、そしてルベンとゼブルンは正妻レアの子たちでした。
これはヨシュア記でエリコとアイの町を攻略したときに見られます。

15節をみてください。「またか」と思われるかもしれませんが、偶像礼拝に関してです。しかし、「またか」という気持ちで読むなら見落としてしまいますが、ここでは「これをひそかに安置する者はのろわれる」とあります。
偶像は密かに作り、密かに安置することができます。誰も見えない所にひっそりと置くことができます。それは私たちの心の中です。その者はのろわれるとあります。アーメンといえるでしょうか?

16節からは十戒を中心とした事が宣言され、民は「アーメン」と答えます。アーメンとは、「同意します」「その通りになります」という意味です。
この箇所を読み上げ、たとえ守ることが難しく感じても信仰の宣言として「アーメン」と言ってみましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. >イザヤ50:6では侮辱されると書かれています。

    イザヤ書50章6節
    打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。

    >マタイ26:6ではイエス様の顔につばきがかけられます。

    マタイ26章67節
    それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、

    >神であるお方にこのような事がされました。私たちを救うために甘んじてこの事を受けてくださった主に感謝がつきません。

    アーメン イエス様!感謝します。

    子供のけんかで唾をはいていた男の子を見たことはありますが、
    大人ではあまり見聞きしません。
    そんなことをされたら、赦せないと思います。

    主イエスの十字架の重さを思います。
    それも神のみ子が、抵抗なさらずに、黙って・・・
    人の罪の為に、この私の罪の為に、馬鹿にされても罵られても
    耐え抜いてくださったことを感謝します。

    愛してくれる優しい人の為ならまだわかりますが、
    自分を妬み憎んでいる、自分を馬鹿にしている人の為に・・・
    これほどの愛を人間に見たことがありません。
    汚れのない主イエスの血潮だから罪人の私を義と認められるのですね。

    とても力強い主イエスの血潮を感謝します。

    イエス様の血潮は罪に定める全てのことから私を弁護し、私に敵対するサタンの訴えを無効化し、今まで一度も罪を犯さなかったかのように私を義と認められます

    神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値無しに義と認められるからです ローマ人への手紙3章24節

    ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのはなおさらのことです ローマ人への手紙5章9節

    私たちを義としてくださる。
    ただ罪を赦すだけではなく、イエス様の義を代わりに与えてくださる。
    正しいものにする。力ある血潮を感謝いたします。

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