聖書通読クラブ Day 44【民数記13章~15章】

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シャローム!

変わりたいけど変われない。これが私たち人間の性質です。しかし「どうせ変わらないから今のままでいいや」というのは、イエス・キリストに従うものの姿勢ではありません。
ただ神様からの戒めに従うことだけを注目していたら、私たちは苦しくなり、辛くなり、諦めてしまうかもしれません。
イエス様は十字架への道を、また、十字架の上でその苦しみの中、何をご覧になっていたのでしょうか。それはその先にある喜びです。
私たちも現実を見て苦しくなり、人に悪く言ってしまう性質があるかもしれません。しかし、そういうときこそ信仰を働かせて、ヨシュアとカレブのように宣言しましょう。

それでは、今日もみことばに教えていただきましょう。

今日の通読箇所:民数記13章~15章

■アウトライン

何を見て何を伝えるか

●十二人の斥候:13章
  ・斥候派遣:1-33節

●続・十二人の斥候:14章
  ・人々の落胆・反逆:1-10節
  ・モーセのとりなしと神様の刑罰の宣告:11-39節
  ・ホルマでの無益な出陣:40-45節

●様々な規定:15章
  ・穀物のささげ物と注ぎのささげ物の分量:1-16節
  ・輪型のパンのささげ物:17-21節
  ・過失罪のための贖い:22-31節
  ・安息日を破った者への刑罰:32-36節
  ・着物のふさに関する規定:37-41節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【13章】十二人の斥候

ある一つの出来事に対して、人は様々な見方をすることがあります。例えば雨が降ったと言うことに対して、ある人は「嫌だな」と思うこともありますし、ある人は「恵みの雨だ」と思うこともあるでしょう。ここでは、12人の選抜メンバーが偵察に行く話が出てきます。その場所はカナンです。乳と蜜の流れる地です。約束の地と言われるところです。私たちにとっては黙示録21,22章で書かれている新しいエルサレムにあたるでしょう。

ここで各部族から選出されたリーダーは各部族の長とは別人です。申命記1:2を見てみると、ホレブからカデシュ・バルネアまでは11日の道のりなので、リーダーが交代したとは考えられません。
様々な名前が出てきますが、注目するのは16節です。ホセアをヨシュアと名付けたと書かれています。
ホセアは「救い」、ヨシュアは「主は救い」と言う意味です。そして、ヨシュアのギリシャ語の読みが「イエス」です。ヨシュアはやがて来られる救い主のひな形です。

17節からは、モーセが何を偵察してきて欲しいかが詳しく書かれています。そのチェック項目は何でしょうか?ノートにまとめてみましょう。
まるではじめてのおつかいみたいですね。斥候たちはこのおつかいを無事に果たすことができるのでしょうか?

21節からは斥候たちの偵察状況が書かれています。
彼らが偵察に言ったカナンの地で見たものはなんでしょうか?
そこにいる人物を見ました。また、ひとふさを二人で担ぐほどの大きな実を見ました。

25節、彼らはどれくらいの期間偵察に言っていたと書かれていますか?そして彼らは直ちにモーセとアロン、イスラエルの民に報告します。主が言われたとおり、そこは乳と蜜の流れる地で、証拠として果物を持って帰りました。良い報告です。続く28-29節は懸念される報告です。事実をありのまま報告することは素晴らしいです。
しかし、この報告を聞いたイスラエルの民は手放しでは喜べない状況だったでしょう。そこでは不穏な空気が流れていたかもしれません。
ここで「民を静めて」とあることからもその事がうかがえます。
そこで突然エフネの子カレブが宣言します。どのような宣言でしょうか?
一方、31節で他の者は何と言っているでしょうか?彼らは別々のものを見たのでしょうか?それとも同じものを見たのでしょうか?なぜこのように反応が違うのでしょうか?
もっと悪いのは32節です。どうして彼らはそのようなことをしたのでしょうか?本心で、本当に民を心配して言ったのかもしれませんし、あるいは自分たちだけがそこに入っていて良いものを独占したいと考えたのかもしれません。
いずれにしても、彼らは民を恐れさせるパワーワードを使います。それが「アナク人」です。アナク人は創世記6章に出てくる巨人です。彼らは確かに巨人でした。しかし、時には人は想像の中で実際以上に大きく見てしまうことがあります。なぜそうなってしまうのでしょうか?考えてみてください。
私はそれは恐れからだと思います。イスラエルの民にはあの世界最強の軍隊を打ち破った主が共にいてくださいます。しかし、その存在を忘れて、恐れの方が上回ってしまっています。私たちの生活の中でもこのような事があるのでは無いでしょうか?
みなさんは恐れからその事を周りに悪く言いふらす不信仰な宣言をしていますか?それともカレブのように主に信頼して信仰の宣言をしていますか?これは小さな事ではありません。私たちは考えたとおりになります。(箴言23:7)

14章】続・十二人の斥候

1節、民は悪い報告を信じてしまいました。ある意味事実なのですが、彼らに信仰はあったでしょうか?
民の不信仰から来る不安は誰に向けられましたか?なぜこの民はこんなにもつぶやくのでしょうか。4節ではついにエジプトに帰ろうと言い出します。エジプトに帰りたいシンドロームです。言うなれば片足をこの世に置いて、もう片方の足を御国に置いているようなものです。この世の考えと御国の考えを行ったり来たりしている状態です。聖書ではそのような者を「ふたごころ」と呼びます。
ルカの10:30からの良きサマリヤ人のたとえを読んでみましょう。そこに書かれている「ある人」はどこからどこに向かっていっていましたか?その途中で「ある人」は強盗に襲われてしまいました。これは荒野でのイスラエルの民の姿であり、また私の姿でもあります。

民の訴えに対して、モーセとアロンはどのように反応しましたか?これこそ私たちの取る行動です。
民のつぶやきはいつの間にか増幅して神への冒涜になりました。それを聞いてモーセとアロンは主の前で恐れ、とりなし、悔い改めました。まず祈ることが大切です。祈りましょう。祈りは力です。

実際にカナンの地を見てきたヨシュアとカレブも衣を裂くという心を痛める態度を示し、そうでは無いと言うことを訴えます。
8節を見ると、ヨシュアとカレブは主に信頼していることがわかります。ということは残りの10人は主を信頼していなかったのでしょう。
それを聞いた民はどのように反応しましたか?そして、それをご覧になった主はどのように言われましたか?11節は私の心に刺さりました。
モーセはとりなし祈ります。イスラエルの民はエジプトであの十の災いから守られ、出エジプトしたことを体験しているにもかかわらず、この有様です。彼らに信仰はあったのでしょうか?
そのような民のためにも、モーセは祈ります。13-19節で、どのように祈っているか、その祈りを研究してみてください。
モーセは神の約束を覚えており、その約束を持って神様に語りかけます。みことばをもって祈ることが大切です。

20節では主が答えられます。主はこのようなどうしようも無く見える民をどうされますか?それは誰の故ですか?もし、モーセがこの時とりなさなかったら民はどうなっていましたか?私たちは今、この地でこのモーセのようになろうではありませんか。自分だけが救われてそれで終わりではありません。主のからの使命を全うしていきましょう。
主は民を赦してくださいますが、刈り取りをさせます。22節を心に刻みましょう。そのような者はどうなると23節に書かれていますか?
私たちは24節に書かれている者になりましょう。私たちは他と違っている者です。

29-36節をまとめるとどうなるでしょうか?二十歳以上の者たちはどうなりますか?斥候の中で悪く言った者はどうなりますか?カレブとヨシュア、さらわれてしまうと言った子どもたちはどうなりますか?一日を何年と数え、合計何年の間どうなると言われていますか?

この期間は彼らの訓練期間でした。私たちの現在の歩みのようです。私たちのいのちはまだこの地上にあります。今、この瞬間はまだ悔い改め、主の道に立ち返ることが可能ですが、その時が来たらそれはできなくなります。私たちは今からどのように生きるべきでしょうか?真剣に考えてみてください。

39節から、民は奇妙な行動に出ます。40節で民が言ったことは本当でしょうか?41節を見てみましょう。
モーセのアドバイスに対して民はどのような反応をしましたか?その結果どうなったでしょうか。
リーダーに止められても自分たちの考えを貫く者の心の態度はどのようなものでしょうか?へりくだっていますか?高ぶっていますか?私たちの心にそのような種は無いでしょうか?

【15章】様々な規定

イスラエルの民はこの時点では荒野にいましたが、主はその先にある目的、カナンの地に入ったときに行うことを告げてくださいます。荒野で苦しい経験をしたとき、イスラエルの民はこの約束を思い出して再び立ち上がったのでは無いでしょうか。

ここで沢山の規定が書かれていますが、まとめると進んでささげる時、例祭の時、主へのなだめのかおりとして火によるささげ物として主にささげるなら、以下の規定のようにして穀物と注ぎのささげ物をささげる。
(1)いけにえ (2)穀物のささげ物 (3)注ぎのささげ物
(1)子羊1頭ごと(2)油1/4を混ぜた小麦粉1/10エパ(3)ぶどう酒1/4ヒン
(1)雄羊1頭ごと(2)油1/3を混ぜた小麦粉2/10エパ(3)ぶどう酒1/3ヒン
(1)若い牛1頭ごと(2)油1/2を混ぜた小麦粉3/10エパ(3)ぶどう酒1/2ヒン
※1ヒンは3.8リットル、1エパは2.3リットル

約束の地に於いて、荒野で捧げたものに加え上記のものをささげることで、ささげ物が完成されていきます。
15-16節ではどのように書かれていますか?私たちは様々な国籍、原語、肌の色、文化を持っています。しかし、教えは同一です。裁きも同一です。それはイエス・キリストです。

22節では主に対して過って罪を犯してしまった場合の事が書かれています。なんだか前にも見た気がしますね。レビ記4:13-21を見返してみましょう。レビ記では「主がするなと命じられたことの一つでも行って」とありますが、ここでは「主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行わない時は」とあります。後者の方は不履行の罪です。
これらの罪はいけにえをささげる事で赦されます。
ところが30節、何と書かれているでしょうか?31節がその結果です。

続く32節からは安息日の教えです。これは、故意に主の戒めを破ったらどうなるかという一つの具体的な例です。
たきぎを集める事は生活で必要なことです。しかし、安息日に自分の生きていくための働きを休み、主との交わりを持つ日であるのにそれをしなかったことが問題でした。
些細なことに思えますが、主を第一とする生活はとても重要です。

37節からは着物のふさに関することが書かれています。これは何のためだと39節に書かれていますか?
しかし、時代と共に手段と目的が入れ替わってしまいました。マタイ23:5を見てみましょう。彼らは主の戒めを思い出すためではなく、自分を立派に見せようとして着物のふさを長くしていました。
手段と目的が入れ替わってしまうことは恐ろしいことです。いつでも主の戒めに立ち返りましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. そうですね、14章でもモーセの祈りに、主の御名を愛し、民を愛する
    気高い信仰の祈りを見ることができ、学ぶことができますね
    第一に、み名のゆえに、主のみ名が軽んじられないために(13節から16節)
    第二番目に、神の約束とこれを実行することができる力、神の権威と、全能に訴え(17節)
    第三番目に、大きな恵みに頼って祈る(18節から19節)

    モーセは、道筋を知っている人ですね。
    モーセに習い、恐れながら私も自分の為に、また人々の為に
    三つの道筋を祈りの時に、念頭に置いていたいと思います。

    【NKJV】
    Num
    14:33 ‘And your sons shall be shepherds in the wilderness forty years, and bear the brunt of your infidelity, until your carcasses are consumed in the wilderness.

    英語苦手なので (#^^#)、グーグルで翻訳しまし。

    NKJVの訳
    民数記14章33節
    『あなたの子らは四十年の間荒野で羊飼いとなり、あなたの死骸が荒野で焼き尽くされるまで、あなたの不貞の矢面に立たされるであろう。

    背信は、不貞と訳されていますね。
    不信仰は、神の愛を裏切る姦淫の罪なのですね。

    神の愛を知っていながら神を信じないのは、恐るべきことだということですね

    私には到底、資格がないことを思います。
    この訳を当てはめると、私は主に対して姦淫の女ということになります。
    ある時は祈りと賛美の中で涙があふれ、満たされ奇跡を見て、
    現実に思い通りにならないと、神の愛を知っていながら
    恐れや不安、そして、不信仰に陥り、「攻め上ることはできない」
    と決めつけるばかりか、「敵はあまりに大きいから」と悪く言いふらしてしまいそうな内なる人を見ます。

    しかし ヨシュアとカレブのように、しっかり現実を見てもなお、
    難しそうだけれども、登って行こう、
    「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と
    信仰をもって叫ぶことができますように。

    内なる古い人のたましいの都市(不信仰、恐れ、不安、批判、裁き、怒り)を主と共に恐れずに戦い聖絶して、
    内なる新しい人のたましいの都市(信仰、希望、憐み、赦し、愛、喜び、平安、寛容、他・・・御霊の実)が建てられ、新しい人のたましいの都市に堅固な主の城壁が完成しますように!

中林 千恵子 へ返信する コメントをキャンセル

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