聖書通読クラブ Day 43

聖書通読クラブ Day 43【民数記10章~12章】

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シャローム!

生きていると、不平不満をこぼしたくなることがあります。神様を知らない人はそれをお酒やタバコ、その他あらゆるもので帳消しにしようとします。
しかし、私たちイエス様を信じる者は自制なく不平不満を言ってはいけません。「では、あなたがそれをやりなさいよ」と言う声が聞こえてきそうですが、私もまだまだ主によって訓練されている者です。ですから、御霊の助けを求めて、共にすべてに感謝できる者へと成長させられていきましょう。
今日の聖書の箇所では多くのテストが出てきます。その一つひとつの神様の愛に満ちたみことばから、今日も教えていただきましょう。

今日の通読箇所:民数記10章~12章

■アウトライン

欲望と報い

●シナイ出発:10章
  ・二本の銀のラッパ:1-10節
  ・行軍の順序:10-28節
  ・ホバブの道案内:29-32節
  ・契約の箱:33-36節

●つぶやき:11章
  ・タブエラ:1-3節
  ・マナに対するつぶやき:4-9節
  ・七十人の長老たちの登録:10-30節
  ・うずらと報い:31-34節

●ミリヤムとアロンのモーセへの不信:12章

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【10章】シナイ出発

神様はここで突然「ラッパを作りなさい」と命じられます。神様はジャズを聴きたかったのでしょうか?
そうではなく、このラッパには明確な目的がありました。それは何でしょうか?2節に答えが二つありますね。
3-7節では、ラッパの吹き鳴らし方が書かれています。二本のラッパと吹き方で様々な意味を持たせています。
ラッパは大きな音で合図をすることの象徴です。
マタイ6:2を読んでみましょう。彼らは自分に注目させるためにラッパを吹いていました。
また、次の箇所も見て、感じたことをノートにまとめてみましょう。マタイ24:31、1コリント14:8、1コリント15:52、1テサロニケ4:16、ヘブル12:19、黙示録4:1、8-10章。
ちなみに、こちらのラッパは動物の角から作ったいわゆる角笛とは別のものです。
8節にはラッパを吹く者の条件が書かれています。誰がラッパを吹くことができるのでしょうか。
9,10節には「神に覚えられる」とあります。これはラッパを吹かなければ神様が助けてくださらないというわけではありません。神様は私たちの必要をすべてご存じのお方です。しかし、同時にピリピ4:6の心が必要です。

11節からはいよいよ出発です。11節、12節でいつ、どこにまで旅を続けたかわかりますか?
2章でお送りした図の通り出発しているのがわかりますね。
しかし、一部違いがあることに気づくでしょうか?
それはレビ人に関してです。本来であればレビ人は第二軍のルベン部族に続いて出発するはずですが、ここではどうなっているでしょうか?
17節には、幕屋を運ぶゲルション族とメラリ族がルベン族の前に、そして幕屋の聖なるものを運ぶケハテ族がルベン族の後に出発しています。
おそらく、この時は先にゲルション族とメラリ族が出発し、幕屋を建築してケハテ族を迎えるという形をとったのでしょうか。
神様の命令通りにしていませんが、それで許されています。聖書ではこういった例外的な部分が出てきます。聖書は本当に人の理解を超えていますね。

29節からはモーセがお願いをします。それは誰でしょうか?この人はモーセと関係があるでしょうか?
この人物、ホバブはモーセの妻チッポラの兄弟です。モーセはどのようにして誘いましたか?それに対してホバブはどのように答えましたか?
それに足してモーセは「あなたは私にとって目だ」と言って同行を願いました。聖書には一緒に行ったか残ったかはっきり書かれていませんが、おそらく一緒に行ったのでしょう。

33節からは契約の箱にフォーカスが当たります。主のご臨在の現れる契約の箱が3日の道のりの先を行き、彼らに休息の場所を探します。
イエス様も十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえられました。そして今は天で私たちの完成を待ってくださり、私たちの住む家を用意してくださっています。

【11章】つぶやき

これまでと打って変わって1節では不穏なことばからはじまっています。民は誰に対して何をしましたか?その結果どうなりましたか?
これはこの時だけ起こったことでしょうか?出エジプト記14:11-12を見てみましょう。彼らは荒野で絶えずつぶやいていました。
それでは、彼らは何か不足があったのでしょうか?ネヘミヤ9:21を見てみましょう。
私たちはどうでしょうか?彼らと同じ事をしていませんか?何か不足はありますか?
この時神様はどのような怒りを表されたのでしょうか?みことばには「宿営をなめ尽くした」とあります。わかりますでしょうか?人のいのちは影響を与えていません。主の警告です。

さらにつぶやきは続きます。7節からを見てみましょう。
ここでは何に対してつぶやいていますか?そして、誰がつぶやいているでしょうか?その動機は何だったでしょうか。それがきっかけとなってイスラエルの民も大声で泣いて欲求をあらわにしました。
彼らはエジプトにいたとき、どのように主に叫んでいたのでしょうか?そこを出たいと言っていたのでは無いですか?いざエジプトを出ると今度はエジプトに戻りたいと言っています。2テモテ3:2を見てみましょう。罪のリストに「感謝することを知らない者」とあります。
彼らには毎日マナが与えられていました。その事に感謝できないとき、不満が出てきます。
私たちはどうでしょうか?様々な状況で今までのような生活ができず、いつ終わるのかわからない困難の中に置かれています。その中で感謝できているでしょうか?今こそその事が問われています。

10節からは70人の長老たちの登録です。民はどうして泣いているのでしょうか?
それに対して、主もモーセも怒ります。聖なる怒りです。イスラエルの民に混じってきた者の欲望がここにまで発展します。私たちの内にあるパン種のようなものです。小さなものが全体に影響を与えます。
さすがのモーセも愚痴のようなものをこぼします。11節からのみことばを見てみましょう。これだけの民を導いていたらこのようなことが出てくるのは理解できますが、13節に注目してみてください。非常に謙遜であったと書かれているモーセの高ぶりが見え隠れします。肉を与えてくださるのは主であるはずなのに、モーセは「私」が肉を得て与えると言っています。疲れてしまったとき、油断したときに本音が出てしまいます。普段から感謝の生活を送っているなら、どんな状況でも主に信頼できると信じます。

16節では神様がモーセの祈りに答えます。訴えたら聞き、答えてくださる神様は偉大で優しいお方です。
14節に書かれていた民に対する重荷を70人の長老に分配します。
また18節からは民に対するつぶやきに答えられます。まるでイエス様の五千人の給食の前味のような場面です。彼らの食べる肉はどれほどでしょうか?どれほどの期間食べるのでしょうか?それをこれだけ多くの民に与えるとなると、どれほどの食材が必要なのでしょうか?
でも、この箇所がちょっと神様のいたずらのように思えるのは私だけでしょうか?
23節はあわせてイザヤ50:2、59:1も見てみましょう。

25節は17節の成就です。このことによってモーセの霊性が減ってしまったのでしょうか?そういう単純な計算ではありません。ヨハネ3:34を見てみましょう。これが主のなさることです。

26節では、集まらなかった二人の者について書かれています。
29節のモーセの言葉は、リーダーとして真実な言葉でしょう。上に立つ者は「部下が全員自分くらい仕事ができたらいいのに」と思ってしまうかもしれません。

さて、31節からは恐ろしい事が起こります。彼らの欲望は形となり、溢れるほどに彼らの周りにうず高く積もりました。
想像してみてください。もし、みなさんの好きな物であふれかえったらどうでしょうか?お札の浴槽に入りたいですか?お菓子の家に住みたいですか?33節を見てみましょう。どのようなタイミングでどのような事が起こりましたか?
その理由は34節に書かれています。欲望に従うのは幼子です。子どもや好きなときに泣き、好きなときに寝ます。しかし、成長すると自制を覚えます。御霊の実の最後が自制なのも納得できます。英語で言うとセルフコントロールです。聖霊様に助けていただき、この実を結んでいきましょう。

【12章】ミリヤムとアロンのモーセへの不信

今度はなんとモーセの姉兄、ミリヤムとアロンがモーセに不満をぶつけます。イエス様の「預言者が尊ばれないのは自分の郷里だけ」(ヨハネ4:44)と言われたことを思い起こします。リーダーは孤独です。
ここの動詞を見ると、単数女性形になっていました。普通はヘブライ語では一人でも男性が入っていたら男性形になるのが常です。ここからわかるのは、この不平はまずミリヤムが言い、それに「そうだ、そうだ!」とアロンが追従したと考えられます。
2節では、まるでヨセフと兄たちのような関係を見ることができます。つまり、ミリヤムとアロンは「弟のくせに、偉そうにするなよ!」と言っています。
それを受けて3節があるのでしょう。モーセはどのような人物であったと書かれていますか?私も神様にこのように言われる者になりたいです。その理由はなにか創造できますか?ここで先に進まず、立ち止まって考えてみてください。
私は、モーセが自分が不当に訴えられているのに口答えしなかった事が謙遜の証だと思います。みなさんはどうでしょうか?
ちなみに、モーセ五書はモーセが書いたのに自分を「最も謙遜」と書くこと自体が高ぶりでは無いか?と思うかもしれませんが、前にも述べましたがおそらくこれは後で付け加えられたものだと考えられます。この問題の解決はどうするのでしょうか?最も権威あるリーダー間の問題です。4節にどう書かれていますか?このお方がすべての問題の解決です。神様から直接叱られることほど恐いことはありません。
ここで主はモーセが特別であることを教えます。
どうしてモーセは8節にあるようになったのでしょうか?3節が鍵です。

9節からは処罰の断行です。蒔いた種は良いものであっても、悪い者であっても必ず刈り取らなければなりません。
ミリヤムが言い始めたことなので、ミリヤムがその罰を受けます。彼女に下った罰はどのようなものですか?それは何を象徴しているものでしたか?
11節でアロンがモーセに訴えます。アロンは大祭司だったのでツァラアトになったものがどうなり、どのようにしなければならないかをよく知っていました。さっきまで避難していたモーセに対して結局はここで頼っています。
13節でモーセはどうしますか?もし私がモーセなら、「そんなの知るか!」と言うかもしれません。しかし、モーセは自分を非難した者のためにとりなし叫んで祈りました。イエス様の教え「敵のために祈れ」というのを実行しているように見えます。
結局、ミリヤムが癒やされたかどうかははっきりと書かれていませんが、おそらく癒やされたのでしょう。
しかし、彼女は直ぐには宿営には戻れませんでした。
神様が選ばれたリーダーに対して不満を抱き、それを行動に起こすという罪を犯しながら、(一定の罰を受けはしましたが)ミリヤムは主に許されました。そのことに15節によると民全体が合わせました。
このような多くの不満という試練を通され、このテストにパスした者がパランの荒野に到着しました。私たちはどうでしょうか?ここにたどり着けるでしょうか?狭く、小さい門を見つけ、まれな者となれるでしょうか?

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. 今日の個所は、ズキンと痛いところを突かれましたが、
    私が天の御国に入れなくなるような、致命的な大失敗をしない為に
    大切なことを示され感謝です。
    今地上で生きている間に、示されて悔い改め、祈ることができることを感謝します。
    再臨は第三神殿が建てられ始めてから7年後でしたが、
    携挙は、明日か、一時間後か、はたまた10年後かもっと先かは、
    わからないのですから。ただ・・・近いと思います。

    今朝4時ごろ、26歳にもなる息子が私の寝室に入って来て、
    今幻を見たと話しかけてきました。
    イエス様が、僕の部屋に来て「もう時間切れだ」といってそっと布団をとって、息子を抱いて、天にのぼっていったそうです。
    「イエス様、パン屋を開業するために、業者や銀行との打ち合わせがこれからあって忙しくなるんですけど」と言うと
    「天にあげられるときは、地上の一切の思い煩いを捨てて、天に上がることだけを考えなさい」
    と言われたそうです。
    「お父さんと、お母さんは?」と聞くと
    「あの二人のことは心配しないでいい、後でみ使いが迎えに行くから」
    息子はもう一人の名を聞いたのですが
    「その人は上がる理由がみつからないから」と言われ
    その人のことは携挙には、絶望的な雰囲気が流れていたそうです。

    今日が携挙の日かと思ったけれど、天に行かずた降りて来て、
    「携挙の時はこのようになるんだよ、今はここで待っていなさい。」
    と言って地上におろされ、イエス様は消えたそうです

    息子が私に言ったことです。
    「天に携挙される理由とは、難しいことは何一つなく、ただ、携挙されたいと願うだけ、そのために難しい問題はすべてイエス様が解決してくださっているのだから。もちろん罪を示されたなら悔い改めは必要だけどね、
    でも、携挙を待ち望んで、この地上で信じている人は、本当に幸せ
    だと思う。生きているということは、チャンスがある。まだ取り返しがつく、まだ祈れる。携挙はまだ現実的に思えないクリスチャンがいるけれど、これは、現実だよ。神様って稲妻のような声って聞いていたけど、本当に響く声でドスンと語られたよ。そこには威厳と、恐れと、聖さと平安と愛があったよ。」
    リアルな話を聞いて、私は正直に
    「お母さん、どうでもいいことで、まだ人を裁いたり、昔理不尽なことをされたことで、一度赦したはずなのに怒りがこみ上げることがある、ある時は赦せる気持ちがあって平安なのに、ある時は、赦せなくて怒りがこみあげてくる、祈らなきゃ」って伝えました。
    すると息子は
    「お母さんがいつか、自分で気が付くと思っていたから言わなかったけど、それだよ、お母さんが上がってくるのが遅かった訳は。
    でも神様の力は偉大だよ、お母さんは勝利を得て、天に行くから」
    と語りました。
    自分の力ではできなくても、主イエスの血潮の故に、そして、私の罪を赦してくださった主の愛の故に、赦したいと思います。
    熱心に悔い改めたいと思います。
    これだけわかっていて、どうして、こうも裁く気持ちがふつふつと出て、怒に満ちるのか?自分でもわかりません。
    こんな感情を持つこと自体、主イエスに恥ずかしいし、申し訳ないです。
    人を見ないで、主イエスの十字架だけを仰いでいきたいと思います。
    必ず、主は勝利を得させてくださると信じます。

    忘れていた頃に、赦せない思いと怒りがこみあげても、それは自分の問題で、その方たちが地獄に落ちてほしいとは思っていません、そんな姿見たくありません。だから、主イエスの十字架を見上げると、そんなことは、どうでもいい問題になります。

    大切な人たちです。

    なので、この地上で生きているうちに、主イエスの血潮によって、み言葉の洗いによって聖められ、自分の為にも、家族や教会の人々、今接することができる人々の為にも、接したことのない人々の為にも、あとで悔いが残らないほど、今のうちに祈っておかなければ、祈っておきたいと思わされます。
    信仰をもって、感謝して、まず自分の心を見張っていきたいと思います。

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