シャローム!
幕屋で仕えることができるというのはとても光栄なことです。しかし、誰でも幕屋で仕えることができたわけではありません。どんなに幕屋で使えたいと思っても、生まれながらにすでに使えられない人がほとんどです。
しかも、幕屋で仕えるのは私たちの想像を遥かに超えるハードワークです。幕屋に仕える前から、聖別の段階でも相当の犠牲が必要です。責任も大きいです。しかし、それを超える祝福があります。
私たち一人ひとりも十字架の恵みによってレビ人へと招かれていると信じます。
それでは、神様の愛に満ちたみことばから、今日も教えていただきましょう。
今日の通読箇所:民数記7章~9章
■アウトライン
幕屋で仕える者
●12部族長のささげ物:7章
・車六両と雄牛十二頭のささげ物:1-9節
・祭壇奉献のための俗情たちのささげ物:10-89節
●レビ人の聖別:8章
・ともしび皿:1-4節
・レビ人の聖め:5-22節
●出エジプト後初の過越:9章
・荒野での過越:1-14節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【7章】12部族長のささげ物
今日の箇所は通読においては、民数記の山場でしょう。非常に多い89節もあり、しかも同じような内容が繰り返されています。頑張って通読しましょう。
1節を見ると、「幕屋を建て終わった日」とあるので、出エジプト40:17から、第二年目第一月第一日であることがわかります。
それならば、1章と時間的に入れ替わってしまいます。聖書は必ずはじめから時系列で書かれているわけでは無いと言うことを覚えます。つまり、この箇所の後一ヶ月後に1章のささげ物がささげられます。
では、ここでは何がささげられているでしょうか?みことばを確認してみてください。
ここは比較的簡単だと思います。
・車六両(ふたりで1両)
・牛12頭(ひとり1頭)
これらはレビ人に与えられましたが、氏族によって与えられる数が違います。少し不公平に感じますが、その内訳はどうなっていますか?
・ゲルション族:車2両、牛4頭
・メラリ族:車4両、牛8頭
・ケハテ族:なし
どうしてこうなるかは昨日の記事を確認してください。氏族によって運ぶ物が違うからです。
ケハテ族はこれらを肩にかついで運ばなければならなかったので、車も牛も使えませんでした。
10節からは祭壇奉献のためのささげ物です。これはどの日にささげられましたか?11節をみると、それは1日で終わる物でなさそうです。何日かかるかわかりますか?
1章で人口調査をした結果、各部族で人数にばらつきがありました。それでは、ここでささげられるささげ物も各部族の人数に応じていますか?それとも人数にかかわらず同じですか?
以下は、各部族の長がささげたささげ物とその総数です。
(1)銀の皿:1(130シェケル)=12
(2)銀の鉢:1(70シェケル)=12
以上のものには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉をいっぱいに入れる
→銀の重さは合計2,400シェケル
(3)金のひしゃく:1(10シェケル)
これには香がみたされました
→金の重さは合計120シェケル
(4)全焼のいけにえ
・若い雄牛:1=12
・雄羊:1=12
・雄の1歳の子羊:1=12
(5)罪のためのいけにえ:1=12
・雄やぎ:1=12
(6)和解のためのいけにえ
・雄牛:2=24
・雄羊:5=60
・雄やぎ:5=60
・雄の1歳の子やぎ:5=60
大変な量の物がささげられているのがわかると思います。
その後、89節、神様は贖いのふたからモーセに語られました。
これは私の考えですので吟味して受け取っていただきたいのですが、神様が語られるのが先か、私たちがささげるのが先かという事に関してです。
みことばを見る限り、私は人からのささげ物が先では無いかと思います。もちろん、主は様々な方法を用いて語りかけてくださるので、例外もあるかもしれませんが、主はみことばの範疇を超えて語られません。
例えば、子どもが悪いことをした時を考えてみると、親は子どもの方から「ごめんなさい」と言う言葉が出るのを末と思います。また、「ごめんなさい」と言いやすい環境をつくってあげることもあると思います。謝るチャンスを与えてあげるのです。しかし、いのちに関わる緊急の時は親は言語道断で力づくでも子どものいのちを救うことをします。
私たちと神様との関係も同じでは無いかと思います。神様は今日も私たちからのささげ物を待っておられるのでは無いかと思います。神様はすべてをお持ちの方ですから、物質に興味があるのではありません。神様の関心は私たちのささげる心です。
【8章】レビ人の聖別
ここでは突然燭台の作り方が出てきます。出エジプト25:13から詳しく書かれているのに、なぜここで繰り返されているのでしょうか?
おそらく、聖所で使えるアロンに対して具体的な指示なのでは無いかと思います。
2節で神様はどのように命じられ、3節でアロンはどうしましたか?
2節に「あげる」と言う言葉があります。マタイ5:14-16も見てみましょう。
5節からはレビ人の聖別です。
幕屋で仕えるレビ人は3つの事を持って聖められます。それは何でしょうか?7節を見てみましょう。
13節までの行程を終えて、ようやくレビ人は聖所で仕えることができます。
14節で「イスラエル人のうちから分けるなら」と書かれています。これが聖別です。特別な務めのために取り分けられることです。
20-22節では、彼らはどうしたと書かれていますか?何度も何度もみなさんにお伝えしていますが、これが本当に重要なことです。神様の仰せを聞き、その通りに(自分でアレンジすること無く)忠実に実行すること。理解できても理解できなくてもです。神様の主権は絶対です。
23節からは、会見の天幕で仕えることのできるレビ人の年齢が書かれています。何歳から何歳までが会見の天幕で仕えることができますか?
もし、これが今の日本の教会に適応されたら、ほとんどの教会は無牧となってしまうかもしれません。祈りましょう。
しかし、ここでひとつの疑問が生まれるかもしれません。頭に「?」が浮かばれた方はしっかりとみことばを読まれている方だと思います。
民数記4章では、レビ人は30歳以上となっていて、ここでは25歳以上となっています。
私も気になって調べてみると、荒野での時代は30歳以上、その後カナンの地に定住した時代には25歳と考えられているそうです。
荒野では会見の天幕は移動するので、熟練した30歳以上となっていたようです。
※モーセ五書はモーセによって書かれたとされていますが、後にエズラや様々な人によって編纂され、今の形になったと言われています。
【9章】出エジプト後初の過越
さあ、ここではまた過越の祭りが出てきます。主の例祭は時代のくさびのような働きもあります。過越と言うことは、この季節が春であったことがわかりますね。
彼らは一年前に起こったあの恐ろしく、また、そこから救われた夢のような出来事をこの祭りを祝うことで思い起こしたことでしょう。
これだけ大勢の民が一斉に同じ時刻に同じ事を行うことができるのは本当にすごいことです。皆がヤハウェなる神を恐れていた証拠です。
しかし、ひとつの問題が浮上します。この過越にあずかれない人たちが出てきます。どのような人だったのでしょうか?6節を見てみましょう。
良い質問は良い答えを引き出します。この事によってなんと、過越が年に2回行われることになります。
この2回目の過越に出られる条件は10節の通りです。
もし、「ああ、来月も過越があるし、今回はめんどくさいから来月の過越にしよう」という考えの者は13節のようになります。
15節からは、いわゆる「火の柱・雲の柱」に関してです。昼は雲が、夜には火が幕屋を覆っていました。
特に19節と20節に注目してみましょう。幕屋が移動するのはモーセやアロン、つまりリーダーたちの意見によってでしょうか?それとも、民主主義で、民の声の多数決で幕屋は移動しますか?みことばには何と書かれていますか?教会、また私たちのからだも神の幕屋ですから、このみことばに従う祝福を味わう必要があります。
そして、23節。窮屈に思えますが、主の戒めを守ることができるというのは大きな祝福であります。みことばを聞き、それを学び、教え、そして従うという恵みを味わっていきましょう。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
一見読むのも面倒な思いになるのですが、
以下同文ではなく、一人一人たとえ同じことでも、
個別に名前を呼んで、その捧げものも一つひとつ書き記してくださることを感謝いたします。
神は、私の思いとは異なり、一人一人を大切にされていることを思います。
その他諸々と記さず、神は丁寧に神の書籍に記してくださる。
神は私たちを個別に名前を呼んでくださり、
どんな些細な捧げものも、奉仕も、祈りも、愛の笑顔も、愛の声掛けも、すべて、忘れなさらない方であることを感謝したします。
そして、悔い改めた者の、罪、失敗においては、後ろに投げ捨て、思い出さない方であることを感謝したします。
イザヤ43章25節
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
イザヤ38章17節
ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした。あなたは私のたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
分離6章1節から12節、
謙遜6章13節から21節
祝福6章22節から27節、
聖められて後、三重(父御子御霊)の祝福があり、
捧げもの(7章)
神が宥めの蓋の上、二つのケルビムの間から語られる
まず人からの捧げものがあり
そして、神が語られるのですね
レビ人たちの恵みは多いけれど、責任ある、重い奉仕に応じて、
神は、その働きの為の糧、力(台車、雄牛、)も備えてくださる方であることを思います。
肩に担う者には、神の権威をもって力を与えてくださることを思います。
ケハテ族出身のモーセやアロンは高齢になってもタフでした。
アロンは火鉢を持って走るほどでしたから。
民数記16章46節~48節
46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。【主】の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」
47 モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。
48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。
申命記34章7節
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
主との交わりの中に仕える尊い奉仕は、馬や台車で負うのではなく
自ら肩に担わなければならないことを覚えます
伝道者、牧会者、宣教師など、覚悟が必要な、特別に重い責任ある仕事です。
そして、日々キリストの十字架を負う私たちへ与えられた使命も
台車や馬で負うのではなく、
肩に(神の力、権威によって)自ら担うべきことを忘れてはならないと思いました。