シャローム!
神様は被造物である私たちと契約を結んでくださるお方です。契約とはどういう条件で結ばれるのでしょうか。多くの場合は、お互いが対等な立場で契約を結びます。
神様と人の関係を見るなら、創造者と被造物という関係です。もし、私たちが神の立場だとしたら、私たち人間と目の前にあるマグカップのようなものです。
あなたはそのマグカップのために自分のいのちを投げ出せるでしょうか?マグカップと対等な立場に立って契約を結べるでしょうか?
神様は私たちにそれ以上の事をしてくださるお方です。神様はいつでも本当に良いお方です。
今日の通読箇所:創世記18章~20章
■アウトライン
裁きととりなし
●告知ととりなし:18章
・サラへの受胎告知:1-15節
・ソドムへのさばきの告知:16-21節
・アブラハムのとりなし:22-33
●さばきとロトの救出:19章
・御使いの訪れ:1-14節
・さばきの断行:15-29節
・ロトと娘たち:30-38
●アビメレクへの恐れ:20章
・サラの紹介:1-7節
・アビメレクの反応:8-18節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【18章】告知ととりなし
神は聖書の中で、突然何かを行われるように感じることがありますが、実は神に心を向け続けている者には絶えず語りかけ、これから起こることを告げてくださるのです。そして、時が満ちるとその事が実行されていきます。ノアのところでもそうだったはずです。
この箇所では二つの告知が、神からなされます。サラへの受胎告知とソドムとゴモラへのさばきの告知です。
ここで御使いが登場します。9節までは3人、それ以降は3人称単数形になり、16節では「その人たち」となり、19章では二人になります。これは一体どういうことでしょうか?私にもわかりません。
神様の御姿は人の頭脳で理解できるものではないと理解すればいいのでしょうか。もしくは、神が人の姿をとって現れてくださるこの出来事が、やがて来られる救い主、イエス・キリストを啓示しているのかもしれません。
サラは御使いから受胎告知を受けます。ルカの福音書2章に書かれているマリヤの受胎告知と比べてみましょう。サラはどのように反応しましたか?もし、自分がサラの立場だった、どう反応しますか?
16節からは、ソドムへのさばきの告知が告げられます。
アモス書の3:7には「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と書かれています。
神様はこれからなさろうとすることを勝手になされるのではなく、ご自身のしもべ、預言者に相談されるお方です。
しかし、それを聞いたアブラハムは悪の巣窟のようなソドムが滅びることを両手放しによろこべません。なぜなら、そこには甥のロトがいたからです。
そこで、アブラハムは今まで誰も行ってこなかった行動に出ます。それが22節からの出来事です。
創造主である神様に、被造物のアブラハムは、なんと交渉を開始します。アブラハムの「いのちをかけた交渉」です。
私なら、自分の身内のロトと家族だけの救いを願ってしまいそうですが、アブラハムはソドム全体への処罰の断行の猶予を願います。
アブラハムがしたように、エステルがしたように、多くの預言者、そしてイエス様がされたように、いのちをかけてとりなしを捧げているでしょうか?
【19章】さばきとロトの救出
ロトはどのような人物だったのでしょうか。
2ペテロの手紙2:7には「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。」とあります。
みことばはロトを「義人」と言っていますが、同時にソドムの住民の好色に悩まされていたともあります。
このロトの姿に、救いを受け取っていながら、この世の事に思い煩っている私たちの姿を見ることができないでしょうか?
しかし、そのようなロトはアブラハムのいのちをかけたとりなしによって救われることになります。
みなさんは誰かのいのちをかけたとりなしによって救いを受け取ったかもしれません。それをあなたのところでストップしてしまっていませんか?誰かの救いのために、アブラハムのようにしつこく神に嘆願してとりなしていますか?
5節には、ソドムの住民がロトのところに訪れた御使いを見て集まってきます。ここでの「知りたい」とは、単に情報を知るだけでなく、肉体的な関係をも意味します。それほどソドムは堕落した町になっていました。
このような人物はソドムの町の一部の人だったでしょうか?みことばは何と言っていますか?
そしてついに時が来ます。しかし、主はロトとその家族を救い出されようとします。まるでノアの箱舟の時のようです。
このロトの箇所で、救われた者と滅ぼされた者との違いは何だったでしょうか?
ノアの出来事や、これからやってくるであろう、最後のさばきの時と照らし合わせて、何か学べることはあるでしょうか?
神からのメッセージを受け取ったロトは自分の婿たちにさばきの事を告げますが、14節に彼らのとった態度が書かれています。それはどのようなものだったでしょうか?そして、彼らはその後どうなったでしょうか?
16節、ロトの性格が出ています。みなさんは「その時」に迷わず決断する覚悟ができているでしょうか?すべてを捨ててイエス様に従う覚悟と信仰はあるでしょうか?
また、ロトは主の何によって連れ出されたでしょうか?
滅びへの道を歩むしかなかった私たちにもイエス様によって同じような事がなされたのではないでしょうか?
17節では大切なことが書かれています。振り返らず走り続ける信仰が大切です。
ルカの9:62には「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は神の国にふさわしくありません。」と書かれています。
ロトのように今まで築きあげてきた様々なものに未練はないでしょうか?それを手放すことはできるでしょうか?もし、手放すことが難しいなら、それは神様よりもその事が上に来ている状態、偶像礼拝の可能性があります。
23節、主は天から硫黄の火を降らせます。
ソドムとゴモラの地は今の死海の場所です。みなさんご存じの通り、死海は世界で最も低地にある場所です。
聖書では、滅んだ者は地の深いところに行くと書かれています。(詩編63:9)これとソドムとどのような関係があるでしょうか?
また、死海は泥で有名です。泥を塗ると美肌効果があると言われています。実際に私も塗りましたが、つるつるになりました。その泥の成分は硫黄やミネラルです。このときの出来事の名残が死海の泥にあるのかもしれません。
もう一つ、地理的に見て死海はイスラエル中の水が流れ込む場所です。最も低地なので当然です。つまり、受けるだけで流し出すことができない湖です。そのような湖はどうなるでしょうか?そこにいのちはあるでしょうか?
26節、ロトの妻はどうしたでしょうか?その結果どうなりましたか?
この「振り返った」ということばには、単にちらっと見るのではなく「まじまじと未練を持って見続けた」という意味合いがあります。
みなさんはこの世の物に未練はないでしょうか?
30節からは、ちょっと常識では考えられないことが起こります。ロトの娘たちが父によってみごもるという出来事です。
なぜ彼女たちはそのような行動をとったのでしょうか?
これは私の予想ですが、ソドムで生まれ育った彼女たちは周りでそういうことが当たり前に行われているのを見て育ったと考えられます。
完全に隔離するというのは間違っていると思いますが、ある程度、子どもたちの育つ環境を整えてあげたり、守ったりしてあげるというのも親の大切な役割であるのかもしれません。
とにかく、このようにして生まれた子どもたちはイスラエルにとって見方となりましたか?敵となりましたか?これは神様の方法でしたか?
【20章】アビメレクへの恐れ
創世記12章でエジプトに下った時と同じように、この場面でもアブラハムはゲラルの王アビメレクに嘘をつきます。(厳密に言えば嘘ではないのですが…)その嘘とはどういうことでしょうか?
また、このようなグレーゾーンの嘘ともいえるし、なた嘘ともいえないような事を口から出していないでしょうか?
確かにサラはアブラハムの異母妹ですが、もし、アブラハムがアビメレクに対して恐れを抱いていなかったら、サラをどのように紹介するべきたっだでしょうか?
信仰の父と言われるアブラハムでもこのような面が見られると、少し安心しますが、見習ってはいけません。
この場面で、不信仰なアブラハムの行動に対して、神様はどのように応答されましたか?
アブラハムがこのところで得た物はどのような物がありましたか?
もし、ここで神様の好意がなかったら、救い主であるイエス・キリストは誕生していましたか?サラはアビメレクの妻になっていたのではないでしょうか。
神様はご自身のご計画を成し遂げるために、アビメレクの夢に現れてでも、ご計画を成し遂げてくださるお方です。
神様がみなさんに立ててくださっているご計画は何でしょうか?
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
このページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
神がソドムを滅ぼそうとしていることを知り、
アブラハムは神と人との間に立って交渉しました。
これが本当のとりなしだと教えられます。
果たして、私もこんなとりなしができているだろうか。
どうか怒らないで聞いてください、
その中に正しいものが50人、45人、40人、30人・・・10人いたら、
滅ぼさないでください、正しいものと悪いものを共に殺す、
公正全地を裁かれる方が、そんなことを行うべきではありません
と命をかけて神に食らいつく
アブラハムのそういうところが主に選ばれた方なのだなと思いました。
20章の7節で
主は、アビメレクにアブラハムは預言者だから祈ってもらいなさいと言われています。
アブラハムは預言者なのですね。
アビメレク王も神と語り合えるけれど、預言者ではなく、
アブラハムは預言者。
主がアブラハムを選び出したのは彼がその子供たちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためである18:19
もしも間違っていたならすみません。正して教えてください。
ここにある公正とは、とりなしのことを言っているのかなと思います。
義とは主の前に自分の正しい身分を知ることだと教えられたことがあります。
公義とはとりなしのことだと聞いたことがあるので。
ということは、ここにもイエス様の十字架が予表されているのですね
主イエスの十字架により、私たちは罪赦され、
恐れの奴隷ではなく神の子供という身分をいただいている。
正しい身分を自覚し、とりなす。
アブラハムは預言者であり、とりなし手、(祈りの勇士)なのですね。
そうであるなら、
アブラハムは祈り方を知っていたということではないでしょうか。
とりなしの祈りをする時、主の御心の内にあることなら、
主のご性質(憐み、正義、公正等々)と合致している内容なら。
アブラハムのように主を信頼して、
主のご性質に訴えて祈ることができるということはないでしょうか。
「正しいものを悪いものと共に殺し、
そのために正しいものと悪いものが同じになるというようなことを
あなたがなさるはずがありません、
絶対にありえないことです」と主のみ前に断言し
「全地を裁くお方は、公正を行うべきではありませんか」と神に迫って
ソドムをとりなしたアブラハムの態度から、
祈りを学べると思いました。
主のご性質が現れているみ言葉を宣言して
み言葉を盾に主と交渉する祈り方があるとわかります。
またここで
そのような祈り方を神は拒否されない方であるとわかります。
十字架の血潮の宣言は十字架の血潮の性質、
神のご性質の宣言でもあるのだなと思いました。
自分の為に、人々の為に、家族の為に、教会の為に
そして地域の為に、日本の為にあきらめずに
イエス様の血潮、み言葉を宣言して祈っていきたいと思います。
日本の救いは私たちには荷が重すぎたと言うことはないと思います。
なぜなら日本の民を救うのは、私たちがするのではなく、
私たちはみ言葉に訴えて神に祈ることをするのであって、
日本を救うのは神だから・・・
癒しについても私が癒すのではなくて、神が癒すのであって、
私は癒されるように祈ることをすればいいのだと・・・
偉そうなことを言ってすみません。
主の前に全き者になれるように、主の十字架を仰ぎ見、より頼みます。
主は私がどんな人間か、何を考えているのかすべてご存じで
見ておられる方だから。安心して主の御元に行こうと思います。
余談ですが
もしも間違っていたなら申し訳ないのですが
異言でほとんどラーラーラ・・・と・・リリリ・・・・・・出てくるのですが
ラララ・・・の時
「主イエスの十字架を見上げなさい」と思いの中に聞こえ、
涙が出てきます。
リリリー・・・と出る時、
戦いの祈りの時が多いです。
解き明かしのたまものを求めていますが、
天国の言葉なら、天国に行ったらはっきり分かるかもしれません。
私には力はなくても、主の霊によって・・・
さきのことに目を留めるな
昔のことに目を留めるな
見よ、私は新しいことを行う
今、それが芽生えている。
イザヤ43章全体を今、主を信じるすべての方に贈りたいです
絶対に忘れたくないので、
聖歌で、替え歌にして一節から覚えようとしています。
ああ もっともっと・・・・知りたいです
神の大脳の力の働きによって
信じる者に働く神の優れた力が
どのように偉大なものであるかを。
私たちが知ることができますように。
俊先生、アウトプットできる場を感謝します。
あと一日、アウトプットできたらと思っています。
あとは病室で、通読し祈っています。