聖書通読クラブ Day 246

聖書通読クラブ Day 246【エゼキエル書 7章-9章】

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シャローム!

今日の通読箇所は、本当に恐ろしい箇所です。私にとっては、どんなホラー映画を見るよりも恐ろしいことです。神の宮から主のさばきが始まっていきます。しかも、宮で仕える人々は自分が悪いことをしているとは思っていません。あまりにも長い間続けていたことで、良心が麻痺してしまっています。
彼らは何度も悔いあらためるチャンスがありましたが、悔いあらためませんでした。悔いあらためられなかったのです。彼らには霊的に分厚いベールがかけられ、主を知ることができなくなっていました。
しかし、これは他人事ではありません。私たちの信仰は大丈夫でしょうか。本当に大丈夫でしょうか。脅すつもりはありませんが、私たちは毎日、聖霊様に拠り頼んで、自分が神の道から離れていないかを教えていただかなければなりません。
時代と共に神の恵みは加速しています。それはまるでスポーツカーのようです。スピードが速いので、ちょっとのハンドルミスで大事故につながります。今はそのような時代です。
霊的な気を引き締めて、みことばと祈りへと導かれていきましょう。

今日の通読箇所:エゼキエル書 7章-9章

■アウトライン

●終わりの時の主のさばき:7章
  ・もう終わりだ:1-4節
  ・終局が来る:5-9節
  ・奮い立って生きることはできない:10-13節
  ・聖なる所を汚させる:14-22節
  ・鎖を作れ:23-27節

●目を覆いたくなるような偶像礼拝:8章
  ・神の現れ:1-4節
  ・北の方を見よ:5-6節
  ・壁の一つの穴:7-13節
  ・タンムズのために無く女:14-15節
  ・ぶどうのつるを自分の鼻にさす:16-18節

●宮から始まる神のさばき:9章
  ・六人の男:1-2節
  ・額のしるし:3-8節
  ・頭上に彼らの行いを返す:9-11節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【7章】終わりの時の主のさばき

・もう終わりだ:1-4節
前にもお伝えしましたが、非常時の時に人にはバイアス(思い込み)がかかります。「私は大丈夫」という正常性バイアスと「周りの人がなんともないから、私も大丈夫」という共同性バイアスです。
彼らの中にもそのようなバイアスが働いていたのでしょう。そのような人々に主は何度も「終わりだ」と叫ばれます。2ペテロ3:3-4には「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」
これは少なからず信じる私たちの心にもあるのでは無いかと思います。しかし、始まりがあれば必ず終わりもあります。主は私たちの地上での人生も、この世も終わりが来ることははっきりと何度も告げられています。この、終わりを意識した生き方が大切です。そうするなら、毎日の生活が変わってきます。このような生き方をゴールベースと言ったりもします。一度、自分の終わりを思い描き、その時どうありたいかを祈ってみましょう。

・終局が来る:5-9節
この時代も今も、終わりを軽視する人がいます。ローマ2:4-6ではこのように書かれています。
「それとも、神の慈愛があなたを悔いあらために導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」
7節には、終末の姿が預言されています。イエス様は、最初は救い主としてこられました。この方の訪れにみな喜びました。しかし、二度目に来られるときにはさばき主として来られます。イエス様を知らない人にとっては恐慌の日のようでしょう。そうならないために、一人でも多くの人に神の愛を伝えていきたいです。

・奮い立って生きることはできない:10-13節
なぜ主はさばかれるのかと言えば、被造物である私たちが本来の姿でないからです。何が本来の私たちの姿、かたちで無くさせているのかと言えば高慢です。主はへりくだる者にあわれみを注いでくださいます。主は私たちが変わるのをずっと待ち続けてくださっています。それなのにそれを無視するような態度をとり続けているのは私たちの側です。たとえば、家族で出かけるとき、親は準備が終わって待っているのに、子どもたちは一向に出かける準備もせず、何度も親に「早くしなさい」と言われているのにゲームやスマホに没頭して出かける様子も見せないという事に似ているでしょうか。
そのことを杖にたとえています。杖は権力の象徴でもあります。かつてはアロンの杖にアーモンドの花が咲きました。ここでは高慢という実を結ばせる杖が出てきています。私たちの手にあるのはどちらの杖でしょうか?
そして、終わりの時代には売買ができなくなるようです。戦争下では通常の商いはできません。今の時代も、部品の供給不足やコロナウイルスによる労働力不足や原料高などによって、今まで当たり前に買えていたものの入手が困難になってきています。その日は確実に近づいていることを実感します。

・聖なる所を汚させる:14-22節
当時は戦いに出るときにラッパが吹かれます。しかし、この時にはラッパが吹かれても誰も戦いに行きません。余りにも圧倒的な軍事力を誇るバビロンの前で、彼らの軍事力は意味をなさないほどになっています。ただ逃げることしかできませんが、剣で殺され、飢えが襲い、疫病と飢饉がやってきていのちを落とします。どうにか生き延びた者も自分の不義のために泣き悲しみ、気力を失ってしまいます。
このような非常事態において、いままで築き上げてきたものは一切、役に立たなくなっています。
富は確かに大切です。現実問題、この地上ではなくては生きていけないものです。しかし、富が全てではありません。神が全てです。私たちは富(マモン)か神かにしか仕えることができないのです。

・鎖を作れ:23-27節
主はエゼキエルに預言的行動を命じます。ここでは鎖を作っています。バビロンに捕らえ移される時の鎖です。
そして、主はユダの人々が頼りにしていたリーダーを無に帰するようにされます。リーダーの高ぶりを砕くためです。
神の宮の器は奪い取られ、祭司は律法を失います。長老は教えを失います。また、預言者は偽預言をし、戦士も戦力を失います。このように全ての人が弱められるのは、主が主であると言うことをしるためです。
私たちも弱められることがあるでしょう。立ち上がれないような事もあるでしょう。しかし、その時、主が強くなってくださることを感謝します。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9)

【8章】目を覆いたくなるような偶像礼拝

・神の現れ:1-4節
エホヤキムがバビロンによって捕らえられてから第六年の第六の月の五日に、エゼキエルも捕らえ移され、捕囚の民と共にいます。
ここで再び、主の現れがあります。その方はエゼキエルの髪のふさをつかみます。そして、霊が彼を持ち上げ、天と地の間に連れて行きました。イエス様が戻ってこられる時の空中再臨のようにも思えます。
そして、主は彼を北に面する内庭の門の入り口に連れて行きます。そこから、三種類の偶像礼拝者の姿を見ます。
主はまだこの時点では、栄光を持って神殿に留まっておられました。ところが北の入り口の前には、ねたみの偶像がありました。主の宮に別の神が置かれているという考えられない状況です。主だけを愛することのできない民に対して、主は妬まれます。

・北の方を見よ:5-6節
主は「イスラエルの家はわたしから遠く離れようとしている」と仰せられます。神殿は確かにそこにあるのですが、心がそこにありません。もし、私たちが主の栄光を見ようとしないなら、その代わりにねたみの偶像を慕い求めていることになります。

・壁の一つの穴:7-13節
この時の神殿は外からは見えないのですが、壁の中に隠し部屋がありました。(下記の図を参照)その壁は石像のようになっていて、はうもの、忌むべき獣の像などが刻まれていました。それはイスラエルの民が拝んでいたあらゆる像です。そして、そこには霊的な汚れだけでなく、人々の肉の欲をリアルに再現していたそうです。しかも、七十人の長老たちが高炉を持ってそこで香を焚いていたというのです。彼らは礼拝者の模範ですが、率先してそのようにしていました。しかも、それを民から隠れた所、主の宮の隠し部屋で行っていました。彼らは霊的、肉的にむさぼりにふけっていました。なんということでしょうか。もし、教会内でこのような事が行われていたのなら、どう思うでしょうか。しかも、牧師や教会スタッフや霊的リーダーがそのようなことをしていると知ったらどのような衝撃を受けるでしょうか。
その中にはシャファンの子ヤアザヌヤがいました。なぜ彼の名前が書かれているのでしょうか。それは彼が主を恐れる家族に囲まれた家系だったからです。彼はかつて、神殿で発見された律法の書をヨシヤ王に読んだ者です。彼の子たちもエレミヤをかばったりしました。家族は敬虔な人ばかりでした。それなのに、彼はここにいたのです。
おそらく彼は「主は見ておられない。主は自分を、この町を見捨てられた」という考えがあったのではないかと思います。
思い出して下さい。この時、神の宮の北の入り口には何があったでしょうか。ねたみの像です。それが霊的堕落の始まりです。隠れるのは罪の性質です。形だけ主を愛していて、心が底に無い者を聖書は「ふたごころ」と呼びます。主はそれを忌み嫌われます。
エゼキエル時代の神殿での偶像礼拝

・タンムズのために無く女:14-15節
ここでは、もはや隠れて事が行われていません。公の場で行われています。女性たちがタンムズを拝んでいます。タンムズとはバビロンの神です。イシュタルという愛と性の女神の夫とされています。タンムズは荒野で春になると草木を芽生えさせる神とされていました。しかし、夏になるとたちまち枯れてしまうので、タンムズが死んでしまったと考え、女性たちは夏にそのことを悲しむという風習があったそうです。この儀式が性的な行為と結びつけられ、神殿のすぐそばで行われていたのです。

・ぶどうのつるを自分の鼻にさす:16-18節
この部分は、本当に気分の悪くなるような箇所です。本堂の入り口の玄関と祭壇の間に立っていると言うことは祭司しかいません。歴代誌第一の24章には、祭司が24人いて、交代で宮で仕えることになっています。それに大祭司が加わり全部で25人です。
彼らがしていたことは何でしょうか。なんと神様に背を向けて、東の方の太陽を拝んでいたのです。明確な背教です。
世界中で太陽は神としてあがめられています。しかし、太陽を造ったのは誰でしょうか。彼らはその創造主に背中を見せ、被造物を拝んでいるのです。
それで、主は神殿の入り口を東にし、西側に至聖所、つまり主のご臨在が現される場所を設けられました。こうするなら、太陽に背中が向きます。彼らは自分の意思で神に背を向け、太陽を拝みました。神様がお怒りになるのも当然です。
これがささいなことでしょうか?深刻すぎることです。しかし、主はこのようになる手前でも忍耐して、彼らが悔いあらためるのを待っておられました。しかし、その忍耐もいつまでも続くものではありません。
彼らはぶどうのつるを自分の鼻に刺しているのです。つまり、外国の植木を自分勝手に植えて、他国に拠り頼み、他国の神々で育とうとしているのです。主はぶどうの木で私たちはその枝です。木につながっていたら豊かな実を結びますが、離れるなら枯れて、火の中に投げ入れられてしまいます。

【9章】宮から始まる神のさばき

・六人の男:1-2節
主はついに動かれます。神殿にさばきを実行されます。六人の男が武器を持って来ています。御使いです。あの絵画で見るかわいい天使が武器を持っている姿を創造できないかも知れません。しかし、間違っているのは絵画の方です。みことばの方が正しいのです。天使には戦いの天使がいます。天使長はミカエルです。主が地を滅ぼそうとされるときに使わされる御使いです。
ケルビムも炎の剣を回してエデンの園を守り、出エジプトの時も死の霊が初子を殺します。
もう一人の人は亜麻布の衣を着て、腰に書記の筆入れを付けていました。亜麻布は神の宮で仕えるときの服です。書記はこの時の様子、また、神に従う者と背く者を記録するためにいたのでしょうか。このようにしてさばきは神の宮から始まります。
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょうか。」(1ペテロ4:17)

・額のしるし:3-8節
ケルブの植えにあったイスラエルの神の栄光が神殿の敷居に向かっています。ケルブはケルビムの単数形です。この時から、神の栄光は去ります。この後、数章をかけて主のご臨在が宮から離れていく様子を見ます。その始まりがここになります。
主はこの時、興味深いことをされます。町の人々の一部の額にしるしを付けよと言われます。どのような人がその一部の人なのでしょうか。「すべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々」です。この不義を見て、心を痛め祈る人々です。
この時代のエルサレムに、このような人々がいたことは感謝しかありません。
私たちも、教会の中を見渡し、牧師や兄弟姉妹を見て、様々な思いになるかもしれません。その時に二つの分かれ道があります。彼らを批判し、さばき、文句を言うか、黙って彼らを抱いてとりなし祈るかです。もし、私たちがそのような事を見せられたのなら、それは主が祈りなさいという意味で見せてくださっているのです。教会のため、牧師のために祈りましょう。エゼキエルの時代の祭司のようにさせてはいけません。みなさんの祈りが教会を、日本を変えます。
ちなみに、この額のしるしはヘブライ語でターヴと言います。ヘブライ語は象形文字ですが、このターヴは十字架が傾いた形から作られています。つまり、「すべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々」には、神の印、十字架が額に刻まれているのです。イエス様の血潮が、私たちの額に刻まれていることを感謝します。
この額の印は、カインが罪を犯したときに神が付けてくださったと言う話を聞いたことがあります。また、黙示録7:2-3でも神のしもべたちの額に印が押されています。また、申命記6章にあるシェマの祈りでも「これをあなたの額に」とあります。私たちの額には何の印があるでしょうか。
5節からは、無差別に人々が殺されています。神の処罰の断行です。それは神殿の前にいた老人たちから始まっています。これは神に背を向け、太陽を礼拝していた25人の祭司と大祭司です。まず指導者からさばきを受けます。ですから、日々、彼らのためにとりなして祈ることが大切です。
そのあまりの残虐な光景に、エゼキエルはひれ伏して叫んでいます。

・頭上に彼らの行いを返す:9-11節
エゼキエルは必死にとりなしいのりますが、主はこの時はその祈りを退けられます。彼らの報いを与えられます。人々は神に対してあまりにも長い間、無関心で信じない心を持っていました。これが人の持つ罪の恐ろしさです。どうしようもないこの罪を取り除くために、イエス様が来て下さいました。これがどれ程の恵みでしょうか。主の恵みに目を留めて、感謝を持って教会のため牧師のためにとりなして祈りましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 終わりを意識して生きるように、教会のため、牧師のために祈ることができるように祈ります。

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