聖書通読クラブ Day 247

聖書通読クラブ Day 247【エゼキエル書 10章-12章】

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シャローム!

エゼキエル書のテーマの一つが主の栄光です。主の栄光はこの当時、どこにあったかと言えば、神殿の奥の至聖所の中にある、契約の箱にありました。大祭司が年に一度、血と香を携えてここに入り、ケルビムの間の贖いの蓋に血を注ぐとき、そこから語ってくださいます。
しかし、この時、祭司も大祭司も太陽を礼拝しています。そして、神殿も壊されます。さらに、主のご臨在が去って行きます。しかも、徐々に臨在が遠のいていきます。非常に恐ろしいことです。
新約聖書の時代では、何が神殿でしょうか。私たちが神の宮です。ここから気づかないうちに主のご臨在が離れていかないために、私たちは何をするべきでしょうか。ユダの人々を反面教師として、今日もみことばから教えられていきましょう。

今日の通読箇所:エゼキエル書 10章-12章

■アウトライン

●離れる主の栄光:10章
  ・ケルビムの間から火を取れ:1-8節
  ・車輪:9-14節
  ・輪の中にある生きものの霊:15-17節
  ・ケルビムであることを知った:18-22節

●石の心、肉の心:11章
  ・この町はなべで私たちは肉:1-4節
  ・なべとはならず、肉とはならない:5-12節
  ・エゼキエルの叫び:13節
  ・一つの心を与える:14-21節
  ・捕囚の民に告げる:22-25節

●失われた従順さ:12章
  ・彼らの見ている前で出て行く:1-6節
  ・主の仰せに従って出て行く:7節
  ・反逆の家への仰せ:8-16節
  ・こわごわパンを食べ、おびえながら水を飲む:17-20節
  ・幻は実現する:21-25節
  ・遠い将来についての預言:26-28節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【10章】離れる主の栄光

・ケルビムの間から火を取れ:1-8節
エゼキエル書の1章と同じような情景が書かれています。神の御座の幻です。彼が見た主の様子は、1章では腰から下が青銅と火とありました。そして、王座はサファイヤのようになっています。神のさばきと聖さがひとつとなっている様子です。
その人が入ったとき、雲が内庭を満たしました。雲は主の栄光を現すものです。主は雲に乗って戻ってこられ、ソロモンが神殿を建設し、祈ったときに宮は雲で満ちました。荒野でイスラエルの民を導いたのも雲の柱です。ケルビムの翼の音は神の語る声のように外庭にまで響いています。
主は亜麻布の衣を着た者に「火を取れ」と命じられます。一つのケルブがケルビムの間にある火を取り、亜麻布の衣を着た者に渡します。

・車輪:9-14節
ここも1章と同じような光景ですが、違うのは車輪だけでなく、ケルビム全体にも目がいっぱいついていると言うことです。ケルブ自体も神の被造物ですが、あらゆるものを見渡すことができるようです。

・輪の中にある生きものの霊:15-17節
ここも1章と同じようですが、違いは牛の顔ではなく、ケルブの顔となっている部分です。一度目に見えなかったものが見えています。前回は車輪だけに目が見えましたが、それはケルブ全体にも目がありました。また、牛のように見えた顔はよく見ると贖いの蓋の両端にあるケルビムだと気づきました。そして、エゼキエルはここで初めて、これら四つの生き物がケルビムであることを認識しました。

・ケルビムであることを知った:18-22節
この箇所で、主の栄光が神殿の敷居から東の門に移っています。神殿の奥から東を見るなら、大庭、すなわち神殿の入り口の門が見えます。その先に東の門があります。このように、主の栄光は徐々に離れていきます。これは主の後ろ髪を引かれるような思いであると同時に、私たちにとっては恐ろしいことでもあります。主は本当はここから離れたくなかったのです。
しかし、一気に主の栄光が去ってしまったら、多くの人は気がつくでしょう。しかし、このように徐々に主の栄光が離れていくなら、多くの人は気づきません。
「ゆでガエル」のたとえを聞いたことがあるでしょうか。カエルを熱湯に入れるなら驚いて鍋から飛び出ますが、徐々に暖めると、気づかないうちに熱湯になってしまっているというたとえです。
私たちは教会の中でこのような状態になっていないか、いつも目を覚まして祈っていく必要があります。気がつくと主の栄光がないなかで礼拝をささげていたということになりませんように。

【11章】石の心、肉の心

・この町はなべで私たちは肉:1-4節
神殿での偶像礼拝と悔いあらためないユダの人々のゆえに、主は東の門まで移動されますが、そこでも民の不義を見ることになります。
昨日は神殿と祭壇の間にいる祭司と大祭司25人がいましたが、ここはもっと先の門ですので、その25人とは別の25人のようです。
通常、門では政治的、また裁判的な事が行われていたので、おそらく町の権力者たちでしょう。
また、ここで二人の名前が出てきています。ヤアザヌヤとベラテヤです。ほんとうにややこしいのですが、このヤアザヌヤは70人の長老が神殿で偶像に香をたいていた中にいたヤアザヌヤとは別人です。神殿で香をたいていたのはシャファンの子ヤアザヌヤ(8:11)で、ここはアズルの子ヤアザヌヤです。この邪悪な計画を立てる者たちに主はエゼキエルを通して語られます。
ところで、なぜ突然ここで鍋と肉が出てくるのでしょうか。鍋とはエルサレムを刺していますが、守られているとい言う意味です。だから、彼らはこのような状況でも、自分たちは生き延びて、今のうちに家を建てようと考えていたのです。
これが邪悪な計画です。主は何度も何度もエルサレムの破壊を預言者を通して語られているのにもかかわらず、彼らは一向にそれに耳を傾けようとしません。彼らは主の守りに信頼せず、エルサレムの町を信頼したのです。
また、肉とは「自分たちは鍋の中の最も高級なものだ」という高ぶりを意味しています。すでに第一回目の捕囚で連れ去られた高官たちは罪深いから連れ去れ、自分たちは正しい行いをしたから取り残されたのだと考えたのです。高ぶった考えです。

・なべとはならず、肉とはならない:5-12節
主はそのような彼らの心の中に思い浮かぶことまでご存じです。覚えているでしょうか。8節で長老たちが隠れた部屋で偶像を拝んでいたとき「主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てた」と言っていました。隠れて思ったことも主は全てご存じです。1コリント4:5には「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」とあります。
主に、旧約聖書の時代は見た目の肉の性質にフォーカスされ、新約時代には内なる部分にフォーカスが当てられている傾向があります。エゼキエルは旧約の時代に生きながら、新約の時代を見越して預言しているように思えます。

・エゼキエルの叫び:13節
エゼキエルが自分勝手に変なことを言っていないということを証明するためでしょうか。主はベナヤの子ペラテヤを打ちます。そのことで「主の言われたことは確かに成就する」という恐れが一同に生じます。ちょうど、使徒の働きのアナニヤとサッピラのようです。
エレミヤは叫び、祈ります。主がユダの人々を完全に滅ぼし尽くされるのではないかと思ったからです。

・一つの心を与える:14-21節
ここはエゼキエル書の前半で、最も大切な箇所かも知れません。
エゼキエルは人が誰もいなくなると叫び祈りましたが、主はわずかな者を残しておくと言われました。そして、散らされた先で主ご自身が聖所になって下さると約束されています。また、主はエルサレムに散らされた者を連れ戻されることを約束されます。
そして、19節からが重要です。主が彼らにひとつの心を与えられます。それは新しい霊です。そして、硬い石の心から、肉の心を与えられます。そのとき、主の教えに従って歩み、主の定めを守り行うことができます。これが何を意味しているかわかるでしょうか。イエス様です。旧約の律法は元々石に刻まれていました。イスラエルの民はそれを心に刻みます。しかし、イエス様はみことばが人となられたお方です。このお方は神であられますが、人の姿、肉体を持ってこの地に来て下さいました。このお方の十字架の死と葬りと復活、またながされた尊い御血潮によって、私たちは律法を完全に行うことができます。律法は私たちを死に追いやりますが、御霊は生かしてくださいます。エゼキエルはイエス様が来られることを明確に預言しました。
しかし、それでもなお自分の心から忌み嫌うものの心を自分の心として歩む者には彼らの頭上に彼らの行いを返されます。

・捕囚の民に告げる:22-25節
ここで、ついに町から主の栄光が去ってしまいました。ここでは主は町の東の山、すなわちオリーブ山にとどまっておられますが、そこからも去られます。
ちなみに、イエス様が再臨されるとき、このオリーブ山の上に立たれます。すると山は割れ、道ができます。ゼカリヤ14章に書かれています。
主のご臨在は去って行く可能性があると言うことをここから学ぶことができます。しかも、ゆっくりと、気づかないうちに去られます。
教会に行ってるから大丈夫なのでしょうか。牧師に祈ってもらっているから大丈夫なのでしょうか。それもとても大切なことです。しかし、私たちが求める者は宗教的な行いではなく、主との生きた関係です。その関係と信頼の中から生まれてくる行いが大切です。わかるでしょうか。「何か良いことをしたから、主よ愛してください」という取引のようなものが宗教的な行いです。そうではなく、まずはじめに主が私たちを愛してくださいました。この方の愛を溢れるほどに受けて「このお方のために、私のすべてをささげたい」という願いから生まれる行動が大切です。そうするなら、主ご自身が聖所となってくださいます。

【12章】失われた従順さ

・彼らの見ている前で出て行く:1-6節
エゼキエルは幻を見て、それを人々に伝えます。しかし、捕囚の人々はそれを信じようとはしません。その様子を2節にあるように「見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない」と表現しています。私たちもこのような事があるのでは亡いでしょうか。確かに見て、聞いているのに、そのことに対してピンと来てないときがそうです。ヘブル4:2には「福音を説き聞かせられていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかったからです。」とあります。
まずはみことばの通読を続けることが大切ですが、その次のステップを目指してみましょう。読んだみことばを悟ることができるよう、聖霊様に祈り求めてみましょう。

・主の仰せに従って出て行く:7節
ここにエゼキエルの従順さを見ることができます。理解できても、できなくても、主のことばに従う姿勢があります。キリスト者の人格として最も大切なことの一つがこの従順さです。この時のユダの人々に一番かけていた部分です。高ぶりの反対の性質です。私たちは日々、この従順さを学んでいきましょう。

・反逆の家への仰せ:8-16節
ここでは不思議なことが預言されています。王が暗いうちに荷物をまとめ、しかも顔を覆われています。さらに、自分の目でその地を見ないと書かれています。
そのとおりに、王はバビロンの王によって目をえぐり出され、バビロンに連れて行かれます。この預言の通りになります。
この事は捕囚の民にとって、受け入れがたいことでした。自分たちは捕らえられていますが、いつか自分の国に帰ることができるという希望を持っていました。そこには神殿もあり、王もいてくれると思っていましたが、そのどちらもなくなってしまいます。
エルサレムに残されたわずかな者がそこで起こっていることをバビロンの捕囚の民に伝えるとき、彼らは主が主であることを知り、恐れ、心が変えられます。

・こわごわパンを食べ、おびえながら水を飲む:17-20節
エゼキエルは再び、少しのパンと水で彼らがエルサレムの中で餓死していく様子を預言的行動で示します。しかし、彼らはやはりそれを受け入れることはしません。

・幻は実現する:21-25節
ここで人々が思い描いているのは、ヒゼキヤ王の祈りでしょう。彼が悔いあらため、祈ると主はアッシリヤの手からエルサレムを守ってくださいました。同じような事が起こり、やがてエゼキエルの言っていることは忘れ去られてしまうのではないかと期待していました。
このように、過去の栄光にすがりつくことは信仰ではありません。主は日ごとに新しいお方です。今日の、今の導きを求めて行く必要があります。

・遠い将来についての預言:26-28節
ここに、神のことばよりも自分の意見を優先させる姿があります。神のことばをどのような態度で受け取る必要があるのでしょうか。2ペテロ1:20には「それには、何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。とあります。また、黙示録22:18には「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。」とあります。みことばをみことばとして受け取り、従う寿純な心が益々増し加えられていきますように。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 従順に主のことばに従えるように、主との生きた関係が毎日もてるように祈ります。

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