聖書通読クラブ Day 181

聖書通読クラブ Day 181【詩篇119】

Spread the love

シャローム!

ついに、聖書の中で最も長い詩篇119篇に入ります。少しゆっくりめに朗読すると約30分ほどかかります。しかし、その内容は私たちの心を揺さぶります。この119篇をひとことで言うなら「みことばを愛する」です。著者は誰かわかりませんが、学者エズラであったのでは亡いかと言われています。この著者がどれほどみことばを慕い求め、愛していたのかを受け取っていきましょう。
ちなみに、この長い詩篇はヘブライ語のアルファベットの頭文字から始まっています。あいうえお作文のような感じです。ですので、冒頭にヘブライ語をカタカナで表記しておきました。さあ、共にみことばを朗読し、愛していきましょう

今日の通読箇所:詩篇119篇

■アウトライン

●みことばを愛する:119篇
  ・アレフ:全き道を行く人々:1-8節
  ・ベイト:自分の道をきよく保つ:9-16節
  ・ギメル:地では旅人です:17-24節
  ・ダレット:みことばのとおりに生かしてください:25-32節
  ・ヘー:むなしいものを見ないように:33-40節
  ・ヴァヴ:あなたのことばに信頼する:41-48節
  ・ザイン:みことばは私を生かします:49-56節
  ・ヘット:地はあなたの恵みに満ちています:57-64節
  ・テット:苦しみに会ったことはしあわせでした:65-72節
  ・ヨッド:戒めに思いを潜める:73-80節
  ・カフ:絶え入るばかり:81-88節
  ・ラメッド:私はあなたのもの:89-96節
  ・メム:蜜よりも甘い:97-104節
  ・ヌン:私の足のともしび、光:105-112節
  ・サメフ:みことばのとおり私を支え:113-120節
  ・アイン:あなたのしもべをあしらってください:121-128節
  ・ペー:みことばの戸:129-136節
  ・ツァディーク:みことばはよく練られている:137-144節
  ・クフ:みことばに思いを潜める:145-152節
  ・レーシュ:みことばのすべてはまこと:153-160節
  ・シン:限りなくそれを愛しています:161-168節
  ・ターヴ:みおしえは私の喜び:169-176節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【119篇】みことばを愛する

・アレフ:全き道を行く人々:1-8節
詩篇1篇に代表されるように、みことばと幸いということばは密接に関わっています。この部分はこの後続く長い詩篇のサマリーです。
何が幸いなのでしょうか。全き道を行く者です。つまり、完全な者です。それはすなわち主のみおしえによって歩む人です。そして、それをただ知識として知っているだけでなく、心を尽くして尋ね求める人です。
「悪いことをしない」という視点ではなく、「良いものを見つめ続ける」という視点が必要です。みことばをこのように求める者は、結果的に不正の道を歩むことはありません。主の願うことを行っていきます。
すでに私たちにはみことばが与えられています。これが堅く守るべき主からの戒めです。これを守れば主の御前で恥じることもありません。そして、これは義のさばきです。ことばだけを聞くと苦しく思えますが、これは感謝な事です。義のさばきを知るとき、またそれを信じるとき、永遠のいのちが与えられます。イエス様こそ義の王です。

・ベイト:自分の道をきよく保つ:9-16節
主を求めると言うことは聖さを守ることとの戦いです。汚れとは恐ろしいもので、必死に守っても一瞬で汚れてしまいます。雨のたんぼ道を中を真っ白のタキシードで歩くよりも難しいことです。
ここでは若い人に向けて、きよい道を保つ事がチャレンジされています。どのようにしたらきよさを守れるのでしょうか。シンプルです。主のみことばに従ってそれを守ることです。
主の戒めは窮屈に感じることがあります。しかし、ここから迷い出てしまうと、大変なことになります。一気に悪の力に襲いかかられてしまいます。
主のいましめ、主のみことばは私の守りです。ですからこの道をどんな宝よりも楽しみます。きよさを守るために、みことばを忘れないようにしましょう。

・ギメル:地では旅人です:17-24節
主のみことばはこの地上での生活を守ってくれます。19節には「私は地では旅人です」と書かれています。新約聖書でも語られていますが、私たちのこの地上での肉体は仮住まいです。なぜなら、私たちの国籍は天にあるからです。
この地上は、サタンが支配しています。ですから私たちはその影響を受け、罪の楽しさに心引かれそうになることがあります。ですから、この著者は「私の目を開いてください」と祈っています。天にある本当の喜びに、みことばの中にある宝に目を留めることができるように願っています。
そのような事を続けていくうち、主のさばきを慕い求めるようになります。そしてたましいは砕かれます。主は私たちを愛しているから、主の仰せから迷い出るもの、すなわち高ぶる者をお叱りになります。
そして、「そしりとさげすみとを取り去ってください」と祈っています。これは一言で言うと、高ぶりから来る自尊心です。そんなものは主の御前では必要ありません。さっさと捨て去ることが祝福です。たとえ、周りの人が噂話をしたり、SNSなどで自分に関して嫌なことを書かれていたとしても、私たちが集中するのは主のおきてです。主のさとしは私たちの喜び、相談相手です。ワンダフルカウンセラーなる聖霊様が、いつでも私たちの相談に乗ってくださいます。

・ダレット:みことばのとおりに生かしてください:25-32節
詩篇の多くは苦しみ、悲しみの中の祈りです。ここでもその様な祈りを見ることができます。
著者のたましいはちりに伏しています。悲しみのために涙を流しています。このような人をささえるのはみことばです。ヘブル4:15には「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに合われたのです」とあります。イエス様はいつでも私たちと共にいて共に涙を流し、共に喜んでくださいます。
また、この著者は主のさばきを自分の前に置いています。パウロは1コリント4:3でこのように言っています。「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。」そうです。さばき主は神さまだけです。もし、私たちが自分や他人をさばくのであれば、私たちが神となっている証拠です。主の仰せの道を走るなら、主が私たちの心を広くしてくださいます。真理は私たちを自由にします。

・ヘー:むなしいものを見ないように:33-40節
何でもそうですが、始めるのはわりと簡単です。本当に難しいのは継続することです。主のおきてを最初に聞いたときには、私たちの心は興奮し、喜びます。しかし、どれだけの人が毎日みことばを読み続けているでしょうか。この著者は、主のおきての道を教えてもらったら、最後まで守ることを約束しています。
永遠という時間から見たら、私たちの人生は一瞬かも知れませんが、地上で生きていると長く感じます。その期間、信仰を守り続けることは容易ではないことがあるでしょう。しかし、私たちに信仰を捨てるというチョイスはありません。救いの道に一歩足を踏み入れたなら、最後まで走りきるしかないのです。それが祝福です。
ヘブル4:11にはこのように書かれています。「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」と書かれています。生ぬるさ、妥協に飲まれないようにしましょう。
私たちの目が、むなしいものを見るなら、妥協の霊が働いてしまいます。ですから、いつも主を恐れる生き方を願っています。そのためにはみことばが必要です。主のさばきはすぐれて良いものです。主の義によって生かされる者は、最後まで信仰を持って走り通すことができます。

・ヴァヴ:あなたのことばに信頼する:41-48節
主の恵みと救いは、みことばのとおり、私たちにもたらされます。これらの約束はすべて聖書にすでに書かれています。それを見いだせていないのは私たちです。「神さまを信じていて、何になるのか」などとそしって来る人たちに対して、私たちは言い返したり戦ったりするのではなく、ただ主のみことばに信頼してへりくだる道を選びましょう。それが主を信頼する道であり、イエス様も歩まれた十字架の道です。
このように、みことばとと共に人生を歩む者には証があります。この証を王の前でも述べることができます。しかも、恥を見ることはありません。マタイ10:19にはこのように書かれています。「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。」とあります。
たとえば、みなさんが今まで食べたことのないほどのおいしい鯛焼きをを食べたとします。そうするなら、SNSでそのことを伝えたり、合う友だちみんなにそのおいしさを伝えるでしょう。みことばはそれ以上に素晴らしいものです。いつでも福音を語れる準備をしておきましょう。

・ザイン:みことばは私を生かします:49-56節
人生において、ぶれない軸を持っている人はかっこいいなと思ったりします。逆に、波にもてあそばれるように方向性や感情が浮き沈みするときには不安を覚えます。どのようにしたら安定するのでしょうか。みことばを朗読し、それを心に刻むことです。
みことばは私たちが悩むときに私たちを慰めてくれます。みことばは私たちを生かします。
たとえ、高ぶる者がひどく嘲ったとしても、みことばに自分の価値を置いているならぶれません。主のみおしえからそれない人生を送ることができます。そのような歩みをしている者にとって、主のおきては歌となります。
この詩篇の著者は何度もみことばを思い出しています。そのためにはみことばが心に刻まれておく必要があります。みことばにたいして「これこそ私のもの」と言えるほど、みことばと親密な関係を持っていきたいです。

・ヘット:地はあなたの恵みに満ちています:57-64節
主は私の受ける分だと告白しています。私たちは今一度立ち止まって考える必要があります。私たちはイエス様を愛しているのでしょうか。それとも、イエス様がして下さる「こと」を愛しているのでしょうか。イエス様はマタイ7:21でこう言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とあります。私たちが求めるのは主が下さるものではなく、主ご自身です。
この主を見るからこそ、自分の道を顧みることができます。主を見ないで自分の道を顧みると、自己憐憫に陥ったり、高ぶったりしてしまいます。主を見上げ、自分の道を顧みることが大切です。その上で、主の道と違った道を歩んでいるのに気づいたら、方向転換をします。それが、主のさとしに私の足を向けると言うことです。つまり悔い改めです。
たとえ、悪者の綱が巻き付いていたとしても、主のみおしえを忘れてはいけません。そのような悩みに真夜中にうなされるかも知れませんが、その時にこそ主に感謝します。この生き方をすることができるのが、この地での恵みに満ちる生き方です。

・テット:苦しみに会ったことはしあわせでした:65-72節
ここでは、主がしもべに、みことばの通りに良くして下さったとあります。ヘブライ語で「トーヴ」と言うことばです。普通のことばでは「ベスト」と言うのが最も良いということばですが、トーヴはその上を行きます。人の良いではなく、神の目から見て良いということばです。天地創造の時、主が被造物をご覧になって仰せられたことばです。この箇所はトーヴの頭文字のテットから始まります。
この著者は苦しみを通されています。その前は過ちを犯したと告白しています。しかし、高ぶる者が偽りで塗り固めても、心を尽くして主の戒めを守りました。そのような背景から、このことばが生まれています。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで、あなたのおきてを学びました。」これを読んでいるだけで、涙が出てきます。苦しみを経たからこそわかる喜びがあります。イエス様も十字架の苦しみを経て、完全な者とされました。ヘブル5:8-10にはこう書かれています。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」
主と共に歩む十字架の道は苦しみを伴いますが、喜びの道のりです。

・ヨッド:戒めに思いを潜める:73-80節
私たちは主によって造られました。その造られた方の心を知ることは、私たち自身を知ることでもあります。
主の真実さがこの著者を悩ましています。その中で彼は知りました。自分自身に悟りがあるのではなく、自分を創造された神にこそすべての答えがあると言うことを。
そして、ここからわかるのは、この著者はひとりではないと言うことでした。共に悩み、共に主のみことばを恐れる者がいました。その様な者が集められるように願っています。信仰の友がいるということはとても励まされます。1コリント15:33ではこのように警告されています。「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」私たちの友はどのような友でしょうか?同じ言語で信仰を分かち合う友が益々与えられ、広がって行きますように。

・カフ:絶え入るばかり:81-88節
この箇所では「慕って絶え入るばかり」ということばが繰り返されています。「もう、これ以上は無理、死んでしまいそうになる」などと言う意味です。それほどに慕い求めるということです。これほどまでに主の救い、主のみことばを慕い求める心があるでしょうか。
この心は、周りの人々から攻められ、迫害されることから生み出されています。苦しさの中で、切実な思いを持って主を求めています。「日数はどれだけでしょうか」と言うほど苦しんでいます。しかし、主は試練と共に脱出の道を用意して下さっています。その中に主の恵みがあります。その恵みが苦難の中でも私たちを生かします。

・ラメッド:私はあなたのもの:89-96節
私たちは地面は固いものだという認識があるかも知れませんが、地面の直ぐ下はマントルと言って液体と固体の中間のような物質があります。また、気づかないかも知れませんが、月の満ち欠けによって地面も毎日わずかに起伏を繰り返しています。以外と地面は柔らかいのかも知れません。
しかし、最も堅い場所があります。それが主のみことばです。この主のみことばによって、地は堅く立っています。終わりの時、この地は揺すぶられてしまいます。
このように、主がみことばで地を堅く立てているように、私たちを生かしてくださっています。私は私のものではありません。私は私を造られた主のものです。たとえどのような悩みがあろうと、主の教えを喜ぶことを知っていたら滅びることなく生かされます。
しかし、そのように生きようとしても、悪者は絶えず私たちを見張り、滅ぼそうと待ち伏せしています。その中で、主のさとしを聞き取る耳が与えられることが大切です。良い牧者の声を聞き分ける耳が与えられるよう求めていきましょう。なぜなら、すべてに終わりがあるからです。終わりを知って生きることは大切です。終わりを意識するなら、今日を大切に生きていくことができます。
確かに主の門は狭く、小さく、それを見いだすものはまれでしょう。しかし、その先にあるのはすばらしく広い主の仰せです。

・メム:蜜よりも甘い:97-104節
この著者は、本当にみことばを愛しています。「どんなにか私は、主のみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。」と告白しています。まるで、初恋をした時の心境の要です。寝ても覚めても相手の事しか考えられず、食事も喉を通らないような感じでしょうか。
この主の仰せは敵よりも賢くします。この世のどのような知恵も及ばない戦術を教えてくださいます。今までヨシュアやダビデ、ギデオンなど、主に伺って戦いに出るものを見てきました。人数を減らしたり、藪に隠れたり、二手に分かれて回り込んだり、人の考えでは絶対勝てっこないと思いますが、主の知恵に従って行動するなら勝利が与えられます。
また、この著者は老人よりも悟り、わきまえがあると言っています。とあるメッセンジャーが語っていたことを思い出します。その人の教会は大きな教会でした。そこに大変裕福で、会社でも重役に就いている年配の長老さんがいたそうです。みなから尊敬されていました。ところがある朝、礼拝に来るといつも自分が座る席に誰かが座っていたそうです。それを見て、まるで子どもがだだをこねるように怒り散らしていたそうです。
電車の中でもそのような光景を見ます。絶対に席を譲らない人もいますが、直ぐに席を立って、目の前にいる人をそこに導いてくれる若者が思いのほか多くいることに驚きます。年を経ているからすべての人に悟りがあり、わきまえがあるとは限らないとヨブ記で学んだと思います。私たちは年れに関係なく、信仰の成熟を目指していきましょう。また、この著者は悪への道へ向かう足を引き止めています。ポティファルの妻に誘われましたが、上着を残してまでそこから逃げたヨセフのようです。それは、主のことばを守るためでした。彼の優先順位を知ることができます。神を第一としていました。
彼はどれほどみことばを愛していたのでしょうか。みことばが甘く感じるほどです。普通は味覚は舌で感じます。しかし、ここでは上あごに甘いとあります。それほどみことばは甘いものであります。このような甘いみことばは、私たちにわきまえを与えます。

・ヌン:私の足のともしび、光:105-112節
私の大好きなみことばの一つです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあります。映画館やコンサートに行ったとき、足もとを照らす光があるからあの微妙な段差につまづくことがなく歩くことができます。
私たちの生きる地上はこの世の君によって支配されています。霊的には暗やみのような状態です。この霊的な暗やみを照らすのがまことの光、みことばです。
ところが、この著者はひどく悩んでいます。真理に生きようとするとき、このような悩みがあるでしょう。ですから、自分の義よりも神の義を優先して言っています。「主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。」
そしてさらに言っています。「私の口の進んでささげるささげものを受け入れてください」と。これは信仰の告白、主への賛美のいけにえです。
また、彼は「いつもいのちがけでいなければならない」と言っています。これが私たちの現状でしょう。地においてはいのちがけで働きます。また、霊においては、血を流すまで罪と戦います。これは正にいのちがけの生き方です。だからこそ、主のみおしえを忘れず、戒めから迷い出ることをしません。なぜなら、主のさとしが永遠のゆずりだからです。これが心の喜びです。

・サメフ:みことばのとおり私を支え:113-120節
二心と一つの心が対比されています。イエス様を信じて、御国に片足を突っ込みながら、この地の未練を捨てきれずもう一方の足をこの地につけているのなら、その間で揺れ、苦しみます。どちらかに飛びこんだほうが良いでしょう。もちろん、御国に飛び込むのが一番です。イエス様は黙示録の中で「熱いか冷たいかでいなさい。生ぬるいものは吐き出してしまう」と言われています。主は二心のものを憎まれます。自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様についていきましょう。
二心ではない者は主を隠れ場とし、盾とします。主を待ち望みます。それゆえ、悪に対して「私から離れよ」と宣言します。私たちもこの事を実践してみましょう。しかし、注意があります。人に直接「悪をなすもの、私から離れよ」と言ってはいけません。それは愛と礼儀に反することです。私たちはその背後にいるものに対してこれを行う必要があります。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ひとりでは戦えません。みことばが私たちを支えます。来たる日に、主は悪者を金かすのように取り除かれます。私たちはこの世のもの、またサタンを恐れる以上に、私たちのたましいを殺すことも生かすこともできる方を恐れる必要があります。

・アイン:あなたのしもべをあしらってください:121-128節
このように言いたいです。「私は公正と義を行いました」まさに山上の垂訓にある「義に飢え乾いている者は幸いです。その人は満ち足りるから」というみことばの通りです。
罪赦されたことを本当に悟るのであれば、私たちはもう一度あの罪の奴隷の状態に戻りたいとは思わないはずです。そして、義のために行きたいと願います。神の義がこの地上で成されることを切望します。
しかし、その時はまだ来ていません。イエス様が再臨なさるとき、そのすべては成就します。
そして、この著者は神の義が成就するまで待ち望み、主のしもべとして仕えています。自分の判断以上に、主人の判断を優先する姿勢です。主の恵みによってしもべをあしらってくださいと願っています。
その上で、この宣言をしています。「今こそ主が事をなさる時です。」彼は時を悟っていました。イスラエルの十二部族の中でイッサカル族は時を悟る部族でした。伝道者の書の中にもすべての事には時があると書かれています。僕として仕え、主人の心を知っているからこそ、「今こそ主が事をなさるときです」と言うことを悟ることができます。
それゆえに、主の仰せを金よりも純金よりも愛しています。しゅのみことばはこの世の物に比べることのできない価値があります。その重さは永遠のいのちに値します。

・ペー:みことばの戸:129-136節
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与える」とあります。このみことばを見るとき、いつも創世記を覚えます。主が「光があれ」と仰せられた時、光がありました。それまでは何だったでしょうか。「地は茫漠として何もなかった」とあります。茫漠とは難しいことばですが、カタカナで言うとカオスです。混沌です。つまり、わきまえのない状態です。そこに主がみことばの光を宣言されます。「光があれ」すると光がありました。つまり、創世記の冒頭は、私たちの救いを意味しています。今までみことばを知らず、イエス様と共に歩むことをしていませんでした。そこに主は「光があれ」といってみことばの光を放ってくださいました。すると、わきまえのない者にわきまえが与えられます。みことばの戸が開いたのです。偉大な主をほめたたえます。
このお方のみことばによって歩みは確かにされます。罪の支配から解放されます。それゆえに、周りで主のみおしえを守らない者に対して憐れみの心が溢れてきて、とりなしの涙が川のように流れ出します。

・ツァディーク:みことばはよく練られている:137-144節
ここでは正しさ、まっすぐさが語られています。正に、ヘブライ語のツァディークが義、正しさ、まっすぐという意味です。義の王がメルキゼデクです。
みことばは難しいかも知れません。しかし親切です。曲がりくねった道に見えるかも知れませんが、シンプルです。神のみことばはよく練られています。このみことばこそが正義です。シオンへの大路、まっすぐな道です。
この事を知ったなら、さげすまれても揺るぎません。向かうべきまっすぐな道が見えています。十字架の道です。そこに向かう道の途中では苦難と窮乏が襲いかかるでしょう。しかし、その先には主の義、永遠の義があるのです。

・クフ:みことばに思いを潜める:145-152節
主を叫び求めています。祈りの霊が注がれて、夜明け前に起きて主を呼び求めています。朝早く起きてみことばに思いを潜めています。
私も毎日みことばに向かい合うときに実感します。朝は頭がクリアで、みことばからの啓示が沢山注がれます。夜は一日の仕事を終え、疲れによってなかなかみことばが開かれないことが多いです。早く寝て、早く起きて、主のみことばに思いを潜めてみましょう。すばらしい恵みの声を聞く時となります。
悪を行う者が近づいていますが、それ以上に主が近づいてくださいます。主はこれをとこしえから定めておられます。

・レーシュ:みことばのすべてはまこと:153-160節
レーシュは頭という意味があります。主のみおきてを頭としているか、この世の知恵を頭としているのかで大きく分かれます。
聖書の悪者とは、主のみことばに従おうとしない者です。いくら人格者で、良い行いをしていたとしても、聖書の基準ではイエス様に従おうとしない者は悪者です。
主のみおきてを求めないので、悪者は救いから遠く離れてしまいます。主のみことばのすべてはまことです。みことばは一つも地に落ちることなく、すべてが成就します。
このみことばを私たちの頭に置くのでしょうか。それとも自分の頭を自分の上に置くのでしょうか。ルカ21:28にはこのように書かれています。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。購いが近づいたのです。」これはイエス様が世の終わりのことを言われた最後に語られました。様々な世の終わりの現象が起き始めたなら、体をまっすぐ(義)として、イエス様のみおしえを頭に置く必要があります。

・シン:限りなくそれを愛しています:161-168節
ここにきて、君主がこの詩篇の著者を迫害しています。しかし、彼は君主よりもみことばを恐れています。主こそ恐れられるべきお方です。人を恐れる生き方は私たちの心にストレスを与えます。しかし、主を恐れる生き方は私たちの心に平安をもたらします。
限りなくみことばを愛し守る者は、この世で最も幸いな者です。

・ターヴ:みおしえは私の喜び:169-176節
著者の叫び、祈りは賛美へとかえられています。みことばを歌うようにして下さいと願っています。素敵な表現ですね。現代の賛美の歌はどれもすばらしいものです。どんどん新しい賛美が生まれています。しかし、もっとも間違いのない賛美はみことばを歌うことです。みことばの朗読です。これに勝る賛美はありません。
やがて私たちはキリストの花嫁として、みことばなる神とひとつになります。私たちがみことば化されていなければ、ひとつになることはできません。ですから、地上にいる今からみことばを愛し、みことばを慕い求めるのです。
私たちは日本という国家で、あらゆるものを選択することができます。数えきれないほどの選択肢から、いつも主の戒めを選び取る事ができますように。
そうするなら、わたしたちのたましいは生き、主をほめたたえます。時には羊のように迷い出ることもあるかも知れませんが、主が失われた一匹の羊を探し求めて下さるように、私たちを見つけ出し、主の御許に連れて行って下さいます。主の仰せを忘れることのないよう、毎日心に刻み込んで生きましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 主の仰せはことごとく正しいです。
    主の戒めを選ぶことができるように祈ります。

あみ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です