聖書通読クラブ Day 174

聖書通読クラブ Day 174【詩篇81篇〜85篇】

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シャローム!

今日の通読箇所では、コラの子たちの詩編が出てきます。本来は滅びて当然であった彼らが恵みによって生かされました。私たちと同じ立場です。違っていたのは、彼らは親や親族の滅びの場を目撃したことでした。それを子孫へと語り継いでいました。
私たちは恵みを忘れてしまいそうになることがあります。どこから救われたかを知らないからです。ある牧師は半分冗談で「一度地獄を見てきたら良い」と言っていました。そうすると、絶対にそこには生きたくないと思うでしょうとのことです。
そのことが動機となってはいけないと思いますが、時には思い起こす必要があります。私たちはどこから救われたのか。そして救われなければどうなっていたのか。それに加えて、救いはまだ達成されていないということも覚える必要があります。
今日もみことばから励まされていきましょう。

今日の通読箇所:詩篇81篇〜85篇

■アウトライン

●満たしてくださる方:81篇
  ・祭の日に角笛を吹き鳴らせ:1-5節
  ・あなたの口を満たそう:6-14節
  ・最良の小麦:15-16節

●神々:82篇
  ・神は神の会衆の中に立つ:1節
  ・弱い者と貧しい者:2-4節
  ・おまえたちは神々だ:5-7節
  ・国々は主のもの:8節

●敵対する者への祈り:83篇
  ・じっとしていないでください。:1ー4節
  ・心を一つにして悪だくむ:5-8節
  ・神の牧場をわれわれのものとしよう:9-12節
  ・主だけが高き方:13-18節

●正しく歩く者に良い者を拒まれない:84篇
  ・あなたの家に住む人:1-4節
  ・涙の民を泉に:5-7節
  ・油注がれた者の顔:8-9節
  ・大庭の一日は千日に勝る:10-12節

●苦しみの中で求めるもの:85篇
  ・ヤコブの繁栄を元通りに:1-3節
  ・再び生かされる:4-7節
  ・主は良いものをくださる:8-13節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【81篇】満たしてくださる方

・祭の日に角笛を吹き鳴らせ:1-5節
このアサフによる詩篇は、おそらく79-80篇で祈ったことに、主が答えてくださり、帰還できたときの詩篇だと思われます。とくに秋の祭りの詩篇です。
1節からを見ましょう。彼らは喜んでいます。捕囚からの期間と秋の祭りだからです。主の例祭と言われる祭りには3つと1つの祭りがあります。一年に一度巡ってくる三大祭り、春の過越、初夏の七週の祭り、そして秋の仮庵の祭りです。もう一つは週に一度巡ってくる安息認知です。その中でも秋の祭りは喜びの祭りです。
この喜びの中で、アサフは「まだ知らなかったことば」を聞きました。主からの新しい啓示です。みことばの中から見落としていたことが心に響いたのでしょう。
これが祭りのシーズンに起こることです。主が定められた祭りを
、主の定め通りに行うとき、主は新しい恵みと啓示を注いでくださいます。毎年祭りは巡ってきますが、その年その年に新しい恵みがあります。今年の祭りはどのような特別な恵みをいただけるのでしょうか。主に祈ってみましょう。

・あなたの口を満たそう:6-14節
アサフが聞いた今まで知らなかったことばは何でしょうか。主が肩の重荷を取り除き、荷かごから手を離させてくださったことです。出エジプト、捕囚からの期間は主の御業です。それは、イスラエルの民が苦しみから叫んだその祈り故です。
主は民をたしなめ、もう一度大切な事を教えられます。「あなたのうち、他の神があってはならない」つまり偶像礼拝の禁止です。主が仰せられたいことは、主が主であると言うことです。シンプルですが、私たちはこの事を忘れてしまいます。このお方が私たちの口を満たしてくださいます。
それでもイスラエルの民は主に従うことをしません。それで、主は彼らを好き勝手にしなさいとされます。ただし、彼らが主に従ったのだったら、直ちに主は敵を征服させてくださったのです。自分の道を行くか、主の道を歩むか。結果は大きく違います。

・最良の小麦:15-16節
主はご自分の民を愛しておられます。ですから、悔い改める者には恵みを注いでくださいますが、主を憎む者には違います。永遠の刑罰が待っています。彼らは主をうやまうのではなく、ただ主にへつらっているのです。
しかし主は最良の小麦をイスラエルに食べさせてくださいます。岩の上にできる蜜とあります。聖書で蜜というと、乳と蜜の流れる地と言われるように、カナンの事を指します。蜜とは蜂蜜と言うよりは、地から生じる甘い果実を指します。それが岩の上にできると言うことはどういう意味でしょうか。
通常は土壌の豊かな、ふかふかの土地の上に植物はできます。豊かな養分を根からすうためです。しかし、主は岩場の上にできる蜜で道垂らせてくださるとあります。岩場は水を蓄えることができません。主が時にかなって雨を降らせ、根を渇くことのないようにしてくださるから植物が実を実らせることができます。
私は最近趣味で黒松の盆栽を始めました。勉強するととても興味深く、ただ水をあげるだけではだめだと言うことを知りました。適度に根を乾かし、水をやるタイミングを見てやる必要があります。「水やり三年」と言われるように、上手に水をやるにはそれくらいの期間が必要なのだそうです。奥深いです。
そのように、岩地はすぐに根が乾くので甘い実ができるのだと思います。
主は祭りごとに、また、時にかなって恵みの雨を私たちに降らせ、岩地、すなわちイエス様の上にしっかりと根を張り、豊かな実を結ばせてくださいます。

【82篇】神々

・神は神の会衆の中に立つ:1節
この詩篇も国々に対しての詩篇です。ここで、興味深いことばがあります。「神は神々の真中で裁きを下す」ということばです。この「神々」とは「さばく者」という意味です。つまり、ここで言いたいのは主はすべてのさばき主であると言うことです。
人間も裁判官や様々な人が人をさばきます。しかし、本当に公正かつ正確なさばきは難しいでしょう。本当に正確にさばくことができるのは主だけです。

・弱い者と貧しい者:2-4節
ひとのさばきに対する主のことばです。主は不正なさばきを嫌われます。今のことばで言えば忖度したさばきとでも言いましょうか。また、わいろなどを受け取った、公正ではないさばきです。
さばきは簡単なものではありません。その判決次第でさばかれた者の人生は大きく変わります。それを判断するさばきをする者の責任は大きいです。
正しいさばきは身分に関係なく行われなければなりません。さばきは貧しい者、悩んでいる者に対してなされるものです。弱い者と貧しい者を、悪者の手から救い出せと命令されています。イエス様は正にそのことをしてくださいました。イエス様に従う私たちもそのようにしたいと願います。

・おまえたちは神々だ:5-7節
彼ら、つまり悪者、正しいさばきをしない者に対する宣告です。彼らは暗やみの中を歩き回っているのに気づきません。そして地の基はことごとく揺れています。どこにも安定できる場所がない状態です。ただしいさばきが成されていないので、社会全体も安定しません。
そして、興味深いみことばが出てきます。「お前たちは神々だ」ということです。これはどういうことでしょうか。人間が神なのでしょうか。そうではありません。先ほどと同じことばです。神々はさばく者です。つまり、神に成り代わってこの地上でさばく、神の代理者です。この箇所をイエス様は引用され、律法学者パリサイ人に次のように言われました。「イエスは彼らに答えられた。『あなたがたの律法に「わたしは言った、おまえたちは神々である」と書いてはいないか。もし、神のことばを受け入れた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、「わたしは神の子である」とわたしが言ったからと言って、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、「神を冒涜している」と言うのですか。』」(ヨハネ10:34-36)
これは正に、ユダヤ人たちがイエス様を石打にしようとした場面で語られました。彼らはただの人でありながら、神の御子をさばこうとしたのです。
私たちも神のことばを受け入れたらなら、神々です。神の子です。しかし、その上に神の神がおられることをいつも心に覚える必要があります。それを忘れてしまうとき、私たちは本当に神よりも上になり、偽りの神となってしまいます。

・国々は主のもの:8節
まことのさばき主は主です。このお方が地をさばいてくださらなければ、この地に本当のシャローム、平和はやってきません。イエス様は再びこの地に来てくださり、最後のさばきをしてくださいます。そして永遠の神の国がこの地に実現していきます。それが私たちの希望です。この祈りに心を合わせましょう。「神よ、立ち上がって地をさばいてください。」

【83篇】敵対する者への祈り

・じっとしていないでください。:1ー4節
サタンははじめから人殺しであり、神の国の滅亡を願っています。この詩篇では周囲の国が悪巧みをしてイスラエルを消し去ろうと計画しています。たとえユダヤ人が捕囚からエルサレムに帰還しても、悪の計画は続くということを預言しています。

・心を一つにして悪だくむ:5-8節
ここに悪巧みの連合が書かれています。このほとんどは、現代のアラブ諸国です。今もイスラエルを攻め続けています。しかし、主はそのたびにイスラエルを守ってくださいます。紀元70年に神殿が壊され、イスラエルの人々は散らされてしまいましたが、1948年5月14日に、誰もが信じられないような方法とスピードでイスラエルという国家が誕生しました。

・神の牧場をわれわれのものとしよう:9-12節
アサフは周辺諸国の一致した悪巧みに対して、士師の時代の事を思い出しました。シセラは将軍でした。デボラとバラクはタボル山シセラと対峙していました。そのとき、キション川が溢れ、周辺がぬかるみ、シセラの誇る戦車が使い物にならなくなりました。その後、シセラはヤイルという勇敢な女性によってこめかみに杭が打ち込まれ殺されました。
また、アサフはギデオンの事も思い出しています。13万5千人の軍医大して300人で打ち勝った時のことです。オレブは岩の上で殺され、ゼエブは酒ぶねの上で、ゼバフとツァルムナは追跡され殺されました。そのようにして、主がイスラエル一帯を神の民に与えてくださるようにと祈っています。

・主だけが高き方:13-18節
アサフは彼ら周辺諸国に対する神のさばきを祈っています。彼らを全滅させてくださいとは祈っていません。あくまでも神様の正しいさばきが成されるようにと祈っています。ダビデと同じ信仰です。
枯れあざみ、風の前のわら、焼き尽くす炎は彼らを滅ぼすためでなく、悔い改めへと導かれるようにとの祈りです。
16節でもアサフは彼らが滅びるようには祈っていません。彼らの顔が恥で満たされ、その結果主の御名を慕い求めるようにと祈っています。それでも悔い改めようとしない者に滅びるようにと祈っています。そして、最終的にはやはりすべてを通して、主だけがいと高き方であることを知るようにと祈っています。
神様はさばかれるお方です。しかし、同時に憐れみ深い方でもあられます。どちらが上回るのでしょうか。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)
周りで自分の敵対する者に対して、さばきに勝るあわれみの心、つまりキリストの心が与えられるよう、求めていきましょう。

【84篇】正しく歩く者に良い者を拒まれない

・あなたの家に住む人:1-4節
詩篇の後半に都登りの歌というものが出てきます。この詩篇はそれに似ているのですが、地方からエルサレムに出てくる人の詩篇です。
律法でユダヤ人は年に三度の祭りの時にエルサレムに来て主を礼拝することが定められていました。
この詩篇はコラの子たちの詩篇です。親や身内が目の前で生きたまま地に飲み込まれたのを目撃しながら、自分たちだけが生き残った人たちです。彼らの願いは何でしょうか。主の大庭を恋い慕っています。まるで大好きな人に心が奪われてしまったかのような表現を主の大庭に対して書いています。これこそがコラの子たちの居場所でした。
主の大庭にはふたつの器具があります。祭壇と洗盤です。祭壇はいけにえがささげられます。悔い改めの象徴です。洗盤は祭司が身をきよめます。聖書が自分に対して何と言っているかというアイデンティティーの回復の象徴です。
コラの子たちはこの神の大庭に対して、恋い慕い、絶え入るばかりになっています。いつもこのような所に住むことができる人がどれほど幸いかをこのような表現で書いています。
いつも神の恵みの中にいると神の恵みを忘れてしまうことがあります。同様に、いつも神の宮にいると、その恵みを忘れてしまいそうになります。しかし、コラの子は都登りのたびに、この大庭を恋い慕い上ってきます。
今、教会に集まることが難しい時代になっています。この事を通して、いままで当たり前に集まっていた教会の礼拝がどれほど恵みに満ちていたかを痛感した人も多いのではないでしょうか。私たちももう一度飢え乾く心を求め、コラの子たちのような思いで祈りましょう。

・涙の民を泉に:5-7節
コラの子は続いて、力が主にあり、シオンへの大路がある人は幸いだと言っています。大路とは高速道路のようなものです。シオンへの一直線の道です。バプテスマのヨハネが来たとき、イザヤ書を引用してどのように言ったでしょうか。「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」』」(ルカ3:3-6)
実際に、イスラエルで死海からシオン、エルサレムへ続く道があります。それはイスラエルで最も快適で美しい道路と言われています。その道路を建築したのはなんと日本の企業です。実際的なシオンへの大路が日本によって造られていることは預言的な事であると信じます。
私たちにおいてはどうでしょうか。心のシオンへの大路を考える必要があります。
そこはイザヤの書に書かれているように、高ぶりは削られなければなりません。低いアイデンティティは埋め立てられなければなりません。そして、でこぼこ道は埋め立てられます。また、あちらこちらと興味が向く心ではなく、イエス様に向かってまっすぐな道が造られる必要があります。そうして、シオンへの大路が整えられます。これが主をお迎えする備えと言うことです。コラの子たちの大庭と深く関わっていることがわかるでしょうか。
その様な者は、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」と言うように、悔い改めという涙の谷を過ぎるときも、その先にある喜びを見いだしていきます。
私たちは「イエス様来てください」と祈ります。しかし、イエス様は言われるかも知れません。「だったら、まずあなたのシオンへの道を整えなさい」と。そうです。私は信じます。主をお迎えする最短の方法は自分が主の御心を行う完全なものにされるということです。自分が主の似姿に変わっていないのに、人を変えようとするのは律法学者、パリサイ人のすることです。私たちは愚直に、毎日みことばを読み悔い改め、祈っていきましょう。

・油注がれた者の顔:8-9節
コラの子は「われらの盾をご覧ください」と祈っています。盾とは油注がれた者という意味があります。救い主、イエス・キリストの事です。神に対して、自分の中におられるイエス様を見てくださいと祈っています。また、盾はエペソ6章では信仰の大盾と書かれています。イエス様が父に対して持っていた完全な信仰です。イエス様子を私たちの盾です。

・大庭の一日は千日に勝る:10-12節
このような真の悔い改め、そして主が造られた自分に立ち返ることができる、神様の恵みを知ったなら、心からこのことばを言えるでしょう。「あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。」これは天国の前味です。みなさんも深い祈りを長時間捧げたことはあるでしょうか?私は金曜徹夜の祈りを8年近く続けていました。あるときは永遠のように長い時間に感じましたが、あるときには本当に1時間もたっていないのではないかと感じることもありました。
主の御前では時間の感覚がなくなることがあります。それが永遠の前味です。
コラの子は先祖の咎を受け継いでいましたが、恵みによってダビデに門衛の仕事を任じられました。どこから救われたかをコラの子たちは痛いほど知っていました。だからこそ、この世の物が満ちる悪の天幕に住むより、神の宮の門口に立つ方がどれほど素晴らしいことかを知っていました。
11節では、天での報いが書かれています。神なる主は太陽と書かれています。実際に新しいエルサレムでは、影がなくなります。主ご自身がそのご栄光で輝かれるからです。
そして、私の大好きなことばです。「主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」
この地上で生きていく上で、信仰を持つ故に理不尽な扱いをされることがあるでしょう。主のためにと生きているのに迫害を受けることもあるかも知れません。孤独にされることもあるでしょう。しかし、この一言で報われます。主は正しく歩く者たちに良い物を拒まれないお方です。だから、この地で主を信頼し続ける物は本当に幸いです。

【85篇】苦しみの中で求めるもの

・ヤコブの繁栄を元通りに:1-3節
この詩篇はバビロン捕囚からの帰還後のものと思われます。長い間の苦しみの中から絞り出すような祈りを主が聞いてくださった喜びがあります。捕囚は自分たちの先祖の咎のゆえに起こったことでした。そこから帰還させてくださったということは、主が咎を赦してくださったことです。
私たちにある咎も、イエス様の血潮によっておおわれます。主に立ち返るなら罪を赦していただけます。なんという恵みでしょうか。

・再び生かされる:4-7節
ユダヤ人は捕囚から帰還できたから永遠に平安の中にいたわけではありません。戻ってきてからもなお、周囲の国から攻められます。
私たちも試練が終わったらまた次の試練と、終わりのないように見えます。このコラの子たちの祈りに心から共感できます。

・主は良いものをくださる:8-13節
この時にコラの子は何を願ったでしょうか。「主であられる神の仰せを聞きたい」と願いました。この苦しみの中、試練の中、神様は何を語ろうとされているのかに集中しようとしています。私たちが試練中、苦しみの中で取る態度はこれにつきます。主の仰せを求めることです。神を恐れる者に救いは近くあります。パウロはローマ10:8で「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」と言っています。そしてこの後に「心で信じ義と認められ、口で告白して救われる」と言っています。
注目すべきは救いは完成していないと言うことです。もちろん、イエス様を信じることで救われます。しかし、それで終わりではなく、むしろ救いへの道の歩みが始まったという意味合いの方が強いです。ピリピ2:12を見ても「恐れおののきつつ、救いの達成に努めなさい。」とあります。救いは私たちが天にあげられたときに完成します。今はその道のりの途中にあります。そのことを知ることが、私たちに栄光がとどまる秘訣です。
そして、恵みとまことは互いに出会い、義と平和は口づけしています。恵みは優しく、真理は厳しい者です。同様に、平和は優しく、義は厳しい者です。しかし、それらがひとつになることが書かれています。これはどういうことでしょうか。イエス様の十字架を啓示しています。このお方に栄光がありますように。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. 詩篇本当に素晴らしいですね。
    感謝します。

    いつも覚えて口ずさんでいたい個所ばかりです。
    イエス様の購いの十字架を感謝します。
    イエス様に栄光がありますように。

  2. 万軍の主。私の王、私の神をほめたたえます。
    他の人ではなく、私が主のみこころを行うことができるように祈ります。

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