シャローム!
私たちは生きていると、苦難に遭遇するときがあります。むしろ、いつも試練や苦難の中にいるような気がします。心が疲れ果て、希望も見えないときには、本当につらいです。
しかし、絞り出すような信仰から主を求めるとき、主はその祈りを聞いてくださいます。イエス様の前でレプタ銅貨二枚をささげたような祈りです。十分に祈ることはできませんが、持てるすべてを注ぎだすような祈りです。
主はこのような祈りを特に注目して聞いてくださるのだと思います。辛いときこそ主に祈る。これが私たちに与えられている慰めです。
今日もみことばから励まされていきましょう。
今日の通読箇所:詩篇76篇〜80篇
■アウトライン
●主への贈り物:76篇
・あなたは恐ろしい方:1-7節
・救うために立ち上がる:8-10節
・誓いを果たせ:11-12節
●主の右の手が変わる:77篇
・苦難の日に主を尋ね求める:1-3節
・思い返す:4-9節
・私の弱いのは:10-12節
・奇しいわざをお行われる神:13-20節
●主の慈しみと忍耐:78篇
・昔からのなぞ:1ー8節
・神の教えを忘れる:9-16節
・砂漠でいと高き方に逆らう:17-22節
・食物を与えてくださる主:23-31節
・贖う方を思い出す:32-39節
・繰り返す神への逆らい:40-43節
・十の災い:44-51節
・連れ出してくださる:52-55節
・神を試みる:56-64節
・正しい心で牧す:65-72節
●国々の侵入:79篇
・エルサレムを廃墟とする:1-4節
・いつまででしょうか:5-8節
・そしりの七倍:9-13節
●御顔の光:80篇
・ケルビムの上の御座に着いておられる方:1-3節
・涙のパン:4-7節
・ぶどうの木:8-13節
・私たちを生かしてください:14-19節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【76篇】主への贈り物
・あなたは恐ろしい方:1-7節
この詩篇は、アッシリヤに囲まれたエルサレムが、主の使いによって軍隊を滅ぼしたときに書かれたものです。
アサフによって書かれた詩篇ですが、神の仮庵はシャレムにあると言っています。シャレムはシャローム、サレム、エルサレム、すべて同じ意味になります。主の住まいはエルサレム、シオンです。しかし、仮庵と書かれています。これはどういうことでしょうか。地上での主の住まいは一時的であると言うことです。エデンからはじまり、祭壇、幕屋、神殿、私たちと移り、やがて新しいエルサレムに至ります。私たちの体も一時的なものであり、やがて栄光の体へと変えられていきます。ここに主が来てくださり、住んでくださっていることを感謝します。
3節からは、アッシリヤ軍の打ち砕かれた様子が書かれています。世界に誇るアッシリヤ軍の強さが、主の御前では赤子の手をひねるように打ち砕かれました。
人の手によらない、神様が導かれる勝利を人々が見るとき、主は恐ろしい方だということを知るでしょう。
・救うために立ち上がる:8-10節
主が救いを決心して立ち上がるとき、天から宣告が聞こえ、地は恐れて沈黙を守ります。イエス様が公の働きを始められるとき、このように書かれています。「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」(マタイ3:16)
イエス様はこの地に来て、購いを成してくださいました。このお方は愛に満ちた方ですが、恐ろしい方でもあります。
そして、10節には不思議な事が書かれています。「人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ」と書かれています。アッシリヤが激しい憤りでエルサレムを滅ぼそうとしました。ところが、主の力によって彼らを完璧に打ちのめすことで、彼らの憤りが主の栄光を現すこととなりました。
今までの詩篇でも、敵の策略がかえって神の民の勝利となることを見てきたと思います。そのことは私たちの人生にも起こります。
・誓いを果たせ:11-12節
主を信じ、神と共に歩み始めた者は責任があります。みことばを聞いて、それを行うということです。それが誓いを果たすと言うことです。そして、贈り物をささげるとあります。主はすべてのものをお持ちなので、あえて私たちから何か物質的なものを欲しいとは思っておられないと思います。主が欲しいのは私たち自身です。
この箇所で贈り物ををささげよと言われているのは誰でしょうか。主のまわりにいる者です。これは、主の住まわれるエルサレムの周りにいる者、つまり諸外国の人々を意味しています。終わりの時、神を知らなかった人々も主の御前に来て、ささげ物をささげることが預言されています。
【77篇】主の右の手が変わる
・苦難の日に主を尋ね求める:1-3節
この詩篇はバビロンに捕らえ移された時の礼拝者の苦しみの詩篇です。アサフは捕らえられているときに神に向かって声を上げました。主はその声を聞いてくださいます。これは蛇口をひねったら水が出ると言うような簡単なことではありません。もだえ、葛藤し、待ち望んだ末に声を聞いてくださったという喜びがここにあります。
2節からを見ると、アサフの葛藤を見ることができます。夜にもだえるように祈っています。私たちもこのようなことはないでしょうか。寝床であることが気になり、眠ろうと思っても眠れない事です。そのような心配をしても、90%以上は実際には起こらないことであり、自分たちの力ではどうしようもないことです。「私のたましいは慰めを拒んだ」とあります。そのような葛藤を繰り返すうちに、霊は衰え果ててしまうような経験をします。あまりにも落ち込む故に、慰めをも拒んでいます。
・思い返す:4-9節
主はまぶたを閉じさせないと書かれています。心は乱れています。そして、アサフは神殿が壊される前、神殿で主に礼拝を献げていたときのことを思い出しています。そこでどのように主に仕えていたか、何を賛美していたかを思い出しています。
そして、主はいったい、いつ応えてくださるのだろうかという思いに至っています。それはやがて「主はもう私を決して愛してくださらないのだろうか」という思いに至っています。箴言の13:12には「期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」と書かれています。
アサフの正直なこことを見ることができます。今まで信じていた主は本当に主だったのだろうかと、信仰を疑うような気持ちです。みなさんもその様な気持ちになったことはないでしょうか?
・私の弱いのは:10-12節
アサフはその様な葛藤の中で、ひとつの事を悟ります。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる」ということです。
主のご計画は変わることはありません。しかし、主のご計画を実現される方法は変わることがあります。アサフは今までのようなやり方でとりなし、民のために憂いていました。ところが、いくら祈っても、悩んでもどうにもなりません。そこで悟ったのです。神様の方法、右の手が変わったのだと。主は愛されなくなったのではありません。約束が実現させないようにされたのではありません。憐れみを閉ざされたのではありません。単に、神様の示される道の方向が変わったのに、アサフがそれに気づかずに今までの道を歩き続けていただけです。
自分が今までのようにしてもうまくいかない。弱さを覚えるという事から、この弱さを通して主のご計画が始まって行くことを知りました。「しかし、主は、『わたしの恵みは十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力がおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9)
それで、アサフは心配や嘆きから、主がしてくださった素晴らしい事に思いを巡らします。静かになって主に思いをもう一度向けています。
・奇しいわざをお行われる神:13-20節
神の道は聖です。このお方は奇しい事を行われるお方です。この神様の偉大さと水が関係しています。
水は主を見てわななき、わたつみ、すなわち海の大波も震え上がっています。確かに、主は天地創造の時、水に命じて別れ、境界線を越えないようにされました。そして、イスラエルの民を水を通して救われ、私たちも水のバプテスマをもって信仰を公に示すことになります。神様を知らない人々は、この水を見て恐れます。
そして、神を信じる者は主によって導かれます。
【78篇】主の慈しみと忍耐
・昔からのなぞ:1ー8節
アサフによる非常に長い詩篇です。アサフは昔からの謎を物語るから聞きなさいと言っています。子孫に対して、イスラエルの先祖が体験したことを語ります。これはイエス様も言われたことです。「それは、預言者を通して言われたことが成就するためであった。『わたしはたとえ話を持って口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。』」と書かれています。
みことばは難しいかも知れません。しかし、親切です。このみことばの著者である聖霊様に聞き続けることで、みことばの奥義が解き明かされていきます。
そして、8節までで信仰の継承の事が書かれています。日本でイエス様を信じる者が少ないと嘆く人がいます。そのような人に、以前、あるメッセンジャーがアドバイスをしていました。その先生は「あなたが結婚して、沢山子どもを産めば良いんです。そして、子どもたちに聖書を良く教え込み、みことばの家庭を作れば何世代かすると日本はリバイバルの国となります」と。本当にその通りです。今からでも遅くありません。家庭の中で福音を語りましょう。
・神の教えを忘れる:9-16節
アサフのたとえはエフライムの人々から始まりました。戦いの日に退却したと書かれています。なぜそうなったのでしょうか。三つあります。神の契約を守らなかったこと、神の教えに従って歩むことを拒んだこと、神の御業と奇跡を忘れてしまったことが原因です。
エフライム部族は弓に卓越した強い部族でしたが退却してしまいました。主がそのような賜物を与えてくださっているのに、それを主のために用いなかった事がわかります。イエス様のたとえで、1タラントを土の中に埋めた人のたとえが出てきます。その人は主人から叱られました。私たちはいただいた賜物をどのようにしていけば良いのでしょうか。祈ってみましょう。
12節からは、主の奇跡が書かれています。
・砂漠でいと高き方に逆らう:17-22節
それなのにと書かれています。神様の信じられないほどの奇跡を見たにも関わらず、彼らはなおも罪を犯しました。
私たちは記憶という能力と、忘れるという能力が与えられています。何を記憶し、何を忘れなければならないのでしょうか。主の良くしてくださったことを覚え、人のした悪を忘れることです。
私たちも彼らのような事にならないよう、このたとえから学びましょう。
・食物を与えてくださる主:23-31節
神様はそのような彼ら、不従順な者に対しても食物を送ってくださいます。しかし、欲望のままに食べた者には神のさばきがありました。これは神様が悪いわけではないと言うことがわかるでしょうか。主は良いお方です。不従順な者に恵みを与えられています。では誰が悪いのでしょうか。欲望に導かれて好き勝手した人です。ヤコブ1:14に「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」と書かれています。結局、彼らは自分の欲望が明らかにされただけです。ポイントは30節の「欲望から離れず」というところです。彼らは意思を持って欲望から離れなかったのです。しかし、もっと良いお方である主を本当に知るなら、あらゆる欲望から解放されます。
・贖う方を思い出す:32-39節
これだけのことをしたら、普通は学ぶと思うのですが、このすべての事にもかかわらず、彼らはなおも罪を犯し続けたとあります。それで、主はカデシュ・バルネアで約束の地に入れず、四十年も荒野をさまよい、殺されてしまいました。
さすがにこの事で人々は神に立ち返り、主が購い主であることを思いだしています。しかし、すぐに彼らは口で神を欺き、下で神に偽りを言いました。彼らの心が誠実ではありませんでした。また、神の契約にも忠実ではありませんでした。
結局、彼らは悔い改めていませんでした。後悔していただけです。もしくは、一度悔い改めてそのままでした。悔い改めは、自分勝手な道から神の道へと方向転換することです。そして、日々、そのずれを点検して、軌道修正し、最後には悔い改めの実を結ぶことです。
ところがこのような彼らにも主は憐れんで彼らの咎を赦し、滅ぼさずにいてくださいました。幾度も怒りを抑えてくださったと書かれています。ローマ3:25には「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見のがしてこられたからです。」とあります。
もし、神様の憐れみがなければ、とっくに人類は滅んでいたと思います。この方の憐れみと慈しみはどれ程でしょうか。
・繰り返す神への逆らい:40-43節
40節のみことばが心に刺さります。「幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。」
なぜ彼らは繰り返し、繰り返し同じ事をするのでしょうか。彼らは神の力も、神が敵から購いだしてくださった日をも覚えていなかったからです。このことは神を痛めることです。つまり、私たちの罪がイエス様を十字架にかけてしまいました。
この箇所のみことばを何度か繰り返して音読し、祈ってみましょう。他人事ではなく、自分の事としてみことばを朗読してみましょう。
・十の災い:44-51節
ここでは主がエジプトに対してなされた十の災いが書かれています。一つひとつ確認してみましょう。
・連れ出してくださる:52-55節
主は力強いエジプトから、更に上回る絶対的な力強さでご自分の民を導き出してくださいました。出エジプトのこの箇所を読むとわからなかったことですが、ここではイスラエルの人々にとって、出エジプトは安らかに導かれたと書かれています。
しかし、エジプトの兵士たちはみな海に包まれてしまいました。
そして主はご自分の民をカナンの地、エルサレムまで導かれ、定住させてくださいました。
・神を試みる:56-64節
それなのに。それなのにです。こんなにも主は彼らに良くしてくださったのに、神に逆らい、さとし(律法)を守らず、もとに戻ってたるんだ弓矢のようにそれてしまったと書かれています。的が外れています。つまり、罪です。
本当にどうしようもないイスラエルの民です。しかし、それは私自身の姿でもあります。
イスラエルの人々はカナンの地で定住したと思ったら、今度は自分勝手に偶像を作り始めました。神の契約の箱は奪われ、イスラエルは霊的に堕落してしまいます。モーセが約束の地に入る前に何度も何度も警告したことを彼らは守れませんでした。
・正しい心で牧す:65-72節
ずっと主はそのような堕落を忍耐をもって見守ってくださっていました。しかし、突然目覚めの時がやってきます。主はサムエルを預言者として遣わし、イスラエルに霊的な覚醒を起こさせます。
そして、十二部族の中でもユダを選ばれ、場所もシオンを選ばれました。
そしてダビデを選び、正しい心と英知でイスラエルの民を導くようにされました。そこは主が永遠に基を据えた堅い地のようにお建てになったと書かれています。
この長い詩篇を朗読して、何を感じましたか?イスラエルの民はかたかくなだなと感じましたか?なぜ同じ失敗を何度も繰り返すのかと感じましたか?神様は憐れみ麩買い方だなと感じましたか?イスラエルの民を自分として、もう一度この詩篇を読み、祈ってみましょう。
【79篇】国々の侵入
・エルサレムを廃墟とする:1-4節
アサフの賛歌です。バビロンがエルサレムに攻めてきたときの詩篇です。エレミヤが哀歌で記している内容でもあります。神殿が完全に破壊され、様々なものがバビロンに持っていかれました。多くの神の民が殺されました。
アサフはそれを神様を主体として書いています。あなたの聖なる宮、あなたの聖徒たちなどです。すべては主のものであります。
・いつまででしょうか:5-8節
昔も今も、祈りの内容は同じようなものです。「主よ、いつまでですか」です。人は誰も未来に何が起こるかわかりません。1秒先ですらわからないのです。ですから、このような苦しみ、苦難がいつまで続くかわかりません。なので余計に苦しいのです。
神様が試練の終わる日を「この日」とはっきり言ってくださったら、どれほど励まされ、それに向けて頑張れるでしょうか。ところが主はあえてその日を隠しておられます。私たちの信仰を引き上げてくださるためです。いつかわからなくても、主を信じ続けることが大切です。
・そしりの七倍:9-13節
アサフは祈りの中で悟りました。どうしてこのようなことが起こっているか。それは彼らの先祖の犯した罪からくる咎のゆえです。
そこでアサフは主の憐れみを求めました。そのうえで、主の御名を呼び求めています。すべてに勝る御名です。自分たちがこのような悲惨な状態から立ち上がりるなら、周りの諸国は驚き、主を恐れるようになります。そのためにも助けてくださいと祈っています。
そして、周りの諸国は「おまえたちの神はどこにいるのか」といってあざけっています。戦いに負けて、神殿が破壊されたと言うことは神様が守ってくださっていないと見たのです。
そこで、アサフはさらに切実に祈り、生きながらえさせてくださいと祈ります。そして、そしりの七倍をかれらに返してくださいと祈っています。
「そうすればあなたに感謝しましょう」と書かれていますが、これは主を脅迫しているわけではありません。駆け引きをしているのでもありません。主の憐れみを見ることで、自分たちは神様への賛美に導かれるという意味です。
神様の慈愛が私たちを悔い改めへと導きます。自分では何もできないというアサフの正直な告白でこの詩篇は終わります。
【80篇】御顔の光
・ケルビムの上の御座に着いておられる方:1-3節
ここでも79篇と同様に、敵がイスラエルを踏み荒らしたことに対する詩篇です。
主に光を放っていただくように祈っています。それほどに希望を見いだすことができず、暗やみに見えるからです。
主をケルビムの上の御座に着いておられる方と表現しています。主は契約の箱の上にある購いの蓋にあるケルビムの間に血が注がれたときに語れます。しかし、ここにはケルビムの上の御座についている方と書かれています。天の御座です。
2-3節は、律法に書かれている神様の恵みと働きを思い起こしています。あのときの御力を呼び覚まし、御顔を照り輝かせてくださいと語っています。この同じ主が今も私たちと共にいてくださいます。
・涙のパン:4-7節
捕囚は70年も続きました。異国で彼らは涙に明け暮れていました。神を知らない者が彼らを見てあざけります。まるで涙のパンを食べ、あるれる涙をのんでいるようです。
一刻も早く捕囚から解放されたいとの切なる願いがあります。
・ぶどうの木:8-13節
イスラエルがぶどうの木にたとえられています。イエスの血潮を宣言する祈りの著者、アテフ・メシュレキー博士が来日されたとき、語られていたのが、ぶどうの木に関してした。聖書の歴史でイスラエルの民、すなわちぶどうの木は何度もなくなりそうになりますが、主の御手によって守られます。やがてぶどうの木はイエス様を通して教会となります。そして、やがてその時代も終わり、イスラエルも教会も共にただイエス様だけを求める時が来ると言われていました。今、まさにそのように導かれていることを感じます。
・私たちを生かしてください:14-19節
主にぶどうの木を育ててくださいと願っています。「それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐものでもありません。成長させてくださる神なのです。」(1コリント3:7)ともあります。
そして、17節に興味深い事が書かれています。「御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に」とあります。まことの救い主であるイエス様です。
そして、先ほどと同じ意味の「そうすれば」でこの詩篇は終わります。どうかこの時代、主の御顔を求めることのできない人々が主に出会い、主を見上げることができますように。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主の憐れみに感謝します。家庭の中で福音を語ることができるように祈ります。