聖書通読クラブ Day 148

聖書通読クラブ Day 148【ヨブ記 13章~15章】

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シャローム!

神様は人に痛みを与えられました。例えばけがをしたとき、痛みがなければ自分の不具合に気づくことがなく、治療が遅れてしまいます。痛みは歓迎できる者ではありませんが、痛みによって患部が明確になり、結果健康を保つことができます。
心の痛みも同じです。「大丈夫」と笑顔で言っていても、目の奥が笑っていないこともあります。本当の自分の心を偽って、本当は傷ついて心が痛いのにそれを隠してしまっていることがあります。
心が痛いと言うことは、そこに治療が必要な証拠です。この痛みをイエス様は十字架で担って下り、私たちから取り去ってくださいました。この方に救いがあり、癒やしがあります。
さて、ヨブは依然として痛みを持ちながらも友人たちの質問に答えていきます。今日はどのような事が語られているのでしょうか。

今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:ヨブ記 13章~15章

■アウトライン

苦しみの中からの告白

●自分と神の間に入る者:13章
  ・神と論じ合いたい:1-19節
  ・二つのことをしないでください:20-28節

●人とは何か:14章
  ・きよい物は汚れた物から出ない:1-6節
  ・木と人:7-12節
  ・私を覚えてくださればよいのに:13-17節
  ・人の望みを絶ち滅ぼされる:18-22節

●エリファズの答え:15章
  ・神に祈ることをやめている:1-6節
  ・人がどうしてきよくありえようか:7-16節
  ・彼らにだけ与えられる地:17-35節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【13章】自分と神の間に入る者

・神と論じ合いたい:1-19節
ヨブは三人の友人たちから慰めのことば、また今自分が失ってしまっている将来の希望に関して、有益なアドバイスをもらえるのではないかと期待していました。しかし、それは期待外れに終わりました。
結局、年長者である彼らの悟りも、自分と大して代わらないことを知ります。それでヨブは彼らと話すよりも、神様と語り合いたいと願います。
かつてヨブは神様と語るなら、自分が罪に定められてしまうのではないかと恐れました。しかし、友人たちに失望してヨブは本当の意味で神様を求め始めました。
その証拠に、4節では友人たちを「能なしの医者」とののしっています。それほどヨブの失望は大きかったのでしょうが、ヨブも友人に期待しすぎていたのでしょう。期待が大きいと裏切りも大きく感じる物です。初めからヨブは神様を求めることが必要でした。
今のヨブにとっては何の慰めにもならないことばは、ただ自分を責めるだけに感じられ、それよりかは黙っていて欲しいと願います。
7節からを見ると、ヨブは友人たちが神の代わりに不正を言い、欺きを語っていると責めます。
ヨブは神の前にも人の前にも正しく行っていました。今の自分の身に起こっていることはそのような事が原因では無い事はわかっていました。だから原因が知りたかったのです。
しかし三人の友人ははっきりとヨブを罪に定めていますが、それは少し観点のずれたことでありました。だからヨブにとっては彼らが偽りを言っているのだと主張しています。「あなたたちの信仰は大丈夫なのか?」と問うています。
13節からを見てみましょう。ヨブは神と語り合うことを決断しています。それにはリスクがあるかもしれませんが、それでも神様との会話を求めます。そして、それによって自分のいのちが取られたとしても、それは本望だと言います。
ヨブは友人たちのことばによって更に窮地に追い込まれました。その極度の苦しみの中で、やっぱり信頼すべきは神様のみだと悟ったのでしょう。
ここからヨブは腹をくくり、いのちをかけて神と語ることを決断します。ヤボクの渡しで夜明けまで神の使いと格闘したヤコブのような決断です。

・二つのことをしないでください:20-28節
しかしながらヨブには依然として神様に対する恐れがありました。いのちをかけて神様の御前に進みゆきますが、二つのことだけはシナイで欲しいと願っています。ひとつは「あなたの手を遠ざけてほしい」ということです。これは渡しを脅かしたり、これ以上苦しい思いをさせないで欲しいという事です。もう一つは「恐ろしさでおびえさせないで欲しい」ということです。恐ろしさを覚えると緊張して、話したいことを話せなくなります。
23節でヨブが最も疑問に思い、知りたい質問を端的に語っています。「私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と私の咎を私に知らせてください」
私たちも時には、この祈りが必要です。私たちはどこから救われたかを思い出す必要があります。なんとなくイエス様を信じたのであれば、この祈りをしてみてください。
かつて自分がどのようなものであったのか。神を知らずに生きていたことがどれ程大きな罪であったか。罪を持ったままであったらどうなっていたか。
神様がそれらのことをみことばから教えてくださるのであれば、今までの神様の愛がもっと深く、もっと高く、どれほど偉大な物であるかを知ることができるでしょう。
自分の罪は見たくないかもしれません。しかし、例えばみなさんの寝室の電気をつけたら壁や床一面に気持ち悪い虫や生き物がびっしりいたら、そのまま安らかな心で寝ることができるでしょうか。飛び起きてその部屋から出て行くか、気を失ってしまうのではないでしょうか。神様のみことばの光が照らされた私たちの心の内はそれよりもひどい状況なのです。この事を見せられたなら、私たちはいのちをかけて悔い改め、主を求めて祈るでしょう。主が許されるのであれば、その様な祈りにみなさんが導かれますように。
24節、詩篇でもこのような祈りが出てきますし、私たちもこのように祈ることがあるでしょう。しかし、これは神様が私たちを嫌いになったわけではありません。私たちの知り得ないご計画があるのです。その時はこのように感じるかもしれませんが、神様の御約束は「わたしはあなたを離れず、あなたを見捨てない」というものです。
27-28節で、ヨブは自分のことをこのように神に対して表現しています。神様に対しては、正直に自分の心を打ち明けることができます。みなさんも祈りの中で、今の状況、不満などを神様に打ち明けてみましょう。

【14章】人とは何か

・きよい物は汚れた物から出ない:1-6節
私たちにとっては一生という時間は長い時間に感じます。今は医療の発達などで「人生100年時代」と言われたりもします。しかし、ヨブは「人の人生は短い」と言います。ヤコブの手紙の中でも「いのちは、現れてすぐに消える霧のようだ」と書かれています。
私たちの目から見た人生は長く感じたとしても、神様の目から見た「永遠」という尺度から見ると、私たちの人生は一瞬にも満たないほどの時間です。
ヨブはこのような短い人生の自分をさばきの座に連れて行くのかと主に訴えています。それに加え「きよい物から汚れた物は出せない」と言っています。ヨブは自分の汚れた状態を見て、どのようにして神の基準に達することができようかと言うことを言っているのです。
5節からを見ると、この人生の日数を神様が定めておられるなら、毎日を苦しみの中に置くのではなく、日雇い人のようにその日を楽しむようにさせてくださいと願っています。
言い換えれば、自分はこんなに苦しみを味わっているのだから、神様が私を見張っておられるのだと言うことです。ヨブは毎日を楽しんで生きたいのですが、あまりの痛みのために喜びが奪われてしまっています。

・木と人:7-12節
ここでヨブは自然の生命力の強さを訴えます。確かに植物の生命力の強さには驚きます。バッサリ選定した木からは夏になると青々とした葉が茂っています。枯れたと思った植木に水をやり続けているとあるとき新芽が出てきたりもします。
しかし人はあまりにもはかなく、あっけない存在だと言っています。
木の生命力の強さは何でしょうか。もしかしたら罪の存在かもしれません。もちろん、木にはいのちはあるかもしれませんが霊はありません。しかし、罪もないでしょう。
ローマ書には「罪から来る報酬は死である」と書かれています。罪があるから死にます。
そして考えてみてください。地球全体を見渡して、すべての被造物は神様に従っています。神の秩序の中に生かされ、それにあらがうことをしていません。
ところが、この地球上で一種類だけ神様に従わない被造物があります。それが人です。もっと言えば、人の中にある罪、または罪の性質がそうさせます。これを持ったままでいると、その人は永遠の死へと導かれてしまいます。
ある意味、植物から学ばなければならないかもしれません。「神に従うと言うことはどういうことか」ということを。

・私を覚えてくださればよいのに:13-17節
ヨブはなおも苦しんでいます。自分の身に起こったことを神の怒りとし、神の怒りが過ぎ去るまでの時がいつか、また、自分を覚えていて欲しいと願います。
そして、「人が死ぬと生き返るでしょうか」と問うています。これはヨブの願いです。死んでも復活にあずかりたいという願いです。
この時には実現しませんでしたが、後に来られる救い主、イエス・キリストによって信じるすべての者は復活にあずかることができることを感謝します。
いずれにしても、ヨブは肉体と心の苦しみからの解放を願っています。もし自分が復活したときには今の罪は数えられず、咎無き者としてくださいと願っています。
私たちがイエス様にあって復活にあずかるとき、しみも傷もないキリストの花嫁とされることを感謝します。

・人の望みを絶ち滅ぼされる:18-22節
体に痛みがあるとき、その痛みは波のように押し寄せてくることがあります。先ほど自分の願いを神に申し上げたと思ったら、また希望のないことばを語っています。
そしてヨブは自分の痛みにフォーカスしていきます。体のどこが痛くても、普段の生活に支障をきたしてしまいます。
私もかつて、左手の薬指の先を複雑骨折したことがあります。薬も効かず、夜も眠れず、本当に苦しい思いをしました。
何をしても集中できず、ただ、痛みが取り去られることだけを願っていたことを覚えています。祈ってもただ、「自分の痛みを取り去って
ください」としか祈れませんでした。他の何も集中できませんでした。私の指はその後治りましたが、今もなお痛みを抱えておられる方もおられると思います。その方の痛みが一秒でも早く取り去られますように。

【15章】エリファズの答え

・神に祈ることをやめている:1-6節
ヨブのことばを受けて、エリファズが二回目の回答をはじめます。彼は三人の中でも最も年長者でした。その人生経験が彼の懐を大きくしたのでしょうか。
ヨブに向かって「知恵あるひとはその様に答えないはずだが」と呼びかけています。その上で「あなたは信仰を捨てている」と言います。その理由はヨブの口が悪者のような告白をしているからだと言っています。

・人がどうしてきよくありえようか:7-16節
エリファズはヨブを諭します。自分の方が人生経験が豊富であることをつたえます。おそらく、エリファズは年長であればあるほど知恵者だと思っていたのかもしれません。
しかし、年配の人であってもまるで子どものようにわがままな人もいますし、子どもでも中身は老人なのではないかと思うほど人格が整っている人もいます。人格と年齢は完全には比例しません。
12-13節を見ると、エリファズはヨブの口からかつてのヨブらしからぬ告白が出たことに驚いているようです。通常の状態であったらヨブはいつも通りでしたが、身内の不幸、そして自分の身には痛みがあります。その事実を言っただけなのですが、エリファズにはそのように聞こえていなかったようです。
14-15節は非常に深い事を言っています。エリファズの最初の答えと同じ内容です。ヨブはその答えに対して、自分は正しく生きているのに、その報いとしてはこれはひどすぎるのではないかと答えました。その上で、自分は神の前に正しく歩んでいたと主張します。
ところがエリファズはもっと深い、人の奥深くにある罪の根源について言っています。ヨブの主張とエリファズの主張が微妙に食い違っています。

・彼らにだけ与えられる地:17-35節
エリファズはここに来て強いことばでヨブに迫っています。一度目の答えでは自分の経験を分かち合いましたが、ここでは先人の事をたかっています。ビルダテと同じです。
20節から、エリファズは何のことを話しているのでしょうか。ヨブのことを重ねてこの事を語っています。
平和なときに襲われたり、剣に付け狙われているのは神からもたらされたものではなく、彼らの高ぶり、神に対する、そむきが原因であったとし、ヨブもそれと同じだと言いたいのです。
27節からも引き続き悪者の事を語っていますが、そこにヨブを重ねています。特に29節は、富のことを語っています。ヨブは非常に裕福な者でした。そこと重ね合わせています。エリファズはこの災いが富のせいだとしてヨブを責めています。
確かに富に仕えることは神にそむくことでもあります。しかし、後に語られるところではヨブは正しく富を取り扱っていることがわかります。
経済自体は悪くありません。金銭を愛する心がすべての悪の根です。(1テモテ6:10)
もしかしたら、エリファズは富を持っていたヨブに嫉妬していたのかもしれません。神様がヨブに富を任せてくださいました。その事に対してエリファズはいわれのない事を言っています。
この二回目のエリファズの答えの中に、ヨブへの励まし、希望、回復のメッセージはありません。ヨブを責め立てています。それがエリファズのやり方なのかもしれませんが、それでは真の悔い改めには導かれません。ただ、神の慈愛が私たちを悔い改めにへと導きます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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