聖書通読クラブ Day 147

聖書通読クラブ Day 147【ヨブ記 10章~12章】

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シャローム!

人との会話は楽しいこともありますが、逆に重荷になってしまうこともあります。私たちが抱える多くの問題は人と人との間の問題です。ある人はアドバイスを使用と自分の考えを押しつけてきます。アドバイスする側は「人助けをしてあげた」と思うかもしれませんが、アドバイスされた方はそのことばでかえって傷ついてしまうこともあります。
ヨブと友人たちがまさにそうでした。私たちも人と話すとき、自分の立場や視点だけで話すのであれば、それは相手を苦しめることにつながるかもしれません。
イエス様の知恵が必要です。イエス様の愛が必要です。塩味の聞いたことばが必要です。
本当に相手の必要を知って、相手の立場に立って、まずは話を聞く、そのような人物になりたいと思わされています。
今日もみことばから生きる意味を教えていただきましょう。

今日の通読箇所:ヨブ記 10章~12章

■アウトライン

本当の励ましとは何か

●ビルダテに対するヨブの答え:10章
  ・見張られる主:1-17節
  ・私にかまわないでください:18-22節

●ナアマ人ツォファルの答え:11章
  ・主は罪を忘れてくださる:1-6節
  ・あなたに何ができよう:7-20節

●ツォファルに対するヨブの答え:12章
  ・友の物笑いとなる:1-6節
  ・すべては主の御手のうちにある:7-25節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【10章】ビルダテに対するヨブの答え

・見張られる主:1-17節
ヨブはビルダテの言ったことに対して答えていましたが、次第に独白のような内容に移行しています。
ここに来てヨブは本当の意味で自分の心を神様に告白しています。男性にはプライドがあります。これは本当に不必要なものだなと日々感じています。このプライドが邪魔して本心をなかなか言うことができません。周りの目や評価が気になるのです。
しかしヨブは神様に対して、自分のプライドを捨てて語り始めています。誰にでも心を明け渡す必要はありませんが、ある程度の関係の中で本心を分かち合ってくれるなら、それは相手を悪く思うより、むしろうれしく思います。それだけ自分を信頼してその事を語ってくれたのだと感じるからです。そこに人間味を感じます。人は誰でも弱さを持っているものですから、相手の弱さを聞いても相手を責めることは私たちにはできません。
ヨブは神様に自分を罪あるものとしないでくださいと訴え、この苦しみの理由を聞きます。しかし、まだ自分を「光」と言っています。確かにヨブは義人でしたが、完全な義人ではありません。
4-7節を見ると、揺れるヨブの信仰の姿を見ることができます。神様に全信頼を置いたように思たのに、このように突然肉の思いで神様のことを見ています。人が見るように神様も自分をご覧になるのかと言っています。そうではありません。神様にはヨブの思いよりもはるかに高いご計画をお持ちなのです。
私たちは自分ではないヨブの人生を見ているので、このように客観的に見ることができますが、これが我が身に起こると、途端にわからなくなってしまいます。ヨブよりもひどい状況に陥ってしまうかもしれません。
8-9節を見てください。ヨブは、自分を壊すために想像されたのかと訴えます。これは非常に深い哲学的な問いです。私たち人間は必ず死にます。今は死ぬために生きているようなものです。誰しも生まれた瞬間から死へのカウントダウンははじまっているのです。
それであれば私たちの人生は意味が無いのでしょうか?いいえ。今の地上の歩みは永遠のいのちの一部です。この地上でしかできないことがいくつかあります。それは何かをみことばと祈りを通して主に教えていただき、残されたわずかな時間の中でその事を達成することができるよう、求めていきましょう。
10-12節を見てもその事がわかります。ここは人の生命が誕生する様子を描いています。医療も科学もなかった時代に、実に克明に生命の誕生が描かれています。「私を乳のように注ぎだし」とは精子の事です。「チーズのように固め」とは、受精卵が成長する様子です。「川と肉を私に着せ」「骨と筋で私を編み」とは、胎児が母の胎で成長する様子です。これが神様による肉体の創造です。
12節では霊に関して言及しています。神様はアダムを地のちりから創造されたとき、鼻から息吹を吹き入れてくださいました。それで人は生きた者となりました。これが霊です。霊は神様からのものです。
まとめると、人間は霊、たましい、肉の三つからできています。私たちの地上でのいのちが終わると、霊は神様の所に戻ります。肉はちりから造られたのでちりに帰ります。問題はたましいです。これが私たち自身です。このたましいは永遠に生きます。永遠という時間を御国で神様と共に過ごすか、そうしないかのふたつしかありません。すべての人が永遠のいのちに導かれますように。
13節からをみると、その様にヨブを誕生させてくださったのに、それは罪に定めるためかと訴えています。何をしても結局神様は自分を罪に定め、訴えるのだろうと言っています。ある意味、その事は正しいです。しかし、この時のヨブは自分の義の行いに対する報いの不平、不満からこの事を言っています。神様は動機をご覧になります。
私たちは殺されるために生かされているのでしょうか。そうです。私たちは律法によって殺されます。誰も神の前に完全に正しい者はいません。しかし、イエス様は私たちを復活にあずからせてくださいます。この復活にあずかるために、主は私たちを律法によって殺されます。復活の主をほめたたえます。

・私にかまわないでください:18-22節
ヨブは再び肉体と目的がわからない心の苦しさから、自分が生まれたことをのろいます。このような苦しみはもうたくさんだと訴えています。もし、自分に生きる希望がないなら、神様に対して「もうかまわないでください」と言っています。
続けてよみの事が語られています。21-22節をみて、よみがどのようなところかを確認してみましょう。
もし、ヨブの試練が息子たちの死で終わっていたらあるいは彼はここまで追い込まれなかったかもしれません。しかし、自分の肉体に起こっている痛みと苦しさからは逃れることができません。肉体にいつも痛みがあるというのは本当に苦しい状態です。現代の医療や薬を使っても痛いものは痛く、耐えがたいものです。まして、ヨブはそのようなものは一切無く、ただ肉体の苦痛を受け入れるしかありません。逃げてもどこまでもまとわりついてきます。これが私たちが持っている肉の思いの象徴です。
ヨブは自分の非をなかなか認めません。しかし、素晴らしいことは最後まで信仰を捨てなかったと言うことです。苦しくても前が見えなくても、神様に文句を言ってでも結局は神様に信頼し続けました。
神様に何も告白しないで、気がつくと神様から離れている人と、神様に不満を言いますが、そのたびに懲らしめを受け神様から離れない人、どちらが良いでしょうか。

【11章】ナアマ人ツォファルの答え

・主は罪を忘れてくださる:1-6節
三番目の油人、ナアマ人のツォファルが語り始めます。おそらくツォファルは三人の中で最も若いと思われます。この時代は多くの場合、年長者から順番に事を進めるからです。それに加えて、ことばに少しトゲを感じるほど、直接的に語っています。ヨブに対して「あなたのおしゃべりは人を黙らせる」とまで言っています。
自分を振り返ってもそうですが、若いときはことばがとがっていました。正しいことを人に押しつけようと、なんとか論破しようと必死でした。しかし年を重ね、様々な経験をする中で少しずつ、ことばのトゲが取れてきたのではないかと思います。
4節からでは、さらに厳しいツォファルのことばがあります。ヨブは確かに自分には罪がないと言いました。しかし同時に自分のどうしようも無い状態を嘆いています。しかしツォファルにとって、ヨブはまるで自分が神であるかのように振る舞っていると映っているのです。
6節の最後には「神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださる」とあります。確かにイザヤ書43:25には「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とあります。
神様は何かを忘れてしまうお方なのでしょうか。そんなことはありません。神様ですので私たちが忘れてしまっているようなことでさえ覚えておられます。では、このみことばをどのように説明すればいいのでしょうか。それは、神様は意思を持って私たちの罪を忘れてくださると言うことです。
私たちが自ら悔い改め、イエス様に立ち返るなら、その刈り取りはする必要がありますが、神様は私たちの罪を「あえて」忘れてくださるのです。

・あなたに何ができよう:7-20節
それぞれの友人がヨブに語りかけますが、視点が違っています。最初のエリファズは「神の善」について語り、神の憐れみを求めることを勧めています。ビルダテは「神の義」について語り、悔い改めて立ち返ることを勧めます。ツォファルは「神の知恵」について語り、人知をはるかに超えた神の知恵の前にへりくだることを勧めています。
11-12節はツォファルの若さ故の言い過ぎている部分を見ることができます。ヨブに対して不真実、悪意を持つ者と非難し、無知な人間が賢くなるのは野ロバの子が人として生まれるほどの奇跡だと言っています。そしてその上で悔い改めを迫っています。
16節から、ツォファルはヨブの言ったことを取り上げて置き換えています。私たちもこのような置き換えの知恵が必要ですね。周りの人が不平・不満を言っていたら、それを優しく受け止め、優しく言い換えてあげる愛と知恵を求めます。

【12章】ツォファルに対するヨブの答え

・友の物笑いとなる:1-6節
ヨブはこのツォファルのことばで、今まで押さえていたものが吹き出します。エリファズには「なぜ、あなたは私が潔白であることを信じてくれないのか」と訴え、ビルダテには「あなたの言っていることは最もだが、神に対してどうして潔白を証明できようか」と答えます。しかし、ツォファルのことばには失望と怒りをぶつけます。
「あなたが死ぬと、知恵も共に死ぬ」とあります。聖書で知恵はイエス様を啓示します。イエス様は死なれましたが復活されました。しかし、ヨブは知恵が死ぬと言っています。ですから、これは神からの知恵ではなく人の知恵とみることができます。
若者のツォファルの言っていること位は自分も知っているが、この現実にどう対処して良いかわからないと言うことを訴えます。
そして共から物笑いになっていることを嘆いています。その理由は何だと5節に書かれているでしょうか。安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒すと言っています。つまり、自分だけ安心な所にいる状態で苦しむ人を助けようとしているといっています。そのような見せかけの優しさは帰って人を傷つけてしまいます。
イエス様は天から私たちを救おうとはされませんでした。神であるお方が人の姿を取ってこの地に来てくださり、私たちと同じ目線に立ち、同じような生活してくださいました。

・すべては主の御手のうちにある:7-25節
ツォファルはヨブに「お前は神様の知恵を知らない愚か者だ」と言いました。それに対してヨブは「獣でも鳥でも主の御手の中にある事を知っている」と言い返します。
11節からでは、ヨブはあることに気づきます。三人の友人は年を重ねていても年齢に応じて賢くなっているわけでないことに気づいたのです。ヨブは自分が苦しんでいます。その苦しむ者に本当に寄り添い、知恵あることばをかけてくれず、それぞれが自分の見方で自分の事を見ていることに気づきました。
しかし知恵と力とは神と共にあり、思慮と英知も神のものです。
そして、神と人とは比べることのできないほどの違いがあり、人は神に太刀打ちできないと説明しています。優れた知性もあやまって罪を犯す者も神のものであると言います。
神様はこの世の権力者さえも卑しめ、滅ぼすことのできる方であることを説明します。彼らの企みをも明るみに出されるのは主です。
私たちは神様の力をあまりにも軽く見てしまうことがあるかもしれません。神様の力は圧倒的な力です。サタンやこの世のものはあらゆるものを破壊します。嵐で大きな建物が崩れることもあるでしょう。ものすごい力が働きます。しかし、神様は破壊されるだけでなく、いのちを生み出す力を持っておられる方です。サタンも人も、新しくいのちを生み出すことはできません。私たちのとうてい及ばない圧倒的な力を持っておられるのが主です。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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