聖書通読クラブ Day 146

聖書通読クラブ Day 146【ヨブ記 7章~9章】

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シャローム!

私たちはなぜ生きているのでしょうか。今存在している世界は本当に存在しているのでしょうか。哲学的であり、まるでSFの映画のような質問ですが、これに明確に答えることができるでしょうか。
ヨブ記を通して私たちは生きることを考えさせられています。生きる事はつらいことが多いです。生きていると沢山の人との問題が生じます。面倒なことも沢山起こります。
しかし、それを経験してもあまりあるほど、人生は素晴らしいものです。二度と無いこの人生を有意義に生き抜くため、みことばから生きる意味を押していただきましょう。

今日の通読箇所:ヨブ記 7章~9章

■アウトライン

正義とは何か

●自分の存在意義:7章
  ・日々の苦役:1-6節
  ・誰も自分を見ない:7-10節
  ・むなしい日々:11-21節

●シュアハ人ビルダテの答え:8章
  ・初めは小さく終わりは大きく:1-7節
  ・影の日々:8-10節
  ・彼の道の喜び:12-19節
  ・笑いを口に満たす:20-22節

●ビルダテに対するヨブの答え:9章
  ・天地を治められる主:1-12節
  ・主は私の祈りを聞いてくださるのか:13-20節
  ・自分自身がわからない:21-26節
  ・罪あるものとされる:27-31節
  ・仲裁者がいない:32-35節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【7章】自分の存在意義

・日々の苦役:1-6節
ヨブは答えている内に様々なことを語り始めます。「地上の人には苦役がある」と言っています。その通りですね。イエス様も「労苦はその日、その日に十分ある」と言われています。
ヨブはそれに加えて、「その日々は日雇い人の日々のようだ」と言っています。雇用形態で日雇いという形は、明日の仕事の保証があるわけではありません。何のために働いているのか、目標のない日々をこのように例えています。
ヨブは何に苦しんでいるかというと、希望のない状態、自分の目的を見いだせない状態に苦しんでいます。
気づかない人も多いかもしれませんが、私たちの心的ストレスの多くは希望を失ってしまった状態からやってきます。すべてを失ったとしても、希望があれば力がわいてきます。今日を生きる力が溢れてきます。希望は私たちを生かし、前に進ませます。その望みはすべて主にあります。その希望は失望に終わりません。
4節からを見ると、ヨブは眠れない長い夜を過ごしています。もちろん肉体の苦痛もあるでしょうが、それ以上に悩みがあるからです。
多くの人は自分の健康を意識して沢山のお金や労力を使います。しかし、今日からでもお金をかけず始められる健康法をお教えしましょう。寝ることです。できたら21:00、もしくは22:00には寝ましょう。これをしばらく続けるだけで驚くほど心がすっきりします。寝ることを軸として一日のスケジュールを立てるのです。
しなければならないことがあるのなら、思い切って翌日の朝にそれをしましょう。とにかく、毎日決めた時間に寝ることにフォーカスします。
可能であれば寝る2時間前からは食べ物を口にしないのがいいでしょう。1時間前からはスマホなどの画面を見ることをやめ、部屋の照明を暖色系にして薄暗くしておきます。入浴も済ませておいてください。入浴によって体温が上昇し、それが下降するときが絶好の入眠のチャンスです。
床について眠れないと感じたら、考えることをやめましょう。そして、一日起こったことを主に感謝してみましょう。気がつくと眠っているでしょう。これは私のやり方なので、それぞれが気持ちの良い睡眠がとれるように工夫してみてください。以外にも不健康の原因は睡眠にあることが多いのです。

・誰も自分を見ない:7-10節
ヨブの告白は主に対しての告白に代わっていきます。ヨブはどのよううな告白をしているのでしょうか。その内容は生きる希望も意欲も失ったような状態です。
肉体が疲れていたら、このようにメンタルも落ち込んでしまうことがあります。この時のヨブには復活の信仰はありませんでしたが、私たちはイエス様にあって復活の信仰があります。その信仰を働かせましょう。

・むなしい日々:11-21節
ヨブの苦しみは私たちの想像を超えたものでしょう。肉体の苦しみ、希望のない苦しみがあります。
願っても死は訪れず、生きる意味を見いだすことができなくなっています。自制が働かず、本心を神様に告白しています。
本来は神様はヨブを助けてくださるお方です。それなのに、このところでは神様に対して自分を見張り、死なせてくれもせず、夢にまで出ておびえさせるお方だと告白しています。
これは正しい神様の見方でしょうか?私たちは神様を自分の考えを通して見ていないでしょうか。自分の環境に影響を受けながら見ていないでしょうか。聖書が何を言っているかに注目する必要があります。正しい神様像をみことばから教えていただきましょう。
そして、17節のみことばにいたります。これはダビデも詩篇8篇で引用しています。「ああたの指のわざである点を身、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:2-3)
ダビデは神様の偉大さを持ってこの詩篇を書いていますが、ヨブはその逆です。ダビデの視点は神様に向かっていますが、ヨブの視点は自分に向かっています。「この身の痛み、この心の痛みが神様が私を見張っておられる結果か」と言うような意味です。一言で言えば、神様に皮肉と文句を言っています。
実はこれが救いであることがわかりますか?もちろん、神様をのろってはいけません。しかし、私たちは自分の心の内を正直に神様に申し上げて良いのです。文句を言っても良いのです。嘆いても良いのです。この後通読していく詩篇でその事をたくさん見ることができます。
なぜこれが救いなのでしょうか。それは、心を打ち明け、それを受け止めてくださる方がおられるということが救いです。まだ神様を知らない方はこの思いをどこに持って良いかわかりません。ですから占いや他の宗教に頼ってしまいます。
私たちは私たちをお造りになった方に直接申し上げることができるのです。それを可能にしてくださったのがイエス様です。
21節を見ると、ヨブがすねて、だだをこねる子どものようになっています。「自分はあれほど義を行い、神にも認められたのに、自分の中の小さなそむきの罪や不義のせいでこんなにも苦しまなければならないのか」と言い、ちりの中に横たわると言っています。つまり、「死んでやる」といっています。主が探しても私はいないと言っています。私たちも同じような経験をするのではないでしょうか。熱心にみことばを読み、祈り、身を粉にして主のために奉仕しているのに、何にもしていない人が祝福され、自分だけどんどんと苦難の中を歩まされているように感じること。
アサフもまた同じような思いに至りました。あまりにも理不尽すぎると感じます。しかし、これは神様の愛です。私たちを愛するが故に、主は懲らしめを与えられます。もし何の苦しみもなく、主からの懲らしめがないのであれば、それは主にとって私生児とされていることです。主との関係がない証拠です。
つまり、私たちが苦しむと言うことは、神の子とされ、主に愛されている証拠なのです。イエス様も神でありながら苦しまれました。死をも経験されました。十字架の道のりを主と共に歩ませていただく叔父を味わいましょう。

【8章】シュアハ人ビルダテの答え

・初めは小さく終わりは大きく:1-7節
続いてはビルダテが答えます。彼はヨブのことばを「激しい風のよう」とたとえています。風は激しいですが実態がありません。ヨブの答えをそのように例えました。
エリファズはヨブに対しての配慮がありましたが、ビルダテは歯に衣着せぬ言い方をしています。
4節には興味深いことが書かれています。ヨブの子どもたちが罪を犯したから滅びたのだと言う主張です。これは本当かもしれませんし、違うかもしれません。なぜなら、ヨブは子どもたちが罪を犯したかもしれないと言っていけにえを献げていたからです。そのような親の子に対する犠牲的な愛はとても大切です。
一方、だからといって子どもたちが悔い改めなくて良いというわけではありません。子どもたちも子どもたちなりに悔い改めが必要です。この地上でのいのちの使命が終わり、主の前に立ったとき、自分の代わりに親が出てきて「この子のこの罪は…。」と言い訳してくれるのでしょうか。そんなことはありません。ヨブは子どもたちに自分で悔い改める道を教えるべきでした。
少し話がそれましたが、ビルダテはここで決めつけたような言い方をしています。新改訳では「もし」とありますが、原語を確認するとそのような事は無く、言い切るような形で書かれています。彼の思い込みの部分も多かったのではないかと思います。
そしてビルダテはヨブに対して熱心に神を求め、全能者に憐れみをこいなさいと言っています。それはその通りですが、見るも無惨な姿のヨブに今はこのことばはとても残酷に響いたでしょう。

・影の日々:8-10節
ビルダテの主張は温故知新、つまり先代の人から学びなさいと言うことです。これは確かにその通りです。どうして私たちは学校で歴史を学ぶのでしょうか。過去の人の経験を知り、それを今に生かすためです。聖書の中でも様々な人の生き方を知ることができます。それを知り、自分の行動をどのように変えるかが大切です。
もし、私たちが先人から学ぶことをしなければ文化や教育、様々な分野の発展はあり得ません。成功も失敗も過去の人から学ぶことができます。
しかし、ビルダテのことばに今ひとつ説得力が欠ける部分があります。先のエリファズは自分の体験と経験からヨブに語りかけました。しかし、ビルダテは体験からではなく知識で話しています。知識は人を高ぶらせます。(1コリント8:1)
知識だけでなく、それを体験とするときにはじめて人に勧めることができるのではないでしょうか。
またここでビルダテは「私たちの地上にある日は影だ」と言っています。これはその通りです。私たちの実態は天にあります。実態が動くと影も動きます。それが私たちの地上での人生です。神の幕屋も天の写し、影です。

・彼の道の喜び:12-19節
ビルダテは続けて神様を第一としない者がどのようなものかを様々なたとえで語ります。どれも頼りにならないものです。
たとえ私たちが地上で成功したとしても、神様がそれを取られると他の人がそこに来て成功するというようなことを言っています。
確かに、イエス様もルカの12章で、倉に一生分の食料を蓄え、これから楽して生きようと言った人に、愚か者と言われ、今夜そのいのちは取られると言われました。自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりだと言われています。

・笑いを口に満たす:20-22節
ビルダテはエリファズと違った角度からですが、結局同じ事を言ってるのがわかるでしょうか。ヨブに対して、あなたは神にそむいているから、悔い改めて立ち上がりなさいと言っています。そのような者を主は回復してくださると言っています。
この事は正しいことです。問題は、ヨブが自分が悔い改めるべき者だと言うことを本当の意味で悟っていなかった事です。

【9章】ビルダテに対するヨブの答え

・天地を治められる主:1-12節
ここからはビルダテに対するヨブの答えです。この時のヨブにとってはあり型ご迷惑のような友人からのことばは、より一層ヨブを苦しめていきます。
よく、みことばの深い意味も理解しないで、みことばの一部をとって人を裁いたり、正論を言ったりする人がいるかもしれませんが、ゆがめられたみことばは時に人の心を深く傷つけてしまうものです。
ヨブはビルダテのことばを頭では理解していました。先ほども述べましたが、問題はヨブが自分は正しい者だと思い込んでいたことです。ですからヨブは自分の弱さや罪を訴えるのではなく、自分がどれだけ正しく生きたか、どれだけ犠牲を払って主のためにささげてきたかを訴えたいのです。
このヨブ記を読むときに私たちが深く考えなければならないのは、「正義とは何か」です。多くの人は自分の正義を主張します。悲惨な結果をもたらす戦争も、国と国が自分の正しさを主張することからはじまります。夫婦げんかもお互いに自分の正しさを主張し続けることからはじまります。世の中のほぼすべての争いは正義と正義のぶつかり合いなのです。何が正義なのでしょうか?正義とは何でしょうか?どこに正義があるのでしょうか?正義を掲げて何か良いことはあるのでしょうか?人の義は人の数だけ存在します。どのようにして人々の義がひとつとされるのでしょうか。ただ神の義によってのみ、それは可能です。
5-10節では自身、天体、星々などが語られています。神の偉大さが語れています。私たちも大自然を目の前にして神の偉大さを知りますが、ヨブにとっては苦しみの方が大きくなっています。
そのような偉大な神がヨブに迫っています。自分の身に起こっていることは神様が成されたことだと頭では理解していました。それに抵抗できないことはわかっています。

・主は私の祈りを聞いてくださるのか:13-20節
ここに出てくるラハブは遊女ラハブではありません。獰猛で制御の聞かない巨獣の名前です。この生き物は後にエジプトの別名となります。たとえそのような獣を制御できたとしても、神の前では恐れることしかできないのです。
14節からを見ると、自分がいくら正しさを主張しても完全な義を持っておられる主の前では自分の義は通用しません。だから、ただ神様の憐れみにすがることしかできないと言います。
今までのヨブの歩みに対する報いが今起こっていることです。嵐で子どもたちの家が倒れ子どもたちは犠牲となり、自分の身を病が覆っています。これが祈りの答えであり、呼びかけの答えなのかとヨブは訴えます。
19節からを見ましょう。例えばうそを付いている人はいつもより饒舌になり、口数が多くなるという傾向があるそうです。
その様に、いくら神様の前に自分の正しさを述べ尽くしてもそれはかえって自分を不利にしてしまいます。ヨブはこのところでも「たとえ自分が正しくても」「たとえ自分が潔白でも」と自分の義を捨て切れていません。ですから、何をしても自分は神の前には進みゆくことができないと言っています。
しかし、これは実はサタンの罠です。私たちはイエス・キリストを信じるのなら、神の御前に大胆に進みゆくことができます。
しかし、サタンはうそをつきます。私たちをだまします。巧妙に心理に偽りをまぜ、長い時間をかけて私たちの目を神様からそらそうとします。
神が正しいと言ったことを間違いと言い、神様がしてはいけないと言われたことを「それくらい良いじゃないか」と訴えかけてきます。
自分が祈り、信仰を持って決断したことが間違いであったのではないかという不安を持ち込んできます。神様に従うことは敗者のすることであり、失敗者の証だと偽ります。信仰を恥ずかしいもののように引き下げてしまいます。自分は神の子ではなく、失格者だと言い続けます。
愛するみなさん、だまされてはいけません!みなさんの思っていることは本当ですか?本当に神様はみことばのなかからその様に語られていますか?聖霊様の声と悪魔の声、自分の肉から出てくる声を聞き分けることができますか?羊は羊飼いの声を聞き分けます。まことの羊飼いなるイエス様の声を聞き分ける耳を求めましょう。

・自分自身がわからない:21-26節
ヨブは自分は死にたいと言ったと思えば、ここでは突然「私は潔白だ」と言っています。ところがその直後に「私には自分自身がわからない」と告白しています。本当にその通りです。
あるとき、電車に乗っていて向かいにいるおじさんにみんなが注目しています。ある人はその人からそっと離れていきます。そのおじさんは一体何が起こっているかわからないというような表情で目を丸くしていました。そのおじさんの方にカマキリが止まっていたのです。
自分では見えませんが他人からは見えています。私たちの性格、内なる人の性質も同じです。自分では気づいていないことも案外周りの人はよく知っています。自分を一番知らないのは自分ではないかと思ったりもします。私たちは肉眼で自分の全身の姿すら見ることができないのです。私は本当に自分がわかりません。
22節からは礼拝者の葛藤です。神を求め続けても罪の性質はなかなか無くならず、結局滅ぼされてしまう。悪者も滅ぼされてしまう。それなら神の前で正しく生きた者も悪者も同じでは無いかと言うことです。そして結局は悪者がこの地にはびこってしまうのではないかと言っています。
みなさんの中には「神様を信じると良いことがあるよ」と言って伝道された方はいますか?良いことがありましたか?もちろん数えきれないほどあると思いますが、実際はそれ以上に大変なこと、信じる故に通される苦難が多かったのではないでしょうか。
信仰を持っていることが損に思えることがあるかもしれません。それはこの地上の価値観で信仰をはかっているからです。損得勘定で信仰を見ているからです。そのような価値観で信仰を見るなら、損なことしかないでしょう。
イエス様はどうでしょうか。全知全能の神であられるお方が非常に制限された人の形を取ってこの地に来てくださいました。地上のだれよりも正しく歩んだのにも関わらず、人々からののしられ、つばをかけられ、むち打たれ、十字架にまでつけられました。神様にとってこんな損な事は無いのでは無いでしょうか。なぜイエス様はその様な事をされたのでしょうか。そこまでして、私たちを愛してくださるためです。神の愛は損得勘定ではありません。イエス様は私たちを、ただ愛してくださいました。そこに理由はないのです。
ですから、もしこのヨブのような気持ちになったら、イエス様の十字架を思い出しましょう。苦しくいばら道に見えるような歩みは、実は喜びの道のりなのです。
それでも、自分に起こっていることが理不尽で理解できないと感じるのであれば、理解することを放棄するという選択もあることを覚えましょう。私たちは神様のされることを完全には理解できないのです。わからないことはわからないとする勇気も必要です。

・罪あるものとされる:27-31節
このような事を言ったら失礼かもしれませんが、ここを見るときにヨブの陰険さというか、いやらしさの一面を見ることができます。
「どうせ私は罪のないものとなれないのでしょう」と言っています。その実、ヨブは自分の深いところにある罪におびえているのです。結局苦労して神様のために生きても罪あるものとされ、墓に突き落とされるのだと言っています。
これは本当でしょうか?

・仲裁者がいない:32-35節
ここでヨブの口から驚くべきことばが出てきます。「仲介者」です。神と人との仲介者は誰でしょうか。イエス・キリストです。このお方の十字架の死によって神殿の幕は上から下まで一気に裂けて、至聖所への道が開けました。私たちと神との間には、私たちの罪が壁のようにそびえ立っていましたが、イエス様は私たちの罪を一手に背負ってくださり、十字架の死と葬りと復活によってその隔ての壁が打ち壊してくださいました。
このお方こそ神と人との仲介者です。確かにこの時のヨブには仲介者はいませんでした。今の時代にヨブが生きていたら、真っ先にイエス様の福音をつたえてあげたいです。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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