聖書通読クラブ Day 145

聖書通読クラブ Day 145【ヨブ記 4章~6章】

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シャローム!

みなさんはヨブ記をどのようにとらえていますか?以外に長く、友だちとずっと議論している書物のように考えていないでしょうか。
それはその通りです。そして読んでいて苦しいときがあります。それはなぜかと言えば、ヨブのことばに注目するとわかります。友のことばに答えるときヨブのことばのなかにあるキーワードが繰り返し出てきます。それは「私」です。
ヨブは義人でした。しかし、彼のことばから出てくるのは「私、私、私」です。6節を見てみてください。毎節のように「私」と書かれています。ここから何がわかるでしょうか。確かにヨブは義人でしたが、その心の中心は神ではなく自分でした。
ヨブに襲いかかった災いによって彼の奥深い隠れていた罪、最も恐ろしい罪、自己中心という罪があらわにされていきます。
これからしばらく友人との会話が続いていきますが、その中でヨブの自己中心を読み取ってみましょう。そして、ヨブから学びましょう。自分たちもそのようにならないように。

今日もみことばを朗読し、教えられていきましょう。

今日の通読箇所:ヨブ記 4章~6章

■アウトライン

冷たい真実なことば

●テマン人エリファズ:4章
  ・自分にふりかかると耐えられない:1-11節
  ・人は神の前に正しくありえようか:12-21節

●破壊と救い:5章
  ・人は生まれると苦しみに会う:1-7節
  ・救われる神:8-16節
  ・神に責められる幸いな人:17-27節

●ヨブの答え:6章
  ・量られる苦悶の重さ:1-7節
  ・苦痛の中で喜ぼう:8-13節
  ・まっすぐなことばは痛い:14-27節
  ・私の口に不正があろうか:28-30節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【4章】テマン人エリファズ

・自分にふりかかると耐えられない:1-11節
7日間の沈黙を破って、エリファズが最初にヨブに語りかけます。おそらく、三人の友人の中で最も年長者であり、ヨブを一番心配していたのでしょう。
エリファズはことばを閉じ込めておくことはできないと言っています。目の前に死を願っている友人がいるのであれば、当然の反応でしょう。どうにかして大切な友人に立ち直って欲しいとありったけのことばをかけるでしょう。
3節からを見ると、エリファズが古くからヨブの素晴らしさを知っていたことがわかります。しかし、目の前の変わり果てた姿のヨブから出てくることばは別人のように感じます。
エリファズはその原因をはっきりといいます。「人にはそのように指導していたが、自分に災いが降りかかると耐えられないのだ」と。これはヨブと親しい関係の中で叱咤激励することばにも見えます。「あのときの君はこうだったのに、今は別人の要じゃないか」と。
ところが今のヨブにはそれを励ましと受け取れません。エリファズも弱い者に同情できず、自分の価値観を人に押しつける人です。
ヨブの友人はそれぞれ自分の視点からヨブにことばをかけます。ここからはエリファズの考え方を見ることができます。彼は「罪から来る報酬は死である」という視点を持っています。それ加え、人生の経験から「苦しみは罪から来る」という視点も持っていました。
8節には種まきと刈り取りの法則が書かれています。
しかし、本当に苦しみは罪から来るのでしょうか。ヨブは神様が認める正しい人ですが、それでもこのような苦難が襲っています。私たちも聖書の示すとおりに生きているつもりなのに、次々と「まさか」と思えることがやってきたりします。
一方、悪いことばかりをしているように見える人がうまくいっていたり、私たちの理解を超えたことが現実に起こっています。
これが私たちの心の葛藤の原因でしょう。「どうして良いことをしているのに災難が来るのか」と考えてしまいます。「この災いの原因は何か」というのがわからないときが一番苦しい者です。
病気であっても、原因がわからないときには大きな不安がありますが、医師によって病名が特定されたら、それに対して治療を行っていけばいいだけです。
人生の苦難の原因を知りたいがために、イエス様を知らない人は占いや人生相談、他の宗教に傾倒したりします。この原因は何でしょうか?どうしたら原因を知ることができるのでしょうか。
答えは「わからない」です。これは神様の領域です。これを知ろうとするのは自分が神の領域に達しようとすることです。確かに原因を知れば安心しますが、霊的な領域に関しては人の領域、神の領域があることを知っておく必要があります。
いくら考えても原因がわからないときには、それを神様にお委ねして、そこから脱出できるように、試練に耐える忍耐力が与えられるように、守りを主に願うと良いでしょう。
理由のわからない苦しみの原因は神様です。このお方は私たちを滅ぼすためではなく、愛している故に、私たちを成長させるためにそのようにされています。

・人は神の前に正しくありえようか:12-21節
エリファズの証しが書かれています。この恐怖にも似た霊的な体験で聞いた声は「人は神よりも正しいだろうか。人は造り主の前にきよくありえようか」と言うことでした。この体験から、知恵が無いために死んでしまうと言う結論に持っていっています。
エリファズの言っていることはその通りです。模範解答のような答えです。しかし、自分の体験も、正論も、その根底に愛がないなら何の意味もありません。
エリファズは確かにヨブに7日間寄り添いました。大きな犠牲的愛です。しかし、口を開く中で自分の主張をヨブに押しつける傾向を見ることができます。
私たちもエリファズのようなことをしていないでしょうか。私はこの箇所を読んでいて、神様からの強い悔い改めの促しがありました。私はエリファズのように正論をかかげ、それを弱っている人に押しつけていました。彼らの置かれている状況、気持ちに寄り添うことができていませんでした。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
自分が正しいと思ったことが正解とは限りません。自分が体験したことが相手にそのまま当てはまるわけではありません。神様の知恵と愛が必要です。

【5章】破壊と救い

・人は生まれると苦しみに会う:1-7節
年長者のことばは説得力があります。人生の経験から、エリファズはさらにヨブにたたみかけます。「あなたは全能者にはむかっても、あらがうことはできないのだ」と。
そして、「人は生まれたら苦しみに会うものだ。」と悔い改めを押しつけています。悔い改めは人から押しつけられてする者ではありません。神の慈愛が悔い改めへと導くのです。

・救われる神:8-16節
そして、今度はエリファズは自分ならこうするという事を述べ始めます。天候をも治める神に尋ね、訴えるというのです。ヨブはこの事をしていないのでしょうか。おそらく、エリファズよりもこの事を行っているのではないかと思います。
そして続けます。低く悲しむ者を引き上げ救われると。しかい、悪賢い者のたくらみを打ち壊すと。
これは、暗にヨブが悪賢いからこうなったのだと言いたいのでしょうか。しかし、このエリファズの言ったことは真実です。山上の垂訓でも、心の貧しい者は幸いであり、天の御国はその人たちのものであると語られています。
この貧しさとは物質的な貧しさではなく、へりくだった心、悔いた心です。私たちはいつも主に対して飢え乾く心を持っていたいですね。主は高ぶる者を退けられ、へりくだる者に恵みを注いでくださいます。

・神に責められる幸いな人:17-27節
エリファズの最初の語りかけの結論がここにあります。それは「主から懲らしめを受けるなら、必ず主は回復してくださる」と言うことです。つまり、神に責められる人は幸いな人だということです。
この主に対して抵抗することはやめて、今の現実を受け入れて赦しを求めなさい。という内容です。
エリファズは正直、変わり果てたヨブの姿と、彼から発せられる彼らしくないことばに動揺し、このような事を内心焦る心を持って発したのではないかと思います。
今の時代こそ、このヨブ記を学ぶ必要があると感じます。なぜなら、今の時代ほどそれぞれの人が自分の正義を掲げる時代はなかったからです。SNSなどを通じて気軽に発信できる時代ですので、声の大きな影響力のある人が「これが正しい」と発信すると「そうだ」と言う人と「違う。こっちが正しい」という意見が衝突し、それがあらゆる分野で起こっています。
人は面白いもので「自分が正しい」ということは必死で訴えますが「自分は間違っている」ということをSNSなどで必死に訴えかける人はいません。
ある意味、私たちは正しいのですが間違っています。私たちの正義が神の正義とずれてしまっていることがあります。
私たちはどうすれば良いのでしょうか。神のみことばの前にへりくだることです。自分の正義を捨てて、神の義をみことばから教えていただくことです。
そして、その正義を人に押しつけないということです。むしろ相手を受け入れ、相手の話を聞くだけで十分かもしれません。苦しんでいる人は多くの場合、アドバイスを求めておらず、ただ話を聞いて欲しい、一緒にいて欲しいと願っていることが多いのです。
その時その時、なにが一番正しいのかをいつも神様に祈り、隣人に愛を流し出していきましょう。

【6章】ヨブの答え

・量られる苦悶の重さ:1-7節
エリファズのことばに対してヨブが答えます。エリファズのことばに応答しています。自分のことばが激しかったのは自分の苦悩の緒m差が量られたからだと言っています。
エリファズは神からの懲らしめをないがしろにしてはならないと言いましたが、ヨブは自分に起こったことはあまりにもひどすぎ、これは度を超えた神からの毒の矢であり、脅かしだと言っています。
5-6節はユニークなたとえが羅列されています。野ロバや牛は餌があれば鳴きません。つまり、ヨブは自分に餌、つまり何の思い当たることもないのに不当に苦しみを受けているということが言いたいのです。そして、エリファズのことばに対しては味のない塩、卵のしろみだと言っています。つまり、エリファズのことばは自分にとってそのようなものだと言っているのです。彼のことばは自分にとってお門違いであり、意味を成さないことだと言っています。

・苦痛の中で喜ぼう:8-13節
ヨブは神様の願いなら砕かれることをも願っています。もしヨブが自分の死に目的を見いだすならば、死をもいとわないと言っています。
ところがヨブは今の自分の置かれている状況の目的を見いだすことができません。なぜこの苦しみが与えられているのか。いつまでこの苦しみが続くのか。ヨブは肉体の苦痛よりもこの目的を見いだせない方が苦痛でした。
11節からを見ると、ここでも自分の生きている意味を見失っています。自分の内には何の助けもなく、何の希望も無い状態を嘆きます。
私たちもヨブのように自暴自棄になってしまうことはないでしょうか。今までの自分の人生を振り返ってみてください。その事で今の自分になにか不利益があったでしょうか。確かにあのときは苦しかったのですが、今となってはなぜあれほど苦しんでいたかわからない部分もあるのではないでしょうか。
生きていること、いや、生かされているだけでも、それは偉大なる奇跡です。私たちは自分の力で動いている心臓を止めることはできません。息を止めても、死に至る前に息をしてしまいます。私たちの体は生きるように造られています。ですから、たとえ心を苦しめる事があり、このヨブのように生きている意味を見いだせなくても、いのちを無駄にしないでください。主が与えてくださったいのちを自分の手で終わらせてはならないのです。主は回復の主です。

・まっすぐなことばは痛い:14-27節
ヨブとエリファズは長年の共でした。しかし、この時、ヨブはエリファズのことばに深く傷つきました。
今こそ助けと励ましが必要なのに、エリファズは余計に自分を苦しめているということを、荒野で突然流れを変える川にたとえています。
ヨブはエリファズなら自分をなんとかしてくれるのではないかと淡い期待を持っていました。しかし、それはヨブの期待を裏切ってしまいました。その期待が大きかった分、失望も大きなものとなりました。
そして21節では、訪ねてきた三人の心を代弁して「恐ろしい事を見ておびえている」と言っています。エリファズは何か声をかけなきゃと思ってヨブに声をかけましたが、それはヨブにとって味のない塩のようなものでした。ヨブの心を満たすものではありませんでした。
ヨブが求めていたのは財産でも敵からの救いからでもなく、励ましのことばでした。
そして、ヨブのことばは私たちに深い考えを起こさせます。「まっすぐなことばは痛い」と言っています。これは本当にその通りです。
私は未熟なので、この事で本当に沢山の人を傷つけてしまいました。本当のことをそのままことばにして相手に渡してしまうと、その真実があまりに正しいので、受け取る側には冷たく感じてしまいます。冷たい真実です。
思ったことをそのまますぐに口にしてはいけません。一度口から出そうになったことばを飲み込み、神様の御前に持っていき、それから相手の立場になってことばを発すると良いでしょう。
ヨブはあえて、そのまっすぐなことばを求めました。その事で心は痛みますが、回復へと向かい、答えとこの事の目的を見いだすことができるからです。

・私の口に不正があろうか:28-30節
ヨブは友人たちに「今、思い切って私の方を向いてくれ」と言います。おそらく訪ねてきた友人たちは、ヨブの皮膚や体を見て、ことばを失うほどでしたから、直視できないでいたのでしょう。
しかしヨブは、それ以上に自分の見た目ではなく、私の心を見てくれと訴えているのではないでしょうか。
私たちは人を見た目で判断してしまいます。しかし、その目は正しいでしょうか。その人の内なる人を見つめているでしょうか。私たちの視点は案外当てになりません。人を見た目で判断してしまう傾向があります。
ではどうすれば良いのでしょうか。相手を見るとき、その人の中にある弱さではなく、キリストのご性質を見るようにするのです。
また、相手の良いわけをいつも考えてあげるように見ていくのです。人を公平に見ることはとても難しいことです。しかし、私たちが神の目線と同じ目線に立たせていただけるのであれば、そのような見方ができるのではないでしょうか。
そのためにもみことばに触れ続けましょう。みことばの文化の中に生かされましょう。神を熱心に求めるなら、自分を正しく愛し、隣人を愛することができます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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