聖書通読クラブ Day 85

聖書通読クラブ Day 85【サムエル記 第一 19章~21章】

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シャローム!

サウルはゴリヤテを倒し、ペリシテ人を次々に倒していきました。順風満帆に見えますが、大きな問題が立ちはだかります。サウル王のダビデに対するねたみです。それはやがて殺意に変わります。
ダビデは王としての油を注がれましたが、逃亡しなければなりませんでした。孤独で苦しく、辛い時期です。しかし、この期間に多くの詩篇が書かれ、この期間を通してダビデはさらに練られていきました。
荒野とは、ヘブライ語で「ことばのある場所」と言う意味です。人生の荒野を経験しているなら、そのときこそ神様のみことばを聴く機会です。

今日もみことばに教えられていきましょう。

今日の通読箇所:サムエル記 第一 19章~21章

■アウトライン

友情

●サウルのダビデへの憎しみ:19章
  ・ダビデを殺す計画:1-7節
  ・わざわいの霊に悩まされるサウル:8-10節
  ・ダビデを逃がすミカル:11-17節
  ・ナヨテ:18-24節

●ダビデとヨナタンの合図:20章
  ・さあ、野原に出ましょう:1-17節
  ・ヨナタンとの取り決め:18-23節
  ・新月祭の食事:24-34節
  ・子どもによる合図:35-42節  

●逃亡生活:21章
  ・聖別されたパン:1-6節
  ・ドエグ:7節
  ・ゴリヤテの剣:8-9節
  ・気の狂ったふり:10-15節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【19章】サウルのダビデへの憎しみ

サウルは心の中にあることを公言してしまいます。ダビデへの殺意です。しかし、サウルの息子、ヨナタンはダビデを愛していたので、サウルの気持ちを伝え、身を隠すことを勧めます。
ヨナタンは父に逆らうことよりもダビデを愛することを優先しました。しかし、どちらを優先すればいいか、難しい立場です。
4-5節を見ると、ヨナタンは必死に父にダビデの良いことをプレゼンテーションしています。ダビデをなんとか助けようと努力しています。
その結果6節でどうなったでしょうか。しかし、サウルはダビデを「あれ」と読んでいます。本当の意味でダビデを赦していなかったのかもしれません。
7節、ヨナタンは行ったり来たりしてサウルとダビデの間を取り持ちます。素晴らしい働きです。そのおかげで、ダビデは以前のようにサウルに仕えました。
私たちも誰かの間に入るとき、ヨナタンのように公平にお互いを愛し、お互いのいいところを見て、お互いの良いところを伝えられたら素晴らしいですね。

8節から、ダビデはまた戦いに行きます。そして、勝利します。その結果、またサウルからねたまれます。
サウルはなぜこうなってしまうのでしょうか。それはダビデしか見ていないからです。いつも人と自分を比較しています。それで、「自分はだめだ」と思うのはそねみの罪です。「あいつが憎い」というのはねたみの罪です。
それでは、どうしたらここから解放されるのでしょうか。それには、神を見上げる必要があります。ヤコブ書4:7には「神に従い、それから悪魔に立ち向かうなら、悪魔はあなたから逃げていく」とあります。必要以上に人と比較する必要はありません。ひとりひとり違うように創造されているのですから、他人と比較すること自体が間違っています。
サウル王はわざわいの霊に支配され、ダビデを殺そうとします。9節は興味深いコントラスをと見ることができます。サウルは槍を持ち、ダビデは竪琴を持っています。これがそれぞれの武器です。
サウルはダビデを殺そうとしますが、ダビデは身をかわして難を逃れます。羊飼いとしての身体能力が功を奏しました。そして、サウルは罪を犯さずにすみました。

11節から、サウルは使者を遣わしてダビデを見張り、殺すことを計画します。しかし、ここでもダビデは助け手を得ます。妻のミカルです。ダビデにこの計画を告げ、逃がします。そして、寝床にテラフィムとやぎの毛でダビデが寝ているような状況を作ります。知恵があります。ミカルもダビデを愛していました。ダビデは多くの人に愛される器です。ところがミカルのダビデへの愛はヨナタンほどではありませんでした。父に対してダビデのことをどのように言っているでしょうか。17節を見てみてください。
ミカルはティラフィムという偶像を持っていたことからも、愛が一途ではないと言うことが伺い知れます。
ダビデの逃亡生活のはじまります。

18節から、行き場のないダビデはサムエルの所に行きます。ダビデの心を理解してくれるのはサムエルくらいでしょう。彼らはナヨテに行って住みます。そこには預言者学校がありました。
ところが、ダビデがナヨテにいることがサウルにばれてしまいます。そこでサウルは使いを遣わしますが、神の守りによって三度ともダビデをとらえることはできず、預言しました。
サウルも自らナヨテに行きますが、サムエルの前で預言し、裸で倒れ、一昼夜過ごしました。ここでの裸は王の服を脱いで、一般の人と同じになったという意味です。ここでもまた「サウルもまた、預言者のひとりなのか」と言われています。
神様のご臨在の満ちるところには火の城壁があります。主ご自身が守ってくださるので、どんな敵もどんな武器も役に立ちません。
私たちの周りも主ご自身が、御使いが、また、信仰の証人が取り囲み守っていてくださいます。

【20章】ダビデとヨナタンの合図

ダビデはサウルの殺意を確信します。それで、ヨナタンの所に行き、どうしてこうなっているのかと心を分かち合います。
自分に非がないのになぜこれほどまでに命を狙われるのかが理解できなかったのです。
ダビデは精神的にも追い詰められていました。3節の後半には「私と死との間は、ただ一歩の隔たりしかない」と言っています。
私たちもいのちの危険を感じることがあります。その時、私たちは何を思うでしょうか。

ヨナタンはサウルの気持ちを確かめようとします。ちょうど新月祭があります。そこでダビデが二日欠席したときのサウルの態度で確かめようとします。
8節と9節は、ダビデとヨナタンの友情を見ることができます。8節でダビデは「真実を尽くしてください」と言っていますが、これは恵みという言葉と同じです。

ヨナタンが実行しようとしていることは、いわばスパイ行為のような者です。それがサウルにばれたらヨナタンの命も危ないです。
しかし、その結果をどうにかしてダビデに知らせなければなりません。どのようにして知らせるのでしょうか。
これはお互いの命をかけた極秘ミッションです。14-15節では、ヨナタンが恵みを施してくれと言っています。なぜでしょうか。
それは、王権が交代したときには身内が皆殺しされるのが当時でした。だから、ヨナタンは自分の家族には憐れみをかけてくれと言っています。
そして、ダビデとヨナタンは契約を結びます。

18節からを見ると、ヨナタンの知恵が光ります。エゼルの石とありますが、エゼルとは神様からの救済という意味です。
ヨナタンはダビデにサウル王がダビデを本気で殺すかどうかをどのように伝えるのでしょうか。20節からを見てみましょう。
子どもを使って、矢を放ち、こちら側といえば殺意はなく、あちら側というと殺意があるという二人だけにわかる暗号です。
親密な関係の中、このような事が行われます。みなさんも昔、親しい友達の中だけで通じることばを遣っていたことはないでしょうか?
神様との関係も同じです。私たちが日々神様を慕い求めるなら、神様は心を分かち合ってくださいます。みことばが私たちのたましいに直接語りかけます。このような関係になりたいです。

さて、サウル王の心はどちらだったでしょうか。残念ながら本気でダビデを殺そうとしています。ダビデにたいして「ばいたの息子」というひどい呼び方をしています。信仰と人格、両方の成熟が必要ですが、サウルはその両方とも持ち合わせていませんでした。

35節から、先ほどのダビデとヨナタンの間だけでわかることが実行されます。矢は子どもの向こうにあります。ダビデは急いで逃げなければなりません。
41節からは、ダビデとヨナタンの別れです。これを読むときにダビデとヨナタンと一緒に泣いてしまいそうです。いつでも別れはさみしいです。お互いの友情を何度も確かめ合い、ダビデは出て行き、ヨナタンは町に帰りました。

【19章】逃亡生活

ダビデの孤独な逃亡生活が始まります。まずダビデが訪れたのはアヒメレクという祭司のところでした。
ダビデはサムエルという預言者を頼りに訪れ、続いて祭司のところに訪れています。ダビデがいつも何を大切にしていたかを知ることができます。
しかし、アヒメレクはなぜここを訪れたのか疑問に思い、ダビデに聞きます。
2節で、ダビデは本当の事を言い出せませんでした。おそらく、説明しても理解してもらえないと思ったのかもしれません。
しかし、ダビデは空腹でした、そこでパンを求めます。すると祭司は聖別されたパンを渡します。これは聖所のパンの台の上に供えられた12のパンです。これを安息日ごとに新しいものと取り替えます。その古いパンがちょうど祭司の手元にあったのです。
ところがレビ記24:5-9を見ると、このパンは祭司が食べることが定められています。では、なぜ祭司ではないダビデがこのパンを食べたのでしょうか。それは、困っている人に施すことが大切だったからです。最高の律法は、隣人を愛することです。アヒメレクはこの事を実行しました。

7節、ドエグという者が出てきます。エドム人です。しかし、彼は主の前に引き止められていました。ダビデを殺そうと思ったら殺せる所にいながら、主がそれを許されなかったのです。2テサロニケ2:6-7を見てみましょう。

ダビデは今度はアヒメレクにパンではなく剣を求めます。すると、なんと自分が少年の頃倒したゴリヤテの武器があったのです。
ダビデは祭司にパンと剣を求めました。その両方ともみことばを象徴するものであります。ダビデはいつもみことば、つまり神様ご自身を求めていたのでしょう。

10節から、ダビデはガテに移動します。ここはペリシテ人の町です。なぜダビデは敵の町に行ったのでしょうか。身元がばれたら大変です。なぜなら、ダビデは多くのペリシテ人を打ち倒してきたからです。
ダビデがペリシテ人の町に来た理由は、サウルから逃れるためです。敵の中に紛れ込む作戦です。
しかし、ダビデの名声はこの町にも届いていました。すぐにばれてしまいます。そこでダビデは狂ったふりをしてこの難を逃れます。まるで、尻尾を切ってでも敵から逃げようとするとかげのようです。捨て身の作戦でダビデはここを逃れることができました。
この時に作られたのが詩篇34篇、56篇でしょう。開いて読んでみましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. ヨナタンとダビデの友情が描かれているこの箇所は、聖書の中でも好きな個所の一つです。

    自分のことのように愛し、「友の為に命をすてる、これ以上に大きな愛はない」と言われた主イエスが身をもって教えられた愛だと思います。
    私もヨナタンのように愛する主イエスに仕える力が欲しいです。

    信仰的にも人格的にも反面教師にしたいサウル王から、ヨナタンのような王子が生まれ育つことがあるのですね。

    ダビデは、自分の命を狙うサウル王から逃れて敵地に紛れ込んで、
    身を隠している窮地で、この詩編34篇 56篇の告白ができるのは、
    いかに日頃から、主と共に正直に歩み、あらゆることに賛美する霊性を培われていたかと、感動します。

    が・・・もしも
    また私の妄想が始まるのですが・・・

    ①嘘をついて、食べ物を求めたり、
    ②偽って武器を求めたり、
    (ゴリアテを倒した時、ダビデはゴリアテとは対照的に世で強い武器を持っておらず、信仰とみ言葉の宣言、石ころで勝利したのに、ここでは、その時自分が倒したゴリアテの武器をもらって「それに勝るものはない」と神の武具ではなく、世の武具を喜んでいます。)
    ③知恵の行動のつもりでしょうけれど、気が変になったふりをして隠れたり、

    こんなことを一切せずに、隠れず今まで主がしてくださったことを証して、ゴリアテを倒した時の信仰の道から外れなかったら、王の油注ぎを受けている者の尊厳を失うことなく、ダビデにくみしたと言われた人々(祭司の長、および85人の祭司とその妻たち)を死なせなかったと思いました。

    Ⅰサムエル記22章18節から19節
    18 王はドエグに言った。「おまえが行って祭司たちに討ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが行って、祭司たちに討ちかかった。その日彼は、亜麻布のエポデを着ていた人を八十五人殺した。
    19 彼は祭司の町ノブを、男も女も、幼子も乳飲み子も、剣の刃で討った。牛もろばも羊も、剣の刃で。

    神に信頼してより頼んでいる間だけ周りに対しても祝福となり、そうでないと周りを悲惨にも巻き込んでしまうのでね。

    昨日どんなに油注がれて華々しい勝利があっても、昨日の油注ぎでは勝利できません。
    弱く貧しいことを自覚して今日、主との新しい交わりを求め確固たる愛の確信と力を受け取らなければならないと思います。

    ゴリアテの剣を見た時、その剣でゴリアテ自身を救えなかったことを思いだすべきだったと思います。

    私も窮地に追いやられた時に、そこまで考えが及ぶのかは分かりません。
    本音を言いますと、とても自信がありません。
    あの勇敢なダビデでさえこうなのですから。
    まして私は力ないことを実感する日々です。
    主により頼むしかありません。

    一見厳しく迫ってくる主のみ言葉なのですが、聖書の翻訳一つにしても、現在までに多くの犠牲が払われて来たことを当たり前と思わず、赤裸々に描かれているみ言葉を学べる時代に生きる恵まれた特権と主イエスの十字架の血潮を無駄にしたくないという思いが起こされます。

    Ⅱコリント人への手紙10章3節から4節
    3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
    4 私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。

    Ⅰコリコリント人への手紙10章11節から13節
    11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
    12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
    13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

  2. ダビデは苦しい時も主に信頼し、主に感謝をささげていたことが分かりました。

中林 千恵子 へ返信する コメントをキャンセル

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