シャローム!
申命記をヘブライ語のタイトルで見ると「これらは、ことばである」というものになります。そのとおりに、申命記では何度も何度も何度もみことばを聞き、それに従うことがどれほどの祝福かが繰り返されます。
みことばはみおしえ、みおきて、みおしえ、戒め、律法など、様々なことばで書かれていますが、すべてはみことばを指しています。
今日の箇所は非常に重要な箇所になります。
共にみことばを味わい、教えられていきましょう。
今日の通読箇所:申命記4章~6章
■アウトライン
聞きなさいイスラエル
●従順のススメ:4章
・みおしえとその目的:1-8節
・主の契約と偶像礼拝の禁止:9-24節
・主への忠誠の勧め:25-40節
・ヨルダン東ののがれの町:41-43節
・モーセのメッセージ:44-49節
●モーセの第二のメッセージ:5章
・十戒:1-21節
・十戒を与えられた民の反応:22-33節
●シェマ・イスラエル:6章
・みおしえと生活:1-19節
・みおしえと教育:20-25節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【4章】従順のススメ
モーセは3章までの今まで歩んできた道のりを振り返り、語った上で「今イスラエルよ。…私の教えるおきてと定めとを聞きなさい」と勧めます。
「聞く」と言うのは単に音声を耳に入れることではありません。従うという行動までを含めて聞くという意味です。
何に聞き従うのでしょうか。それは「おきてと定め」です。おきては刻み込む、彫るという意味で、定めはさばきの意味です。神のことばを心に刻み込む事です。
入れ墨は一度入れると取り去るのに大変です。みことばを心に刻み込むのです。何度も何度も朗読して刻み込むのです。見た目の派手さを誇るのでは無く、心に刻まれたみことばを誇りましょう。
そうするならどうなると1節に書かれているでしょうか?聞き従うことに報いがあります。
2節ではみことばに付け加えたり減らしてはならないことが書かれています。黙示録22:18には何と書かれているでしょうか?
3節と4節はコントラストがあります。4節の「すがって」とありますが、本来の意味は「しがみついた」と言う意味です。ヤコブがヤボクの渡しで神と格闘したようなものです。この信仰があるでしょうか?
5-6節では行いが強調されています。本当に信じている者は行動します。行動したくなるはずです。もしそうでないなら、祈りましょう。
そうすればどうなると書かれているでしょうか?マタイ5:14-16を見てみましょう。
7-8節、アーメンとしか言えません。これが救いではないでしょうか?「神様、助けて!」と言って本当に助けてくださるお方が私たちの神です。すべてを創造され、すべてを治めておられるお方です。このお方に直接助けを求めることができ、実際に助けてくださるというのは本当に幸いなことです。
9節、ピリピ2:12を思い起こさせる箇所です。そして、大切なことはこの信仰を私たちで終わらせないことです。教えることが大切です。モーセがしたように、信仰のバトンを渡す必要があります。
人は何かを教えるときに、実は教える本人が一番の学びになります。子どもや孫(実際の子孫も霊的な子孫も)に教えることは、隣人を愛すると言うことです。
10節、ここに第一の戒めと第二の戒めがあるのを見ることができるでしょうか?これが私たちのこの地上で生きる意味、存在意義です。
永遠という時間の中で限られたわずかな「今」という時間をどのように生きていきますか?
16節からは偶像を造ってはならないことに言及されています。
かみのみおしえと定めは心に刻まれる必要があります。しかし、16節の冒頭に書かれているとおり、「堕落」があるところでは、それが表に出てきてしまい、彫像として現れます。
これは何も彫刻家を排除しようとしているのでは無く、礼拝の対象を造ることを禁じています。
「男の形と女の形」とありますが、これは当時、バアルを男の形に、アシュタロテ(バアル)を女の形に作りそこで不品行、性的な堕落があったのです。
人の心の願望(イメージ)が偶像を造り出してしまいます。それを神よりも高く上げてしまわないよう、注意が必要です。
19節にあるよう、天体の礼拝も禁止されています。私たちに感動を与える宇宙の星も神の創造物であり、礼拝の対象ではありません。それを創造された主を礼拝しましょう。
この後、ずっと人の手で造ったものに対する警戒が書かれています。それほどこの事柄は重要なことです。今の私たちにも本当に重要な事です。
しかし、私たちは弱いので直ぐに神様以外の物に頼ろうとしてしまいます。そのたびに神様に立ち返りましょう。29-30節を見ても、その事がわかります。すべてのことを通して神様に立ち返ることができることを感謝します。
31節が私たちの信じている神のご性質です。
39-40節、死を目前にしたモーセのたましいの叫びのようです。どこかの塾講師のようで軽く聞こえてしまうかもしれませんが、これは真理です。40節にあるように、主のおきてと命令にいつ従うのですか?明日はもう無いかもしれません。私たちは「今」しか生きることができないのです。
【5章】モーセの第二のメッセージ
1節の最後、おきてと定めをどうしなければなりませんか?三つの行動指針があります。聖書は具体的に行動を示してくれています。あとは私たちが行うかどうかです。
2節では神が人と契約を結ばれたとありますが、3節では誰と結ばれたと書かれていますか?ここに私たちも含まれます。イエス・キリストを信じる者は新しい世代の者だからです。
6節からは十戒が今一度語られます。21節までを朗読し、10の戒めを改めて書き出してみましょう。
22節からは、十戒を与えられた民の反応が書かれています。
25節、当時の人々はどのような神感を持っていたでしょうか?このところから、神を非常に恐れていたことがわかります。今の私たちはどうでしょうか?神様に対しての本当の恐れがあるでしょうか?神様の価値をあらゆるものを通して低くしようとするのがサタンの働きです。唯一恐れを抱くのは死でもサタンでも無く、このたましいを生かすことも滅ぼすこともおできになる唯一の神のみです。
29節、神様は私たちの心の声をお聞きになります。本当にそうなりたいと心から願うなら、そしてその願いが主の御心にかなうなら、主は天から私たちをとりなしてくださり、そのとおりになること、つまり、主の戒めに従えるように助けてくださいます。実はこの事、主のいましめに従えるということは、この地上で最も幸せなことです。
【6章】シェマ・イスラエル
1-3節には、主のおきてと定めの目的、報いが書かれています。私たちの心に平安がないのであれば、この神のおきてと定めからずれてしまっていることがあるかもしれません。みことばを刻み、自分のたましいに教えましょう。
4節から9節。これは本当に、本当に、本当に大切なみことばです。旧約聖書で他の箇所を忘れたとしても、この箇所だけは絶対に覚えましょう。これが新約聖書で語れている第一の戒めだからです。第一を守ることができなければ第二の戒めも守る事はできません。ここがすべての始まりです。
この箇所だけで相当なページ数の本が書けるほどの内容ですが、簡単にお伝えします。
4-5節は全体のサマリー(要約)もしくは宣言です。聖書ではこのようにまず宣言がなされ、その後に具体的な事が説明されていきます。
創世記1章でも「はじめに神が天と地を創造した」とあり、その後具体的にどのように創造されたかが語られます。
では、どのように全心、全霊で神を愛することができるのでしょうか?それが5節から9節までの内容です。
まずはみことばを心に刻むことです。ハヤーということばが使われています。単にみことばを暗証するのではなく、この意味は「みことばと共にある、自分自身がみことばとなっていく」と言う意味です。そのためにはまずみことばを覚える必要があります。そして、無意識でもみことばがあふれてくる状態になったのであれば、それはハヤーの状態です。これが主を愛することです。
次に子どもたちによく教え込むことです。シャナーです。鋭い先のとがったもので刻み込むという意味です。
子どもたちにとっても、教える者にとっても、みことばは痛いときがあります。それでも、みことばを守り行うチャレンジをすることは主を愛することであります。
そうして、みことばを唱える必要があります。ハーガーです。詩篇1編を読んでみましょう。その祝福にあずかれます。これが主を愛することです。
みことばを手と額に置くこと、これは私たちが何かを行うとき、また考えるとき、いつもみことばを第一としてそれに従っていくことです。
門柱と家にこれを書き記すことは、家に入るときも家から出るときもいつもみことばを思い巡らすと言うことです。
つまり、みことばと一体となること、みことばの人となることが主を愛することであることがわかります。
16節、イエス様はこのみことばを用いて悪魔の誘惑を退けられました。神様は私たちを試されますが、私たちが神様を試みてはいけません。マサでの出来事を思い出してみましょう。
また、18節を見てみましょう。「主が正しい、良いと見られること」をどのようにして知ることができるのでしょうか。それは主のみおきてと定めを知らなければなりません。みことばと日々親しむことです。ですから毎日の通読を勧めているのです。これは主の正しさを知り、主を愛することです。
25節、主の御前でこのすべての命令を守り行う事は私たちの義となります。「義」とは正しさです。これは自分の義でも無く、学校や社会で習った義でもありません。神の義です。
義とは神様との生きた関係です。主のみことばを聞き、それを守り行うときに私たちの内に神の義が広がっていき、私たちの心の王座に座していた主以外の偶像を打ち壊し、主を心の王座にお迎えできます。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
4:29 しかしそこから、あなたがたがあなたの神、【主】を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求めるとき、あなたは主にお会いする。
4:30 こうして終わりの日に、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたが苦しみのうちにあるとき、あなたは、あなたの神、【主】に立ち返り、御声に聞き従う。
4:31 あなたの神、【主】はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れないからである。
感謝します。主は、私が命を尽くす前に、溺れる我が子を救うように、あなたの方から来てくださって、聖書のみことばを通して、祈りを通して、お会いしてくださってきたことを感謝します。
歴史に残っている、奇跡が起こるような数々の信仰の偉人ほどではないにしても、現実にこのわたしにも、穏やかに、揺るがない愛をもって、主はともにいてくださることを実感します。
主に立ち返り主に目を向ける時、苦しい時でもあなたにお会いすることができることを感謝します。
恵みの経験が長くなる間に、恵みに慣れてしまって、心が緩むとき、
われに返り、主に立ち返るよう困難を与えてでも永遠の滅びの方向へ行かないようにと導いてくださっている主の愛を察します。
主の聖なるみ言葉を、聞き、学び、守り、行い、やがては、良く反芻したそのみ言葉の乳で養い、教え伝えるほどに高さも広さも、深さもすべての点において成長して、み言葉の人となりたいです。
ローマ人への手紙10章4節
律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
ヨハネの福音書11章25節
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
ローマ人への手紙8章3節~4節
3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
一点いっかくもなくなることはない、神の愛のこもった聖なる律法ですが、
これを守れない弱い私に、「信じる者は生きるのです」と言われ、
約束に生かされ、福音の恵みにあずかる者とされ、
神の力によって御心を行うことができることを感謝します。
主イエスの十字架の血潮の故に来てくださった
助け主であられる聖霊様、歓迎します。
御心を正しく悟り、行う力を与えてください。
ここまで今朝書いて教会に行きました。
聖日礼拝を終えて帰宅して、
お昼を済ませると、一週間の疲れが出たのか、
リビングでいつの間にか、うとうとしてしまって、
夢を見ました。
夢の中で、
教会の礼拝での楽譜通りでないうたい方に自分ひとり悶々と我慢しているような気持ちでイライラしていました。
分かっているのです、私の通う教会では、今は、このダサい歌い方が、
うらをとらないタンバリンの拍子が主の御心の音でありリズムなのだろうと。
でも、ユーチューブで聞くような楽譜通りの賛美ができる教会がうらやましい・・・と素直に思います。
主よ、いつもです、私ばかりが我慢しています。
そして、聖歌では、高い音が出ないから、
自然に出るようにキーを下げてほしいけれど、
それはプロ級に出る人が優先で、下げてもらえない・・・
聖歌はプロ級のキーを求められる。
私の声では歌える時は歌えるけれど、
無理な時は甲高い音になるのですが・・・
そうです、あれもこれも私ばかり我慢しているのですよと・・・
主に申し上げたところ、
「私もゆずったよ、あなたの為に
しかし、私は我慢してではなかったけれどね
自ら進んでだったよ
まあ、落ち着いて、
お茶を一杯飲みなさい。 ( ^^) _旦~~
あなたが救われるなら、
私はあなたに命を譲っても惜しくはない。
あなたもそういう人はいないのかい?」
そう聞かれました、
「います、実は・・・主はご存じでしょうけれど、
主よ、今祈っている人たちが救われるのなら、
その人たちと一緒に教会で賛美ができるなら
それがどんなにダサい歌い方でも、
涙が出るほどうれしいです。
嬉しいです、救われるなら
我慢というよりも、喜んでゆずります。」
そう伝えると、
「私のもとに来なさい、あなたのすべての祈りにこたえる」
と聞こえ夢が覚めました
感謝します。
主が私を近くに来なさいと招いてくださっていることをうれしく思います。
黙示録には、主イエスは私たちの心の戸を叩いてくださっているとありますね
そして、扉を開くと、主は一緒に楽しく交わり食事をしてくださるのですね。
主のもとに行くときに、
それがみ心なら、
私の祈りすべて聞かれるのですね。
今、私は本当に主のもとに来ているでしょうか?
封印のようにあなたと一つになりたいけれど、
私のどうしようもない自己中心がそれを邪魔します。
教会の方たちの歌い方、時代錯誤のリズムですが
本当は、一人ひとり愛すべき賛美です
一緒に賛美できることを毎回嬉しく感謝しています。
それにしても・・・
主の優しい語り掛けはいつも反則です。
主と会話していると、
いつも私の心は柔らかにされて、
自然にとけてゆきます。
結局私の訴えはどうでもいいことだと思えるのです。
本当に、主イエスにはかなわないです。
皆の心が一致して歌えるならそれが一番です
それが主の御心であるなら。
悔い改めるべきは私でした。
主よ、本当にごめんなさい。
あなたの邪魔をしているのは私でした。
自分の祈りの邪魔をしているのも
この私でした。
あなたは、私の祈りを聞いてくださっていて
かなえようとしてくださっているのですね
感謝します。
あなたのところに、いつもいることができますように。