シャローム!
今日でホセア書の通読が終わります。北イスラエルに対して語られているこの預言ですが、最後に主の回復があります。
聖書全体がこのような構造になっています。創造された人が罪によって堕落します。しかし、イエス様によって回復します。
私たちの人生も今の瞬間を切り取るなら、良いことがないように思えるかも知れませんが、主はそのような時も私たちを見放さず、見捨てず、ずっと守ってくださっています。
今日のみことばの中から自分に語られたみことばがあるなら、それを何度も自分のたましいに言い聞かせてみましょう。みなさんの信仰の通りになりますように。
今日の通読箇所:ホセア書 11章-14章
■アウトライン
●父の愛:11章
・呼べば呼ぶほど遠ざかる:1-4節
・背信から離れない:5-7節
・あわれみで胸が熱くなっている:8-9節
・主のあとについて来る:10-11節
・聖徒たちと共に堅く立てられる:12節
●先祖たちのたどった道:12章
・ヤコブの行い:1-5節
・絶えずあなたの神を待ち望め:6節
・私は富む者となった:7-8節
・預言者によって示す:9-10節
・妻をめとるために羊の番をする:11-12節
・エジプトから連れ上る:13節
・激しい怒りを引き起こした:14節
●イエス様だけが救い:13章
・自分の考えで偶像を作る:1-3節
・わたしのほかに救う者はいない:4-8節
・あなたを救う王はどこにいるのか:9-13節
・おまえのとげはどこにあるのか:14節
・主の息が荒野から立ち上がる:15-16節
●回復:14章
・主に立ち返れ:1-3節
・彼らの背信をいやす:4-7節
・偶像と何のかかわりもない:8節
・知恵と悟りのある者は誰か:9節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【11章】父の愛
・呼べば呼ぶほど遠ざかる:1-4節
主はイスラエルを愛していました。生き別れになった親子のように、何としてでも主はエジプトからイスラエルを救い出したいと考えておられました。
ところが主が呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかりました。まるで反抗期の子どものようです。主の愛と恵みを当たり前と思っています。しかし、親が子を愛するように、主はエフライムに歩くことを教えられます。御腕に抱かれます。そしていやされますが、そのことをエフライムは知りません。親の心子知らずといったところでしょうか。
・背信から離れない:5-7節
ここで「エジプトには帰らない」とありますが、実際はアッシリヤです。象徴的にエジプトと言っています。アッシリヤの圧制の中でエジプトと同じように生活するのです。イスラエルは主を求めれば救われるという道があったにもかかわらず、それ以外の方法で自分たちの力で何とかしようとします。多くの預言者から主の道を示されたにもかかわらず、その道を選ぶことができませんでした。
・あわれみで胸が熱くなっている:8-9節
ホセアの心がここにあります。ホセア自身が姦淫の女ゴメルを見捨てず、彼女を捜し当てて奴隷売り場で彼女を見つけて買い戻したように、いや、それ以上に主はイスラエルを見捨てることはできません。
アデマとツェボイムはソドムとゴモラの近くにある町です。その町はソドムとゴモラと共に火と硫黄によって焼け土となったことが申命記29章に書かれています。主はその様にはさせないと言われています。「わたしの心はわたしの内で沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と言われています。主はいつもこのような愛でご自分の創造された神の子たちをご覧になっています。イエス様の愛です。
子どもがいくら反抗しても、親は子どもを愛し続けます。それ以上の愛で主は愛して下さっています。そのように、親が愛を注ぎ続け、子どもが成長するなら、その愛に感謝することができるようになります。主はイスラエルの成長をそのように忍耐をもって待ってくださっています。同様に、私たちの成長も見守ってくださっています。
・主のあとについて来る:10-11節
主は獅子のように吠えられます。すると子らは西から震えながらやってきます。震えるとは主に対する正しい恐れから来る震えです。主がこのような声を出されたので、主への恐れが生じています。まるで、いつも優しいお父さんが突然大声で叱るときのようなインパクトがあります。
・聖徒たちと共に堅く立てられる:12節
ここでは、ヒゼキヤの事を指しているのでしょうか。偽りと欺きで取り囲まれています。なぜなら、エペソ2章によると、この世の主権者は悪魔だからです。悪魔は初めから嘘つきで殺人者です。このような悪魔に囲まれながらも、ユダのように、なお主を信じ抜くことができるでしょうか。健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも主と共にあり、堅く断つことができるでしょうか。それとも、エフライムのように偽りの宗教にながされてしまうでしょうか。
【12章】先祖たちのたどった道
・ヤコブの行い:1-5節
ここで書かれている風はアッシリヤの事です。エフライムはアッシリヤに虐げられているのに同盟を結びます。また、エジプトに貢ぎものも持っていきます。どうしてその様な事を行ったのでしょうか。これはわらを持つかむような状態で行ったことです。本当なら主に頼るべきですが、エフライムは目に見える周辺諸国に助けを求めてしまいました。手っ取り早く問題を解決して、今の現状から逃れたかったのです。
そこでホセアは自分たちの民族のルーツ、ヤコブを引き合いに出します。ヤコブという主の選びの器、彼らの信仰の父祖でも、問題が起こった時に自分の力で解決しようとしていました。
ところが主の憐れみによって彼のもものつがい、つまり中心を打って彼が泣いて願ったときに力ある万軍の主として現れてくださったのです。
・絶えずあなたの神を待ち望め:6節
これが神の願いです。しかし、わかっていてもできないことです。
ヤコブはエサウを通して自分の中の葛藤に向き合いました。そして、最後には天のはしごの夢を見たベテルに戻りました。しかし、ホセアの預言ではベテルを「ベテ・アベン」と言っています。悪の家です。なぜならそこに金の子牛があったからです。しかし、そこはもともと神の家でした。主に立ち返るならそこに主が初めの愛と憐れみを持って現れてくださいます。
主に立ち返るなら誠実と公儀があります。そして、忍耐をもって主を待ち望むことができるように助けてくださいます。
私たちは物事が悪くいっているように思うともがいてしまいます。しかし、泥沼でもがけばもっと深くに沈み込んでしまうように、もがくだけ無駄です。
ヤコブの生涯を見るとわかりますが、ヤコブが自分であれこれと計画を立てている間も主が主権を持って彼の人生を導いてくださっています。
神様は私たちがどのような状態であろうと変わらずに働きかけてくださいます。神を頼ろうとしないと言うことは謙遜に見えてものすごく高ぶった事なのです。主は今も頼って欲しいと願われています。
・私は富む者となった:7-8節
ここでは欺きの量りが出てきます。「商人」とありますが、ヘブライ語を見るとカナン人とありました。カナン人は欺きのはかり、つまり商売で不正をしていました。その方法をまねてエフライムは商売をし、私腹を肥やしていました。しかし、富ませてくださるのは主です。そのことを忘れてしまっていました。
確かに、実を見て見分けることは大切ですが、エフライムは「私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない。」と言いました。「これだけ勤労の実があるのだから、私たちは悪いことをしていない」と思っていました。つまり、豊かになっていると言うことは祝福の証拠だから、自分たちは問題がないと言いたいのでしょう。うまくいっていれば祝福されているというのはイコールの関係ではありません。
時にサタンは私たちを突如として、わざと有名にさせたりします。また、急に富を送り込んで来たりします。あらゆる「良い」と思う手段を使って、私たちを神から引き離そうとします。
・預言者によって示す:9-10節
主は再びエジプトの生活、そして祭りを思い出させています。彼らはたとえ荒野でさまよいましたが、主が養ってくださいました。主は初めから彼らと共にいてくださいました。そのことを思い出させるのが例祭です。過越の祭は出エジプトを、そして七週の祭りは山で律法を受け取った事を、さらに仮庵の祭りは荒野での生活を思い出させるものです。
ところが、北イスラエル、エフライムはそのことを告げる預言者を嫌いました。彼らが真実を告げるからです。
・妻をめとるために羊の番をする:11-12節
ギルガルはヨルダン川の東にある町です。ガドやマナセの半部族の所有地です。彼らはこの土地を見て、放牧に敵していると判断し、ヨルダン川を渡らずここに留まることを希望しました。ところがその豊かさが偶像礼拝につながりました。
また、ギルガルはヨシュアが約束の地に入ったときに自分自身を聖別した場所ですが、後にサウル王が任命を受け、アマレク人を聖絶せよとの命令を守らず勝手に祭壇を造りました。
12節で、ヤコブの話に戻っています。のに逃げ、そこで羊飼いとして貧しい生活をしていました。そこで妻のために7年と7年、さらに仕事の条件を変えられて6年仕えました。しかし、その中で主を学びました。
・エジプトから連れ上る:13節
ヤコブのこのような事を語り、出エジプトの話に移ります。イスラエルの民は奴隷で苦しんでいました。しかし、預言者が遣わされてそこから連れ出されました。つまり、預言者が必要だと言っています。
・激しい怒りを引き起こした:14節
主は私たちをどこまでも愛するがゆえに、ときに厳しくされます。主は怒らないお方ですが、怒られます。どういうことでしょうか。ここでの怒りは正義の怒りです。裁判官が判決を読み上げるときの様子です。
エフライムは偶像礼拝で子どもを火の中を通らせることまでしました。主はそのことに報いられ、彼らにアッシリヤを送りました。
【13章】イエス様だけが救い
・自分の考えで偶像を作る:1-3節
エフライムはずっと神に背き続けたわけではありません。ヨシュアたちが約束の地に入ったとき、エバル山とゲリジム山で律法が読まれました。エフライムはその中間地点にあります。そこで主をあがめました。律法に書かれている神を恐れていました。ところが彼らはバアルの罪を犯し、律法に従って罪の中で死にました。そして、金の子牛に口づけせよと命じました。
そのように、偶像に仕えるむなしさを朝もや、霧、煙と例えました。
・わたしのほかに救う者はいない:4-8節
ホセアは絶えず彼らの始まりを思い出させます。初めの愛です。神以外に救いがないことを繰り返して語ります。主に呼ばわれば、主は助けてくださいます。
私たちにもこのような約束が与えられています。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)イエス様だけが救い主です。
私たちは自分の努力ではなく、ただ神の恵みによって救われました。しかし、御霊によって救われた私たちは肉によって完成させようとしてしまいます。私たちは主の恵みの中で生きる以外ありませんが、どうしてかそれ以外の所に救いを求めてしまいます。神様抜きの良い人になろうとします。聖書の基準を語っても「聖書はそういうけど」と言い訳します。そうではなく、みことばが全てです。
もしこの方を認めず、従おうとしないなら、7,8節に書かれているようにあらゆる獣が攻撃してきます。一旦主の恵みから出ると、そのようになります。悪魔は吠え猛る獅子のように、私たちを食いつくそうとパトロールしています。
この事を思うとき、いつもサバンナでのガゼルなどの草食動物を思い出します。彼らは、集団で行動することでライオンなどから身を守ります。しかし、一旦群れから離れてしまうなら、すかさずライオンなどに狙われ、食べられてしまいます。神の恵みに留まり続けることが大切です。
・あなたを救う王はどこにいるのか:9-13節
主はホセアを通して、主に頼る以外に助かる道はあるのかと問います。たった一つ、主だけを求める事が大切なのですが、それ以外のものを求めています。
彼らは預言者サムエルの時代、周りの国を見て自分たちにも王が必要だと訴え、それをかなえます。しかし、サウルは彼らを救えたでしょうか?王もお金もその他、何も私たちに永遠のいのちを与えることはできません。ただイエス様だけが救いを与えてくださる唯一のお方です。
・おまえのとげはどこにあるのか:14節
ここで主は、「エフライムは死を免れることができるだろうか」と問われています。このままでは死を免れることはできません。
主は「あわれみはわたしの目から隠されている」と言われ、あえてご自分の憐れみを隠しておられます。神は彼らの報いを彼らに与えられ、それから憐れみをかけられます。しかし、彼らを見捨てた訳ではありません。愛するがゆえの懲らしめです。
この箇所をパウロは引用してこのように語っています。「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(1コリント15:54-57)
・主の息が荒野から立ち上がる:15-16節
エフライム族は他の部族よりも栄えています。しかし、主がアッシリヤという東風を送られ、水源はかれ、泉は干上がります。水はいのちを象徴します。また、みことばを象徴します。それが枯れてしまいます。いのちを得ることができない状態です。こうなる前に、主の御声を聞き、悔い改めの生き方をしていきましょう。
【14章】回復
・主に立ち返れ:1-3節
つまずきのもとは何でしょうか。不義です。主なしで「こうすればうまくいく」と考え、心の中の不義を隠して自分もそれを見ないように蓋をしているような状態です。しかし、いつか隠されていることはあらわにされます。私たちがつまずくのは人のせいではなく、自分の中の不義につまずくのです。
罪や不義の性質は逃げることです。隠れることです。むしろ私たちは神と共に立って、これらに真っ正面から向かっていく必要があります。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)
主はいつも悔い改めを願っておられます。主の所に帰ることです。
今までエフライムは多くのものを主にささげていました。しかし、それらはかえって主を悲しませるものでした。心が伴っていなかったからです。主が欲しいと願っておられるいけにえはくちびるの果実です。「果実」の直訳は「雄牛」です。ヘブル13:15にもこのようにあります。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
・彼らの背信をいやす:4-7節
主はここで慰めのことばをかけてくださいます。「彼らの背信をいやす」と仰せられます。私たちは頭でわかっていても、何度も主を悲しませてしまうような考えや行動をしてしまいます。しかし、それでも主は愛してくださいます。主の恵みに大胆に飛び込むとき、主は背信をいやしてくださいます。主はそれをいやいやながらではなく、なんと喜んでしてくださいます。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」(マルコ2:17)
自分の中に罪の性質があると認め、主の恵みに拠り頼んでそれを取り去ってくださるように願う人を、主は喜ばれます。
そして、5節からは回復の姿があります。荒野での朝露は貴重な水分です。その露があるから植物が花を咲かせ実を実らせます。主に立ち返る者はここに書かれているような祝福を味わいます。
・偶像と何のかかわりもない:8節
私たちもイエス様の血潮によって、このみことばがそのまま当てはまることを感謝します。私たちは主によって贖われた者です。私の所有者はイエス様です。ですから、私たちは偶像とは何の関係もありません。
主ご自身が私たちを養ってくださいます。主の実から取って食べることができます。何をたべるのでしょうか。いのちのみことばです。
・知恵と悟りのある者は誰か:9節
知恵のある者はだれかと問うています。悟りのある者は誰かと問うています。その鍵はイエス様にあります。このお方と共に歩む道は平らです。正しい者はこれを歩みますが、背き続ける者はつまずきます。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
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