創造-13-陶器師

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陶器師と創造主

私たちが普段手にする食器の多くは大量生産され、機械によって作られていると思います。しかし、その中でも、お気に入りの器があるかもしれません。

私のところにも、お気に入りの器があり、それでおいしいコーヒーを淹れて飲むのが私の楽しみのひとつです。その味は器の演出によって得別に感じます。

Photo by Ingrid Hall on Unsplash

聖書の中で、陶器と陶器師の関係が出てきます。これが創造と関係があります。

しかし、よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

(イザヤ書 64章 8節)

ここで、私たちの父、すなわち創造主は陶器師で、私たちは陶器師の手で作られた器だと言っています。今までの学びをご覧いただいた方ならピンとくると思います。私たちは何から作られたでしょうか。

神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

(創世記 2章 7節)

私たちは地のちりから創造されました。ですから、聖書の中で人を表現するときに器と言われたりします。

器の種類

陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

(ローマ人への手紙 9章 21節)

冒頭の例でもあげた通り、家の中でも普通の器と独別な器があります。この記事を読んでくださっている皆様は神様から選ばれた特別な器であることを信じます。

もちろん、すべての人は神の目から見て特別な器です。

しかし、ここでいう特別な器とは、神様の愛の呼びかけに応答したものを指します。

その証拠に、先ほどのみことばの前にはこのように書かれています。

しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。

(ローマ人への手紙 9章 20節)

造ったものと造られたものとの関係

少し考えてみてください。例えば、皆さんが絵を描いたとします。自分的にはとても満足な出来であったのに、その絵が突然「私をなんでこんな形に作ったのか!私はもっと別のかたち、別の色が良かった!」と言ったらどう思いますか?

「いやいや、作者である私が『これがいい!』と思って作ったのがこれだから、あなたは文句を言うことはできないよ!」というのではないでしょうか。

実は、私たちも私たちの造り主に対して同じことをしています。

造り主が考えに考え、最高のかたちで私たちを作ってくださったにもかかわらず、私たちは造り主に対して文句を言ったり、造り主を認めなかったりします。

これが、福音の次のステップであります「罪」というものにつながっていきます。

私たちの存在の目的

ひとまず、創造のセクションは今日で終わります。最後に確認したいのは、私たちの存在の目的です。

私たちはどうしても自分を中心に考えてしまう性質がありますので、今、この地にいのちが与えられていることも自分のためだと考えてしまいます。

しかし、聖書には以下のように書かれています。

「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

(黙示録 4章 1節)

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。

(コロサイ人への手紙 1章 16節)

私たちは親のために存在しているのでもなく、自分自身のために存在しているのでもありません。私たちが創造されたのは御子、イエス・キリストのためなのです。

今はこのことが理解できないかもしれませんが、この学びを続けていく中で発見できると思います。

今日のまとめ


私たちは造られたもので、造り主のために存在している。

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