聖書通読クラブ Day 349

聖書通読クラブ Day 349【ヘブル人への手紙 4章-6章】

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シャローム!

今日の通読箇所では、旧約聖書に書かれている様々な事が出てきます。安息日、大祭司、メルキゼデク、誓いなど。どれも非常に重要なことですが、それをイエス様の十字架を通して、それらの影はこれであったと言うことが書かれています。一見、意味の無いように思える旧約聖書に書かれているこれらの事柄の真理を、聖霊様によって今日も教えていただきましょう。

今日の通読箇所:ヘブル人への手紙 4章-6章

■アウトライン

●安息と福音:4章
  ・安息に入る:1-13節
  ・偉大な大祭司:14-16節

●大祭司とおとなの食べ物:5章
  ・メルキゼデクの位に等しい大祭司:1-10節
  ・堅い食物:11-14節

●信仰の大人が持つ希望:6章
  ・成熟を目指して進む:1-8節
  ・もっと良いことを確信している:9-12節
  ・この望みは幕の内に入る:13-20節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【4章】安息と福音

・安息に入る:1-13節
この箇所を読み、私は恐ろしくなりました。なぜなら、安息に入れないかも知れないからです。しかし、まだ安息に入る道は残されています。安息に入るにはどうすれば良いのでしょうか?2節を見てみましょう。
聞いたみことばを彼らはどうしませんでしたか?聞くだけでは片手落ちなのです。聞いたみことばを信仰によって結びつけなければなりません。ことばを音として聞くのではなく、理解するために聴き、悟り信じることが大切です。私たちが信じるなら、安息に入ることができます。ここから、安息に入るために必要なのはまずはみことばを聞くこと、そしてそれを信じることであることがわかります。
安息の起源は、創世記2章で神が創造の御業を終え、安息に入られたことです。ここから安息日が生まれました。しかし、この詩篇95編11節の引用では、「決して彼らを安息に入らせない」と誓われています。まだイエス様は私たちを迎えに来られていません。ということは、まだ安息に入る道は残されているのです。しかし、6節を見ると、「前に福音を説き聞かされている人々は、不従順のゆえに入れなかった」と書かれています。神のみことばに従うか、不従順となるか。これが大きな分かれ目です。
ここで、もう一度6節のみことばをじっくり見てみましょう。何か疑問を感じませんか?ここでは、出エジプトの時代の人たちの話をしているはずです。みことばには、「前に福音を説き聞かされた人々」と言っています。出エジプトの時代にはイエス様は受肉されておられませんでしたが、イスラエルの民は福音を聞いていたと言うのです。彼らにとって福音とは何でしょうか?それは安息日です。安息日に福音の要素があるのです。福音の中心は何だったか覚えているでしょうか?キリスト・イエスの死と葬りと復活です。安息日には、自分の仕事をストップして、主を礼拝する日です。つまり、自分に死んで、神にあって生きる日が安息日なのです。そういうわけで、この時のイスラエルの民も福音を聞いていました。彼らはやがて来る救い主、イエス・キリストを信じています。私たちはすでに来られた救い主、イエス・キリストを信じています。
今まで、かみのことばに不従順であったとしても、主は再びある日を「きょう」と定めてくださいます。「きょう」すべき事はなにでしょうか?7節を見ましょう。
もし、私たちが安息に入れられたのなら、私たちは自分のわざを終え、礼拝だけを行うはずです。しかし、まだその時は来ていません。永遠の安息はイエス様の再臨をもって完成します。そのために、11節を見ましょう。何が必要でしょうか?安息に入るために力を尽くして努めなければならないのです。自動的に安息に入るのではありません。では、何を努力し、力を尽くさなければならないのでしょうか?心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてすることは何だったでしょうか?神を愛することです。神を愛するとは何でしょうか?みことばを愛することです。ですから、通読を続けていきましょう。あの不従順にならって、ひとりも落後しないようにしましょう。そのように、安息に入ることとみことばは密接に関わっています。12節を見ましょう。神のみことばはどのようなものでしょうか?まず、生きています。さらに力があります。私たちを死からいのちへ移すほどの力です。さらに、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも正確に刺し通すほど鋭いのです。その結果、何をするでしょうか?心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです。私たちのモヤモヤするなやみ、葛藤などを正しくさばくのはみことばです。
さらに、私たちは神の前で隠せることは何一つ無いと書かれています。アダムとエバは園で罪を犯した後、神の御顔を避けて隠れました。隠れるのは罪の性質です。うまく人をだませたと思っても、自分の心と神様はだませません。やがて、主の御前ですべてが明らかにされていきます。その時に弁明するか、今、主に告白して悔い改めるか、どちらを選びますか?

・偉大な大祭司:14-16節
さて、ここからトピックは大祭司に移っていきます。大祭司はアロンの家系の者しかなれません。年に一度、血を携えて幕屋や神殿の最も奥にある至聖所に入ることができます。アロンから始まって数々の大祭司がいましたが、彼らと比にならないほどの偉大な大祭司はイエス様です。
14節を見ると、イエス様はもろもろの天を通られたと書かれています。ここから、天はひとつではない事がわかります。第一の天は私たちが見上げている空、第二の天はサタンの支配する天、そして第三の天が主のおられる領域です。イエス様が折られるので、私たちは信仰を堅く保とうではないかと呼びかけられています。
大祭司というと、手の届かない崇高な人に思えますが、イエス様は違います。どこまでも偉大なお方ですが、どこまでもへりくだられたお方です。罪は犯されませんでしたが、私たちが普段遭遇する試みに会われました。ですから、私たちの葛藤を理解することができるお方です。このようなお方が、私たちの大祭司です。ですから、16節でどのように呼び掛けられていますか?これに応じたいと願います。

【5章】大祭司とおとなの食べ物

・メルキゼデクの位に等しい大祭司:1-10節
ここから、大祭司をさらに詳しく見ていきましょう。大祭司は誰の中から選ばれますか?その目的は何ですか?
アロンの家系の大祭司は人ですので、みな弱さを身にまとっています。ですから、無知な人を思いやることができると書かれています。しかし、その弱さのゆえに、大祭司自身も罪のためのささげ物をしなければなりません。さらに、大祭司は自分で「なりたい」と言ってなれるものではなく、神に召されて受けるものです。
イエス様も大祭司となる栄誉をご自分で得られたのではないのです。5節後半を見ましょう。さらに、6節を見ましょう。イエス様は神の子とされ、またメルキゼデクの位に等しい祭司とされました。ユダヤ人であれば、誰でもメルキゼデクを知っているはずです。創世記14章18節には「シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。」とあります。シャレムとはシャローム、すなわち平和です。メルキゼデクとは義の王という意味です。この方がパンとぶどう酒を持ってきました。これは明らかにイエス様を指しています。
イエス様は完全な神であられるお方ですが、その方が人と同じような形を取られました。イエス様が地上におられたとき、誰にどのような事をされたと7節に書いているでしょうか?イエス様は神です。完全なお方であるはずなのに、8節を見ると、お受けになった多くの苦しみによって従順を学ばれたとあります。そのことを通して完全な者とされました。そして、彼に従うすべての人々に救いを与えられるのです。イエス様はメルキゼデクの位に等しい大祭司なるお方です。

・堅い食物:11-14節
ヘブル人への手紙の著者は、メルキゼデクについてもっと話すことを持っているのですが、話せないと言っています。どうしてでしょうか?11節後半を見ましょう。この時のヘブル人は耳が鈍くなっていました。私たちも同じでしょう。彼らは律法を学んでいましたが、彼らほど、私たちは律法を知らないでしょう。それであれば、なお、私たちの耳は鈍いのではないでしょうか。
12節は、非常に耳に痛いみことばです。教会に長年通っていても、霊的な、また、人格的な成長がほとんど見られないことがあります。年数からすれば教師になっていなければならないのに、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があると言っています。
人も生まれたばかりの赤ちゃんは乳を必要とします。堅いものが食べられないからです。しかし、歯が生え、あごが発達するにつけ、堅い食物を食べることができるようになります。健康な成人で、乳ばかりを飲んでいる人はいないでしょう。しかし、霊的な目で見ると、そのような人が多いのかもしれません。
13節を見ましょう。乳ばかり飲んでいる者はどのようだと書かれていますか?さまざまなわかりやすい教えを次から次に見たり聞いたりすることは非常に重要な事です。沢山のことを気づかせてくれます。しかし、それはサプリメントのような栄養補助剤です。このコラムもそうです。大切なのは主食であるみことばです。これは一見味気なく、堅く、おいしく感じないかもしれません。しかし、これをかみ続ける大人のあごが与えられるなら、やがて上あごに甘いと感じることができるようになるでしょう。人からの教えも素晴らしですが、それ以上にみことばを読み、みことばから直接教えられるよう訓練されていきましょう。
14節を見てください。堅い食物は何だと言っていますか?また、どのような人たちのものですか?私たちが目指すのはここです。

【6章】信仰の大人が持つ希望

・成熟を目指して進む:1-8節
何事も初歩の教えは大切です。しかし、いつまでも初歩に留まっていてはいけません。ここで、ヘブル人の手紙の著者の言う初歩の教えはなにでしょうか?1-2節を見ましょう。ここには6つの事柄が書かれていますが、これは二つがセットになっています。
一つ目は死んだ行いからの回心と神に対する信仰です。これは悔い改めの教えです。二つ目はきよめの洗いについての教え、手を置く儀式です。これは教会に属することの教えです。地域教会に所属していない人は、祈ってなるべく早めに地域教会に所属しましょう。そして三つ目は死者の復活ととこしえの裁きです。これは終末に関しての教えです。これらは「初歩」の教えなのです。みなさんどうでしょうか?初歩の教えは理解できているでしょうか?
4節から6節を見てみましょう。神様の下さる賜物の味を知り、聖霊様にあずかる者とされ、神のすばらしいみことばと後に来る世の力とを味わった上で堕落するなら、どうなると書かれていますか?なんと彼らはイエス様をもう一度十字架にかけ、恥辱を与える人だと言っています。そのような事はあってはなりません。しかし、テサロニケの手紙では、終わりの日にはまず背教が起こるとありました。信仰を捨てる人は、イエス様の愛を体験したことないか、ここにかかれているような人でしょう。みなさんがここに入らないよう、切に祈ります。
しかし、必要以上に恐れないでください。この手紙はヘブル人に書かれているものです。ここで言う「堕落」はイエス様を信じていながら、もう一度ユダヤ教に戻ることを意味しています。しかし、ある意味でイエス様を捨てると言うことは同じ事かもしれません。それでも、私たちには希望があります。イエス様は悔い改めるなら何度も赦してくださるお方です。このお方の恵みに拠り頼みましょう。
7-8節を見ましょう。主は恵みの雨をすべての人に注いでくださっています。二つの植物が書かれていますが、それぞれ何で、どのような結果を齎しますか?みなさんはどちらを選びたいですか?

・もっと良いことを確信している:9-12節
ヘブル人への手紙の著者は、もっと良いことを確信していると言っています。それは救いにつながることだと書かれています。
10節には、神は何をお忘れにならないと書かれていますか?つまりは、第二の戒め、隣人を愛することです。信仰の現れとしての愛の行いです。
そのために、熱心であることを求めています。また、希望を持つことです。この希望は「必ず良くなるよ」という単なる希望ではありません。「主が必ず戻って来られる」という信仰に基づく希望です。その希望を持ち続けることを切望しています。その目的は何でしょうか?12節を見ましょう。イエス様のためになまけず、一生懸命になることは正しい努力であり、必要な事です。

・この望みは幕の内に入る:13-20節
神様はアブラハムに創世記22章でここに書かれている祝福を与えられました。この約束を、アブラハムは何によって得ましたか?15節を見ましょう。
アブラハムは75歳の時、カナンで「あなたは大いなる国民となる」という神の約束を受け、実際に子が与えられるまで25年忍耐しました。彼が神のことばを握り続け、信じ続けるという忍耐があったからこそ、イスラエルの民が誕生しました。
そして、話題は誓いについて展開していきます。人は誓うとき、自分よりも大きな事を指して誓います。ところが、神様より偉大なお方はおられず、偉大なものも存在しないので、神様はご自分にかけて誓われました。そして、そのような誓いは人の議論を止めます。
主はアブラハムに「約束」と「誓い」という二つの事柄を通して、ご自分のことばを確かなものとされました。そして、18節後半には、「前に置かれている望みを捕らえるために逃れてきた」と書かれています。旧約聖書では、逃れの町というものがありました。過失で罪を犯してしまった人たちがその町に入り、さばきをまぬかれます。同じように、悪魔の火矢が飛び交うこの地において、前に置かれている望み、すなわちイエス様の再臨が逃れの町となります。
この望みはどのようなものでしょうか?19節を見ましょう。この望みは幕の内側に入ると書かれています。大祭司しか入れない場所に入ることができます。神と最も親密な交わりのできるところです。確かに、主の再臨によって信じる者はキリストの花嫁とされ、神と一つとされます。この希望を持ち続けましょう。主は来られます。
イエス様はその先駆けとして、復活の初穂としてそこ、すなわち天の幕の内側に入られ、メルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。


(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. みことばに引き込まれるように、書簡の通読に導かれてきた事を感謝します。へブル書は、難解です。
    6:4~6いつもここで立ち止まってしまい、繰り返し拝読します。一度救われたクリスチャンが、救いを失う事があるのだろうかと。。。(実は私には教会から離れてしまっている家族が居ます。)
    ユダヤ教に回帰しようとしているへブル人に対して書かれた書簡ではあるのでしょうが、今の私たちへの勧告でもある?
    神様の許しを得て、基本の教えをくりかえし学びながら、更に信仰の深みへと成長していけますように。

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