シャローム!
今日でテサロニケ人への手紙第一の通読が終わります。ここでは、主の再臨が明確に書かれています。イエス様は十字架で私たちの罪のために死んで下さり、葬りの後、死から復活されました。それで終わりではなく、今度は私たちを迎えに来て下さいます。すでに召された者、そして今生きている者それぞれに、主が戻って来られたときにどうなるかが書かれています。終末に関して、様々な議論がなされますが、今日も聖霊様の助けを受けて、聖書が何を言っているかをしっかりと受け取りましょう。
今日の通読箇所:テサロニケ人への手紙 第一 4章-5章
■アウトライン
●マラナタ:4章
・神の御心は聖くなること:1-8節
・落ち着いた生活:9-12節
・主の再臨:13-18節
●神が私たちに望むこと:5章
・その日はいつか:1-11節
・いつも喜び絶えず祈り全てに感謝:12-22節
・結びの挨拶:23-28節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【4章】マラナタ
・神の御心は聖くなること:1-8節
パウロは、一つ目のテサロニケへの手紙を終える前に、イエス様にあってお願い、勧告をしています。それはどのような内容でしょうか?
ここで書かれていることは、昨日見た3章13節で「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのな者としてくださいますように。」と書かれていることです。
これを一言で言うと、神を喜ばせる生き方です。では、それは具体的にどのような事なのでしょうか?3節から見ていきましょう。
まずは、ここに神のみこころが書かれています。それは何ですか?そうです。私たちが聖くなることです。神は聖なる聖なる聖なるお方ですから、神の子である私たちも聖さにあずかる必要があります。
より具体的には何をすべきでしょうか?まずは不品行を避けることです。つまり、性的な聖さを保つことです。そもそも、聖さは神のご性質で、「神様のために特別に選り分けられる」という意味です。性的な関係を全て禁じているわけではありません。正しい用い方が必要です。主が与えてくださった妻、夫のために用いるとき、そこからいのちが与えられていきます。しかし、夫婦の関係以外で性的な関係を持つなら、多くの代償があります。では、どうしてそのような関係になってしまうのでしょうか?様々な原因があるでしょうが、自分の妻、夫で満足できないと言うことが根源にあるのでは無いかと思います。お互いと話したくないという関係になる前に、夫婦の問題は、芽が小さなうちに摘み取る必要があります。
5節にあるように、神の秩序を知らなければ、自分が神となってしまいます。そうして、自分の情欲の赴くままに歩んでしまいます。その結果、兄弟を踏み付けてしまうこともあるかもしれません。また、欺くこともあるでしょう。様々なトラブルの原因は、外にあるのでは無く、実は自分の中にあることを聖霊様に教えていただきましょう。自分が変われば世界が変わります。
神様が私たちを召された目的は何でしょうか?7節を見ましょう。多くの油注がれた器が性的な問題で退く話しを聞きます。教会が最後まで死守しなければならないのは聖さです。塩が塩気を失ったら何になるでしょうか?教会が神の聖さを失うなら、ただの人の集まりになります。
もし、この事を拒むのであれば、誰を拒むことになると8節にありますか?それでも、この聖さを拒むでしょうか?
・落ち着いた生活:9-12節
続いて兄弟愛について書き送っています。彼らはこの点では合格していたようです。彼らはマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、兄弟愛を実行していると書かれています。しかし、それで終わるのではなく、ますますそうであることを願っています。
さらに11節は終わりの時代に非常に重要な事柄になります。それは、落ち着いた生活をするということです。「まもなくイエス様が戻ってこられる」というメッセージに過敏に反応し、財産を全部整理して、遺書を用意するというのは、行き過ぎかも知れません。その信仰は素晴らしいものです。私たちも今日が最期の日で、主が迎えに来られるという信仰を忘れないようにしたいと願います。しかし、同時に主は私たちの生涯が終わるまで来られないかもしれないという考えも持つ必要があります。なぜなら、前者のような考えは浮き足だったものであり、刹那的になる生き方です。みことばは、終わりの時代には落ち着いた生活をしなさいとあります。そして、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさいと書かれています。ここからわかるのは、聖書が示す正しい終末信仰は、今日、主が来られてもかまわないという霊的備えを日々行いながら、淡々と毎日の生活をしっかりと歩んでいくことでは無いかと思います。
そうするなら、まだイエス様を知らない人に対しても立派に振る舞うことができます。また、乏しくなることもありません。インターネットや動画サイト、SNSなどの過激な終末論にふりまわされることなく、みことばにしっかりと土台を据えて、落ち着いた生活をしていきましょう。
・主の再臨:13-18節
パウロは眠った人々、すなわち、信仰を持ったままこの世を去った人々について語ります。みなさんはご存じだと思いますが、人は子の地上での生涯が終わったらそれで終わりでしょうか?聖書ではその先に永遠のいのちがあると言っています。ヨハネの福音書3章36節には「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。ですから、信仰を持った人々との子の地上でのは別れは永遠のわかれではありません。もちろん、一時的に分かれてしまう寂しさはありますが、天の御国で再会できる希望があります。これが復活の信仰です。14節を見ましょう。神はイエス様にあって、眠った人々をイエス様といっしょに連れてきてくださいます。
パウロは主の再臨の時に自分たちが生き残っていると書いています。これが主への再臨の期待を持った信仰です。私たちも主が今日来られるかもしれないと考え、いつも備えておきましょう。この復活に順番があります。16節を見ましょう。
まず、主が来られるときの合図は何でしょうか?三つの音があります。主が定められた例祭で、まだ成就していないのが仮庵の祭りです。この祭り全体が終末、主の再臨を啓示していますが、その始まりがラッパの祭りになります。銀の二本のラッパが吹き鳴らされ、秋の祭りがはじまります。主は黙って突然来られるのではなく、このような合図をして下さることを感謝します。ちなみに、秋の祭りがラッパの祭りだからと言って、この日に主が来られるわけではなく、あくまでも象徴です。主は盗人のように来られるのです。
この三つの音の後、まず初めに何がよみがえりますか?その次はどうでしょうか?なんと、生き残っている者たちがたちまち空中に引き上げられ、空中で主とお会いできるというのです。これが携挙と呼ばれるものになります。これは、ユダヤの祭りの文化でも見ることができます。彼らは結婚の時、花婿が友人を連れ、花嫁の家に訪れます。その音を聞いた花嫁は出て行き、道の途中で花婿と花嫁が出会います。私たちキリストの花嫁も、この音が鳴ると一挙に雲の中、主の栄光の中に引き上げられます。そして、私たちはいつまでも主と共にいることができるのです。これがどれ程の希望か。事実、18節には、このことばをもって互いに慰め合いなさいと書かれています。みなさんは「マラナタ」ということばを知っているでしょうか?多くの人は「主よ、来て下さい」という意味で理解していると思いますが、実はもう一つの意味があります。それは「その日は近い」と言う意味です。その日とは主の再臨です。つまり「主が来られるときまで、大変なことがあるかもしれないけど、耐え忍んで共にがんばりましょうね」と言う意味です。初代教会の人々はこのように声を掛け合い、迫害の中においても共に励まし合っていました。ですから、私たちも言いたいと思います。マラナタ。主よ、来て下さい。
【5章】神が私たちに望むこと
・その日はいつか:1-11節
そこで、私たちが気になるのは主の再臨がいつかと言うことでしょう。ここで、その日をはっきりさせたいと思います。聖書が主の再臨はいつか語っています。それは「わからない」ということです。イエス様自身も使徒の働き1章7節で「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」と書かれています。また、2節にも、盗人のように来られると書かれています。盗人は人の思いがけないときに来ます。もし、わかっていたらあらかじめ警察に電話してきてもらうでしょう。ですから、主はいつ来られるかわからないのです。
しかし、ヒントはあります。3節を見ましょう。どのような時に、突如として滅びが来ますか?それはまるで何のようですか?それを逃れることはできますか?妊婦は、妊娠がわかると出産に備えます。だいたいいつ頃出産するかは予想できますが、自然分娩において、正確な時間を導き出すのは難しい者です。そのように、イエス様が来られるにはヒントはあります。しかし、それは主を熱心に求める者にしか知らされません。4-5節を見ましょう。みなさんはどちらの子に属していますか?
ですから、私たち昼の子は何をしなければならないでしょうか?6節を見ましょう。二つの事が書かれています。それは何でしょうか?目を覚ますことは祈りによって目を覚ますことができます。また、慎み深い生き方はみことば通りに生きる生き方です。
さらに、私たち昼の子は何を身につけなければならないでしょうか?8節を見ましょう。神の武具です。しかし、ここでは二つの武具だけが取り上げられています。信仰と愛の胸当て、救いの望みのかぶとです。つまり、私たちの心と考えが守られる必要があります。陰謀論など、聖書の根拠のない終末論が私たちを動揺させるでしょう。ときには牧師からそのような発言があるかも知れません。私たちはいつでも聖書に立ち、しっかりと吟味し、堅く立って行きたいと願います。
神は私たちとどのようにお定めになっていますか?9節を見ましょう。私たちが聖書を読むとき、「恐い」と感じるのは神様の本当の愛にであっていないからです。私たちはキリストにあって救いを得るよう、定められています。
また、主が私たちのために死んでくださった理由はなにでしょうか?10節を見ましょう。このような恵みがあるのですから、私たちは何をすべきでしょうか?11節を見ましょう。
・いつも喜び絶えず祈り全てに感謝:12-22節
12節、これは本当に重要です。教会で見えないところで働いてくださっている一人ひとりを覚えましょう。また、私たちを教え、導いてくださる牧師先生、教師を認め、感謝しましょう。その務めにどのような態度を持って接するべきでしょうか?13節を見ましょう。
14節、様々な性質を持った人に対する接し方が書かれています。気ままな者にはどうですか?小心な者はどうですか?弱い者はどうですか?また、すべての人に対してどうすべきですか?また、15節のような事を実行していきたいと願います。
そして、16節からは有名なみことばです。いつも喜ぶのです。自分に良いことがあったときではなく、いつもです。主はいつも良いお方です。また、絶えず祈るのです。絶えずです。祈りは途切れてはなりません。イエス様もルカの福音書18章1節で「いつでも祈るべきであり」と言われています。祈りの炎を消さないよう、聖霊様に助けていただきましょう。そして、すべての事について、感謝します。すべての事です。自分にとって最悪と思えることにも感謝します。2020年の年末に、私の息子が彫刻の課題をしているとき、誤ってチェーンソーに手が巻き込まれ、親指の一部を失い、小指の筋が切れてしまいました。それを出先で聞いたときはとても感謝できない状況でしたが、妻と急いで病院に向かう中で、主に感謝し続けました。指は今、まだもとに戻っていませんが、いのちを守り、芸術作品を継続して制作する力を与えてくださいました。いつでも感謝するのです。「感謝します」を口癖にしてみましょう。いつも口が「感謝します」と言っていると、本当に感謝が溢れてきます。
そして、この三つを行うことが、キリスト・イエスにあって、神が私たちに臨んでいることです。これは、原語で見ると「これこそが」と書かれています。主の願いはいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する生き方です。いまこそ、この生き方をしていきましょう。
そのために欠かせないのが19節です。御霊を決して消してはなりません。同時に、預言もないがしろにしてはいけません。預言とは神様のことばをあずかることです。すなわち、聖書の継続した通読です。
そのうえで、21節にあるように、すべてを見分け、本当に良いものを堅く守る必要があります。
・結びの挨拶:23-28節
私たちが全く聖なる者となるのは、主の働きです。平和の神がそのことをなしてくださいます。主が再び来られるとき、私たちの何が完全に守られるようにと書かれていますか?このすべてが守られる必要があります。バランスが大切です。私たちを召してくださった主は真実です。ですから、きっとこのことをして下さいます。
パウロはこの手紙をすべの兄弟たちに読まれるよう、命じています。私たちもこの手紙を読み、神様の心を受け取りましょう。
私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。