聖書通読クラブ Day 327

聖書通読クラブ Day 327【コリント人への手紙 第一 4章-6章】

Spread the love

シャローム!

今日の通読では、コリントにはびこる様々な文化、考え方、生活習慣と神の国の文化との比較を見ることができます。
自分が生かされている場所、時代の常識と言うものがあるかもしれませんが、それに流されてはいけません。私たちは天の御国に生きる者です。天の御国のルールが第一です。そして、この地上のルールも同時に守る必要があります。
パウロはコリントの人に、子のバランスをどのように取るようにと指導しているでしょうか?ここから、私たちの生き方を学ぶことができるのではないかと思います。今日もみことばから教えられていきましょう。

今日の通読箇所:コリント人への手紙 第一 4章-6章

■アウトライン

●忠実:4章
  ・管理者:1-5節
  ・書かれていることを超えない:6-13節
  ・神の国は力にある:14-21節

●不品行:5章
  ・不品行な者:1-8節
  ・悪い人を除く:9-13節

●聖霊様の宮:6章
  ・世界をさばく:1-11節
  ・主と交われば一つ霊となる:12-20節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【4章】忠実

・管理者:1-5節
コリントの教会では知者に対する尊敬がものすごいものでした。それで彼らは派閥を作っていましたが、パウロはそれに対して「しもべ」ということばで対抗しました。その主人はキリストです。さらに、管理者ともいっています。この管理者ということばは奴隷とも訳され、同時に財産を管理する者と言う意味もあります。
では、パウロは私たちは何だと考えなさいと言っているでしょうか?キリストのしもべ、神の奥義の管理者です。この世の知者も理解できない神の奥義を管理するのは私たちの使命です。
そのような大切なものを管理するのに必要な人格の要素はなにでしょうか?2節を見ましょう。そうです。忠実さです。黙示録でも「死に至るまで忠実でありなさい」と語られています。忠実なしもべは主によろこばれます。
パウロは、人の意見によって左右されない強いアイデンティティを持っていました。その秘訣はなにでしょうか?まずひとつは、彼は自分で自分をもさばかないと決めていたことでしょう。私たちは他人以上に自分をさばいてしまうときがあるかも知れません。その基準はどこあるのでしょうか?多くの場合が、他人との比較にあるのではないかと思います。そうではなく、私たちは神のみことばを基準としなければなりません。パウロは誠実な歩みをしていましたが、それで罪がなくなるわけではありません。ですから、パウロはさばきを主に委ねていました。
とくに今のような行き過ぎた正義が横行する時代には、何事も先走ったさばきをしないように心がけたいと思います。「あの人はいつもこうだから、今回もこうにちがいない」というのは偏見です。みことばを通して、神を、自分を、他人をまっすぐな信仰の目で見ていきたいと願います。

・書かれていることを超えない:6-13節
パウロはコリントの教会にバランスを求めます。バランスを欠くとき、人は高慢になります。この高慢が今までの問題の根源でした。パウロはそのことに言及していきます。
まずは、「書かれていることを超えない」ということです。彼らはそれができておらず、知恵や知識を取り入れてお互いをさばくようになっていました。彼らは霊的なことと称して様々なものを取り入れ、結局みことばに混ぜ物をしていました。
もう一つの問題は「一方にくみし、他方に対して思い上がる」という問題です。彼らの議論の中心は神学でした。「●●の唱える神学が最も正しい」と言い合っていました。神学は聖書を理解を助けるために体系化された学問です。それは確かに神に関することですが、聖書そのものではありません。私たちも気をつけなければなりません。
どうしてこのような問題が起こるのかというと、神の恵みを忘れるからです。7節にそのことが書かれています。
コリントの人は知恵があったので、パウロの伝えた基礎に自分たちなりのアレンジを加えていました。そのことをパウロは皮肉を込めて8節のように言っています。
9節は何を言っているのでしょうか。この当時、ローマの中にあったコロッセウムという闘技場で行われていたことに自分たちを当てはめました。そこでは剣闘士がいのちをかけた戦いをしたり、野獣と人とを戦わせて、ときにはいのちを落とすような事もありました。それを見て、人々は喜んでいたのです。使徒たちはそのような見世物となったのに、コリントの人たちは自分が王のようにふるまっているという対比をしています。
使徒たちはキリストのためにどのような者となったと10節にあるでしょうか。使徒とコリントの人をどのように比較しているでしょうか?そして、13節の最後では、自分たちはこの世のちり、あらゆるもののかすとまで言っています。

・神の国は力にある:14-21節
パウロがここまで厳しく言っているのは、コリントの人を潰すためではありません。愛を持って諭すためです。愛する子にはなんでも「いいよ、いいよ」と言うのではなく、時には愛を持って戒めることも大切です。
パウロが教えた福音の基礎に、コリントの人々は様々な教師をつれてきて自分勝手な解釈を作り出していました。そのことに対して、「養育係が一万人いる」という表現をしています。たとえ、その様な者がいたとしても、父はひとつであることを強調しています。そして、たえず基本に立ち返ることを促しています。パウロは自分に倣う者になってほしいと願っています。パウロはそのように言えるだけの生き方をしていました。そのように、生き方を通して模範を示すのがリーダーの役割です。
そこでパウロはコリントにテモテを送りました。テモテはパウロにとってわが子のようにかわいい特別な存在です。さきほど、忠実さが大切だとパウロは言っていましたが、まさに忠実なしもべ、テモテをコリントへと送ります。
コリントには、様々な教えが入ってきた結果、パウロを敵視し、反対している人がいたようです。彼らは、パウロはコリントに来ることができないので、テモテをよこしたと考え、まず、パウロが来ることはないだろうと考えていたようです。しかし、それは思い上がりだとパウロは言います。パウロは彼らに脅しのように、「力を見せてもらおう」と言っています。そして、「神の国はことばにあるのではなく、力にある」と言いました。これは、みことばを無益にしているのではありません。この意味としては「言うだけでなく、実行して、実を結ばせることが神の国だ」というほうが良いかもしれません。中身のない福音ではなく、みことば通り行うとき、そこに神の力が現れていきます。

【5章】不品行

・不品行な者:1-8節
ここで取り扱われている問題は、不品行に関してです。ここからしばらくは、不品行に関して、性的な事に関してが書かれています。コリントの性的な乱れはどれ程だったでしょうか?異邦人の間にもないほどのものだと書かれています。具体的には、父の妻を妻にしているとあります。おそらく、義母だと思われますが、これはローマでは堅く禁じられていました。
それなのに、彼らは思い上がっていると言っています。それを見ても嘆くこともなく、彼らを取り除こうともしませんでした。これは教会にとって、とても難しい決断です。何度も警告し、カウンセリングし、みことば教え、注意しても繰り返し明らかな罪を犯す人に対して、処罰の断行として、しばらくの間礼拝に出席するのを禁止したとします。そうするなら「先生、ひどいじゃないですか。そんな愛のないことをして」と言われるかも知れません。それは本当でしょうか?もちろん、その動機を吟味することが必要ですが、罪を罪としてそのままにしておくことも良くないことです。
パウロはその様な不品行を繰り返す者をサタンに渡したと言っています。それは最終的に彼らが主の日に救われるためです。
そして、6節からは高慢をパン種にたとえます。本の少しのパン種が粉全体を膨らませます。我が家も家でパンを焼きますが、250gの小麦粉に対して3gのパン種を入れると、ふっくらしたおいしいパンが焼き上がります。パウロは古いパン種を取りのけろと言います。私たちの中にある古いパン種は取りのけられました。イエス様が取り除いて下さったのです。そのことが過越の祭でも現されてます。過越の祭りの期間は、パン種の入らないパンを食べます。これは混じりけのないみことば、また、罪を犯すことなくこの地上を歩まれたイエス様を啓示しています。私たちはこのようなパンで祭りをする必要があります。

・悪い人を除く:9-13節
話は戻り、不品行に関してです。パウロは不品行な者と交際しないようにと書きましたが、それは10節に書かれているような人と一切交わるなという意味ではありませんでした。そうしたら、私たちはこの世で生きていけなくなります。パウロは何を言いたかったのでしょうか?11節を見てみましょう。外部の人々は主がさばかれます。私たちは内部の人を除く必要があるのです。これは、私たちの内なる人にも言えることです。聖書の基準に合わないものは、私たちの内から取り除いていただく必要があります。

【6章】聖霊様の宮

・世界をさばく:1-11節
コリントでは、何が事件が起こったらそれを聖徒たちではなく、あえて正しくない人に訴えることがあったようです。そのことに対して、パウロは彼らがやがて世界をさばくようになるのに、小さな事件もさばくことができないのかと叱責します。3節をみると、なんと私たちはやがてみつかいをもさばくそうです。彼らは争いの仲介をすることはありませんでした。仲裁できる者は賢い知恵のある者です。私たちが未信者の前でお互いを訴え合うなら、何の証にもなりません。
7節を見ると、互いに訴え合うこと自体が敗北だと書かれています。そういうことになると、むしろ不正を甘んじて受け、だまされるほうが良いのです。その時は悔しい思いをするかもしれませんが、主は見ておられます。必ず主のためになすときに報いがあると信じます。
9節には、正しくない者は神の国を相続できないと書かれています。それは具体的にどのような事でしょうか?9-10節を見てみましょう。私たちもこのような状態だったかも知れません。しかし、イエス様の御名と神の御霊によって、洗われ、聖なる者とされ、義と認められました。何と感謝な事なのでしょうか。

・主と交われば一つ霊となる:12-20節
すべての事はパウロに赦されています。しかし、すべてが益になるわけではありません。私たちも同様です。何でも選択することはできますが、その選択が必ずしも神様に喜ばれるかどうかはわからないのです。
この時代のコリントでは、ギリシヤ文化が根付いていました。そこでは、体と霊は別々で、霊は救われているのだから、体はなにをしてもいいという考えがありました。しかし、パウロは神はどちらも滅ぼされると言っています。この与えられた体は、神の栄光を現すためのものです。そのために主は私たちを復活の恵みに預からせて下さいました。そうして、私たちはキリストのからだの一部とされました。そのキリストの体を遊女のからだにしても良いのでしょうか?遊女と交わるなら、一つからだになってしまいます。神様の約束の中での結婚は、麗しい一体をもたらしますが、神様の約束の外での男女の関係は大きな痛みをもたらします。しかし、交わった者は一体となってしまいます。
ところが、主と交わると一つ霊になることができます。ですから、私たちは不品行を積極的に避けなければなりません。不品行は自分のからだに対して罪を犯します。私たちの自分のからだは自分のものであると思っているかも知れませんが、これは神のものです。
19節には、私たちのからだは神から受けた聖霊様の宮だと書かれています。信じる私たちは代価を支払って買い取られました。ですから、このからだを持って神様の栄光を現していきましょう。


(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です