シャローム!
今日の通読箇所は、ルカの福音書にだけ出てくるたとえが多くあります。特に15章です。この箇所は失われたものが見いだされることが書かれています。私たちも本来なら失われていたものですが、神の一方的な恵みによって、見いだされました。これは何にも勝る喜びです。ところが、私たちはこの喜びを忘れてしまっています。この箇所を読み、もう一度救いの喜びを思い出させていただきましょう。
今日の通読箇所:ルカの福音書 13章-15章
■アウトライン
●安息日の本質:13章
・どちらが罪深いか:1-5節
・実が実るのを待つ:6-9節
・腰が曲がった女性のいやし:10-17節
・からし種:18-21節
・救われる者は少ないのですか:22-30節
・エルサレム以外で死ぬことはありえない:31-35節
●食事の席で:14章
・安息日に病気を治す:1-6節
・招かれたときには:7-11節
・祝宴を催す場合には:12-14節
・神の国で食事をする人:15-24節
・弟子になるには:25-35節
●失われた者が戻ってくる:15章
・失われた一匹の羊:1-10節
・放蕩息子:11-32節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【13章】安息日の本質
・どちらが罪深いか:1-5節
ある人がイエス様に報告した内容は何でしょうか?これはとても罪深いことです。人々はこの事をした人をとても悪いと考えていましたが、イエス様は2節でどのように言われていますか?また、当時は、事故などの死は、その人の先祖の咎であると考えられていました。ですから、シロアムの塔が倒れて落ちて死んだ人たちは彼らの罪がそうさせたと人々が考えていました。それに対してイエス様はどう言われていますか?私たちはこのふたつの事から、何をすべきだと思いますか?
・実が実るのを待つ:6-9節
ぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえが書かれています。ある人は実を実らせないいちじくの木を切り倒そうとしていますが、番人はどうしていますか?主は、このように私たちを忍耐をもって日々とりなしてくださっています。
・腰が曲がった女性のいやし:10-17節
イエス様は安息日に会堂で教えておられます。そこにどのような女性が来ましたか?イエス様はその女性にどうされましたか?
それを見ていた会堂管理者はどのように言っていますか?それに対して、イエス様はどのように答えられていますか?
彼らは安息日の規定を本来の神の目的からずらしてしまっていました。自分たちで労働の規定を作り、それを守ることに精一杯で、神様が本来言われていることを見ていませんでした。イエス様は安息日の本質を守られています。
・からし種:18-21節
イエス様は安息日の本質を分かち合われた後、神の国を語られています。ふたつのたとえがありますが、その共通する部分は何でしょうか?これが神の国です。この地上で目にとまらないほど小さな者でも、それは天の御国では大きなものとなります。小さなものに忠実でいましょう。
・救われる者は少ないのですか:22-30節
イエス様は町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへ向かわれます。そこで、ある人が質問しますが、その内容は何ですか?イエス様はどのように言われていますか?どのようにして門に入れと言われているでしょうか?救いは誰にでも開かれています。しかし、そこに招かれているだけであって、本当の救いに入れられるには努力が必要です。それは人の努力ではなく、主のために自分を献げ続けるという努力です。エスカレーターのように救いに導かれるわけではないのです。
家の主人が戸を閉めると、外に立っているものはどのようになるでしょうか?今先頭を走っているように思える者がしんがりになり、しんがりの者が先頭になります。
・エルサレム以外で死ぬことはありえない:31-35節
ここで、イエス様にヘロデがイエス様を殺そうとしていることを伝えに来ます。イエス様はどのように答えていますか?ヘロデを何の動物に例えていますか?そして、イエス様の働きと、この先に起こることを告げられています。さらに、イエス様はご自分の死なれる場所を明確に言われています。33節によると、それはどこでしょうか?
その町は祝福の町ですが、まことの救い主がいのちをささげられた場所でもあります。イエス様はいつもエルサレムを思って招きましたが、彼らは答えませんでした。そこで、どのように言われたでしょうか。35節を見てみましょう。
【14章】食事の席で
・安息日に病気を治す:1-6節
イエス様は安息日にパリサイ派の指導者の家で食事をしています。そこの人々はじっとイエス様を見つめています。どうしてでしょうか?イエス様の目の前にはどのような人がいましたか?イエス様は律法の専門家やパリサイ人に何を質問しましたか?そして、その人をどのようにされましたか?ここにイエス様の愛を感じますか?また、律法の専門家やパリサイ派の人たちはどうして答えることができなかったのでしょうか?
・招かれたときには:7-11節
ここで招かれた人を見て、イエス様が話されてます。その内容はどのようなものでしょうか?招かれるような事があったらどうしなさいといわれていますか?イエス様の品性教育です。いつでも、自分を低くしてトラブルになることは少ないと思います。多くの問題は「自分こそ正しい」という意見のぶつかり合いです。譲り合ってけんかをしている場面をあまり見たことがありません。へりくだることは神様の戒めに従うと言うことです。その時、一時的に損をした気分になることがあるかも知れませんが、それは私たちの人格を成長させ、神を喜ばせ、天の御国に宝を積むことになります。
・祝宴を催す場合には:12-14節
また、イエス様は自分を招いたくれた人にも話します。イエス様は誰を招いてはいけないと言われ、誰を招きなさいと言われていますか?その理由はなにですか?返せない人に施すなら、どうなると書かれていますか?
・神の国で食事をする人:15-24節
イエス様と一緒に食卓に着いている一人が質問します。その内容はどういうものでしょうか?それに対して、イエス様はどのようなたとえを話されていますか?このたとえは何を言いたいのでしょうか?イエス様の福音、救いの招きはイスラエルの全ての人々に向けられていましたが、彼らはそれに応じようとはしませんでした。招待されたのに、食事を味わうものはひとりもいなかったのです。
・弟子になるには:25-35節
イエス様は歩きながら、弟子について語られます。26節にはどうのように書かれていますか?これは、実際に家族を憎みなさいと勧めているのではありません。イエス様より家族を優先させてはならないと言うことです。家族を愛することはとても大切なことです。
その上で、27節のように言われます。イエス様の弟子となりたいと願うものはこれを行う必要があります。イエス様の弟子となるには何が必要でしょうか?すべてを捨てる覚悟です。わかっていてもなかなかできることではありません。そのためにも、まず、神の愛を体験する必要があります。本当の神の愛を知るなら、すべてをささげても余りある喜びがあります。
【15章】失われた者が戻ってくる
・失われた一匹の羊:1-10節
イエス様の話を聞こうとして集まって来た人たちは、どのような人たちでしたか?すると、パリサイ人、律法学者たちは何をつぶやきましたか?そのように言った心の根底にはどういう考えがあったのでしょうか?
それに対してイエス様はどのようなたとえを話されましたか?イエス様はどうなるなら、喜びが天にあると言われていますか?
また、無くした銀貨をみつけるたとえもあります。これは花嫁料の銀貨です。それを見つけたときの喜びはどれほどでしょうか?
・放蕩息子:11-32節
この箇所はルカの福音書にだけ書かれているたとえです。非常に多くのことをここから学ぶことができます。しかし、この事を一連の文脈から見ると、このたとえは何を言いたいのだと思いますか?
弟はどういう事をしましたか?その結果、人生のどん底まで言ったとき、どのように思いましたか?17節を見てみましょう。
また、20節以降の父の姿をよく観察してみましょう。これが天の父の愛です。
ところが、兄はどのような態度を取っていますか?父、自らが兄を慰めています。兄とはイスラエルの民、弟とは異邦人と見ることもできます。もしくは、先に信じた私たちが兄で、新しく救いを受け取った人が弟と見ることもできるかも知れません。
天の父は何を喜んでいるでしょうか?父のところに帰る、それが悔い改めです。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。