シャローム!
ゼパニヤに限らず、多くの書簡に見える構図ですが、破壊と回復が書かれています。私たちの人生でも何度となく壁にぶち当たり「どうして!」と言いたくなるような出来事に何度も遭遇するでしょう。しかし、その時に覚えておく必要があります。それは全て主の御手の中で行われていると言うことです。そして、その試練と共に脱出の道を用意してくださっています。そして、試練の度に私たちを成長させてくださいます。試練の先にきぼうがあります。
それを思うなら、私たちが避けなければならないのは試練から逃げることだというのがわかります。主と共になら、どんなことをも乗り越えられます。主が与えてくださる一年、今日という日を感謝を持って生きていきましょう。
今日の通読箇所:ゼパニヤ書 1章-3章
■アウトライン
●主の日:1章
・取り除く:1-9節
・彼らの家は荒れ果てる:10-13節
・主の大いなる日は近い:14-18節
●残りの民:2章
・主を尋ね求めよ:1-3節
・海辺:4-7節
・自分のいる所で主を礼拝する:8-11節
・私たちは特別だ:12-15節
●残された民への慰め:3章
・反逆と汚れに満ちた暴力の町:1-5節
・全地は主のねたみの火で焼き尽くされる:6-8節
・民のくちびるを変えてきよくする:9-10節
・主の御名に身を避ける:11-13節
・シオンよ恐れるな気力を失うな:14-17節
・名誉と栄誉を与えよう:18-20節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【1章】主の日
・取り除く:1-9節
ゼパニヤは自分の系図をはっきりと記しています。四代前までさかのぼっています。ゼパニヤはヒゼキヤの子孫です。つまり、王家の家系です。
また、ゼパニヤという名前は「ヤハウェはかくまう(隠される、大切にされる)」と言う意味です。この書全体のテーマでもあります。
主は地の面から全てを取り除くと言われています。人々の偶像礼拝によって引き起こされることです。何も関係の無い全ての被造物が被害を受けます。しかもそれを行っていたのは主の約束を受けていたユダの家です。
イスラエルではヨシヤ王が宗教改革をした後も、相変わらずバアルを礼拝する者が残っていました。偶像に仕える祭司もいました。天の万象(ミルコム)を拝む者もいました。屋上で天体を仰ぎ見ながらそのような神々を拝んでいました。
7節にある「一頭のほえる獣」とは敵ではなくユダの家のことを言っています。逆に「主に招かれた者を聖別された」とはバビロンのことです。バビロンによるユダの破壊を、主に対していけにえをほふる祭司になぞらえています。
ユダの家は6節にあるように「主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者どもをたち滅ぼす」とあります。つまり、自己中心を捨てないこと、安息日を取っていないというのが彼らの問題でした。それは自分でも歯止めがきかないようになっていました。あらゆる中毒症状はわかっていても自分で止めるのは難しいことです。それで、ゼパニヤは「神である主の前に静まれ」と言われます。一度「ストップ」と言われるのです。私たちにとって、この二年がその様な年だったのではないでしょうか。
・彼らの家は荒れ果てる:10-13節
その日が来ます。この時の人々にとってはエルサレムが滅ぼされる火であり、私たちにとっては終わりの日です。その時、北が集中攻撃されます。「魚の門」はエルサレムの北にある門です。また、「第二区」と書かれている所も北のエリアです。
また「マクテシュ区」はビジネスの場所です。商人がたち滅ぼされます。
このような事を主は「ぶどう酒のかすの家によどんでいる」と表現されています。一体どういうことでしょうか。ぶどう酒を作り、それを保管しているとき、沈殿物が入れ物の底に溜まります。そのとき、普通は別の器に上澄み液を入れ替え、ぶどう酒が悪くなるのを防ぎますが、そのままにしていると言うことです。そうするとぶどう酒は悪くなります。
それで、「主は良いことも、悪いこともしない」と心の中で言っている霊的な怠惰な状態になっています。そして、ついには「家を建てても住めず、ぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない」と言う状態になります。主を尋ね求めない者の行き着く姿です。全ての労苦が無益となります。
・主の大いなる日は近い:14-18節
主の日の姿がここにあります。激しい怒りの日として書かれています。それは地上で人が行っている悪に対する報いの日でもあります。人々にとっては苦難と苦悩(感情面)の日です。また、荒廃と滅亡(物理的側面)の日です。やみと暗黒(心理的側面)の日です。雲と暗やみ(地球的、宇宙的規模の側面)の日です。「角笛とときの声(軍事的側面)の日です。あらゆる事が一度にやってきます。そして、銀も金も救い出せないとあるように、経済も何の役にも立たない日となります。
その日は近く、非常に早く来ます。イエス様もご自分の再臨を黙示録で「わたしはすぐに来る」と言われています。私たちのすぐと神様のすぐの尺度は同じとは限りませんが、今日、主が来られても後悔の無い生き方をしたいです。
【2章】残りの民
・主を尋ね求めよ:1-3節
主は聖書の中で何かを滅ぼされるとき、破壊自体が目的ではないことをみなさんも学ばれたと思います。主が壊されることには必ずその先により大きなご計画があります。
主はエルサレムの崩壊を通して、主を尋ね求める者がひとりでも多く出てきて欲しいと願っています。
それで、「恥知らずの国民よ。こぞって集まれ」と言われています。主の悔い改めの呼びかけです。「恥知らずの国民」とは、ユダの人々に対して「あなたたちは異邦人となんら変わりないではないか」と言っています。「集まれ」とは集会を開けということです。
それらを、実際に事が起こってからではなく、その前に、主が知らせてくださっている今と言うときに行うことが重要です。ノアの箱船には、誰でも入ることができましたが、人々はノアたちをバカにして従いませんでした。その結果、ノアと家族だけが箱船に入り、戸は自動的に閉まりました。タイムズ・アップです。そうならないうちに悔い改めが必要です。
そのために重要な語りかけがあります。「主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。」です。「尋ね求める」は心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして主を求めることです。心を砕き、心の衣を引き裂き、熱心に主とひとつ心になることを求めることです。他のことではなく主を求めることが大切です。
義を求めることはキリスト者の基本です。主は義なるお方です。この世の基準の義ではなく、神の基準の義を求めることが大切です。柔和は神のみことば、戒めに対して従うこと、自分の義を捨てることです。そして、人に対しては憐れみを示すことです。
この生き方をする者は「主の日にかくまわれ」ます。
・海辺:4-7節
ここからは主がより具体的に国々を滅ぼされる宣告を行われます。イスラエルを囲む国々です。
まずはペリシテの町です。五つの町があります。ガザ、アシュケロン、アシュドテ、エクロン、そしてガザです。ここにガザは含まれていませんが、ガザの町がまだ再建されていない時であると思われます。
また、ケレテ人とはクレテ島の人々のことです。彼らはここから移住してイスラエルの海岸地区、今のガザ地区に住み着いています。
そして、近年周辺諸国からイスラエルにミサイルが頻繁に撃ち込まれます。その地域のほとんどがこの地域です。主の御心を祈るしかできません。
主は子の地域に人が住むことができないようにされます。ペリシテ人はギリシヤのアレクサンダー大王によってガザが攻められたとき、民俗として消えてしまいました。
・自分のいる所で主を礼拝する:8-11節
モアブとアモンです。彼らはバビロンによってエルサレムが破壊された時に喜びました。彼らはユダと共に歩むようなそぶりを見せていましたが、心の内は違っていました。それに対して主は彼らをソドムとゴモラのようにすると言われました。その通りに、バビロン、ペルシヤ、ギリシヤと相次いで攻撃され、民族性が失われました。そして、その地をユダの残りの民が受け継ぎます。
10節からを見ると、主はユダの残りの民だけでなく、すべての国々に対して救いの手を伸ばされます。そのために、主は地のすべての神々を消し去られます。そのためにイエス様は十字架にかかってくださり、聖霊様を送り、異邦人への道を開いてくださいました。
・私たちは特別だ:12-15節
クシュとはエチオピヤのことです。そして、ニネベの破壊が書かれています。ナホム書で見たとおりです。メディヤがバビロンと共にニネベを倒しました。
また「私たちは特別だ」ということばは「わたしだけで、ほかにいない」と言う意味です。本来は主がご自分を語られる時に使われたことばですが、それをバビロンが自分たちのことばとして使っていましたが、それをまねしてアッシリヤも使っています。その高ぶりのゆえにさばかれます。
もちろん、私たちも主に召された特別な者です。だからといって全てが大丈夫なのではありません。安心して何もしないのではなく、あくまでも主の恵みに拠り頼みながらも、さばきの日に備えて準備する必要があります。そのためにも通読を続けていきましょう。
【3章】残された民への慰め
・反逆と汚れに満ちた暴力の町:1-5節
ここで主は再びエルサレムに焦点を当てられます。悔い改めの集会を呼び掛けても応答しない人々の姿をご覧になったからです。そして、ここで三つの罪を取り上げられます。
一つは反逆です。二つ目は汚れです。そして、暴力です。リーダーたちはこれを守り、行う責任がありましたが、リーダー自らこれらを積極的に行っていました。預言者もこれらの事を知りながらも指摘しません。祭司は汚れを取り除く必要がありましたが、それをしません。
ところが、主はそのような悪には全く影響されず、揺るがないお方です。5節にその姿があります。「朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに出す」とありますが、これは王やさばきつかさが毎朝、門でさばきを行うことを表しています。主の願いはこのように虐げられている者を救われることです。
・全地は主のねたみの火で焼き尽くされる:6-8節
ユダの回りの国々は滅ぼされています。主がバビロンを用いられました。このことで、主はエルサレムの住民に警告のメッセージを送られています。まだ悔い改めの時間が与えられています。まだ安息に入るチャンスは残されています。しかし、彼らはその悪い行いを改めようとしません。
・民のくちびるを変えてきよくする:9-10節
主は滅ぼされる前に悔い改めに呼び掛けに応じた少数の人々に目を留められます。「国々の民のくちびるを変えてきよくする」とあります。これは他の神々の名を唱えないという意味です。そして彼らは「一つになって」主に仕えます。主が心を与えられるので、国民や国語を超え、主にあってひとつになることができます。
そして、クシュの川の向こうから贈り物をもって散らされた者が帰ってきます。クシュにいるイスラエルの人々がクシュ人によって帰還を後押しされます。この帰還するイスラエルの民がクシュ人にとって主への贈り物となります。
・主の御名に身を避ける:11-13節
国々の中に主に立ち返る人が起こされます。イスラエルの中でも残された民が慰めを受けます。しかし、イスラエルの高ぶる者は取り去られます。大患難の中で民は神によって選り分けられます。そこで残された者は「へりくだった、寄るべのない民」です。イエス様も「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われました。
そのように、残された者は口と行いがさらに聖められていきます。偽りを言うことを捨て、不正を行わない生き方があります。そして、主によって安全が保証されます。緑の牧場にいる羊のようです。
・シオンよ恐れるな気力を失うな:14-17節
主は回復したエルサレムを心から喜ばれています。私たちが主に対して賛美を歌うのが普通ですが、主が悔い改めた者をご覧になって、彼らに対して歌っておられます。私たちもうれしいことがあったときに足取りが軽くなり、鼻歌が出てくるでしょう。主は悔い改めた者がいるとき、それ以上の喜びをもって答えてくださいます。
これが主の願いです。誰一人滅びることを望んでおられません。主に立ち返って生きることを望んでおられます。
主に従い、舌と行いを聖められたものには、この喜びの特権が与えられています。イエス様の血潮を受けましょう。御霊の更新を求めましょう。そして、みことばによる水の洗いを受けましょう。
・名誉と栄誉を与えよう:18-20節
主は私たちのただ中におられると繰り返しておられます。そして、ここでは離散の民への慰めのことばがあります。「例祭から離れて悲しむ」とは、主の例祭に参加できないので悲しむということです。離散された人々を苦しませた者を主が罰せられます。離れた地でも主を求める者に慰めと栄誉が与えられます。そして彼らの恥辱が拭い去られます。
これらは最終的には終わりの時、主の再臨の時に起こります。私たちはその日に備え、今日できることを行っていきましょう。それはみことばの通読と祈りです。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
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