聖書通読クラブ Day 271

聖書通読クラブ Day 271【アモス書 7章-9章, オバデヤ書】

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シャローム!

今日はアモス書の最後とオバデヤ書の通読です。
アモスはイザヤと同時代に活躍した預言者です。イザヤは学びを受け、高学歴の預言者でしたので、66章もの書簡を書きました。一方アモスは家畜を牧する者だったので、とてもシンプルなことばでイザヤと同じ預言を語ります。そして、今日の箇所では一気に彼の啓示が開かれます。みことばを聞くことのききん、そしてダビデの幕屋の回復が語られていきます。
今日もみことばから教えられていきましょう。

今日の通読箇所:アモス書 7章-9章, オバデヤ書

■アウトライン

●何のために仕えるか:7章
  ・このことについて思い直す:1-6節
  ・重りなわ:7-9節
  ・アマツヤ:10-17節

●今起こっているききん:8章
  ・夏のくだもの:1-6節
  ・終わりを苦い日とする:7-10節
  ・主のことばを聞くことのききん:11-14節

●ダビデの幕屋の回復:9章
  ・わざわいのために見る:1-4節
  ・地は溶ける:5-6節
  ・イスラエルの家をふるう:7-10節
  ・ダビデの幕屋の回復:11-12節
  ・エデンの回復:13-15節

●兄弟への反発:オバデヤ書
  ・そこから引き下ろす:1-4節
  ・苦難の日にしてはならないこと:5-14節
  ・王権は主のものとなる:15-21節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【7章】何のために仕えるか

・このことについて思い直す:1-6節
いなごは食料を食い尽くす生き物として聖書に出てきます。黙示録の中でも登場します。
ここでは二番草が生え始めたとあります。これは王に治められる、いわば税金のような食料です。王や王に仕える人々、家畜のために用いられます。それに対していなごが送られます。そのことに対してアモスはとりなして祈ります。そうすると、主は思い直されます。
主は当初、燃える火を呼んでおられました。これは植物を焼き尽くすような熱風や日照りです。大淵とは地下水です。この水脈を打たれます。このことについても、アモスはとりなして祈ります。そして、主は思い直してくださいました。とりなしの大切さを知ることができます。

・重りなわ:7-9節
ここに出てくる重りなわとは、建築の時に垂直を出すために用いられる重りのついたひもです。ここではイスラエルがまっすぐになっているかを重りなわで確かめておられます。なぜなら、正義という意味はまっすぐという意味だからです。
では、彼らは重りなわで確かめるとどうなっているかというと、崩れそうな城壁のように曲がっています。そして主は「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」と言われています。主は憐れみ深く愛に満ちた方ですが、さばきに対しては厳しいお方です。

・アマツヤ:10-17節
北イスラエルの特長として、非常に宗教的に熱心だと言うことが言えます。しかし、問題は神のことばを聞こうとしないと言うことでした。彼らは自分が一生懸命に何かをしていると言うことに満足します。そして、いつしか神抜きで神を礼拝するという滑稽な形になっています。その中心が神ではなく自分だからです。彼らは神のことばではないものを神のことばとして受け取っていました。ですから、本当の神のことばが入ってくるのは都合がわるかったのです。自分たちの思うように事が進まなくなるからです。
また、ベテルの祭司とありますが、そこには金の子牛がありました。そこで仕えているアロンの血筋ではない偽物の雇われ祭司です。彼らはヤハウェなる神に仕えていたのではなく、宗教に仕えていた祭司たちです。
アマツヤはヤロブアム二世に訴えますが「ヤロブアムは剣で死ぬ」と言いました。それはヤロブアム個人ではなく、ヤロブアムの家に立ち向かうという意味でしたが、それを理由に謀反の罪に仕立て上げてしまったのです。
そして、アマツヤはアモスに「パンを食べ、その地で預言せよ」と言っています。ここにアマツヤの本心が出てきています。彼は神のためではなく、自分が生きていくために祭司職をしていました。聖書には二種類の労働があります。一つは自分が生きていくために働く労働、もう一つは神に仕えるための労働です。安息日に禁じられているのは前者であり、後者はむしろしなければならないことです。アマツヤは前者の労働目的で祭司として働いていました。
14節はアマツヤと対照的なアモスの姿が見えます。彼は自分のために預言をしているのではなく、神の召しに従って預言しています。かれは羊飼いとして生活の糧を得て、その上で神に召され預言しています。彼にとって預言の働きは生活していくためではありませんでした。ただ、神によって「預言しなさい」ということに従っているだけです。
そして、アマツヤに対する預言は「預言をするな」という預言です。それからどうなったでしょうか。自分の妻は遊女となります。子どもたちは剣に倒れます。自分の所有地は分割されます。そして、彼は死んでしまいます。祭司という立場は影響力が大きいので、さばきも大きなものとなります。

【8章】今起こっているききん

・夏のくだもの:1-6節
主はアモスに終わりが来たことを告げられます。それを夏の果物と表現されました。イスラエルの暦において、新年は秋ですから夏は一年の終わりになります。ですから夏も終わりを指します。また、果物というヘブライ語が「終わり」というヘブライ語の発音とにているので、言葉遊びのように終わりを意味することばで「夏の果物」と言っています。
そのために、「神殿の歌声は泣きわめきとなる」とあります。人々が無残に殺され、あまりの悲惨さに声が出なくなります。「口をつぐめ」とあるとおりです。
北イスラエルでは祭りが祝われていました。もちろん、安息日も守られていました。しかし、人々の心は混ぜ物で一杯でした。単に儀式として、習慣として祭りを祝っていました。彼らは礼拝ごっごをしているのであり、神に対する恐れがありませんでした。その証拠に、彼らは礼拝しつつも、異教の神を拝んでいました。
彼らは礼拝していると言いながら貧しい者を踏み付け、悩む者をさらに悩ましていました。また、安息日には商売ができないので、いつになったら終わるのかと焦っていました。その結果、商売で不正をすることを思いつきます。「エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きのはかりで欺こう」と言っています。それから、弱い者を不当に安く買い取り、くず麦を売っています。主はこのような不正を憎まれます。
私たちも仕事の中で、このような不正を取り除いて行きたいと思います。まず、自分が不正をしないことです。また、できる範囲で自分の所属している所から不正を取り除くのです。多くの会社では外部に相談できる機関があります。また、弁護士などに無料で相談できる「法テラス」という機関もあります。企業の不正は社会的にも有益ではありません。もしかしたら自分の立場が社内で悪くなるかも知れませんが、祈って主が促されるなら行動してみましょう。

・終わりを苦い日とする:7-10節
主は彼らを見て、ここに書かれていることを言われました。神のことばが語られていながら、それを聞くことをせず、悔い改めもせず、暴虐と欺きの限りを尽くしています。その上で何もなかったかのように神を信じると自称している者がいつも通り生活しています。そのような状況に主は耐えることができませんでした。そこで、主は地を土台から揺り動かされます。そのことをナイル川の氾濫にたとえて語っています。
また、9,10節はイエス様の十字架の日を啓示しているようです。イエス様は過越の祭の時に十字架にかけられました。喜びの日が喪の日となります。そして、イエス様が十字架にかかられた時、お昼から午後三時頃まで真っ暗になりました。そして本当に神のひとり子が失われてしまいました。

・主のことばを聞くことのききん:11-14節
ここがアモス書のハイライトと言っても良いかもしれません。多くのキリスト者はこの箇所を引用して、「みことばのききんだ」と言います。しかし、よく読むとそうではないことがわかります。「みことばのききん」というと、あたかもみことばが語られていない、つまり供給が少ないという印象を受けます。そうではなく、「主のことばを“聞くこと”のききん」です。みことばはいつでも語られています。問題は主にあるのではなく、私たちにあります。
その証拠に、イエス様も教えてくださった最も大切なことは「シェマの祈り」と言われる申命記6:4-9です。それは「聞きなさい」ということばから始まります。黙示録の七つの教会にも「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」と言われています。アダムは最初に神のことばに聞き従うことができなかったため、人に罪が入りました。そう考えると、罪の原因は聞くことにあるようです。
あるテレビ番組で興味深い実験をしていました。それは天気予報を実験者に見せ、表示は晴れマークを出しているのですが、お天気キャスターは正反対の雨の予報を語っていました。結果はほぼ全員がお天気キャスターの言っていることを聞いておらず、見たものの方を信じていました。私たちは聞いていると思っていても、実は聞いていないのです。
聞くことは非常に重要なスキルです。スキルと言うことは能力なので鍛えることができます。意識すれば聞く技術を磨けます。耳で聞くのではなく、体全体で聞くことが大切です。
もし、神のことばを聞いているつもりで本当に聞いていなかったらどうなるのでしょうか。ここではさまよい歩いてしまうと書かれています。そして、渇きのために衰え果てます。倒れても二度と起き上がれません。
今、みことばは溢れています。スマートフォンなどでいつでもみことばに触れることができます。しかし、私たちの耳は硬く閉じたままです。耳に割礼が与えられるように、主のことばを心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、全身全霊で聞くことを心がけましょう。

【9章】ダビデの幕屋の回復

・わざわいのために見る:1-4節
そしてついにベテルの宮が一挙に破壊されます。それは回復のためです。
偶像の宮と化しているベテルの神殿の柱頭を打たれます。これはボーリングのピンで言えばトップピンです。ここが打たれたら全てが倒れます。主はその様にして下さいました。
また、2節を見ると、主の主権を知ることができます。人がどこに逃げ込んでも、主は主権を持って引き戻されます。マタイ28:18には「イエスは近づいてきて、彼らにこう言われた。『わたしは天においても、地においても、いさいの権威が与えられています。』」とあります。このお方が全ての権威者です。

・地は溶ける:5-6節
主は終わりの時、地を揺るがすだけでなく、地を溶かされます。根本から造りかえてくださいます。
そして、人々が泣き悲しみますが、それでも悔い改めないので次々と死に渡されている状態を見たときの悲しみです。それら全てを行われるのは主です。

・イスラエルの家をふるう:7-10節
主はなぜ上のようにされるのでしょうか。それは押したり引いたりしてでも、何としてでも彼らに主が主であることを知って欲しいと願っているからです。彼らがこの時まで生かされていたのは、主の一方的な恵みに拠ることです。私たちも同様です。
そして、主はクシュ人を引き合いに出し、イスラエルの民も彼らと同じだと言われます。主の恵みと憐れみがなければ一秒たりとも生きていくことができません。
8節では「見よ。神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている」とあります。通常なら罪から目を背けたくなります。しかし、主は憐れみによって罪ある所に御目を注いでくださいます。マルコ2:17には「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」とあります。
私たちはどうして救いに導かれたのでしょうか。私たちが立派だからでしょうか。努力したからでしょうか。お金が一杯あったからでしょうか。違います。私たちは神の一方的な恵みによって救われるのです。主は「これを地の面から根絶やしにする」と言われながら「ヤコブの家を、全く根絶やしにはしない」と言われています。この矛盾したように見えることは何でしょうか。ヤコブの家は根絶やしにしませんが、その中にあるヤロブアム二世のようなものは根絶やしにするということです。
主は揺り動かしによってイスラエルの民をふるいにかけられます。ヘブル12:26-27には「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれる事を示しています。」
私たちにとって揺り動かし、試練というものは歓迎されることではないかもしれません。しかし、この事を通して私たちに潜んでいたもの、隠されていたものがあらわにされます。それを十字架の前に持っていくなら、主はそれを取り扱ってくださいます。
そのようなふるいにかけられても、なお悔い改めないものは主のさばきが下ります。

・ダビデの幕屋の回復:11-12節
ここにすばらしい回復があります。それがダビデの幕屋の回復です。「ダビデの倒れていた仮庵」とありますが、これはダビデの時代に行われていた礼拝の中心を示しています。
神のご臨在、すなわち神の契約の箱は荒野では幕屋の中にありました。そして、ソロモンの時代には神殿にありました。その間、ダビデの時代の30年間ほどは、そのどちらにもありませんでした。
ダビデは簡単な天幕をつくり、その下に神の契約の箱を置きました。本来であれば聖所の中の至聖所に置かれなければなりませんが、むき出しで置かれています。明確な律法違反です。しかし、神の箱を覆うのは幕でも壁でもありません。賛美を捧げる者、礼拝者が神の箱を取り囲みます。これは正に新約聖書の時代の礼拝、天での礼拝を実現したものです。
ダビデは礼拝者を24組に分け、神の箱の周りで彼らを24時間絶え間ない礼拝をささげさせました。それが30年続きました。その結果、山の上かでささげられたこの礼拝がイスラエルの隅々まで及びます。そして、この時代からソロモンの時代にかけて、イスラエルは霊的にも物質的にも豊かに繁栄します。
さらに、イエス様が天に戻られた後、使徒たちが福音を伝えます。その中で異邦人にも福音を伝えて良いかどうかという大事な話し合いがもたれます。エルサレム会議です。様々な意見が飛び交う中で、突如として主の兄弟ヤコブがこの箇所を引用して、異邦人への伝道の道が開かれていきました。私たちに委ねられているのはこの礼拝です。ともにダビデが見た礼拝、天の礼拝をささげていきましょう。

・エデンの回復:13-15節
ダビデの幕屋が回復し、ここではエデンの回復の姿があります。「耕す者が刈る者に近寄る」とありますが、秋の収穫が余りにも豊作なので冬の種まきの時まで刈り取りが続いているという意味です。「ぶどうを踏む者が種蒔く者」というのも同義的平行法で同じ意味です。
その時、主は「わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない」と約束されます。
自分の罪を認め、悔い改め、主イエスを信じ従う者には永遠のいのちが与えられます。

【オバデヤ書】兄弟への反発

・そこから引き下ろす:1-4節
オバデヤとは「主のしもべ」「主の礼拝者」と言う意味ですオバデヤは主から幻を見せられます。それえは「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう」というものでした。これはバビロン帝国のことです。
2節にあるように、エドムは小さな国となります。バビロンに攻められ、ギリシヤにも攻められました。その後、彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになります。あのヘロデもイドマヤ人です。やがて彼らは滅ぼされ、民族が消えていまいます。
なぜ彼らが滅ぼされたかと言えば、心の高慢からです。彼らの先祖、エサウは本来であれば長子の権利を持っていました。しかし、彼はその選びを拒みました。そして彼らが一族となり、移り住んだのがセイル地方です。そこでは岩場があり、自然の要害になっています。それは彼らが「自分たちは主と関係ない。自分たちは岩に囲まれているから、敵が来ても大丈夫」という思いが表れています。
また、この地域は紅海とダマスコをつなぐ王の道が通っている所なので、貿易によって豊かな国となりました。そのことから、彼らは敵から攻められることなど無いと思っていましたが、実際はそうではありませんでした。彼らの高ぶりが招いたことです。

・苦難の日にしてはならないこと:5-14節
エドムは盗みをしましたが、そのやり方は自分たちが気が済むまで盗んでいます。彼らは自分のしたことの刈り取りをします。自分がしたことを正にされてしまいます。そして、その暴虐は永遠に絶やされるとの宣告が下されます。
かつて、モーセが荒野にいたとき、エドムを通過させてもらおうと丁寧に許可を取ろうとしました。しかし、彼らは通さなかっただけでなく、丸腰の彼らに対して戦おうとしました。

・王権は主のものとなる:15-21節
主の日、つまり終わりの日には主が報いられます。イスラエルを踏みにじった国はさばかれます。そのことをゼカリヤ14章で見たと思います。国々が「飲み続け、飲んだり、すすったり」とありますが、これは神の怒りの杯を飲むと言うことです。エルサレムが受けた同じ苦しみを彼らも受けます。
そして、17節からは残されたイスラエルの人々に対する預言が始まっています。彼らは終わりの時代、大きな患難の中で苦しみを受けますが、それを通して砕かれ、主に救いを求めます。
そしてエルサレムは聖なる地となります。聖なるものがだけがシオンに出入りできます。そして、ヤコブが主によって与えられていた領地を所有します。
そして、主がイスラエルのために戦ってくださいます。主ご自身が先頭に立って下さり、戦って下さいます。
19節からを見ると、周囲の国々が持っていたものをイスラエルに住む者が占領するという約束があります。主が与えてくださった土地に、本来住むべき者が住まわされます。
21節では、救う者たちとありますが、これは士師のような裁き司でしょう。周辺諸国から虐げられているときに士師が立ち上がり、戦いイスラエルを救いました。エドムとイスラエルの立場が逆転しています。ここでの「裁く」とは、治めるという意味です御国の基準で世界が治められていきます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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