シャローム!
今日からホセア書に入ります。この書簡は北イスラエルに対しての預言です。サマリヤを初め、北イスラエルは初めから金の子牛を作り、エルサレムに行かなくても礼拝ができるシステムを作ったり、アロンの家系で無い者から祭司を選んだりしていました。とても効率的なやり方に見えますが、主の方法ではありません。
そのような国を女性にたとえ、書かれています。今日もこのみことばから教えられていきましょう。
今日の通読箇所:ホセア書 1章-4章
■アウトライン
●姦淫の女と子たち:1章
・ホセアにあった主のことば:1節
・姦淫の女をめとれ:2-7節
・ロ・アミ:8-9節
・生ける神の子ら:10-11節
●放蕩娘:2章
・わたしの民、愛される者:1-7節
・彼女の恥を恋人たちの前にあばく:8-13節
・荒野でやさしく語る:14-15節
・永遠の契り:16-20節
・天と地に答える:21-23節
●妻を買い取る:3章
・おののきながら主の恵みに来る:1-5節
●霊的姦淫:4章
・地に住む者と言い争う主:1-3節
・祭司をなじる:4-6節
・主を捨てて姦淫を続ける:7-10節
・姦淫の霊が惑わせる:11-14節
・自分たちの祭壇のために恥を見る:15-19節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【1章】姦淫の女と子たち
・ホセアにあった主のことば:1節
ここに書かれている王の時代からホセアの年代がわかります。この王を見ると、イザヤと同じ頃であると言うことがわかります。ホセアの大きな特長としては、北イスラエルに対する預言をしていることです。ホセアとは「救い」と言う意味です。この事から、ホセアは北イスラエルのエレミヤと言われたりもします。
・姦淫の女をめとれ:2-7節
ホセアもまた、預言的行動で主の心をあらわします。それは姦淫の女をめとるということです。イスラエルの民においてはありえないことです。これは実際に起こったことですが、ホセアが主で、姦淫の女がイスラエルというたとえになります。
ホセアは主の命令に従います。姦淫の女をめとり、それを愛するという決断をします。特に男性のみなさんはこの覚悟が必要です。妻が与えられたのなら、最後まで愛し抜くという決断が必要です。
ホセアがめとった女性の名前は「ゴメル」です。この意味は「主によって成し遂げられる」という意味と正反対の「失敗して断たれる」という意味があります。彼女は姦淫の罪を犯し失敗します。しかし、主によって願いが成し遂げられます。私たちも同じです。主がそのようにして下さる事を感謝します。
ゴメルは三人の子どもを産みますが、最初の子はイズレエルです。この名前も相反する意味があります。「散らす」という意味と「集める」という意味です。確かに、主はイスラエルを散らされますが、終わりの時代に再び集めて下さいます。そして、北イスラエルはアッシリヤによって散らされます。
ゴメルは二人目の子を産みます。その名はロ・ルハマです。「愛さない・憐れまない」と言う意味です。
7節を見ると、ユダの家が出てきます。北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされますが、その時南ユダにいたのはヒゼキヤでした。そして、アッシリヤ軍がユダを囲みますが、一晩で18万5千人のアッシリヤ軍を主が滅ぼされました。弓、剣、馬などによって彼らを救うのではないんどえす。
・ロ・アミ:8-9節
ゴメルは三人目の子を産みます。名前はロ・アミです。「私の民では無い」という意味です。イスラエルの民が、もはや神の民としての立場を失ってしまっている状態です。彼らはかたくなで、主の声を聞こうとしません。神に背を向け続けています。
・生ける神の子ら:10-11節
主はイスラエルを回復してくださいます。アブラハムに約束されたように、海の砂のように増えます。かつては「あなたがたは私の民で無い(ロ・アミ)」と言われた同じ場所で「あなたがたはいける神の子らだ」と言われるようになると書かれています。主は罪に陥ってしまった同じ場所で回復して下さいます。
パウロはこれをローマ9:24-26で異邦人に適用しています。「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられる通りです。『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ「あなたがたは、わたしの民ではない。」と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。』」
11節では、イスラエルの人々だけでなくユダも加わっています。エゼキエル37章でも二つの杖が一つにされると書かれていました。これはイエス様を意味しています。主の再臨の時に成就します。ここが流血の地ではなく、ぶどう酒と穀物の満ちるところとなるのです。この時、イズレエルは散らすという意味から集めるという意味に変わります。
【2章】放蕩娘
・わたしの民、愛される者:1-7節
あなたがたの母とはゴメルであり、イスラエルです。ゴメルがしていることはイスラエルが主に対してしていることと同じです。イスラエルを命をかけて下さる主がおられるのに、ヤハウェなる神から離れてバアルを拝んでいます。
3節では、彼女の着物をはぎ、産まれた日のようにすると書かれています。かつて荒野で神がイスラエルと契約を結んで下さいました。その前の状態、赤子のような時にすると言われています。神様がご介入される前の状態です。
4節はロ・ルハマとロ・アミの事です。「ロ」とは英語の「Not」と言う意味です。罪があるままの状態では主は本当の親しい愛を持って愛することができないのです。
5節の恋人たちとはバアルのことです。ヤロブアム二世の頃のイスラエルは非常に繁栄していました。しかし、彼らは偶像礼拝を熱心に行っていました。通常であれば、神を熱心に求める後に祝福がついてくるのですが、どうしてこのような事が起こったのでしょうか。
それは主の憐れみによります。ところが民は自分たちが豊かになっているのはバアルのおかげだと思っています。事実、バアルの意味は主人で、豊穣の神として知られています。
6節では、彼女が売春の場所に向かいます。しかし、主はその道を見いだすことができないように石垣を立てます。主はこのように、霊的な壁を作って下さり、私たちを守って下さいます。バラムがろばに乗って歩いているとき、ろばが壁に身をこすりつけました。抜き身の剣を持った御使いがいたからです。そのように、主は霊的な領域で私たちが気づかなくとも守って下さることがあります。私たちが欲しいと思ってもその道が開かれないのは、ここにあるような主の壁があるのかもしれません。
7節を見ると、彼女は恋人にも追いつけず、探しても見つかりません。そこで、彼女は「私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから。」と言います。まるで放蕩息子の女性版です。ここが大切です。気づくことです。あとは主の道へと方向転換して歩き出せば良いのです。
・彼女の恥を恋人たちの前にあばく:8-13節
この箇所を見ると、ホセアは自分の妻の恋人にあらゆるものを提供していたのかもしれないと思ってしまいます。イスラエルの民もバアルによって豊かになったと思っていましたが、実は主がすべてを供給して下っているのです。
イスラエルの民は自分たちがアッシリヤに攻められた時、バアルに祈り求めても何の答えもありません。エリヤとバアルの預言者の時もそうでしたが、バアルはいざというときに全く役に立ちません。実は普段から役に立っていないのです。人々が勝手に思い込んでいるだけです。形だけで中身がないのです。それが偶像の姿です。この事を「彼女の恥を、恋人たちの目の前にあばく」と表現しています。
北イスラエルはあらゆるものを混ぜ物にします。異邦人と結婚することで血が混ざります。ヤハウェなる神以外の神を礼拝して信仰が混ざります。覚えているでしょうか。ユダも神殿で礼拝をささげながら、同時に偶像を礼拝していました。しかし、北イスラエルは礼拝その者に偶像を取り入れていました。
12節、バアルによって得たと思っていたぶどうの木、いちじくの木を主が取り上げられます。ここでの「報い」とは彼らが主を退けたので、主も彼らから離れられたということです。
・荒野でやさしく語る:14-15節
彼女は裸です。その彼女をくどいて荒野に連れて行き、そこで優しく語りかけます。神の変わらない愛の姿があります。主の憐れみです。あきらめない情熱です。この愛を持って、主はイスラエルを悔い改めへと導かれます。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)
そして、導かれた所は荒野です。荒野はヘブライ語でミドバールと言います。「ミ」というのは英語の「at」、場所を示す前置詞で、「ドバール」はダバールというものでことばという意味です。つまり、荒野は神のことばが留まる場所です。
主はこのように、見た目で判断されません。裸の状態でボロボロになった遊女をこのようにくどき、優しく語って下さいます。人はうわべを見ますが、主は心を見られます。
放蕩娘は荒野の状態の彼女に答えてくださることを約束されます。アコルの谷が出てきますが、アコルとは災いです。しかし、主はそこを望みの門として下さいます。主は憐れみ深いお方です。
・永遠の契り:16-20節
その日が出てきます。終わりの日であり、主が定められた日です。このような愛を示して下さった主を「私の夫」と呼んでいます。「私のバアル(主人)」とは呼ばないと言われます。主人には恐れつつ仕えるかも知れませんが、夫とは全てを分かち合い、愛の関係を築きます。私たちはキリストの花嫁です。夫であるキリストに見合う花嫁として内なる人を成長させていただきましょう。
そのために、主はご自分の民を贖われます。まるで創世記の天地創造のように、人のために全ての被造物を整え、戦いを絶やして下さり、安らかに休ませます。
19節にある契りは結婚の事です。イスラエルを再び妻として迎えて下さいます。これは適当なものではなく、正義と公儀、恵みとあわれみを持って結ばれるものです。真実な心で結ばれます。なんという愛でしょうか。裏切ったのは女性、イスラエルです。主は被害者です。しかし、被害者が加害者を赦し、恵みを与えてくださっています。
・天と地に答える:21-23節
主はイスラエルを回復し、穀物と新しいぶどう酒を与えられます。天からの雨を降らせます。その雨で豊かになります。そして、子どもたちの名前が回復されています。イズレエルが豊かな場所となり、「私の民でない」というロ・アミをアミ、「わたしの民」に。「愛されない者」というロ・ハルマをハルマ「愛する者」へと造りかえてくださいます。
【3章】妻を買い取る
・おののきながら主の恵みに来る:1-5節
ここでまた、話はホセアとゴメルに戻ります。姦淫し、ホセアから離れていったゴメルを愛しなさいと命じています。主はいつでも、どんなときでも私たちを愛してくださいます。たとえ、神を知らなかったときであっても愛してくださっていました。そのように、妻を愛しなさいと言っています。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)
ゴメルはホセアから離れ、見つけた場所は奴隷市場でした。ゴメルは自分の妻ですが、代価を支払って彼女を買い戻します。イエス様もご自分のいのちという代価を支払って私たちを買い取ってくださいました。
そして、ゴメルに「もう二度と姦淫したりしてはいけないよ」と言います。初めに赦されています。好意が注がれています。愛されています。その上で言われる一言は心に突き刺さります。ですから、みことばを読むときもまず、主の愛を知る必要があります。その愛の関係の中、主の戒めがあるなら、喜んで従います。
4節、イスラエルは長い間神殿もなく、王も祭司もない時代を過ごします。約400年続く暗黒期と言われる時代です。しかし、その後、ダビデを訪ね求め、終わりの日におののきながら主とその恵みに来るとあります。つまり、これはイエス様です。
このように、主はいつでも私たちが悔い改めるのを待ってくださっています。しかし、忘れてはならないのは、悔い改めが目的ではないと言うことです。悔い改めは天の御国への入り口です。目的は主との親しい関係です。これを熱心に追い求めて行きましょう。
【4章】霊的姦淫
・地に住む者と言い争う主:1-3節
ここからは、イスラエルの民がどのように神に背いていたのか、具体的にどのような偶像礼拝をという霊的姦淫を犯していたのかが書かれています。
北イスラエルは、はじめから神への信仰がずれていました。1列王記12章を見ると、ヤロブアムが金の子牛を二つ作り、エルサレムに行かなくとも礼拝がささげられるようにしました。非常に効率的なシステムに見えますが、主の御心とはかけ離れていました。
ヤロブアムは神殿のある南ユダのエルサレムに人々が行くと、そのまま南ユダにとられてしまうのではないかと危惧してそのようにしました。そして、アロンの血筋ではない者からかってに祭司を選びます。このようなことを聖書は「ヤロブアムの道」と言っています。主を礼拝させているように見せかけた偶像礼拝です。
・祭司をなじる:4-6節
主は祭司をなじられています。どうしてでしょうか。祭司は民をみことばをもって導く責任があるからです。それなのに、勝手に選ばれた祭司は自分勝手なことを言っています。預言と言ってもそれはみことばに基づいているものではなく、誤った教えにもとづいたものです。
・主を捨てて姦淫を続ける:7-10節
彼らはふえています。このふえるとは繁栄すると言う意味です。繁栄すればするほど、それと反比例するように主に罪を犯しています。豊かになればなるほど、主に感謝することをせず、偶像礼拝をしていきます。
今でも繁栄神学と言って、成功するために信仰を持つという傾向があります。もちろん、主は経済的な祝福も繁栄も与えてくださることを約束してくださっています。しかし、それが第一ではありません。むしろ、後からついてくるものです。私たちが第一とすることは神の国とその義です。そうすればそれらのものはすべて与えられます。
8節を見ると、祭司たちが主の民を食い物にしているとあります。たとえは良くないかも知れませんが、病人が増えると病院が儲かるようなものです。何でもかんでも病気にして、必要卯もない通院させ薬を処方するようなものです。
人々が罪を犯したら人々はいけにえを持って神殿に来ます。つまり、ささげ物が増えます。そこで悔い改めを教え、そのような過ちをしないように教えなければならないのに、それをしていません。民が罪を犯すことをやめたらささげ物が減るからです。加えて、罪でないことを罪だと言ったりもしています。ささげなくて良いものまでささげさせます。彼ら祭司は神のために仕えているのではなく、お金のために仕えていました。イエス様は神と富(マモン)には同時に仕えることができないと言われます。これは宗教です。
・姦淫の霊が惑わせる:11-14節
お酒で思慮が失われています。偶像礼拝の背後にはこのようなものがあります。霊的な酩酊です。刺激の強い、神以外のもので満足を求め、神がわからなくなる状態です。
そして、姦淫の霊はさらに彼らを迷わせます。「木に伺いをたてる」とありますが、これはこの地方にあった古くからの占いのようです。木の棒を拝み、それがどこに倒れるかで占います。主はこの事を指して姦淫の霊に迷わされていると言われます。先の酩酊状態があってこの姦淫に至ります。自制が聞かず、正しい判断ができないからです。
・自分たちの祭壇のために恥を見る:15-19節
主は偶像礼拝がユダにまで伝染してはならないと言われています。彼らは「主は生きておられる」と言って偽りの行動をしています。
イスラエルは本当にかたくなです。本来であれば羊飼いの声を聞き分ける羊のような存在ですが、言うことを聞かない雄牛のように強情な状態になっています。
13節には「その木陰が心地よい」と言っています。主を礼拝しながらカナン人の慣わしも取り入れています。いいとこ取りの自分勝手な信仰です。そのような信仰は確かに心地良いでしょう。しかし、それは人間中心です。
しかし、主は風で彼らを吹き飛ばされます。姦淫の霊が風のように吹き付けます。そして、彼らはイスラエルの地からアッシリヤへと追いやられてしまうのです。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主の憐れみに感謝します。
キリストに見合う花嫁になることができるように祈ります。