聖書通読クラブ Day 251

聖書通読クラブ Day 251【エゼキエル書 22章-24章】

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シャローム!

イエス様がお生まれになる前のイスラエルの歴史は、とても辛く悲しい物です。今日は女性が沢山出てきますが、どれもとても悲しいことになっています。これはたとえですが、それほど主にとってこれらの一連の出来事は辛いことでした。
エルサレムの崩壊は過去のことですが、霊的な意味では今も私たちに無関係ではありません。大いに関係があります。霊的な停滞、霊的な生ぬるさは私たちを偶像礼拝へと導くかも知れません。この世での報いを受けることができなくとも、むしろ主を愛するがゆえに不利益な事があるように見えても、主にしがみつき、みことばを愛して生きたいものです。
今日もみことばによって教えられていきましょう。

今日の通読箇所:エゼキエル書 22章-241章

■アウトライン

●流血:22章
  ・自分の流した血で罪に定められる:1-5節
  ・おまえはわたしを忘れた:6-12節
  ・諸国の民の前でゆずりの地を与える:13-16節
  ・イスラエルの家はかなかす:17-22節
  ・預言者たちの陰謀:23-31節

●止められない淫行:23章
  ・オホラとオホリバ:1-4節
  ・姦通するオホラ:5-7節
  ・アッシリヤに渡されるオホラ:8-10節
  ・姉よりひどいオホリバ:11-21節
  ・みだらな行いと淫行の責めを負う:22-35節
  ・聖所と安息日を汚す:36-42節
  ・姦通と殺人の罰:43-45節
  ・みだらな行いをやめさせる:46-49節

●声を出して悲しむな:24章
  ・流血の町:1-14節
  ・一打ちで愛する者を取り去る:15-18節
  ・しるしとなるエゼキエル:19-24節
  ・もう黙っていてはならない:25-27節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【22章】流血

・自分の流した血で罪に定められる:1-5節
今までかたられた内容のまとめが、生々しいたとえで書かれています。主はどうしてエルサレムをさばかれたのでしょうか。その理由は流血です。カイン以来、人間の中にある罪の性質がそうさせます。血はいのちです。つまり、神が与えたいのちを人が奪ってはならないと言うことです。これは霊的な意味でもそうです。この罪は偶像と密接に関わりがあります。人の心の欲望が形になったものが偶像です。そして、偶像は私たちから奪いはしますが、私たちに何も与えません。人からいのちを奪っていくのが偶像です。

・おまえはわたしを忘れた:6-12節
具体的に何によって血を流しているかが書かれています。注目したいのは父母を敬わないことです。これは十戒のうちのひとつです。十戒は二枚の石の板に書かれ、前半は神に関してのこと、後半は人に対してのことです。そして、父母を敬うことは5番目に書かれており、神に属することです。父母を敬うことはそれほど大切なことです。
そのほか、あきらかに律法違反の罪だらけなので、彼らは裁かれて当然です。

・諸国の民の前でゆずりの地を与える:13-16節
ここで書かれている「ゆずりの地を与える」とは、言語の意味から言えば「諸国民の前で自分の罪によって汚される」という意味です。自分たちが行っていた罪がバビロン捕囚を通して諸国に知られると言うことです。
彼らは選びの民であり、律法を委ねられていた民であったのに、それを守ることができていないことが諸国の民に明らかにされてしまいます。
私たちもキリスト者としてふさわしくない生き方をしていないでしょうか。何も自分を偽っていい人ぶる必要はありません。しかし、よりよい人格、より強い信仰を求めて行くことは大切です。みことばの基準を知り、そこの基準と自分の現実をしって、そのギャップを埋めていただくように祈りましょう。隠されているものは必ず明らかにされます。

・イスラエルの家はかなかす:17-22節
主はいすらえるをかなかすと表現されます。彼らの問題は何だったでしょうか。それはエルサレムを神格化し、そこに居さえば大丈夫という考えでした。自分たちは炉の中の青銅、すず、鉄、鉛などの鉱物だと思っていました。確かに、信仰があればそのような者となり得るでしょうが、彼らには信仰はもうありませんでした。それで、主は彼らをかなかすと言われます。
イエス様もこのような事を塩に例えられました。塩が塩気を失ったら何の役にも立たず、外に捨てられて人々に踏みつけられます。
教会に行っているだけでは大丈夫ではありません。主はイスラエルから神殿を取られたように、私たちから教会という建物を取り去られるかも知れません。教会の本質とは神に召された者たちの集まりです。みなさんは主に召された者であることを感謝します。

・預言者たちの陰謀:23-31節
聖書の中で、雨が降らないことは呪いを意味します。また、主のさばきを意味します。また、今まで見てきたように政治的、宗教的、どの指導者も堕落しています。民も弱い人々に手を差し伸べることをしていませんでした。
主はこの国をなんとか滅ぼさないように、この国のために石垣を築き、破れ口を修復する者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかったと書かれています。これはとりなして祈る者を意味しています。みなさんの所属している教会は大丈夫でしょうか。誰か日々、教会をとりなしている祈り手がいるでしょうか?ただ教会の文句ばかり言っていないでしょうか。もし、いないのであれば、みなさんがその者となりましょう。

【23章】止められない淫行

・オホラとオホリバ:1-4節
ここからは、さらに生々しい描写が続きます。サマリヤとエルサレムをそれぞれ女性にたとえ、偶像礼拝を姦淫として書かれています。
「オホラ」とは「彼女の天幕」で「オホリバ」は「わたしの天幕は彼女にある」と言う意味です。その通りに、北イスラエルは自分勝手に祭壇を築きました。そして、主はエルサレムを住まいとされました。
まずはオホラ、サマリヤです。エジプトにいるときから淫行をしていると言う所から始まっています。イスラエルはソロモン以降、北イスラエルと南ユダに分かれましたが、もともとはひとつでした。
彼らがエジプトにいるとき、淫行の味を知ってしまったとあります。世の楽しみを知ってしまったのです。それで、出エジプトしても彼らはその快楽を忘れることができませんでしたので、金の子牛の事件がおこったのです。荒野で作られた金の子牛の回りで不品行が行われていました。
また、ヤロブアムは金の子牛を祭壇に立てて礼拝させました。南ユダの人々も最後には神殿の中に偶像を取り入れました。

・姦通するオホラ:5-7節
オホラは姦通し、アッシリヤを恋人として恋い慕いました。見た目が強く、立派に見えます。このように、北イスラエルは偶像礼拝をし続けました。
実際にアッシリヤが強大になりました。その強さに拠り頼みアッシリヤに貢ぎ物をしました。

・アッシリヤに渡されるオホラ:8-10節
彼らの先祖がエジプトで味わった事が子どもたちに引き継がれています。彼らを救ってくれる本当の神を頼ることをせず、手っ取り早く力を持っているものに拠り頼んだのです。しかし、彼らはアッシリヤに捕らえ移されてしまいます。自分の罪で彼らは滅んでしまいます。

・姉よりひどいオホリバ:11-21節
今度はオホリバです。北イスラエルが滅んだ後も南ユダは残っていました。ユダは北イスラエルの一部始終を見ていたはずです。それなのに全く同じ道を歩んでしまいます。
ユダの王アハズはイザヤから「何もしなくて良い」と言われたのに自分の判断でアッシリヤの援軍を頼みました。それでシリヤが倒れ、イスラエルも捕らえ移されました。そして、シリヤのダマスコにあった祭壇を見、その図をエルサレムの祭司に送り神殿の横に同じ者を建てました。アッシリヤに拠り頼み、外国の神を求めたのです。
また、ヒゼキヤ王は病気でいのちが取られかけましたが、祈りが聞かれいのちが伸ばされました。その語、バビロンから使者が来たとき、舞い上がって神殿のすべての宝、武器庫の中にある物をすべて見せました。こうして急速にバビロンに近づきましたが、「彼女の心は彼から離れ去った」とあるように、バビロンに対抗するようになります。恐ろしいことに、その時、同時に主も彼らから離れてしまいましたが彼らは気づいていませんでした。
バビロンに対抗するようになって、エルサレムは今度はエジプトに助けを求めます。この事をエジプトのそばめになると表現しています。

・みだらな行いと淫行の責めを負う:22-35節
バビロンがエルサレムを攻めたときには、バビロンは強大な国に成長していました。どのようにしてこのように急速に成長したのでしょうか。それは、周辺諸国を取り込んだからです。ですから、バビロンには様々な民族がいました。
このようにして、エルサレムは主を知りながら再び汚れの道を歩んでしまいました。もう彼らを止めることはできません。まるで暴走した機械のようです。それを止めるにはどうしたら良いでしょうか?電源を抜くことです。そのように、主はエルサレムを強制終了させようとされます。それがエルサレムの淫行をとめる唯一の方法でした。
28節からは憎しみが書かれていますが、これを読むときにダビデの長男、アムノンの事を思い出します。妹のタマルを愛してしまったアムノンは悪友の助言で彼女を辱めますが、その好意の後は彼女をひどい憎しみを持って見ています。その罪の報いは彼自身に返されます。
31節からは杯が出てきています。杯は聖書で神の怒りを受けるときに出てきます。彼らはこれを飲み干します。神様がもたらす苦しみと悲しみを経験します。
イエス様もゲツセマネでこの杯が取り去られるように祈りましたが、父の御心に従ってその杯を受けて下さいました。

・聖所と安息日を汚す:36-42節
オホラとオホリバのさばきの理由、根拠を明らかにされます。
エルサレムの住民の罪は大きな者です。なぜなら、神殿でヤハウェなる神を礼拝しながら、もう一方で忌まわしい偶像礼拝を行っていたからです。ダブルスタンダードです。教会では立派な信仰者のような顔をしながら、その実、普段の生活では神が居ないかのような生活をしているようなものです。
エルサレムの住民は不品行を行い、望まれなく生まれた子を偶像にいけにえとしてささげながら、安息日には神殿で礼拝をしていました。本当にひどい偽善行為です。

・姦通と殺人の罰:43-45節
ここに書かれている正しい者とは預言者です。このような乱れた中においてもみことばを愛し、主を愛する者たちです。この女たちと姦淫を犯していたのはバビロンに対抗するために同盟を結んでいた諸国の王たちです。エルサレムがまずバビロンによって滅ぼされますが、諸国のバビロンによって同様に滅ぼされることを預言者が預言します。

・みだらな行いをやめさせる:46-49節
これらすべての事が起こって後、これらが主から語られていると言うことを知ります。自分たちの罪の刈り取りをして、はじめて主が主であること、神であることを知ります。主ご自身が彼ら自信、自分でも止めることができないみだらな行いを強制的にストップさせてくださいます。

【24章】声を出して悲しむな

・流血の町:1-14節
明確な日付を持って、主はエルサレムが包囲された日を記されます。なんとこの時、エゼキエルもこの事を知っていたと書かれています。「ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカデネザルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。」(2列王25:1)
考えてみてください。この時代は今のような便利な連絡手段はありませんでした。エルサレムで起こった出来事がバビロンに伝えられるまでは早くても2ヶ月ほどかかります。そのような時代ですが、主は御霊を通して預言者に語られます。
この事をある宣教師は「霊的なクラウドシステム」と呼んでいました。クラウドシステムとは、雲という意味ですが、コンピュータやスマートフォンで取り扱うデータの元を一カ所に集め、そこに各端末からアクセスしてデータを取ってくるというシステムです。ですから、大本のデータを差し替えたら、それにアクセスする全端末の情報が一斉に更新されます。神との関係を深めようとするみことばを愛する聖徒たちに、主は御霊を通して全世界的に同時に働かれます。
話を本文に戻しましょう。3節からは、また鍋の話が出てきます。彼らは鍋、すなわちエルサレムの中にいさえすれば安全だと思っていました。主は鍋に肉と骨を入れて煮込む目的を「さびを落とすため」とされています。さびとは彼らの流血の罪です。しかし、煮込んでもさびが取れないので主は肉を出すことを命じられます。エルサレムから王位を取り去るという意味です。
7節には血が出てきます。肉を食べるときは完全に血を地面に注ぎ出さなければなりませんでした。律法の食物規定に書かれています。しかし、彼らはそれをあからさまにしていません。それで、火力をさらに強力にし、鍋を空にして空だきすることで汚れを溶かし、さびが無くなるようにされます。この時の様子をとてもよく例えられています。エルサレムの人々はバビロンによって完全に滅ぼされるまで罪を捨てませんでした。バビロンに包囲され、自分たちの危機が目の前にあって、それを見ていても罪を捨てませんでした。ただ、主に立ち返れば良いだけなのにそれをしませんでした。なぜ彼らは主に立ち返らなかったのでしょうか。立ち返らなかったのではないのです。立ち返れなかったのです。偶像礼拝によって霊が覆われて、主を求めることができなくなっていました。そのような者には主のさばきを受けなければその覆いは取りのけられません。

・一打ちで愛する者を取り去る:15-18節
なんと、突然にエゼキエルの愛する妻が主によって取られます。そのことに対して、声を立てずに悲しめと言っています。余りにもひどい命令に思えてしまいます。愛する人を突然失っても嘆いても泣いても涙を流してもいけないと言われています。これは捕囚の民にたいするしるしですが、人間的に考えるととてもかわいそうなことです。預言者とは地上でそのような歩みをしますが、天では大きな報いを受けます。
エゼキエルは自分の感情よりも、主の戒めを優先させました。自分はこの事ができるだろうかと考えました。本当に難しいことですが、主の仰せには従わなければなりません。

・しるしとなるエゼキエル:19-24節
エゼキエルが恋い慕っていた対象は自分の妻でしたが、エルサレムの人々が恋い慕っていたのは神殿です。しかし、いつのまにか人々は神殿の中に住まわれるお方ではなく、神殿そのものを愛していました。それがバビロンによって取り去られます。

・もう黙っていてはならない:25-27節
主はエゼキエルがエルサレムに対して物が言えないようにされました。エルサレムが破壊され、バビロン捕囚され、そのことがエゼキエルに伝えられたその時、エゼキエルは再び口が開くようになると書かれています。エゼキエルが再び口を開くその時、人々は主が主であることを知ります。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. よりよい人格、より強い信仰が与えられるように、教会のためにとりなし祈ることができるように祈ります。

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