聖書通読クラブ Day 249

聖書通読クラブ Day 249【エゼキエル書 16章-18章】

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シャローム!

私たちはこの地上にいのちが与えられています。私の家族は私を含め、家族の誰もイエス様を信じていませんでした。私が幼い頃には、よく「なぜ自分が今生きているのだろう」と考え、もやもやした不思議な気持ちになったことを覚えています。自分の存在意義、存在目的がわからなかったからです。
しかし、今ははっきりとわかります。神は私を神の姿、神のかたちとして創造され、神の愛を受けるにふさわしい者としていのちをあたえてくださいました。
この事に気がつくまで、ずいぶんと時間がかかってしまいましたが、主はその時から私の考えを変えてくださいました。主の恵みに拠り頼む事を教えてくださいました。
今も私は主によって変えられ続けています。目標はイエス様のようになることです。残された人生を、そのために使っていきたいと心から願います。
今日もみことばに教えられていきましょう。

今日の通読箇所:エゼキエル書 16章-18章

■アウトライン

●ひとりの女性:16章
  ・あなたの生まれた日:1-5節
  ・生きよ:6-7節
  ・完全な飾り物:8-14節
  ・姦淫を重ねる悪行:15-29節
  ・他の女の場合と反対の姦淫:30-34節
  ・淫行をやめさせる:35-43節
  ・彼らよりも堕落してしまった:44-52節
  ・彼女たちの繁栄を元通りにする:53-58節
  ・赦されて恥を知る:59-63節

●なぞかけとたとえ:17章
  ・なぞかけ:1-6節
  ・もう一羽の大鷲:7-10節
  ・誓いをさげすみ契約を破る:11-21節
  ・若枝の芽を山に植える:22-24節

●悔い改める者への報い:18章
  ・ことわざを繰りかえす:1-4節
  ・こういう人が正しい人:5-9節
  ・すべてのことをしようとしない:10-13節
  ・良くないことを兄弟の中で行う:14-18節
  ・義と悪はそれぞれの者に帰す:19-20節
  ・悪者の死を喜ぶだろうか:21-24節
  ・公正でないのはどちらか:25-29節
  ・新しい心を新しい霊:30-32節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【16章】ひとりの女性

・あなたの生まれた日:1-5節
主はイスラエルの民を選ばれたことを時代を遡り、一人の女性のたとえで示されます。主はこの女性を愛する男性です。
この箇所はアブラハム、イサク、ヤコブの時代の事を言っています。彼らは定住せず、寄留者のようでした。それを見捨てられた赤子に例えています。当時は赤ちゃんが生まれたら、へその緒を切って、水で体を洗い、菌から守るために塩で肌をこすっていたようです。そのようなことさえされなかったと言っています。
事実、アブラハムは神から偉大な約束を受け取っていましたが、彼が生きているときにそれを見ることができませんでした。

・生きよ:6-7節
彼らのかわいそうな様子を産み落とされて何もされてない赤ちゃんのようにたとえています。その子が生きるために必死にできることをしています。何度も何度も「生きよ」と言っています。
主はいまでも私たちに「生きよ」と言っておられます。考えの隅の方に「死んだ方がましかもしれない」ということがよぎった事があるかも知れません。しかし、主は繰り返し「生きよ」と言ってくださっています。もちろん、生きていると大変なことばかりです。しかし、主がいのちを取られるまでこの人生を全うしたなら、必ず永遠の報いがあります。生きるのです。生きて、生きて、生き抜くのです。

・完全な飾り物:8-14節
アブラハム、イサク、ヤコブから12部族が生まれ、多くの民がいます。そして、モーセを通して主は民をご自分のものとされ、ヨシュアが約束の地に入りました。士師の時代を経てダビデの時代に至ります。
ここの男性、すなわち、主は女性をとても愛しています。彼女の裸を覆い、ちぎりを結んでいます。その後に血を洗い油を塗っています。本来であれば逆です。花嫁は自分を整え、それから男性と結婚します。それほど主はイスラエルを愛しておられます。

・姦淫を重ねる悪行:15-29節
この場所は、ソロモンが晩年に行った偶像礼拝以降、イスラエルの国が東西で分裂しました。その忌まわしき行動は続き、ついにマナセが子どもを火の中をくぐらせるにまで至ります。
彼らの状態はどのようなものだったのでしょうか。「自分の美しさに拠り頼んだ」ということです。天使の中で賛美を導いていた麗しさの極みと言われたルシファーも神の偉大さよりも自分の麗しさに目がくらみました。
そして、主は繰り返されます。「若かった時のことを思い出さなかった」と。イスラエルの人々は神から目が離され、自分の麗しさに酔いしれ、初めの愛から離れてしまいました。神の恵みを忘れてしまっている状態です。
その様な状態を主は女性が淫行を行うことにたとえています。それを隠れた部屋ではなく、公の場所で行っています。
そして、主はいつでもエルサレムを助けようとことばを送ってくださっているのに、エルサレルムは外国の国々に拠り頼むようになります。しかし、その結果大国に攻められ、ひどい目にあいます。それにも懲りず、エジプト、アッシリヤと大国に頼るユダの姿があります。

・他の女の場合と反対の姦淫:30-34節
肉の欲にとりつかれたような女性は次々と刺激的な事を求めています。そして、ついには、魅力を失ってしまいますが、刺激を求めて、売春婦がお金を受け取って売春行為をするのではなく、自ら支払って売春を行うというところまで行っています。それほどの偶像礼拝が行われていました。

・淫行をやめさせる:35-43節
ここで女性は裸にされていますが、これは姦淫が目的ではなく、辱めを受けさせるためです。これはエルサレムがバビロンに滅ぼされることを現しています。そして、ここの女性のように、エルサレムの滅亡は周辺の諸国から笑われます。
このようなエルサレムの破壊を通して、主は淫行をやめさせると言われています。ヤハウェなる神以外に頼ることをやめさせられます。非常に強引な手段に見えますが、それまで主は何度も何度も彼らに警告を与えていました。しかし、一向に従いませんでした。こうするしか無かったのです。
この事を通して彼らの目は覚まされ、主に目が向けられます。この事で、主の怒りが全うされます。主は「わたしは心を休め、二度と怒るまい」と言われます。そして、人々に対しては「みだらな行いを加えることは、もうすまい」と主は仰せられます。エスカレートする淫行、すなわち偶像礼拝を自分でも止められなくなっていたエルサレムの人々を、主が強制終了させます。彼らの肉が滅ぼされてしまったので、肉による罪を犯せなくなりました。それによって彼らの霊は主に向くようになります。

・彼らよりも堕落してしまった:44-52節
ここからは、ユダだけでなく、サマリヤも一緒にしてひとりの女性としてたとえています。
あなたの母はヘテ人、父はエモリ人と行っていますが、これはカナン人が持っていた悪い性質をエルサレムが引き継いだと言うことです。
そして、姉はサマリヤ、娘はソドムと言っています。サマリヤは金の子牛を礼拝する人々で、混血の民族です。ソドムは言わずと知れた罪の代表選手です。彼らはこれらの町々を悪いと裁いてきましたが、自分たちも同様、それ以下であることに気づいていません。あくまでも自分を正しいとしていました。
確かに、ユダには、何人かの良い王様が現れましたが、ここに書かれているように「ほんのしばらくの間だけ」でした。
49節からは、ソドムの不義が詳しく書かれています。彼らは安逸をむさぼり、特に性的な罪は飽くことを知らず、不自然な肉欲を追い求め、獣をその対象にしていたほどです。
しかし、ソドムを見下ろしたロトは、そこが肥沃な土地であると言っていました。見た目はとても豊かでした。しかし、その実は肉欲で満ちた場所です。
ユダの人々はこのソドムをいかに悪いかを知っていました。しかし、ユダの人々の落とし穴は、自分の中にもそのような性質があると言うことに気づいていなかったことです。自分は大丈夫だと思っていました。私たちはどうでしょうか。自分を棚に上げて、人ばかりさばいていないでしょうか。主に心を探っていただきましょう。

・彼女たちの繁栄を元通りにする:53-58節
人々の罪は満ち、行く所までいきました。ここからは回復が始まります。しかし、すぐには回復しません。まず、周辺のソドムとサマリヤを立ち直らせると仰せられます。この事を通して、エルサレムは恥を受けます。そして、へりくだらされます。

・赦されて恥を知る:59-63節
エレミヤは新しい契約を預言しましたが、エゼキエルも同様に預言しています。主は「あなたの姉と妹を選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与える」と言われています。異邦人の救いです。
実際に、イエス様はユダヤ人に福音を伝えるために来られましたが、彼らはまことの救い主を退け、異邦人が救われました。
ユダヤ人の高慢が彼らの救いを遅らせてしまいました。私たちはいつでもへりくだった心を持っていたいものです。

【17章】なぞかけとたとえ

・なぞかけ:1-6節
エゼキエルはここでも預言します。それはなぞかけとたとえです。一見、一般の人々も興味深い内容ですが、そこには聞く耳を持った人だけが聞き取ることができる奥義が含まれています。
イエス様も語られるときはすべてたとえで話されました。真理を隠されました。それはかみのほまれです。真理を探るのが王のほまれです。そのたとえは「大きな鷲、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲」です。これはバビロンです。「レバノンに飛んできて、杉のこずえを取り」とはエホヤキンのことです。父エホヤキムの死後、ユダの民によって王とされました。この王を若枝と呼び、これを摘み取って証人の待ち、つまりバビロンに移すということです。
5節の「その地の種」はゼデキヤのことです。これは「成長し、たけが低いが、よくはびこるぶどうの木となった」とあります。バビロンの保護の元、ゼデキヤが支配するユダは大きくなっていきます。しかし、これはぶどうの木です。つまり、主がこの豊かさをもたらしてくださったことをあらわしています。そして、たけが低いとありますが、それはバビロンの支配下にあるからです。

・もう一羽の大鷲:7-10節
ここの「もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲」はエジプトのことです。豊かにされ、強くなったユダは独立したいとエジプトに協力を仰ぎます。バビロンに隠れて協定を結びます。そのことを知ったバビロンは起こってエルサレムを包囲します。
そうして、バビロンがエルサレムに生えていたぶどうの木を根こそぎ抜き取ります。ダビデの血族から出てくる王の力、若枝は根無し草のようになって枯れてしまいます。そこに東風、つまり渇いた熱風が吹いてきて枯らしてしまいます。

・誓いをさげすみ契約を破る:11-21節
このなぞを主が説き明かしてくださいます。上に書いた通りです。ユダ王国を低くし、独立できないようにさせ、バビロンとの契約を守らせようとされます。
しかし、実際にはバビロンとの契約を破りました。ですから、それに対しての処罰を受けます。王はバビロンに捕らえ移されて死にます。契約を結んだはずのエジプトは援軍をエルサレムによこしません。それでエルサレムはバビロンに滅ぼされてしまいます。
この契約は主の契約でした。19節には「わたしの誓い、わたしの契約」とあります。バビロンを動かしているのは主です。
私たちも、自分にとって不都合な事ばかりが起こるかもしれません。しかし、必ずそれは主の御手の中で起こっていることであり、私たちの理解の超えた主のご計画があることを信じましょう。

・若枝の芽を山に植える:22-24節
ここでの「やわらかい若枝」はイエス様の事です。このお方がユダヤ人の王となり、世界の諸国が彼に従います。そうして、主のシャロームが広がっていきます。神の御国が建てられていくのです。
ゼデキヤ王の弱さを通して学ぶ必要があります。主の願いは私たちが自分の罪を認め、悔いあらためて主に立ち返ることです。しかし、それ以外の所に逃げ場、安心できる場所などを求めてしまうことです。
イエス様を求めることが全てであるのに、イエス様に出会おうとせずに、その他の方法で自分の力で救いを得ようとすることです。

【18章】悔い改める者への報い

・ことわざを繰りかえす:1-4節
ここでは面白いことわざが出てきます。「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」ということばです。これは、目の前で今起こっていることをあたかも他人事のように語るという時に使われることばです。彼らは先祖が罪を犯し、その咎がエルサレムを包囲していると考えていました。
確かに、出エジプト記には「父の咎は子に、三代に、四代に」と書かれていますが、これは断ち切ることができます。かつての王、マナセは父ヒゼキヤの良いことを全て覆しましたが、ヨシヤ王の時にはさばきを引き延ばし、本当に主に立ち返るならさばきの手を引いてくださると言ってくださいました。
最近は「毒親」といって、子どもに悪影響を及ぼす親を呼んだりします。また、「親ガチャがはずれた」と言って、ソーシャルゲームのカードガチャになぞらえて、生まれてくる子どもは親を選べないという意味でこのことばを使ったりもします。
しかし、どのような先祖からの咎も、しがらみも、イエス様の十字架は打ち砕く力があります。呪いを断ち切る祈りをすることができます。

・こういう人が正しい人:5-9節
ここに、正しい人の基準が書かれています。偶像を礼拝せず、不品行をしない者です。貧しい者にほどこし、正しいさばきを行う者です。つまり、みことばを聞いてそれを行う者が正しい人です。

・すべてのことをしようとしない:10-13節
親が良ければ子が良いとは限らないという例です。ヒゼキヤ王の息子マナセ、サムエルの子どもたちなどがいます。
親がクリスチャンだから、必ず子どもも信仰を持つとは限りません。親からの良い影響を受けるでしょうが、結局はその人と神様との間での関係が大切です。

・良くないことを兄弟の中で行う:14-18節
私たちは状況、環境によらず、生まれの善し悪しに関わらず、すべての人が救いに預かることができます。これが福音です。自分の罪を知り、反省し主に立ち返ることができるのです。
人の目には絶対に救われないと思える人がいても、主はその人が悔いあらためるなら救いにあずからせてくださいます。最初にイエス様と共にパラダイスに行ったのは誰だったでしょうか。悔いあらためた凶悪な強盗です。

・義と悪はそれぞれの者に帰す:19-20節
神の恵みは家庭環境や自分が置かれている状況、自分の性格など、まつわりつく呪いから私たちを解放してくれます。しかし、救いは親子間では受け継がれません。主のおきてを守り行う者が生かされます。一方、罪を犯した者は死に、親子間の咎は負いめがないと書かれています。
だから、私たちは自分の子どもに福音を語り、救いの道を示すことが大切です。それが本当の教育です。主を恐れることを教えるのです。そのことを通して、子どもは従順や傾聴、感謝などの人格教育を学ぶことになります。

・悪者の死を喜ぶだろうか:21-24節
過去に主の喜ばれないことを行っても、悔いあらためるなら主はそれを赦してくださいます。先のイエス様と共にパラダイスに行った強盗が私たちの励ましとなります。主は過去の自分ではなく、今、どうなのかと言うことを問われます。私たちは過去に生きているのでもありません。未来に生きているのでもないのです。今を生きています。
逆に、過去に沢山良いことをしたからといって、今、悪い行いをしていてもいけません。今が大切です。瞬間瞬間、主の御心を生きていく必要があります。ですから、そのために聖霊様の助けが必要です。

・公正でないのはどちらか:25-29節
人々の中には、このような赦しに富んだ恵みの神を公平ではないと言います。創造主である神と、被造物である私たちのどちらが正しいのでしょうか。答えは火を見るより明らかです。彼らは人のせいにすることに留まらず、神をも非難しています。
神様こそ公正の中の公正なお方です。このお方が基準です。私たちの目を通して見るものは一部分ですが、主はすべてを見通しておられます。理解できないことがおこったとしても、私たちはいつもへりくだり、神の語りかけを聞いていきましょう。

・新しい心を新しい霊:30-32節
主はそれぞれに態度にしたがってさばかれます。不義に引き込まれることがないよう、そむきの罪を捨て去れと仰せられています。不義は私たちを引き込もうと必死になっています。私たちも主の恵みに必死にしがみつき、この誘惑に打ち勝ちましょう。
そして、最後に主の心が書かれています。主は「誰が死ぬのも喜ばない」と言われます。
私たちは、犯した全てのそむきの罪を、イエス様の十字架の前に穂織り出す必要があります。自分でその罪を処理しようと努力してはいけません。主の恵みに拠り頼んで、罪を主にむかって放り出すのです。
そうするなら、主は新しい心と新しい霊を注いでくださいます。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 悔い改めることができるように、自分の子供に福音を伝えられるように祈ります。

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