聖書通読クラブDay 248

聖書通読クラブ Day 248【エゼキエル書 13章-15章】

Spread the love

シャローム!

今日の通読箇所は、偶像礼拝のメカニズムを知ることができます。みなさんも信仰生活を続けていて日々感じると思いますが、本当に霊的な戦いが多いのです。その戦いにどのように勝利できるのでしょうか。また、何が私たちを神から目をそらせてしまうのでしょうか。今日もみことばから教えられていきましょう。

今日の通読箇所:エゼキエル書 13章-15章

■アウトライン

●偽預言者と占い師:13章
  ・むなしい幻、まやかしの占い:1-7節
  ・しっくいで上塗りした壁:8-16節
  ・自分たちのために人々を生かす:17-19節
  ・ベールをはがす:20-23節

●欲望の仮面:14章
  ・偶像を顔の前に置く:1-5節
  ・悔いあらためよ:6-11節
  ・ノアとダニエルとヨブ:12-20節
  ・四つのひどい刑罰:21-23節

●森になりたがるぶどうの木:15章
  ・ぶどうの木:1-8節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【13章】偽預言者と占い師

・むなしい幻、まやかしの占い:1-7節
ここでは偽預言者の特長が書かれています。「自分の心のままに預言」すること、また、「自分で何も見ないのに、自分の霊に従うこと」です。つまり、神様が言っているように見せかけて、自分の思っていることを言っている人々です。そのような人には、それに対する主からの報いがあります。
5節を見ると、彼らは戦いに耐えるために破れ口も修理せず、石垣も築きませんでした。これは霊的に見るなら、自分自身のたましいをみことばによって矯正することもなく、祈りの石垣を築くこともないということです。霊的な怠慢な姿がここにあります。
私たちが日々、みことばと共に歩み、主の似姿に変えられるために葛藤する中で、主は私たちが戦うことのできる力を付けさせてくださいます。聖書を一週間一度も読みもせず、祈りもしない人々は、戦いに耐えうる力を付けることは難しいでしょう。

・しっくいで上塗りした壁:8-16節
主は偽預言者たちに立ち向かっています。彼らがむなしいことを語り、まやかしの幻を見ているからです。そして、これからエルサレムが大変になると言うことを主が語られているにもかかわらず、偽預言者は「平安だ」と言います。そのことをしっくいの壁にたとえています。イエス様もこのように言われています。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。」(マタイ23:25)
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。」(マタイ23:27)
いくら立派に見えても、内側の人格が幼いままであったり、信仰が成長していないようなら、このような状態かも知れません。
前にもお伝えしたかも知れませんが、このような話を聞きました。その教会に立派な執事さんがいました。会社でも重役として働いていました。彼がある日曜に礼拝に来たとき、いつも座る自分の席に別お人が先に座っていたそうです。それを見て、まるで幼児のようにだだをこねていたというのです。恥ずかしい限りです。私たちは内なる人の成熟を目指していきましょう。外側よりもむしろ内側をきよめる事が大切です。そうするなら、外側はあとからついてきます。
しっくいは美しく見えますが、もろいものです。ですから、13節にあるように、主は憤って激しい風を吹き付け、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまうのです。この箇所を読み、思い出すみことばは無いでしょうか?
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

・自分たちのために人々を生かす:17-19節
ここでは魔女が出てきています。魔術を行う女性です。彼女たちの動機は何でしょうか。「ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのため」です。彼女たちは貧しいこの状況を乗り切るため、お金のために魔術を行っていました。
その結果、死んではならない者たちが死んでいます。生きてはならない者たちを生かしました。つまり、自分のお金儲けのために、神が定めた人の人生を狂わせていたのです。
主はイザヤ44:25で「わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。」と言われています。占いに関わるなら霊的な混乱が起こります。主のみこころがわからなくなります。

・ベールをはがす:20-23節
しかし、主がそのベールをはがしてくださいます。2ペテロ2:3には「彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。」とあります。
彼女たちは自分のお金儲けのために占いをし、人の人生を狂わしていました。その結果、占いができなくなります。主が民を救い出してくださいます。そうして、主が主であることを知るようになります。

【14章】欲望の仮面

・偶像を顔の前に置く:1-5節
旧約聖書は、主に見た目、外側、肉体などにフォーカスが置かれていますが、新約聖書は心、内なる人、霊にフォーカスが当てられています。この箇所は、新約聖書を思わせるような心の奥深い部分を預言しています。
それは偶像に関してです。今までのような石や木でできた偶像ではなく、心の中に秘めた偶像です。石や木の偶像は誰もが見ることができますが、心の中にある偶像は他人からは見ることができません。偶像は英語でアイドルです。またイメージです。詳しくは新約聖書の通読の時に詳しく見ていきますが、主は私たちの心を取り扱ってくださいます。神以外はすべて偶像になり得ます。時には、主のためと言って仕えている奉仕やミニストリー、そして自分自身でさえ、偶像になる可能性があります。
そして、その偶像はどこに置かれるかというと、自分の顔の前に置くとあります。お面のようなものです。その偶像のフィルターを通してあらゆるものを見、また、人からお面の姿で見られます。
私たちも「あの人はいつもこうだから」という思い込みで人を見てしまうことがありますが、それは本当でしょうか?自分が単に思い込んでいるだけではないでしょうか?そして、神様に対しても、自分の好むお面をかぶらせていないでしょうか。それが偶像です。自分の欲望のお面を神に付けさせることです。イエス様はその隔てを十字架の死と葬りと復活によって取り除いてくださいました。もう、神と自分との間には何も置かないようにしましょう。

・悔いあらためよ:6-11節
これが主の願いです。「悔いあらためよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。」
もし、私たちがお面を付けたまま神様の御前に行くなら、主は御顔をそむけられます。主がお作りになった姿と違った者が目の前に立っているからです。
主はご自身の主権を持って、預言者たちを惑わせることがあります。そして、咎を負わせられます。なぜそのような事をされるのでしょうか。その目的は11節に書かれています。
「それは、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。ー神である主の御告げー」

・ノアとダニエルとヨブ:12-20節
ここでは、正しく歩む神の器が三人出てきます。ノアとダニエルとヨブです。ダニエルはエゼキエルの時代に生きていた人物ですが、彼がどれほど誠実で忠実だったかをここからも受け取ることができます。
しかし主は、そのような器を持ってしても、町全体を救うことはできないと言われます。
彼らはその義のゆえに自分たちは救われますが、他の人が彼らの義を借りてきて救いに預かると言うことはありません。もちろん、とりなしの祈りによってその人が救いに導かれるように祈ることは大切ですが、それとこれとは違います。あくまでも救いは神様とその人の個人的な契約の中で行われるものです。
恥ずかしい話ですが、私は昔、牧師先生に祈ってくださいといつもお願いしていましたが、自分では祈ることをしていませんでした。牧師が祈ってくれているので、自分は祈らなくても大丈夫と思っていました。聖書のみことばを何も理解していない幼い信仰でした。しかし、主はこのような小さき者をも顧みて成長させてくださいます。
話を戻しましょう。確かに、アブラハムなど、信仰の器の町に対するとりなしを聞いてくださいます。しかし、ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。
ここから、私たちは救いのとりなしの祈りの戦略を学ぶことができます。ぼんやりと救いを祈るのではなく、名前をあげてその人のために祈ります。どのように祈るのかと言えば、その人に救いの道が開かれるよう、また、霊的な邪魔が入らないよう祈るのです。私たちの願いとしては、自分が救いに導きたいという思いがあるかも知れませんが、救いに預かるなら誰を用いても良いのではないでしょうか。私たちに残されている時間には限りがあります。このような神の器がよってたかっても、自分の子どもすら救うことはできません。なぜなら、救いは神のものだからです。そこに人々を導いて行くことが、私たちにできる精一杯のことです。自分の子ども、家族、職場や学校の人々、友人のために名前をあげて、救いの道が開かれるように祈りましょう。

・四つのひどい刑罰:21-23節
ここでは、民が慰められると書かれています。捕囚された人々は、「自分は神から罰を受けたからバビロンに捕囚され、エルサレムに残された者は罪が無い」と思っていましたが、そうではなく、エルサレムに残された者も同罪だと言うことを知って慰められるというのです。主が選ばれたエルサレムは完全な場所ではありません。しかし、そこを神格化してしまうのであれば、主はその場所すら取り上げられてしまうのです。
今はインターネットで沢山のメッセージに触れることができますが、全てが良いわけでは無いと思います。もしかしたら、私の分かち合いも間違っているかも知れません。ですから、それぞれがみことばからしっかりと受け取る事が必要です。私の願いは、このコラムがなくともみなさんがみことばから直接教えられることです。

【18章】森になりたがるぶどうの木

・ぶどうの木:1-8節
イスラエルは聖書の中でぶどうの木として例えられています。最初のぶどうの木はアダムでした。それがアブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれ、12人の族長になります。やがてこのぶどうの木は教会へと引き継がれていきます。イスラエルの人々は救い主を拒んだからです。しかし、それが教会からも取り去られる日が来るかも知れません。そのとき、このぶどうの木は異邦人もイスラエルも共にイエス・キリストを主と告白する人々に与えられていくでしょう。
ぶどうの木で有名なのはヨハネ15章でしょう。主がぶどうの木で、私たちはその枝です。私たちが主に留まっているなら豊かな実を結びますが、そうでないなら枯れてしまい、火の中に投げ入れられてしまいます。
ここでは、ぶどうの木の弱さが書かれています。ぶどうの木は鶴のような枝をしているので、そこから何かを作ることはできません。他の木と比べても弱々しく、優れている所が見つかりません。
つまり、自分たちは弱い存在であることを知れと主は仰せられています。ただ、主の恵みと憐れみによってのみ、私たちは生きることができます。
それなのに、私たちは「他の木になりたい」といって自分がぶどうの木であることを恥じることがあります。私たちがすることは何でしょうか。ひたすら、主に留まり続けることです。それが豊かな実を結ぶ唯一の方法です。人と比べる必要はありません。ただ、主に留まり続けるのです。毎日みことばを読み、祈りの生活を続けることが主に留まることです。これからもこれを続けていきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 主に留まり続けることができるように、家族や職場の人達に救いの道が開かれるように祈ります。

あみ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です