シャローム!
今日の通読箇所は、ユダとエルサレムに迫り来るさばきを主が宣言されています。主のさばきは恐ろしいです。しかし、このさばきは私たちの目を覚まさせ、心に悟りを与えてくださいます。
主は私たちに感心があるからこそ、あらゆる事をさばいてくださいます。しかし、この主の宣告に聞き従わない者は、その日、つまり終わりの時、永遠のさばきへと入れられてしまいます。
ユダとエルサレムに語られた主の宣言はどのようなものでしょうか。そこから、何を受け取り、今日、行動に移していくことができるでしょうか。みことばから受け取っていきましょう。
今日の通読箇所:エレミヤ書 4章〜6章
■アウトライン
●迫り来る破滅:4章
・心の包皮を取り除け:1-4節
・立ち止まるな:5-7節
・荒布をまとい悲しみ嘆け:8節
・その日には:9節
・あなたは全く欺かれました:10節
・もっと激しい風:11-12節
・心を洗って悪を除け:13-15節
・あなたの心臓にまで達している:16-18節
・私のはらわた:19-22節
・わたしはことごとく滅ぼさない:23-28節
・踏みにじられた女:29-30節
・シオンの娘の声:31節
●偽りの預言:5章
・実は偽って誓っている:1-2節
・悔い改めようともしない:3-5節
・みことばは彼らのうちにない:6-13節
・目があっても見えず耳があっても聞こえない:14-31節
●北からの破壊:6章
・北から来るわざわいと破滅:1-5節
・戒めを受けよ:6-8節
・ぶどうの残りを摘むように:9節
・彼らの耳は閉じたまま:10-11節
・平安がないのに平安だという:12-15節
・この民に躓きを与える:16-21節
・一つの民が北から来る:22-26節
・あなたを試みる者とした:27節
・廃物の銀と呼ばれる:28-30節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【4章】迫り来る破滅
・心の包皮を取り除け:1-4節
主の所に帰ってきた民、すなわち悔い改めた者が主の御名を呼び求め、正義と公正と真実の中で生きています。彼らを見て、諸国が祝福を受けます。
北イスラエルは主に従いませんでした。しかし、自分たちの罪を認めました。一方南ユダは主を礼拝していましたが、一方で偶像も礼拝していました。彼らは主の所に帰りたいと言いますが、心にはいばらがあります。主に「従います」と言いながら、別のことを考えています。私たちの姿のようです。
そこで主は彼らに「心の包皮を取り除け」と言われます。これが大切です。肉の割礼を施すなら敏感になります。心に割礼を受けるなら、罪に対して敏感になります。私たちはこのような心の割礼を受けていきましょう。
・立ち止まるな:5-7節
これはバビロンがエルサレムを襲う預言です。エルサレムの外の町々にいる人に、城壁があるエルサレムの中に行きなさいと言われます。そこで何をするのでしょうか。悔い改めです。荒布をまとって悲しみ嘆けと言っています。
ところがここは、悔い改めの嘆きではなく、後悔の嘆きです。都の破壊に対する嘆きです。彼らは罪に悲しんでいるのではなく、見た目の悲惨さに悲しんでいるだけです。
・荒布をまとい悲しみ嘆け:8節
荒布は心の悲しみを現すものです。王であっても悲しむときには往復を脱いで、荒布をまとって悲しむ場面があります。荒布は人から見ると麗しいものではありません。しかし、荒野での幕屋の一番外もじゅごんの皮でした。私たちは日々、この荒布をまとって悔い改めましょう。
・その日には:9節
その日、終わりの時に王たち、リーダーたちの心はしなえます。祭司はおののき、預言者は驚いています。どうしてでしょうか。それが次に書かれています。
・あなたは全く欺かれました:10節
主が破壊をご計画されているのに、彼らは「平和が来る」と言っています。王はバビロンからの解放を宣言し、預言者がそれを後押しをしますが、それは神様の御心とちがっていました。祭司たちは誤った安心感を人々に与えていました。
神の破壊を知ったなら、荒布をまとって灰を被って自分たちの罪を認め、悔い改めなければなりませんが、その逆で「大丈夫。平和がくるよ」と言っています。これは、人々を悔い改めから遠ざけていることです。教会で悔い改めが語られていないなら、みことばをもって自分で悔い改める生き方をしていきましょう。
また、教会で聖書で語られていない事をあたかも聖書が言っているかのように語っているのを聞いたなら、気づいた者がそのことを抱いてとりなし祈りましょう。
・もっと激しい風:11-12節
荒野の裸の丘の熱風が吹いてきます。パレスチナ地方の東風、つまり熱風は私たちの想像を超えるほどの暑さがあるようです。たとえて言うなら、オーブンを開けたときに中から熱せられた熱風を感じますが、あのような風のようです。この風は彼らをいやすものではなく、もっと徹底的に破壊するための熱風です。
・心を洗って悪を除け:13-15節
主の破壊は速やかにやってきます。それをつむじ風に例えています。災害が大いに本でも、この事を感じるのではないでしょうか。ついさっきまで平穏な暮らしをしていたのに、一瞬にして災害に飲み込まれてしまうことがあります。主は突然来られます。しかし、主に目を向け続ける者は主の来られるサインを見のがしません。
・あなたの心臓にまで達している:16-18節
バビロン軍がエルサレムを包囲しています。これは主が許されたことですが、一番の原因は「あなたの行いと、あなたのわざが、あなたの身にこれを招いたのだ」ということです。その苦みは心臓にまで達しています。
私たちに試練のようなものがやってくるとき、それが偶然やってきたと考えるよりも、みことばを朗読し、祈り、その意味を主に伺ってみましょう。答えは出ないかもしれませんが、主は私たちにわかる方法で様々なことを教えてくださるでしょう。
・私のはらわた:19-22節
エレミヤは預言を体で受け止めています。自分の内蔵が揺り動かされています。なぜそうなったのでしょうか。破壊につぐ破壊が告げられたからです。全国も荒らされ、天幕までも荒らされ、幕屋も倒されるという事を主から知らされたからです。
22節は、主が語られています。彼らは悟りがないと言われています。ユダの民は自分は選民であり、だれよりもみことばを、そして主を知っていた、悟りのある者であったと思っていたでしょう。しかしその逆でした。
・わたしはことごとく滅ぼさない:23-28節
主はエレミヤにバビロンによるエルサレム破壊と同時に、終わりの日も啓示も示されました。黙示録に書かれているような光景です。
・踏みにじられた女:29-30節
主はここでもエルサレムを一人の女性として書かれています。踏みにじられた女と書かれています。バビロンによって破壊された様子です。そのような状態であるのに、化粧をしたり着飾ったりしても何にもならないことを言われています。大切なのは内側です。外見以上にいつなる人の美しさを目指していきましょう。それが本当の美しさです。
自分の内なる人に対して不安がある場合、人は必要以上に自分を大きく見せ、良く見せようとしてしまいます。その恐れはさらなる恐れを連れてくることが多いのです。
・シオンの娘の声:31節
主はシオンのうめきを聞かれました。バビロンによって破壊されたそのさなかでの叫び声を聞いています。どうして主はそのようにさばかれるのでしょうか。それが次から書かれています。
【5章】偽りの預言
・実は偽って誓っている:1-2節
アブラハムはかつて、ソドムに10人の正しい者がいたら町を滅ぼさないでくださいととりなしの祈りをしました。しかし、実際は10人の正しい者はおらず、ソドムとゴモラは火と硫黄が降り、滅ぼされ今は死海となっています。
ここでは一人も公儀を行い、真実を求める者がいません。主は罪に対してどこまでも厳しいお方ですが、同時に赦しにとんだ恵み深いお方です。一人でも正しい人がいたら赦してくださいます。
私たちが私たちの町のこの一人になろうではありませんか。
・悔い改めようともしない:3-5節
エレミヤは神と人との間に立ち葛藤します。多くの預言者が体験する葛藤です。いくらかみのことばを語っても人々が一向に悔い改めようとしません。もしかしたら、牧師先生も同じ葛藤を覚えられているかもしれません。
エレミヤがこれほどまでにはっきりと語っているのに誰も理解しません。彼らの中には身分の高い人も、教育を受けている人もいました。それなのに神のことばを悟ることができていません。1コリント20-21には「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とあります。
・みことばは彼らのうちにない:6-13節
ユダの罪は何でしょうか。主の恵みが与えられているにもかかわらず、その恵みに安住し、感謝することもせず、不平や不満を訴えています。しかし、これは私たちの姿です。イエス様の考えられないほどの恵みが与えられているにもかかわらず、この口が文句を言ってしまいます。私も悔い改めます。
主はそのような悔い改めない民を滅ぼされますが、完全には滅ぼされません。これが主のあわれみです。主はことごとくは滅ぼされません。なぜなら、主はイスラエルの民を選び、愛しておられるからです。彼等がどれほど悪くとも、その中に希望を見ています。
・目があっても見えず耳があっても聞こえない:14-31節
ここからは、主がさばかれると言われているのに、「災いは来ない。平和だ。」と言っている者に対する神のことばです。彼等に対して語られたことばの意味は、自分の力に頼ることが悔い改めの道を塞いでしまう事、主が良くしてくださっているのに感謝することができなくなっていると言うことです。
19節には、神を捨て、偶像に仕えたから彼等も神に捨てられ、外国人に仕えるようになると言われています。
続けて主は逆らう心を海の境に例えられています。波は激しく打ち付けていますが、海岸線は昔からそれほど変わっていません。
しかし、ユダの民は神に逆らって境が動いています。そのような彼等を主は目があっても見えず、耳があっても聞こえないと言っています。私たちの目や耳は何かを見たり聞いたりするためのインプットの器官です。本当に見たり聞いたりしているのは脳です。さらに、悟るためには心が必要です。単に見たり聞いたりしているからそれがそのまま悟りにつながるわけではありません。
主を愛する者は主の戒めに従います。その戒めは重荷とはなりません。それは、神様が私たちをどこまでも愛し、赦してくださるという関係に基づいています。神の愛を知らずして、戒めを守ることはできません。神に対して不従順な性質があると言うことに気づかされたなら、まず神様に愛されていると言うことを教えていただきましょう。
24,25節は興味深いです。罪を犯すと神が見えなくなってしまいます。主が良いものを下さっているのに、それがわからなくなってしまいます。神の恵みに感謝することができず、目の前の不足を見て不平不満が口から出てきます。これを取り除くには、咎を追い払い、罪を浄められる必要があります。イエス様の血潮が必要です。
このような悪があるにもかかわらず、祭司も預言者も民に「大丈夫だ、平和だ」と言っています。彼等は罪を罪として見ていません。その恐ろしさを認識していません。なぜなら、本当の意味で神様と出会っていないからです。つまり、彼等は宗教の霊にしたがっているのです。
もし、本当に主に出会い、その愛の深さ長さ高さ広さを知るなら、私たちは変えられます。
【6章】北からの破壊
・北から来るわざわいと破滅:1-5節
エレミヤはバビロンがエルサレムに攻め入って来る光景を幻としてはっきり見ています。「ベニヤミンの子らよ」と語りかけていますが、ベニヤミンの南にエルサレムがあります。そのエルサレムが破壊されます。そこから逃げよと言っています。バビロンがエルサレムを襲うのを、麗しい牧場に軍隊が入ってくる光景で描いています。主の日にそれが起こります。
・戒めを受けよ:6-8節
バビロンが攻め入ろうとしているとき、そこに虐げがありました。暴虐と虐げが満ち、その報いとしてバビロンが攻め入って来ます。これは種まきの法則です。蒔いた物を刈り取ります。そのことを井戸水に例えています。これは誰の中にも潜んでいる性質です。外部の刺激で隠れていたものが現れにされます。例えば、炭酸水はただの水に見えますが、振って刺激を与えると、たちまち炭酸が吹き出ます。
ですから、むしろ主にあって私たちの内に潜む罪の性質があぶり出されるのは良いことです。そのために主は「戒めを受けよ」と言われます。
・ぶどうの残りを摘むように:9節
主はエルサレムの破壊が彼等の思っている以上のものであり、ことごとくそれがなされることをぶどうに例えられています。ぶどうを収穫するときには残しておくのが彼等のルールでしたが、それをすっかり摘み取ってしまえと言っています。ぶどうが残されていたら、その種を得ることができますが、すべて摘まれたら何も残りません。
・彼らの耳は閉じたまま:10-11節
エレミヤは何度語っても聞かない民に対して憤っています。神のことばは彼等をいやし、彼等を救うのにも関わらず、彼等は神のことばをそしります。それを喜ぶこともしません。エレミヤはそれに絶えられず、体に疲れを覚えています。
イエス様も弟子たちに対して「いつまであなた方と一緒にいなければならないのか」と嘆かれました。
・平安がないのに平安だという:12-15節
今日の通読のテーマかもしれませんが、ここでも繰り返されています。祭司や預言者は偽りを言い「平安がないのに『平安だ、平安だ。』と言っている」というのです。
これは、まるで医者が患者を診断し、深刻な死に至る病が見つかったのに「大丈夫ですよ」と言って単なる風邪薬を渡しているようなものです。
いくつかの教会では悔い改めのことも再臨のことも黙示録も語らず、人々の心に受け入れやすいメッセージしか語らないところもあるかもしれません。「主は何度でも赦してくれるから、君は変わらなくて良いんだよ。ありのままで愛されているよ」と言う人がいます。本当でしょうか?聖書にその様に書いているでしょうか?確かに主は私たちをありのままで受け入れてくださいますが、そのままで良いとは語られてはいません。私たちは栄光から栄光へと、主の似姿に日々造りかえられていく必要があります。偽りの福音に気をつけましょう。人々が「平和だ、安全だ」というその時に、主は突如としてこられます。
・この民に躓きを与える:16-21節
ここは箴言を思い起こさせます。知恵が通りの四つ角に立って叫んでいました。この道は義の道、十字架の道です。角笛の音は目覚めを意味します。警告の音です。主はあらゆる方法で語ってくださいますが、彼等はそれを聞こうとしません。
もし、いつまでも悔い改めないなら様々な苦しいことが身近な所で次々に起こっていくでしょう。一刻も早く気づき、主に立ち返りましょう。
・一つの民が北から来る:22-26節
ここでは、バビロンの軍隊がエルサレムの住民を剣で攻めてくる預言です。非常にリアルに見せられている幻です。後に、これが本当に起こります。
・あなたを試みる者とした:27節
主はエレミヤを選ばれ、ためす者、試みる者とされました。これが預言者の働きです。人々から嫌われます。孤独になります。それでも、神の心を知って民のために取りなし、メッセージを発し続けます。私たちも荒野で叫ぶ者の声として、主の訪れを告げ続けましょう。
・廃物の銀と呼ばれる:28-30節
もし、人々が神のことばを聞き、それを受け入れるなら一時的な苦しみを受けることがあるかもしれません。それが炉に例えられています。銀は炉で溶かされ、精錬され純度を増していきます。しかし、主のみことばに聞き従わない者は不純物の塊のように、まとめて捨てられてしまいます。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
感謝の言葉を語ることができるように、悔い改められるように祈ります。