聖書通読クラブ Day 227

聖書通読クラブ Day 227【エレミヤ書 7章〜9章】

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シャローム!

悔い改めというものは、教会の中であまり歓迎されないメッセージかもしれません。どのように悔い改めたら良いか知らない人も多くいるのではないかと思います。しかし、聖書は「悔い改めなさい」と命令しています。これが天の御国に入る鍵だからです。
悔い改めは一言で言うなら、神に立ち返ることです。自分勝手な道を歩んでいた所、神の戒めを知って、神の願う道へと方向転換して歩み続けることです。
この祈りをするとき、私たちの目から涙が溢れることがあります。しかし、その時に吟味しなければならないことがあります。涙を流せば良いというものではないからです。なぜなら、もしかしたらそれは単に起こった出来事を嘆いているからかも知れないからです。これは後悔です。歩むべき方向が改まっていません。片手落ちです。悔い改めは神へと方向転換して歩み続けることです。うなじがこわく、悔い改める事ができなかったユダの人々から学びましょう。

今日の通読箇所:エレミヤ書 7章〜9章

■アウトライン

●聞き従わないことの代償:7章
  ・主の家を強盗の巣と見る:1-28節
  ・哀歌を唱えよ:29節
  ・この国は廃墟となる:30-34節

●民のあきらめ:8章
  ・住民の骨を天の万象にさらす:1-3節
  ・なぜ背信を続けているのか:4-7節
  ・書記たちのいつわりの筆:8-9節
  ・彼らの刑罰の時よろめき倒れる:10-12節
  ・彼らを刈り入れたい:13節
  ・主が私たちを滅ぼす:14-15節
  ・攻められる町:16-17節
  ・癒やされない悲しみ:18-19節
  ・それなのに私たちは救われない:20節
  ・癒やされない私の民の娘の傷:21-22節

●粉々に砕かれる:9章
  ・私の目が涙の泉であったら:1-3節
  ・どの兄弟も信頼するな:4-5節
  ・主を知ろうとしない:6節
  ・彼らを溶かして試す:7-9節
  ・泣き声と哀歌:10節
  ・荒らされる町:11節
  ・どうしてこの国は滅びたのか:12節
  ・苦よもぎを食べさせ毒の水を飲ませる:13-16節
  ・嘆きの歌と哀歌を教えよ:17-22節
  ・何を誇るか:23-24節
  ・割礼を受けている者を罰する:25-26節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【7章】聞き従わないことの代償

・主の家を強盗の巣と見る:1-28節
ここから新しい預言が始まっています。今までは町への預言でしたが、ここからは神殿に関して言われています。主の家の門でそこに出入りする人に対して叫んでいます。
主はダビデ、ソロモンが建てた神殿に永遠に住んでくださることを約束してくださいました。しかし、それは無条件ではありませんでした。人々が律法を守ったらという条件がありました。
彼らは主の家を礼拝所ではなく強盗の巣にしていました。イエス様もこの箇所を引用されました。そのどちらにも共通していることは、神のためではなく、自分のために行っていたと言うことです。
教会を自分の夢を実現するために用いたり、ミニストリーを拡大するために利用したりするなら、この事に該当するかもしれません。主の家は祈りの家と呼ばれなければなりません。
12節からは、シロで主がされたことを見よと言っています。サムエルの時代、礼拝の中心はシロでした。そこにあった神の箱がペリシテ人に取られました。その時、祭司エリの息子たちは幕屋で非常に悪いことを行っていました。それを行うことを言われています。主に従わないなら、臨在は遠ざかってしまいます。黙示録2:5には「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならが、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」とあります。
16節からは、これがほんとうにみことばなのかと疑ってしまうような事が書かれています。エレミヤに「民のために祈ってはならない」と言われています。主は何度も民に御手を伸ばしてくださったのに、民は答えません。それで、主は彼らが変わろうとしないと判断されたのです。彼らは明らかに悪いことを行い続け、それをやめようとしません。例えば「私はいつも銀行強盗を行っています。今回もうまくいくようにお祈りください」と言ってきたらどうしますか?「警察に行ってください」と言うでしょう。それ以上の事を彼らは行っていました。彼らは家族ぐるみで天の女王を礼拝していました。世の中の多くの宗教は女性を神格化しています。黙示録でも大淫婦というのが出てきます。
21節からは、いけにえについて言及されています。何が主へのいけにえでしょうか。それは聞き従うことです。それはいけにえにまさります。主に聞かずに何かを行っているのであれば、それは単なる宗教です。主に聞き従うなら、主は私たちの神となってくださいます。
ところが、彼らは聞かず耳を傾けず、その結果後退していました。
主は昔からずっと預言者を遣わし、神の声を民に届けてきましたが、人々は聞こうとしませんでした。それなので、主は答えてくださらなくなっていました。もし、私たちが祈りの中で、主の御声を聞くことができないのであれば、それは私たちが主の声を聞こうとしていないからかもしれません。

・哀歌を唱えよ:29節
ユダの民は主の御声に聞き従いませんでした。それで裸の丘の上、すなわちバビロンによって破壊され、荒れ果てた地の上で哀歌を唱えます。

・この国は廃墟となる:30-34節
エルサレムでの偶像礼拝はひどいものでした。ヒノムの谷に偶像を置き、その前で不品行を行い、そのことによって妊娠してしまった子どもを偶像にいけにえとしてささげていました。
鉄で作られた偶像を熱く熱し、その上に赤子を置きます。泣き叫ぶ声をかき消すために太鼓がけたたましくならされます。そのような事がヒノムの谷で行われていました。
後にこのヒノムの谷はヨシヤ王によって打ち壊され、ゴミ捨て場になりました。そこではいつも火がくすぶっていました。それゆえ、そこはゲヘナと呼ばれました。終わりの時代に主に従わない者が入れられる永遠の滅びの場所と同じ名前です。
このような彼らの行動は主が命じたこともなく思いつきもしなかったとあります。ある意味、神様を超えています。これが人の奥底にある罪深さの性質です。人の中にある悪は、そのままにしておくと主の想像を超えるまで発展します。
その結果、ベン・ヒノムの谷は虐殺の谷と呼ばれ、死体が積み重ねられるようになります。楽しみの声も消え、廃墟となります。

【8章】民のあきらめ

・住民の骨を天の万象にさらす:1-3節
ベン・ヒノムの谷に積まれた死体の骨は誰も葬る事ができません。それで、天の万象にさらされます。彼らが天の万象を慕い求めた結果です。しかし、ユダの人々は悲しむことはしますが、悔い改めません。そのことが次から書かれています。

・なぜ背信を続けているのか:4-7節
ユダの人々の諦めの様子を見ることができます。自暴自棄になっています。「自分は配信者になったから、このままでいい」と半ば諦めのようになっています。主は何度も何度も彼らを呼び続けてくださっていますが、彼ら自身が「自分は救われない」と決めつけてしまっています。これはへりくだりに見えた高ぶりです。私たちの中にも何か決めつけてしまっている事はないでしょうか。いつでも主の御心に対して動くことのできるニュートラルな信仰を求めます。そして、自分の間違いを素直に認める人格を求めます。
鳥も自分の帰る時を守っています。しかし、彼らは主に立ち返る時もすべも知りません。主の呼び掛けに答えるだけで良いのに、彼らはそれができませんでした。罪というものは恐ろしいものです。
もし、自分の中に「こうあるべき」といいう「べき論」が目立つようになったら、注意する必要があるかも知れません。

・書記たちのいつわりの筆:8-9節
彼らは主の律法を持っていました。しかし、それはあるだけでは全く意味がないのです。みなさんの手もとにも聖書があるでしょう。それを本棚にしまったり、飾っているだけでは全く意味がありません。聖書は魔除けのインテリアではありません。それを開き、朗読し、たましいに教え込んで初めて意味をなします。
律法に従わず、律法を間違って解釈して教えることを「書記たちの偽り」と表現しています。現代ではこれが神学というものにあたるかも知れません。神学は素晴らしいものです。しかし、その解釈、釈義が聖書からかけ離れたものになってしまっているなら、注意が必要です。

・彼らの刑罰の時よろめき倒れる:10-12節
主が彼らを侵略者に与える理由が書かれています。それは、すべての人が利得をむさぼったからです。これは、自分の利益になるかどうかを計算して付き合うと言うことです。箴言23:7には「彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、『食え、飲め』と言っても、その心はあなたとともにない。」とあります。この「勘定ずく」は、「自分が思ったとおりになる」という意味です。罪の性質に従うことです。
「私が断食したから、これをください」などと、主と取引の関係になってはいけません。たとえそうでなくても、主を愛し続ける必要があります。主との関係はビジネスの関係ではなく、生きた愛の関係です。

・彼らを刈り入れたい:13節
主ご自身が葛藤されています。彼らを滅ぼすことを心に決めておられながら、少しでも実があることを探しておられます。なんとかして合格点にしてあげたいと願っています。しかし、それは見つけられないので、なるがままにされます。
イエス様も、いちじくの木の実がないのをご覧になっていちじくの木を呪われました。主は最後の最後まで、悔い改めるチャンスを下さいます。しかし、その時を待たずして、今日という日に悔い改めましょう。

・主が私たちを滅ぼす:14-15節
ここでは、彼らは自らのいのちを断ちたいという願望を持っています。これは悔い改めではありません。諦めです。彼らは「どうせ、私たちが悪いことをしたから殺されるんでしょ」と言っています。主は本当にその様なことを言われましたか?主は上で見たように、一粒でも実があるなら彼らを救いたいと願っていたのではないでしょうか。
私たちはどうでしょうか。深く祈ってみましょう。

・攻められる町:16-17節
ダンという町はイスラエルの北方に位置する町です。敵はいつも北から侵入します。その勢いはすさまじく、制御できない毒蛇のようです。

・癒やされない悲しみ:18-19節
エレミヤの心は悲しんで、弱り果てています。主が語られた事を一生懸命語ったのに、人々が聞こうとしないからです。彼らは自分の偶像を捨てて、主のことばを聞いてそれに従えばいいのです。

・それなのに私たちは救われない:20節
ところが彼らはそれを聞かず「私たちは救われない」と決めつけてしまっています。
主の救いはとてもシンプルであり、誰にでも開かれたものです。ところが多くの人がそれを受け取ることができないのです。祈りが必要です。一人でも多くが主の救いを受け取ることができるために祈りましょう。

・癒やされない私の民の娘の傷:21-22節
エレミヤは彼らの傷を自分の傷のように痛んでいます。これが取りなすものの姿です。隣人の罪を背負い、抱き、うめき苦しみとりなして祈ります。私たちの内では、聖霊様がいいようもない深いうめきをもって、絶えず私たちのために取りなしてくださっています。
この苦しむエレミヤの姿はまるでイエス様のようです。イエス様の打ち傷は私たちの身代わりです。この十字架の恵みに感謝しましょう。

【9章】粉々に砕かれる

・私の目が涙の泉であったら:1-3節
エレミヤは民の現状を見て嘆いています。頭が水で、目が涙の泉だったらもっと泣けるのにと嘆いています。涙も出ないほどの悲しみです。エレミヤは民が神に背を向けていることを知っていました。ですから神のことばを語ります。しかし、一向に民は聞こうとしません。彼らの罪が神を見えなくしてしまっています。
さらに、エレミヤは彼らが偽りで身を固めていると語ります。神に従わないで神に仕えているように見せるなら、それは偽りです。それを聖徒化するために更に偽りで身を固めてしまいます。そのようにして、イエス様の時代、律法学者、パリサイ人はイエス様を罪に定めてしまいました。真理なる神を間違いとし、罪ある自分たちを正しいとしたのです。

・どの兄弟も信頼するな:4-5節
このような状態で何をすべきかを教えています。悲しいことですが警戒して、どの兄弟も信頼するなと言っています。彼らの中に真理はなく、互いに偽り合っているからです。心からの分かち合いをすることなく、お互い腹の探り合いをするという状態です。
一番悪いのは依然として悔い改めないという状況です。

・主を知ろうとしない:6節
彼らは主を知ろうとしませんでした。ローマ1:28には「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」とあります。神を知ろうとしたがらないと言うことは、自分の罪に従っているという状況です。

・彼らを溶かして試す:7-9節
主は「彼らを溶かして試す」と言われました。単に表面をきれいにするのではなく、溶かしてドロドロにしなければどうしようもないと言う状況です。それほどに彼らの心の奥底まで汚れていました。
彼らは口先では友人に平和を語っていますが、腹の中では待ち伏せを計っています。思っていることと言っていることが一致していない、不敬虔な者です。
主はそのような者に復讐されます。

・泣き声と哀歌:10節
エレミヤは山々、荒野の牧草地のために哀歌を唱えています。見る果てもなく、焼き払われて人も家畜も、すべての行きある者が存在できなくなっています。

・荒らされる町:11節
主はエルサレムを石くれの山、ジャッカルの住みかとされます。荒れ果て、誰も住めないようにするまで、徹底的に破壊されます。中途半端な破壊ではありません。しかし、ここまでされたからこそ、主はそこから新しいことをされます。

・どうしてこの国は滅びたのか:12節
人には緊急時に二つの心理が働くそうです。正常性バイアスというのと、共同性バイアスというものです。正常性バイアスは「私は大丈夫」という心理で、共同性バイアスは「まわりの人がなんともないから、私も大丈夫だろう」と言う心理です。災害ではこの二つの心理が働くから悲惨な結果になることがあります。
ここで、エルサレムの人々は荒廃しきっているのに、誰か悟る人、知恵のある人はいないのかと尋ねています。上のような心理が働いていたのでしょうか。
私たちの周りは大丈夫でしょうか。周りの大きな流れにながされていないでしょうか。滅びに至る門は大きく、道は広く、多くの人がそこから入っていきます。小さな門、狭い道に導かれるまれな者となりましょう。

・苦よもぎを食べさせ毒の水を飲ませる:13-16節
主はその結果として、苦よもぎを食べさせます。それは麻酔のような効果があり、精神錯乱をももたらすことができる草です。黙示録の7章にも出てきます。
私たちが食べる物は何でしょうか。いのちのみことばです。私たちが飲むのは何でしょうか。いのちの水であるみことばです。

・嘆きの歌と哀歌を教えよ:17-22節
エレミヤが見ているのは屍がそのままにされているエルサレムの姿です。誰も嘆く人がいないので、嘆きの女性を連れてきます。そして、彼女たちに哀歌を歌って欲しいと願います。
私たちの感覚ではよくわからないかも知れませんが、当時のこの地域では、葬儀の時に泣くプロの人がいました。お金を払って葬儀に来てもらって泣いてもらうのです。そのことで弔問に来た人の心が動かされ、泣きやすくするためです。
イエス様の時代にもラザロの記事のところでこのような人を見ることができると思います。

・何を誇るか:23-24節
とても重要な箇所です。私たちは何を誇るのでしょうか。唯一誇れることは、主を知っていると言うことです。主は主です。地に恵みと公儀と正義を行ってくださる方です。

・割礼を受けている者を罰する:25-26節
その日が来ます。主は割礼を受けている者を罰せられます。26節を見てみて下さい。エジプト、エドム、アモン人、モアブなどは理解できます。しかし、その中にユダも入れられています。ユダは神に選ばれ、神のみことばに従っていなければならない民でした。他の国々と違っていなければならないにもかかわらず、同じになっています。ユダはエジプトに頼りました。力と富を頼りにしていました。彼らは形は割礼を受けていたかも知れませんが、実際に行っていたことは異教の民と全く変わらない事でした。次のみことばを思い巡らしてみましょう。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 一人でも多くの人が主の救いを受け取ることができるように祈ります。
    地に恵みと公義と正義を行う主に感謝します。

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