親子というのは不思議なもので、どんなに頑張っても子どもは何もしなければ、親に似てしまいます。それで確かに親子であると言うことが他の人にも確かになります。
私たちはどんな境遇であったとしても両親がいます。そうでなければ誕生していないはずです。その両親にもそれぞれ両親がおり、その両親にもまた…。
では、その系図を遡るとどこに行き当たるでしょうか。
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
創世記 2章 7節 – 8節
人の始まりはこのみことばにあります。ここが人の始まりの箇所です。
「人」とは聖書が書かれた言語であるヘブル語で見ると、「アダム」と書かれています。つまり、最初の人はアダムです。これは一人の人の名前でもありますが、同時に全人類をも意味しまう。
なぜ、人がアダムというかというと、人が地のちり(土)で造られたからです。この「地のちり」がアダマというヘブル語です。アダマから造られたのがアダムです。
そして、親子が似ているように、神様が創造された人もまた、生みの親である神様に似たものでした。
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
創世記 1章 26節 – 27節
神様はすべての環境を整え、「われわれのかたちとして、われわれに似せて人を造ろう」と仰せられました。
「かたち」とはイメージ、つまり目に見えない内面に関して、「似せて」とは外側の見た目のことを意味します。つまり、人はすべてが神に似せて造られたということがわかります。
造られた私たちが創造主である神様に見た目も内面も似ているということは驚きです。神様がイメージされ、神ご自身に似せて造られた人は神の創造の中でも最高傑作なのです。
これを読まれている方はすべて、ここに当てはまります。誰一人例外はありません。すべての人は神様のかたち、神様に似せて造られました。
自分の出生を確認するには、戸籍謄本などで親とのつながりを確認します。自分は何者であるのかがそこには書かれています。親の特性や性質を知るなら、自分を知ることができます。
同じように、聖書には私たちの出どころが書かれています。聖書を読んでいくなら、どんな所に自分探しの旅に出るよりも確実に自分を知る旅に出ることができます。なぜなら、そこに私たち人の創造された過程が記されているからです。
聖書の中から自分のルーツを見出していきましょう。
今日のまとめ
私たちは神様のイメージ、神様に似せて造られたものである。