シャローム!
今日からサムエル記第二がはじまります。ここではダビデの王朝が確立されていく様子を見ることができます。
王になるまでの戦いもありましたが、王になったら王になったなりの葛藤と戦いがあります。それらの問題をどのように乗り切って行くのでしょうか。
今日もみことばから教えていただきましょう。
今日の通読箇所:サムエル記 第二 1章~3章
■アウトライン
新王権確立への道
●サウルとヨナタンの報告:1章
・アマレク人の報告:1-10節
・油注がれた者に手を下した者への裁き:11-16節
・ダビデの哀歌:17-27節
●ユダの王と全イスラエルの王:2章
・ユダの家の王:1-7節
・アブネルとダビデの戦い:8-17節
・かもしかのように足が速いアサエル:18-23節
・ヨアブの角笛:24-28節
・点呼:29-32節
●泥沼試合:3章
・栄える家、衰える家:1節
・ダビデの子:2-5節
・アブネルをとがめるイシュ・ボシェテ:6-11節
・奪い返されるミカル:12-16節
・アブネルの根回し:17-21節
・ヨアブの報告:22-25節
・ヨアブの復讐と報い:26-30節
・アブネルへの哀悼:31-39節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【1章】サウルとヨナタンの報告
前回、イスラエルとペリシテの戦いの前にそれぞれどのような動きがあったかを見ました。ダビデはペリシテ人のアキシュと共に戦いに行こうとしましたが止められました。一方、イスラエル側はサウルが霊媒師のところに行きました。
ダビデはペリシテ人の領主から共に戦うことを断られ帰りますが、そこでツィケラグの事件を目の当たりにします。しかし、奪われたものはすべて取り返します。
一方サウルは戦いに出て、自分も息子とたちも殺されます。
その後、ダビデは二日間ツィケラグに滞在しました。
2-4節、そこのに突然着物が避け、頭に土を被った男が来ます。この格好は良くない知らせの時の格好です。ダビデはそれを見て心を整えたでしょう。そして、その男に丁寧に接します。ところが、その男の口から出たのはダビデを動揺させる知らせでした。
5-10節まで読むと、疑問が浮かばないでしょうか?前章でサウルはどのようにして死にましたか?その様子とこのアマレク人の報告は食い違っています。どちらが正確なのでしょうか。おそらく、アマレク人の報告が間違っていると思います。
おそらく、このアマレク人は「ダビデを追いかけていたサウルを倒したの自分だ」と行って武功を上げたかったのでしょう。彼は油注がれた者に手をかけてはならないと言うことを知りませんでした。だから、このようにうれしそうにサウルの死をダビデに報告しました。
11-12節、アマレク人は驚いたでしょう。ダビデが歓喜し、沢山の褒美と高い地位をくれると期待していたかもしれませんが、その正反対でした。ダビデはここまでして悲しみました。
考えてみてください。ダビデをあれほど苦しめた王の死です。普通の人なら大喜びするでしょう。しかし、ダビデは恐れるべき者は何かを知っていました。主です。主が油注がれた方はその性格がどうであっても、心を尽くして仕えると言うことをダビデは知っていました。
そして、それを表面的に、言われたから行っていたのではなく、心からそうしていました。ですから、すぐにこのように反応できました。素晴らしい心です。
13-16節、アマレク人への裁きです。自分が大きな手柄を受けると思って報告した結果、最悪の自分の死を招いてしまいました。このアマレク人は主を恐れることを知らず、矢印がいつも自分に向いていました。その者の結果です。
そして、アマレク人の特徴を知る必要があります。主はサムエルを通してアマレクの聖絶を命じられていました。なぜでしょうか。アマレクに働く霊性を見るとわかります。
ツィケラグでもアマレク人は奪いました。とにかく、アマレク人はイスラエルからあらゆるものを奪います。アマレク人は孤児の霊性です。また、むさぼりの霊性です。沢山持っているはずなのにそれに対する感謝の心がなく、いつも「足りない、足りない」というマインドがあります。
主は「今持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:5)と言われます。すべてのものに感謝する心を求めましょう。私たちは孤児ではなく、神の子とされています。すべてのものをお持ちの主の相続人です。
17節から、ダビデは哀歌を歌います。18節を見ると「弓の歌」とありますが、「歌」は補足で原文は「弓」とだけ書かれています。ヨナタンはダビデが逃げるか否かの時に弓を使ってお互いにわかる暗号を用いました。それほどヨナタンは弓の名手でした。
ですから、この哀歌を通してユダの子たちにヨナタンの残した信仰を伝えたのでしょう。
そして「ヤシャルの書」とありますが、これは聖書には入っていませんが当時の戦いの記録であったようです。ヨシュアの戦いで日と月が一日留まった事も記されています。
この哀歌を味わってみましょう。ヨナタンの偉業をたたえています。
23節を見てください。「死人に口なし」ということわざもありますが、なくなった人は言い返せないので何を言っても反論されませんが、ダビデはあれほどダビデを苦しめたサウルをこのように言っています。
私たちの目には「サウルはひどい」写るかもしれませんが、当のダビデはそう受け取っていませんでした。ここに書かれていることがダビデが受け取っていたことです。
ここから多くのことを学べます。私たちは感情的になり、自分の一方的な見方しかしません。そして、記憶の中でその事を何度も思い起こして、「あの人はこうに違いない」という見方をしてしまいます。
そして、相手が好意を持って接してきても「あの人はこうだから」という視点が抜けないので、それを迷惑と受け取ってしまいます。
しかし、ダビデがしたように、ある意味自分勝手に自分に起こったことを解釈しています。なぜそういうことができたのでしょうか。おそらく、ダビデが目の前の事実を認めつつも、その上におられる主をいつも見続けていたからでしょう。ダビデこそ愛の人です。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(1コリント13:4-8a)
【2章】ユダの王と全イスラエルの王
ダビデが気にしていることがありました。それはサウルという指導者なきイスラエルの状態です。ダビデは次の王になることが決まっているようなものです。しかし、ここがダビデの素晴らしいところです。まず主に伺っています。主の答えはどうだったでしょうか?
4節で、ユダの人々がやってきて、ダビデに油を注ぎ、ユダの家の王としました。ユダ族はダビデの身内になります。
注目すべきは、ダビデが自分から「王にしてください」と言っていないのことです。神と人とに愛されるダビデです。
続く5節からは、ヤベシュ・ギルアデの人々に好意を示したいと言っています。ダビデは剣ではなく、善と平和を持って王となっていきます。
ところが、王権を巡ってすこし複雑なことになります。サウルに仕えていた将軍アブネルがサウルの子イシュ・ボシェテを擁立し、ユダ以外のイスラエルの王とします。この事がきっかけでユダと全イスラエルと二戦いが生じてしまいます。ダビデの平和の作戦が崩されました。14-17節を見ると、アブネルとヨアブの提案で戦いの前に12人の若者の代表戦をしようと言うことになります。結果はどうなったでしょうか。16節を見てみましょう。
この事が発端となり、全面対決がはじまります。激しい戦いでしたが、ダビデの方に軍配が上がります。
18節でツェルヤという人物が出てきます。これは1歴代2:16を見ると、ダビデの姉妹です。その三人の息子がここに書かれています。
19-23節を見てみましょう。アブネルはアサエルを殺したくありませんでした。もしアサエルを殺してしまうなら、その後にヨアブから復讐をされるかもしれないと考えたからです。
しかし、血気盛んなアサエルはかもしかのように速い足を使って執拗にアブネルを追いかけます。アブネルを殺すとこの戦いは終わるからです。結局はアサエルは槍の石突きで下腹を突かれ倒されます。
ここから何が学べるでしょうか。結果を急いでは生けないと言うことでしょうか。また、アサエルの自慢の足という自分の力に過信しすぎないようにということでしょうか。自分の正義をかかげて突っ走っては生けないと言うことでしょうか。
結局、自分の義を掲げ続けるところには争いが絶えません。へりくだり、平和を求める者の所に主の御国が現されていきます。
この泥沼のような戦いはどのように終わっていくのでしょうか。24-28節を見てみましょう。
アブネルが停戦を呼びかけます。その事で多くの人が戦いという麻薬から現実に引き戻されます。生産性のない戦いだと納得し、ヨアブの角笛を合図にこの戦いは終結します。これ以上の犠牲者が出なかったことを感謝します。
それぞれが引き上げ、体制を整えます。結果はどうだったでしょうか。29-32節を見てみましょう。犠牲者の数を見ると、ダビデ軍が有利であることがわかります。
【3章】泥沼試合
1節を見ると、先ほど停戦したはずなのにサウルの家とダビデの家とに長く戦いが続いたとあります。ダビデは栄え、サウルは衰えていっています。
2-5節では、ダビデの子たちが紹介されています。これは次の王制のための備えです。ダビデは自分の子を多く残し、ダビデ王朝を盤石なものにしようとします。その結果どうなっていくかは後ほど出てきます。
6-11節を見てみましょう。アブネルは着々とサウル家で勢力を伸ばしています。所が事件が起こります。アブネルがサウルのそばめと通じたと言うことがイシュ・ボシェテによって指摘されます。
8節を見るとアブネルはどのように反応しているでしょうか。激しく怒っています。逆ギレです。しかし、この事がきっかけでアブネルは考えを変えることになります。
私たちはこのイシュ・ボシェテのように、また後に出てくるダビデに対して罪を指摘した預言者ナタンのような事をしたいという誘惑にかられるかもしれません。
しかし、人の罪を指摘するという事は大きな責任を伴うことです。以前、牧師夫人から学んだことが私に大きな影響を与えています。それは「あなたが石を投げるのは結構です。しかし、その後始末をできないなら、はじめから石を投げてはいけません」というものでした。
人の罪を指摘するのはある意味気持ちがいいことでしょう。しかしその前にすることが沢山あります。
まず、自分の内にある罪を点検すると言うことです。なぜなら、人の弱さが見えると言うことは、それは自分の弱さが相手に鏡のように写っているに過ぎないからです。相手の気になる言動は実は私の問題です。まず、ここを解決しましょう。祈りましょう。自分の目からはりを取り除きましょう。
次に祈ることです。口に出す前に、まず、相手のために取りなして祈りましょう。言うことよりもむしろ黙っている事の方がいいときがあります。言うべきか、黙るべきか、いつもダビデが主に伺っていたように、私たちも主に伺いましょう。そして、言うべきことであることがわかったなら、いつ、どのような環境で言うべきかも祈り、主に伺いましょう。
そして、相手に告げるなら相手をおとしめ、立ち上がれないまでに打ちのめそうという心を捨ててください。相手を愛し、尊敬し、何と言うべきか聖霊様に伺って優しい言葉で諭しましょう。
また、この事は他に人のいない二人だけの間で行いましょう。マタイ18:15にもその事が書かれています。それでもだめなら、続く16-17節のステップに進みましょう。
12-25節を見てみましょう。アブネルは自分が意地を張ってサウル家を守ろうとしていることが得策ではないと悟ります。そして、全イスラエルをダビデに移す決断をします。先のイシュ・ボシェテの一言がきっかけでした。
その条件としてダビデが上げたことは難でしょうか。サウルの娘、ミカルを取り返すことです。
サウルはダビデの妻であったミカルを取り上げ、別の男に与えていました。すなわち、サウル家とダビデ家の断絶です。しかし、ここで再びミカルを迎えることでサウル家との和解につながり、それを全イスラエルに伝えることで民は納得します。
17-21節を見てみましょう。アブネルはイスラエルの長老たちに「あなたがたがかねてからダビデを自分の王にしたいと願っていた事をしなさい」と言っています。ここから何がわかるでしょうか。全イスラエルはダビデに王になって欲しいと願っていたのに、アブネルだけが抵抗していました。恐怖と権力によってイスラエルを押さえ込んでいました。
19-21節、すばらしい解決です。これ以上の血を流すことなく、イスラエルの統一がなされます。
ダビデは祝宴を催します。アブネルを受け入れ、祝福を与えます。サウルの霊性を強く受けていたアブネルはこのダビデの好意によって心が温かくなったのでしょう。安心して家に帰っています。
22-25節、ところが、物事はそんなにすんなり進みません。
ヨアブは戦いに出ていました。その間にアブネルが来て祝宴が開催されました。アブネルは沢山の好意をダビデから受けます。しかし、ヨアブはその事を何も知りません。ただ、アブネルが来て、祝宴を開き、安心して帰ったということしか知りません。その背後でダビデの好意があったと言うことは利しませんでした。
ヨアブはアブネルに対して良く思っていませんでした。その見方を持ってこの事実を見るものですから、すべてが悪く見えてしまいます。
今まで敵であったアブネルが突然ダビデの見方になるとは思えなかったのです。それで、ヨアブはアブネルをスパイだとダビデに告げます。
26-30節、ヨアブはダビデの忠実な弟子でした。しかし、残念なことがあります。恵みを知りませんでした。赦すと言うことを知りませんでした。自分のミッションに忠実と言うことは大切です。しかし、一生懸命すればいいということではありません。的がずれたまま一生懸命するのは罪です。
ヨアブに関して見れば、王が和解し、赦した者に対して、その部下が勝手に恨みをもって復讐するというのは越権行為に当たります。ヨアブの動機と行動は正しいかもしれませんが、権威に従うことも重要です。その結果どうなったでしょうか。
自分の個人的なうらみを上乗せして、ダビデの知らないところで密かにアブネルを殺してしまいます。
28-30節、ダビデは後でこの事を知ります。時すでに遅しです。血の復讐を自分の手で行った者に対する裁きの宣告です。
31-39節、ダビデはサウルが殺された時にも泣きましたが、サウルの下で仕えていたアブネルのためにも泣きました。たましいに対する情熱を持った者がダビデです。
もしダビデがここで「やった!やっとサウル家の実験を握っているアブネルが殺されたぞ!」と言って喜んだらどうなっていたでしょうか。さらなる犠牲者を出したのではないかと思います。また、この後のダビデ王朝は確立していなかったのではないかと思います。
ダビデの本気の悲しみはかえってイスラエルに平和をもたらします。ダビデは喜ぶ者とと共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ心を持っていました。王でありながらひとりの失われたたましいのために悲しみ、自分を低くすることのできる王でした。
私たちも自分の義を人に押しつけるのではなく、ダビデのようにいつもへりくだって、十字架の道を歩めるよう祈っていきたいと思います。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
アブネルは矢印が自分に向いていて、神がダビデをイスラエルの王として、たてていることを知っていて、また、サウル王の死後、民もダビデ王を望んでいることも知ってなお、自分が王のようにふるまいたくて、サウル王家を思ってではなく、ただイシュ・ボシェテを利用したのですね。
アブネルは性道徳的にも低く、王の妾と通じる事でイシボセテは屈辱を味わったことと思います。
イシュ・ボシェテとしても、アブネルが王の寡婦と結婚することは王位を望んでいる表れなので、黙ってはいられないと思います。
↓ これがこの地方、この時代の風習的な解釈かなと・・・
(第二列王2章22節)
2:22 ソロモン王は母に答えた。「なぜ、アドニヤのためにシュネム人の女アビシャグを願うのですか。彼は私の兄ですから、彼のためには王位を願ったほうがよいのではありませんか。彼のためにも、祭司エブヤタルやツェルヤの子ヨアブのためにも。」
状況が不利になったら擁立した本人から寝返るアブネルの性格を把握して
イシュ・ボシェテはアブネルから王の話を持ちかけられた時から、きっぱりピシャッと
「無益な戦いはやめよう、私ではなく王権は神が選ばれているダビデに」と言って譲っていたら、
どうなっていたでしょうか?
リツパは辱めを受けずに済んだかもしれないのに。
(ここは時代を超えて、おなじ女性として怒りが・・・(*_*;) 自分勝手な解釈かもしれません)
ダビデがこんな不道徳なアブネルの死を悼み悲しむ気持ちがわかりません。
イスラエルを統一するために対面だけのことなら分かりますが、
ダビデ王のことだから本気で悼み悲しんだのだと思います。
>おそらく、ダビデが目の前の事実を認めつつも、その上におられる主をいつも見続けていたからでしょう。ダビデこそ愛の人です
アーメン 見習いたいと思います。
しかし私には、私の力では到底できないことだと思います。
ダビデ王に徳川家康のような腹黒さがあったのなら分かりますが・・・
ここは私の疑問点として、私の疑問の引き出しに入れておきます。
すみません。いつもの私のもしかしての想像、妄想が始まると話をごちゃごちゃにさせてしまいます。
元に戻します。
ヨアブの件にしてもですが、主君ダビデ王に「ツェルヤの子は手ごわすぎる」といって嘆かせたように、
主の心と一つになっていなければ、どんなに主の為に頑張っても主を悲しませることが多いのですね。
主イエスの死と葬りに、ともにあずかり自分に全く死んで、主の心と全く一つになった者の奉仕のみ主を喜ばせるのですね。
言葉では簡単なのですが、実際にいつも主と全く一つになっていますように、
その力をくださいと願います。
まず自分の目からはりをとりのけるように祈ります。