聖書通読クラブ Day 71【士師記1章〜3章】

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シャローム!

今日から士師記の通読になります。大きな目で見ると、創世記の後の出エジプトのような感じです。
どういうことかというと、創世記は比較的ハッピーエンドで終わります。ヨセフが飢饉で悩む家族をエジプトに連れてくるからです。
ところが出エジプトでは、その豊かさ故にイスラエルの民は神を忘れ、その結果苦しめられることになります。
同じように、ヨシュアによってカナンの地に相続地を得、戦いは止みましたが、イスラエルの民はそのところで安心しすぎてしまい、神を忘れ、苦しい生活を余儀なくされます。
現在、私たちはこの士師記から多くのことを教えてもらう必要があると感じています。
私たちが主と共にゆっくり休めるのは、もう少し先になるかもしれません。今は目を覚まして、自分の中の生ぬるさと戦うときです。

さあ、今日もみことばに教えていただきましょう。

今日の通読箇所:士師記1章~3章

■アウトライン

本当の戦い

●中途半端な占領:1章
  ・ユダ族とシメオン族:1-20節
  ・その他の部族:21-36節

●霊的な堕落のサイクル:2章
  ・ボキムでの嘆き:1-5節
  ・ヨシュア以後の堕落:6-10節
  ・士師の派遣:11-19節
  ・主の試み:20-23節

●イスラエルを助ける者:3章
  ・残された国民:1-6節
  ・主の御霊:7-11節
  ・弱さの中の強さ:12-30節
  ・普通の武器:31節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【1章】中途半端な占領

ヨシュアの時代が終わり、次の時代がやってきます。しかし、まだ神の戒めを完全に全うしてはいませんでした。まだ勝ち取らなければならない領域がありました。
そこで、強力な指導者を失った民はまず、誰が最初に上っていくかを主に伺いました。正しい行動です。誰が行くことになりましたか?この戦いはどうなるでしょうか?この時点で勝負ありなのがわかりますか?

3節、なぜこのような事が突然起こるのかと思った方は、少し前の記事を見返してみましょう。左下(南西)のユダの領地の中にシメオンの領地がありますね。彼らは兄弟同士ですから、一緒に戦いに行くことをオファーします。

4節から、主の仰せ通りになります。
しかし、アドニ・ベゼクという人が逃げ出します。本来なら殺してしまいそうですが、6節のような事をしました。想像するだけで痛そうですね。つまり、いのちは助けました。
手の指を切るとは、今後、剣を握れなくなると言うこと、足の指を切るとは今後、戦いのために出て行くことができなくなることを意味します。ユダとシメオンの人々はアドニ・ベゼクの武装解除を行いました。
彼のぽろっとこぼした言葉が印象的です。刈り取りの法則ですね。蒔いた種は良いものであろうとも、悪いものであろうとも必ず刈り取らなければなりません。自分はどのような種を蒔いているでしょうか?

8節、これから現在に至るまで重要な場所、エルサレムを勝ち取りました。後にダビデの町、そして神殿が建てられる場所です。
ところが、完全に勝ち取ったわけではないようです。当時はエルサレムはいくつかの町があったようです。なぜならヨシュア記15:63を見てみますと、「エルサレムに住むエブス人を倒すことができなかった」と書いてあるからです。

11節から。以前読んだような気がする事柄ですが、その通りです。
ヨシュア記で出てきたところです。
オテニエルはアクサを促して泉を求めさせます。上の泉と下の泉です。これは天の祝福と地の祝福を意味しています。

16節から。なつめやしの町とはエリコです。ここでケニ人と出てきますが、現在でもイスラエルのユダの荒野に住むベドウィンがいますが、彼らはケニ人の末裔ではないかと言われています。

19節、今までの流れからみると非常にもったいない事に気がつくでしょう。最初の段階ですでに勝負はあったのです。しかし、ユダとシメオンの人々は鉄の戦車を見て恐れてしまいました。まるで、水の上を歩いていたペテロが周りを見て恐れてしまった事と似ています。
目の前の現状を認識しつつも、私たちは神様のことばを握り、信じ続ける必要があります。そうするなら、鉄の戦車でも恐れることはありません。この世の何よりも主は強いお方です。

21節にはベニヤミンが出てきます。エルサレムはユダ族とベニヤミン族の境界線にある町です。ベニヤミンはエブス人を追い出せませんでした。一緒に住んでいます。これは神様の願いではありませんでした。
22節はヨセフ族です。まるでラハブを助けたときのような事が書かれています。救い主が誕生する町、ベテルを攻め取ります。その時に町の入り口を教えてくれた者を助けます。ところが、ヨセフ族もまた神様の願い通りにはしていません。

27節はマナセ族です。彼らは町を占領したでしょうか?やがてイスラエルは強く成長しますが、カナン人を追い出しませんでした。彼らに苦役を与えながらも一緒に住みます。妥協の霊が見えます。

29節、もうひとつのヨセフ族、エフライムもまた同様です。
30節はゼブルン族、31節はアシェル族、33節はナフタリ族、これらすべての部族は妥協しています。特にナフタリは他の部族の逆です。カナン人の中にナフタリ族が住まわせてもらっています。神様のねがいではありません。
34節、ダン部族に至っては完全に負けています。エモリ人がダン部族を山地へと圧迫しました。

【2章】霊的な堕落のサイクル

経済用語で「テーパリング」というものがありますが、一言で言えば先細りです。イスラエル全体を見るなら、ユダからダンに向かうにつれて、先細りしているように見えます。
カナン人を追い出しきらず、「ま、いいか」という妥協がこの後大変なことになります。はじめは小さな妥協が、後々に大きく影響します。「これくらい、いいか」と信仰の妥協をしてしまうなら、気がつかないうちにそれらは拡大し、やがて「神様なんていなくてもいいんじゃないかな」という恐ろしい事になるかもしれません。
聖霊様は罪について、義について、さばきについて、世に誤りを認めさせます。通読と祈りを通して、聖霊様が私たちの過ち、妥協を教えてくださったのなら、先送りすることなく、その場で主の道への方向転換をしましょう。

1節では主の使いが出てきます。かっこの中の主語に注目してみてください。「わたし」と書かれています。つまり、神様がご自分の事を書かれるときの表現です。
その神の使いが伝えたことは何でしょうか?2節を見てみましょう。
この事を十字架を通して私たちに適用するなら、ローマ12:2にある、「この世と調子を合わせてはいけません」ということでしょう。繰り返し繰り返しこの事が語られます。
申命記で繰り返し語られていた、のろいが彼らに及んでしまいます。主のみことばに聞き従わず、敵を追い出さなかったので敵はわなとなるとあります。箴言にこの警告も繰り返し出てきます。
神の使いはギルガルから来て、このボキムでこの事を語りました。ボキムとは「泣く」という意味です。
彼らは自分のしてきたことをここで思い起こされ、絶望の中泣いたのでしょう。私たちもそのようなときがあります。しかし、これは真の悔い改めではありません。涙が出たから悔い改めたというわけではありません。聖霊様によって自分の罪を悟らされ、「ああ、これではだめだ」と言って考え方、生き方、行動が代わって、主の道を歩み始めることが悔い改めです。彼らは単なる後悔をしているだけです。気をつけましょう。

6節からは少し混乱してしまいそうですが、時代が少し戻っています。霊的、また戦いのリーダーであるヨシュア以降、どうなったかが書かれています。信仰が継承されなかったことは非常に残念です。その原因は何でしょうか?同じ事を私たちの世代が繰り返さないためにどうするべきでしょうか。ここで答えは出ないかもしれませんが、祈って求め続けましょう。それが隣人を愛することにつながります。

11節から、ああ、本当に残念なことが起こります。彼らの中にあった問題の種が芽を出した瞬間です。彼らのこの行動は主にどのように影響を与えるでしょうか。12節の終わりを見てみましょう。
13節、彼らは何と何に仕えたと書いていますか?バアルとアシュタロテですね。
バアルとは農耕、豊穣の神です。カナン地方では雨が少ないので、まことの神を知らない人々は生きていくために農作物が豊かに実るようにバアルを信仰していたようです。
また、アシュタロテとは性愛と戦いの神です。エジプトではイシスと呼ばれ、ギリシャではヴィーナスと呼ばれています。みな同じ神です。イスラエルの民が荒野でアロンの作る金の子牛の周りで「すわっては、飲み食いし、立っては戯れた」(出32:6)とありますが、まさにここに食と性が関わっています。共にいのちに関わることです。しかし、神の守りの中であれば祝福されますが、神の守りの外ではのろいとなってしまいます。
この事は主を怒らせました。これは神様は短気なお方という事ではなく、イスラエルに対する失望を表しています。主はねたむ神です。

15節、主の御声に聞き従わない者への報いです。まるで地獄のようです。それは苦しいはずです。しかし、主は本当に優しいお方です。彼らの苦しむ姿を見てさばきつかさを送られます。彼らにとっては救世主のはずです。
ところが17節、本当に悲しいです。「神々を慕って淫行を行った」とありますが、これは実際的な淫行と霊的な淫行です。どうしようもない状態です。

18-19節、これが士師記、また聖書全体のパターンです。なぜこのようなパターンが起こるのでしょうか?これから士師記を読み進めていきますが、この事を繰り返す度に良くなるのではなく、どんどん悪くなっていきます。
19節の後半がその原因かもしれません。「彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。」つまり、自己中心的な生き方です。

20-23節、主があえて国民のすべてを、ヨシュアが死ぬまでに追い出されなかった理由が書かれています。試みるためでした。
私たちは主の御前で結婚をするとき、「健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも愛します」と誓約します。
イスラエルの民は安住の地を得て、ある意味健やかで富める生活をしていました。むしろこちらの方が主を求めることが難しい状況です。健やかさ、豊かさの中で本当に主に飢え乾く心を持った者は本当の信仰者だと思います。
主はときには私たちにこのような方法をとってでも、神に立ち返るチャンスをくださいます。今日という日に主の道へと立ち返りましょう。まだ悔い改めるチャンスは与えられています。

【3章】イスラエルを助ける者

これからがある意味、本当の戦いかもしれません。聖書には二段階の法則があります。はじめの雨と後の雨、イエス様の初臨と再臨、盲人の目の二段階のいやしなどなど。この戦いに於いてもこの二段階の法則が成り立つかもしれません。
これからの戦いは今までのようには行かないかもしれません。しかし、主が約束してくださるなら必ずやりとげることができます。

ところが困ったことが起こります。5節、倒すべき敵たちと混じり合ってしまいました。敵の間に住むだけにとどまらず、その異邦の魅力に惹かれ、民は混じり合ってしまいました。妥協の顕現です。家族が混じり合うと言うことは、信仰も混じり合います。神様が嫌われることです。

7節、先ほどとすこし違う神の名が出てきます。アシェラです。これは母なる神で、海の神です。この神のところで、人々は淫行を行っていました。
イスラエルの民はこの神々にも仕えてしまいました。その結果が8節です。

9節、主は本当に良いお方です。民の祈りに答えてくださる方です。ひとりの士師、オテニエルを送ってくださいます。
このオテニエルもすごいですが、自分はオテニエルにはなれないと思うかもしれません。しかし、その前半、「イスラエル人が主に叫び求めたとき」とあります。この叫ぶ声にはなれるのではないでしょうか。この声がなければ、オテニエルも興されなかったかもしれません。もし、今苦しい状況にあるなら、主に向かって叫びましょう。「苦しいです!つらいです!主よ!助けてください!」たましいの叫びを主は聞かれ、助け手を送ってくださるでしょう。
このオテニエルには10節にあるように、神の霊が彼の上にありました。それゆえにイスラエルをさばき、また戦いに出て行くことができました。これは人の力ではできないことがわかります。主の霊が上にあるからこそできます。しかし、私たちは主の霊が私たちの内に住んでくださっています。ですから、渡したにも必ずさばき、戦うことができます。そのさばきは自分の考え方、生き方がみことばとずれていないかというさばきであり、戦いは自分の肉の性質を十字架に打ち付ける戦いです。これこそ聖戦です。

11節、オテニエルは死にます。しかし、彼が修めていた40年間は穏やかであったと書かれています。私たちも平和の大使です。「自分に関する限り、ぅべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)とあります。私たちが行くところで争いが起こるのではなく、逆に平和がもたらされていきますように。

12節から、また、同じパターンがはじまります。今度はモアブの王、エグロンです。いかにも悪そうな名前です。さあ、イスラエルの民はどうするでしょうか?
14節、はい。叫びますね。そうするとどうなるでしょうか?そうです。主は救助者を送ってくださいます。今度は左利きのエフデです。

15節からは、エグロンの暗殺計画がスタートします。最後まで一気に通読してみましょう。少し気持ち悪いですが、特徴的な物語です。
エグロンはエフデが左利きなのを知りませんでしたので、不意を突かれたのでしょう。しかし、22節を想像するとグロテスクですね。
イエス様が言われる、「まず強い者を縛って…」と言われた法則をここにも見ることができます。この事を突破口として、結局1万人のモアブ人を打ちました。しかも、彼らはみな、たくましい、力ある者でしたがひとりも助かりませんでした。これが主がなさることです。
そして、この士師の時代の最長、実に80年もの間の間、穏やかな時代が続きます。その理由は31節にあるのかもしれません。
「エフデのあとに」とありますが、これはエフデの死後ではなく、続いてという意味があります。ですので、この時代には二人の士師がいたのでしょう。それで、80年もの間平和があったのだと思います。
エフデはナイフによってエグロンを倒しましたが、シャムガルは何で敵を倒したでしょうか。牛の突き棒です。それでペリシテ人を600人も打ちました。武器でもないものを用いてでも、主が共におられるならこのような事がなされます。主の奇跡を体験できます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 士師記2章1節
    主の使いがギルガルからボキムに上って来た。

    ここに主からのメッセージを受け取りました

    ギルガルで死と葬り(真の割礼)を経験し、
    そこでは弱さを経験して力を得ました。
    その力は、エリコで表されました。

    それらは、優秀なリーダーであるヨシュアたちに寄りかかって得た勝利でした。
    そのヨシュアが預言的警告をした通り、
    主に仕えますと豪語した民は実は偶像を持っていました。
    偶像はなかったですがペテロも・・・でしたね。
    私はペテロに親近感がわきます。

    苦難の時、涙を流し主を呼び求める霊性はまだ民に残っていたけれど、
    ギルガルでの死と葬りまで心が向かなかったので、
    主は力と御顔の光を与えるのをとどめられました。

    「ボキムでの嘆きは 現在までのあなたの姿なのだ。
    主の復活の力は、死を通してでないと現れないのだと。
    自分の能力のなさを憂える前に
    あなたも主の死と葬り、そして復活にあずかりなさい。
    私はそれを望んでいる。
    そして、それは勝利の秘訣だ。
    主イエスの十字架を見上げなさい。
    気が付いた時が主のデザインに帰る時、
    本来の、あなたらしさに戻れる場所。
    まだ間に合うから、ギルガルに帰ってきなさい。
    リーダー頼みではなく、自分の意志で来なさい。
    私はギルガルで待っている。
    ギルガルがあなたの人生の出発地点だ。
    私はあなたに希望を持っている。」

    とここまで書くと、いささか妄想気味かもしれませんが、
    主の愛を受け涙がこみ上げます。
    主が愛をもって責めてくださっていると信じます。

    他にも受けた恵みが沢山あるのですが、
    それでなくてもいつも長文なのに、
    止まらなくなって長くなると皆さまに申し訳ないので、
    ここまでにしておきます。

    追伸
    長くなりついでに、主の死と葬りと復活を思い、
    ここを読むと、恵まれたので・・・
    ここに残しておきます

    コロサイ人への手紙2章11節から
    2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
    2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。
    2:13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、
    2:14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
    2:15 そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。
    2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。
    2:17 これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。
    2:18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、
    2:19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。
    2:20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、
    2:21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。
    2:22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。
    2:23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

中林 千恵子 へ返信する コメントをキャンセル

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