聖書通読クラブ Day 70

聖書通読クラブ Day 70【ヨシュア記22章〜24章】

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シャローム!

戦いに長けたリーダー、ヨシュア。モーセの時代から神様のために戦い続け、ついに民に加えられます。その生涯は壮絶なものだったでしょうが、彼の中で変わらず一貫していたことは神のことばに聞き従い、右にも左にもそれないことでした。

私たちの人生も戦いの連続です。その敵は古い自分です。苦しくても、安住していても、常に主に従い通す生き方をするなら、この地上が天国となります。

ヨシュアのようにみことばに従い、みことばに生きる油注ぎを求めながら、きょうも通読をしていきましょう。

今日の通読箇所:ヨシュア記22章~24章

■アウトライン

私と私の家族は主に仕える

●祭壇をめぐる内戦の危機:22章
  ・東の二部続半の帰還:1-9節
  ・異なった祭壇:10ー29節
  ・祭司とかしらたちの帰還:30ー34節

●主がどれだけ良いことをしてくださったか:23章
  ・主への願い求め:1-8節
  ・主への愛:9-13節
  ・みことばを聞く:14-16節

●試される民の真実さ:24章
  ・選択:1-15節
  ・民との契約:16-28節
  ・去る世代:29-33節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【22章】祭壇をめぐる内戦の危機

主はイスラエルの12部族にカナンの中で相続地を割り当てられ、民はそこに定住しました。すると、戦いは止みました。
ところが、敵との戦いは確かに止んだのですが、ここで内戦の危機が訪れます。往々にして、安定したもの、また大国などは内側から崩壊していくものです。さて、この危機をどう乗り越えるのでしょうか?

まずはルベン人、ガド人、マナセの半部族が自分の国に帰還します。覚えているでしょうか。モーセは彼らがヨルダン川の東側に残りたいという願いを聞きました。そのかわり、イスラエルの志気を落とさないように、男たちは川を渡って一緒に戦うことを条件に相続の土地を与えました。ルベン人、ガド人、マナセの半部族は忠実にその事を守りました。そして、戦いも終わったので自分の相続の地へと帰ります。
7節、ルベン人、ガド人、マナセの半部族は何も持たないで帰るのでは無く、多くの戦利品を持って帰ります。それには家族の分も含まれています。当然でしょう。家族もまた待つと言うことで男とたちを支えていました。
私たちはひとりで生きているのではありません。必ず誰かの助けがあり生きていけます。
「いや、私は誰の助けを燃えていない」と言う人がいても、電気や水道、ガスは誰がここまで引いてくれ、守ってくれているのでしょうか?食料もそうです。あらゆるものが誰かの手によって作られ、ここにまで届けられています。もちろん、そのために対価を支払うのですが、一緒に感謝の心をお届けすることも大切では無いかと思います。
たまに、コンビニのレジで客が外国人労働者の方に乱暴な言葉で接して、お金を投げるように支払う人がいます。見ていて心が痛いです。
普通はお金を受け取る側が「ありがとうございました」と言いますが、私は支払うときに「ありがとうございます」と言うようにしています。小さな事かもしれませんが、その事を通してイエス様の愛が伝わるよう祈りつつ感謝を表しています。
話が少しそれてしまいましたが、彼らは戦って勝ったのです。家族のために戦利品を持って帰り、「待っていてくれてありがとう」と感謝を表すことは当然です。

ところがです。10節から。ルベン人、ガド人、マナセの半部族はヨルダン川のそばに大きな祭壇を築きます。彼らの言い分は何でしょうか?想像しながら勧めていきましょう。
申命記の12:13-14には何と書いてあったでしょうか?「全焼のいけにえを勝手気ままなところで献げてはならない」とありました。
当時はシロに神の祭壇があり、そこでのみいけにえは献げられなければなりませんでした。ところがもう一つ祭壇を作ってしまったのです。死刑に当たる大きな罪です。
それで、残りの部族は戦をするためにシロに集まりました。

13節、代表者が遣わされます。祭司ピネハスとは誰だったでしょうか。それはバアル・ペオルの事件の時、天幕の中で淫らな事をしている男女を槍で突き刺し、神罰を止めた男です。
また、レビ族はアロンが導いた金の子牛事件で「主につく者は集まれ」と言ったときに一番に集まり、剣で同胞を殺しました。
同じヤコブから別れた、血のつながった部族を殺すことは悲しいことです。私たちも自分の内なる人をみことばを通して見るとき、自分の一部となっていることをみことばの剣で切り離さなければならないことがあるかもしれません。マタイ5:29-30を見てみましょう。

15-20節、ごもっともな意見です。出エジプトをして、何度も同胞を失うという悲しみを経験してきました。過去の痛みを語り、その悲劇を思い出させます。
ピネハスたちも2部族半を殺したくはありませんでした。なので19節のように語っています。
そして、「所有地を渡ってきて、私たちの間に所有地を得よ」とまで言っています。犠牲的な愛の姿を見ることができます。

21節から、ルベン人、ガド人、マナセの半部族は彼らが祭壇を築いた理由を述べます。彼らも、よくもここまで何も言わずに黙っていたなと思います。素晴らしい忍耐です。
そして、シロに集まって戦をしようと言った人たちは要するに勘違いをしていました。
私たちの普段の生活でも、こういうことはしばしば起こりますね。思い込みによって相手を見てしまい、恥ずかしい思いをしたことが一度くらいはあるのでは無いかと思います。いつも、どんなときでも公平な神様の目を持って隣人をみたいですね。

24節からの内容をよく読んでみましょう。西側の部族の考えと全く逆で、東側の部族は神に反逆するのでは無く、子孫たちが神を忘れないために祭壇を築いたのです。
今でこそ、橋で川を渡ることはできますが、当時は川を渡ることは困難を極めました。地形が障害となって主を礼拝しなくなることがないよう、西と東をつなぐための祭壇でした。29節の最後を見ても、彼らの誠実さを見ることができます。なにしろ、自分の家族を残して、モーセの命令に従い、西で戦い通した彼らの言う言葉です。説得力が違います。

30節から、ピネハスたちは理解を示します。納得しました。そして、彼らは自分たちの相続の地へと帰還します。

この内戦の危機は誰が悪かったのでしょうか?西の部族たちにも、東の部族たちにもそれぞれの正義がありました。
ほぼすべての戦いは悪と正義の戦いでは無く、正義と正義のぶつかり合いです。「自分が正しい、いや、こっちの方が正しい」これが発展して争いとなります。みことばはどのようにみなさんに語りかけるでしょうか。しばらく祈ってみてください。
そして、1コリント6:7もあわせて読んでみましょう。

【23章】主がどれだけ良いことをしてくださったか

いくら戦いの勇士、ヨシュアといえども、この地上での歩みには限りがあります。沢山の経験を重ね、最期に語ることばは今まで以上に重みがあります。
この章のテーマは、「主がどれだけ良いことをしてくださったか」と言えるかもしれません。ヨシュアは繰り返しこのことばを語ります。
私たちは起こったことに対して、良い悪いを判断します。それが学びとなり、次につながることもありますが、必要以上に良い悪いを判断するとき、主を信頼する歩みができなくなってしまいます。唯一、良い悪いを判断されるのは主です。人生、最期までなにが良くて悪いかはわからないのです。どこで何がどうなるかは私たちにはわかりません。それなのに、私たちが良い悪いを判断するなら、そこで終わってしまいます。まさに、善悪の知識を知る木の実です。
私たちは起こったすべての出来事に対して、「主が良くしてくださった」と言えるなら、それは幸いな人生では無いでしょうか。
住んでいた家や車、友人や持ち物を失ったとしても、息子の親指の一部を事故で失ったとしても、最愛の義父を天におくったとしても、そのすべては主がしてくださったことであるので感謝です。

6節を見てみてください。ヨシュアが最初から一貫して語っていることです。信仰の創始者であり、完成者であるお方から目を離してはいけません。
8節、本当にそのとおりです。主にすがることは弱虫のすることではありません。本当の強さを持っているからこそ、自分の弱さを認めて主にすがることができます。
これは、山上の垂訓で書かれている心の貧しい状態です。主が織られなければ、何もできないという者です。天の御国はそのような人たちのものです。

9-10節、イスラエルの民の強さの秘訣が書かれています。まるで強い追い風の中、自転車に乗っているように、ぐいぐい前に押し出されるように勝利していきます。こんなに気持ちのいいことは無いでしょう。しかし、次の節で警告が語られています。11節をよく読んで見ましょう。勝利は自分の力ではありません。主です。勝利の美酒に酔い続けることはとても危険なことです。
そして、主を愛するとは何だったでしょうか。申命記6章を思い出してみましょう。

12節から、彼らが追い出しきれなかったカナンの住人の忠告です。彼らと結婚、つまり混血を禁じています。結婚を通じて、イスラエルの中に偶像礼拝が入り込むという弱さを知っていたからです。
2コリント6:14-15を読んでみましょう。
もし、これに従わないなら、13節のようになります。とても痛そうです。苦しそうです。そして、行き着く先は滅びです。
最初は小さな事でした。それがやがては死へとつながります。エデンで蛇にそそのかされた男と女は小さな事だと思っていたかもしれませんが、それが全人類への罪、そして死へとつながりました。小さいことに忠実なものは大きなものにも忠実です。

14節、私たちになじみのあることばがとちゅうでちがうことばになっています。「心を尽くし、精神を尽くして…」と来ると何が続きますか?「主を愛せよ」ですね。しかし、ヨシュアはここで「知りなさい」と語ります。それに続くことを知らなければなりません。知ることは主と親しい関係に入ると言うことです。つまり、主を知ることは主を愛することです。

15節から、主のみことばは、良いことだけでは無く、悪いことも同様に成就していきます。これもまた真理です。
ずっと昔にはやったドラマで「うちの子に限って」というものがありました。誰しもそう思うでしょう。「自分は大丈夫」と。しかし、大丈夫という言葉が一番危険です。いいですか。私たちは大丈夫じゃないのです。だから主が必要なのです。これを忘れてしまったなら、私たちは道を踏み外してしまいます。

【24章】試される民の真実さ

いよいよヨシュア記の最後です。ヨシュアはリーダーだけで無く、全部族を呼び集めます。
この後、アブラハムがカナン後に来たときからの歴史が語られます。今まで通読してきたことを思い起こしながら、これらを通読してみましょう。一つひとつの神様の恵みと導きを知るとき、感謝で涙が出てきます。

14節、これほどまでの主の恵みがあるのだから、主を恐れなさいと勧めます。恐怖から来る恐れではありません。恵みと愛からくる畏れです。
ところが、イスラエルの人々は戦いも無く、豊かな土地で暮らし、自分たちの生活を楽しむことに傾倒していました。生ぬるい生き方です。心が貧しくない状態でした。だから、ヨシュアは「自分の責任で選べ」と言っています。
しかし、私はヨシュアの最後の言葉に従いたいです。「私と私の家族は主に仕える!」アーメンです。信じます。そのように子どもたちに教えます。そして、そのように私たち親も生きます。私と家族は一生涯主に仕えます。

16節からは民が答えますが、19節を見てみて下さい。バッサリと切り捨てています。それでは、民のこの声は嘘だったのでしょうか?そうではなく、これは心から出た言葉だと思います。しかし、熱心だけで、自分の弱さを認めず、知らなかったのかもしれません。
何の計画性も無く、実際どう行動するかの指針も無く、情熱だけで「主に仕えます」と言っています。
私たちもよく、キャンプや修養会でこの事を経験するのでは無いでしょうか?あんなにも燃やされ、「主にすべてを献げます」と涙ながらに祈ったはずなのに、気がつくと主を忘れ、いつもの生活をしてしまっています。熱心だけで知識が無いのは良くないことです。(箴言19:2)ルカ14:27-33も読んでみましょう。

21節から、民はそれでも主に仕えると言います。それで、ヨシュアは確かに自分たちの口でその告白をしたという証拠として、彼らを証人とします。民も同意します。
これは契約となり、石をたてます。27節は「この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いた」と書かれています。イエス様は救いの岩です。このお方が証拠です。

29節、こうして、ヨシュアは民に加えられます。
そして、31節、これが次の書簡士師記への橋渡しとなります。残念なことに、ヨシュアと共に歩んだリーダーの生きている間はなんとか信仰が保たれますが、そのバトンを渡すことができませんでした。次の士師記で、この事をみことばから教えられていきましょう。

33節、軍事的、霊的、すべてのことを導いたヨシュア、次いで霊的なリーダーエルアザルも死にます。リーダー無きイスラエルはどのようになっていくのでしょうか。
今までのように、なかなか教会に集まることのできない私たちにもとても必要なみことばかもしれません。

ヨシュア記の最後まで通読を続けてくださった主にすべての栄光がありますように。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

3件のコメント

  1. 今日まで主に守られ、
    ヨシュア記までの通読を楽しくすることができたことを主に感謝いたします。
    そして、毎日イエス様を見上げる方向へ誘導し執筆投稿してくださる先生に主の祝福と守りがありますように。

    一つの書簡を読み終えるたびに、感謝な思いになります。

    ヨシュアが「我が家と我は主に仕える」と言った通り、言葉と行動が一致して、実際に主に仕えたことにより、周囲の人々にも感化があったこと、ヨシュアの時代の人々は、神に仕えたことが聖書に記録されていることを感謝します。
    私もそのようになりたいです。
    「ヨシュアのように、私も言います。
    私と私の家族は主に仕えます。」と
    ヨシュアの預言的警戒である
    ヨシュア記24章19節から20節
    ヨシュアは民に言った。「あなたがたは【主】に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。
    あなたがたが【主】を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」

    という言葉に、へりくだって主に哀れみを求めます。
    自分の中に偶像はないか日々吟味させてください。

    主の前に、心貧しい者と自覚して、
    主に従えるように、これからも守り導いてください。 アーメン

  2. ヨシュア記を有難うございます。
    神様のみこころは必ず成ると解っていても、そこに向かっていく人間側の責任があるのですね。ヨルダン川の奇跡のように、1歩踏み出した時に、神様が道を整えて下さる。神様の約束と私たちの責務のバランスが大切ですね。

    12部族に割り当てられたカナンと逃れの町の場所。めっちゃ解り易いです。
    有難うございます。どこからでも平等に入る事ができる近くの逃れの町。
    イエス様はいつも近くに、隣に居て下さる事を感謝します。

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