聖書通読クラブ Day 46

聖書通読クラブDay 46【民数記19章~21章】

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シャローム!

人はこの地に生まれたなら、必ず迎えるのが死です。死は本当に辛いものです。私も愛する人との別れを何度も経験しました。今思い出しても寂しいです。
今日のみことばの中でも多くの人との別れが出てきます。彼らはどのように生きたでしょうか。また、私たちはどのように生きているでしょうか。
その日はいつか必ずやってくるでしょう。今日、そして今この瞬間、私たちはどう生きればいいのでしょうか?終わりを意識して生きるとことはとても大切です。

今日もみことばに教えていただきましょう。

今日の通読箇所:民数記19章~21章

■アウトライン

多くの人との分かれ
●死体に触れたもののための聖めの水:19章
  ・赤い雄牛の灰の作り方:1-10節
  ・汚れを聖める水の使用:11-22節

●ツィンの荒野:20章
  ・ミリヤムの死:1節
  ・メリバの水:2-13節
  ・エドムを通過できない:14-21節
  ・アロンの死:22-29節

●ホル山:21章
  ・アラデの王を撃破:1-3節
  ・青銅の蛇:4-9節
  ・ホル山からピスガ:10-20節
  ・エモリ人の王シホンを撃破:21-32節
  ・バシャンの王オグを撃破:33-35節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【19章】死体に触れたもののための聖めの水

人はこの地に産まれた瞬間から死へのカウントダウンをしています。たましいはイエス様を信じると永遠に生きますが、私たちの肉体は終わりを迎えます。
この時代でも人は死を迎えます。しかし、律法では死体に触る者は汚れるとあります。でも、誰かが亡くなった方を葬らなければなりません。その時、死体に触れたときにどのようにするかが書かれています。(人の死体に触れた場合はレビ21:1-4、民数記6:6-12、9:6-12を参照)
この直前で多くの人が死にました。それを放置しておいてもいけませんし、死体に触った者は聖められなければなりません。
聖めの水を作るためには何が必要でしょうか?2節を確認してみましょう。
現代の正統派のユダヤ人は、この赤い雌牛というものが絶滅してしまったことで、もし第三神殿が建設されたらいけにえを献げることができないと嘆いていました。ところが最近、DNAの研究が進み、この赤い雌牛が用意されたというニュースを見ました。
この赤い雌牛が焼かれ、そこに6節に書かれているものが投げ入れられます。その灰をつかって聖い水を作ることができます。

11節からがこの聖い水の使用方法です。
12節には何日目と何日目にきよめの水で洗われる必要があると書かれていますか?この数字はどちらも聖書の中で大切な数字です。完全性、神様を示す数字です。
この赤い雌牛は死んだ者の身代わりとして焼かれます。

14節には、幕屋の中で死んだ場合の事が書かれています。そんなことがあるのでしょうか?医学的な観点で普通に考えるなら可能性は相当低いでしょう。それなら、なぜこのような事が書かれているのでしょうか。それは、聖所で主の言われたこと以外の事を行ってしまうと死んでしまうからです。ですから、彼らは聖所で仕えるときに裾に鈴をつけ、生きているかどうかを確かめるのです。
天幕に入る者、中にいる者、は7日間汚れるとあります。19節の内容を持ってきよめられまます。
もし、このまま罪をきよめなかったらどうなるのでしょうか?20節を見てみましょう。

【20章】ツィンの荒野

1節では、さみしい事からはじまります。ミリヤムが地上での生涯を閉じます。ミリヤムはモーセがナイル川に流された時にパロの娘に自分の母を乳母として紹介しました。また、女預言者としてタンバリンをもって女性の先頭に立って踊りながら賛美しました。
モーセに対して言い寄り、ツァラアトになりながらも癒やされ、ここまで旅してきました。結局、約束の地には入る前にこの世を去ってしまうことなりました。

このようなイスラエルの民にとっても悲しいはずの時に、民はどうしたでしょうか。2-5節を読んでみましょう。
こんな悲しみの中、モーセとアロン6節でどのような反応をしましたか?

7-8節、主はどのように言われましたか?
9節でモーセは杖を取りました。どの杖かは明確に書かれていませんが、おそらくモーセがずっと持っていた杖でしょう。十の災いのきっかけをつくり、海を割り、様々な奇跡を起こした杖です。
もしかしたら、モーセの中でこの杖が偶像化されていたのかもしれません。「あのとき、あのような奇跡が起きたのだから今回も…」と考えてしまったのかもしれません。
11節でモーセはどうしましたか?それは神様の言われた通りですか?その結果どうなりましたか?ここに神様の愛を見ることができますか?

ここでモーセが打ったものは何でしょうか?この岩には定冠詞がついていますので、そのあたりにあった適当な岩ではありません。1コリント10章4節を見てみましょう。その岩とは何であると書かれていますか?この事をよく考えて祈ってみましょう。
非常に謙遜であったと言われ、民の不平不満にもかかわらず、とりなし祈ったモーセも、この一点のゆえに約束の地に入ることができませんでした。黙示録2:10を覚えます。
しかし、「私は神様の戒めが守れないので、天の御国に入れない」と思わないでください。私たちはイエス様の十字架の恵みによって罪赦されたものです。イエス様の十字架の死と葬りと復活を信じているのであれば天の御国に入れます。しかし、だからこそもっと神様の後性質である聖さにあずかりたいという願いになるのでは無いでしょうか。
14節から、モーセはカナンに攻め入ることを検討し、そのためにはエドムの地を通るのがいいと考えました。
エドムはヤコブの兄です。ですから、交渉次第で近道としてエドムの領土を通過させてくれると考えたのでしょう。
モーセはどのような態度で交渉に臨みましたか?17節を見てみましょう。誰に対してもこのような態度で接したいですね。
それに対してエドムはどう答えましたか?
モーセは諦めず交渉しますが、結果は21節の通りです。これも神様のご計画だったのでしょう。

22節、しょうがなくエドムの地を迂回したイスラエルの民は、ホル山に着きました。そこで神様はモーセとアロンにあることを告げられます。それはなんでしょうか?24節を見てみましょう。
神様はアロンに対してまもなく死を迎え、モーセもメリバのことのゆえに約束の地に入れないことを告げられます。
山ではアロンの衣服がエルアザルに着せられました。世代交代です。
3人で山に登りましたが、降りてきたのはエルアザルとモーセだけでした。
アロンの死を悟った民は30日間、泣き悲しみました。
アロンは民から感謝されたということは無かったでしょう。金の子牛の件では大きな失敗をしたものの神様の恵みによって最初の大祭司となり、忠実に仕え続けました。民がこれだけの長い期間悲しみ続けたことでも、アロンがイスラエルの民に愛されていたことがわかります。

【21章】ホル山

ここでは戦いが中心となります。1節ではいきなりカナン人のアラデの王が変な言いがかりをつけてきて、イスラエルの何人かを捕虜とします。私なら一気に攻め上ってしまいそうですが、イスラエルの民は2節でどのように下と書かれているでしょうか?
そして、驚くべき事が3節で書かれています。
私たちはあらゆることを自分の力だけで戦おうとします。しかし、聖書を読むごとに、戦いは主のものであり、主がすでに勝利を取られ、すべてを納めておられると言うことを教えられます。
サッカーの試合で言うなら、強敵の間を華麗なパスで抜けてきて、ゴール前に立っている私たちにボールをパスし、私たちの足にボールが当たりゴールしたという感じでしょうか。
ほとんどのことは神様がしてくださいますが、私たちもなすべき事があります。神様との共同作業によって御国を拡大していきましょう。

4節からは、砂漠の中の旅がはじまります。4節の後半に何と書かれていますか?がまんしていただけ偉いと思いますが、やっぱり彼らですね。
しかし、5節では民の怒りは意外なところに向かいます。このことから何が学べますか?
私たちを生かす霊的なマナであるみことばに向かって「みじめな食物」などと言っていないでしょうか?教会生活、信仰生活、みことばと祈りの生活が味気のないものになってしまってないでしょうか?
もしこの時のイスラエルの民の霊性が私たちにあり、それに従ってしまったのであったら、6節のような事が起こるかもしれません。
それに対して、主は青銅の蛇を作り掲げることをモーセに告げられます。そして、モーセはそのようにしました。荒野でどうしてこんなにスピーディーに青銅の蛇が作られたのか私には理解できません。
9節を見てください。救いを見ることができます。蛇にかまれることは死を意味します。かまれた人は諦めてしまったかもしれません。ところが、青銅の蛇を見上げると生きたのです。死んでも生きるのです。復活の信仰です。
青銅の蛇に力があるわけではありません。主の約束を信じ、行動した者が生きました。この行為は難しいことでしょうか?見上げるだけです。私たちも値なしに、神様からの一方的な恵みによって救われました。そこには何の努力もお金も地位も関係ありません。イエス・キリストを救い主として信じる、その信仰によって救われたのです。
イエス様ご自身、ヨハネ3:14でこの所に言及されます。つまり、この青銅の蛇はイエス様のひな形です。
イエス様ご自身、十字架で高く上げられました。それを仰ぎ見た者は救われました。私たちは罪という毒に犯され、死ぬ運命でしたが、イエス様の十字架を仰ぎ見ることで救われた事を感謝しましょう。

10節からは再び旅が続きます。これまでに多くの民を失ってきましたが、まだイスラエルの民は途絶えていません。
17節、井戸が出てきますが、そこで民は歌を歌います。マイム・マイムです。マイームとは水です。荒野に於いて人々の喉を潤し、人を生かす水が出てきたことを喜びました。
私たちも日々与えられているみことばの水の洗いを感謝しましょう。このみことばだけが私たちを永遠に生かします。

21節からはエモリ人の王、シホンが出てきます。先ほどと同じように、イスラエルの民はへりくだり、道を通してもらえるようお願いします。それに対して彼らはどのような反応をしましたか?23節を見てください。エドム人の地を通してくれと交渉したときよりも更に悪いことになっています。
ところがイスラエルの民は今度は剣の力で彼らを討ち滅ぼします。一体彼らのどこにそのような軍事力があったのでしょうか?

結局、イスラエルの民は「エモリ人の王シホンに対して行ったように、彼らにも行え」という主の命令に従い、バシャンの王オグにも同様にし、勝利しました。詩編135篇136篇や、そのほかにもこの事が何度か出てきます。それほどこの勝利はイスラエルの民にとってうれしかったのでしょう。
主のよくしてくださったことを何一つ忘れないようにしたいものです。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 民数記19章2節から3節
    「【主】が命じるおしえの定めは、こうである。イスラエルの子らに告げよ。まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛をあなたのところに引いて来るようにと。
    あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡す。そして宿営の外に引き出し、彼の前で屠る。

    この赤い雄牛もキリストのひな型ですね
    傷のない完全な方 心優しく、どんな罪に対してもくびきを負ったことがない。たから、律法はキリストを裁けない。
    宿営の外であるカルバリに導かれ私たちの罪の身代わりに
    十字架でご自身を捧げられた。
    その結果、私たちは清められたのですね。
    感謝します。

    民数記20章から
    20:7 【主】はモーセに告げられた。
    20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
    20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
    20:10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
    20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
    20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
    20:13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが【主】と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。

    詩編106篇32節から33節
    彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。モーセは彼らのゆえにわざわいを被った。
    彼らが主の御霊に逆らったとき彼が軽率なことを口にしたのである。

    私は、今まで読み飛ばしていました。モーセが二度岩を打ったことだけを残念だと解釈していました。ここまで忍耐したモーセなのに!指導者は本当に大変だ、民の愚痴をいちいち聞かなければならないから、そりゃ、ここまでくると流石に腹が立って、二度打ちたくもなると思うと。

    でも 神は、打てとは言ってないのですね 命じろと言っている

    そして、出エジプト記の岩の原語は「地磐の岩」、民数記の岩の原語は「高くそびえた磐」のことを言うそうですね。すごいですねヘブル語聖書って、同じ岩でも単語に意味があって、ちゃんと分けて書いてあるのですね。

    Ⅰコリント人への手紙10章4節
    みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

    出エジプト17章の岩は地上の岩で、地上のキリストを示していて、
    人の為に打たれるキリストで、十字架に釘付けられたことの故に、生ける水が聖霊が下るようになった。

    民数記20章の岩は、あげられたキリストを示して、天のみ座におられるキリストには、信仰をもって、求めることによって、私たちは聖霊を受けるのですね。

    そしてもう一つ、モーセは「われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と
    神の聖なる力によって、水があふれるのではなく、自分が出すのだ言わんばかりに、言葉のあやのようではあるけれど、軽率なことを確かに口にしているのですね。

    特別に用いられる方の言動は、神は厳格に取り扱われるのですね

    ここまで民のことを命がけでとりなしてきた方だから、神様、どうか赦して、約束のカナンの地に入れてあげてくださいと読みながら思うのですが、

    私は、モーセのような特別な指導者ではないにしても、トラクト配布や賛美、祈りで仕える事も、小さい奉仕でも、頑張って自分がしているような気持ちになることのないように、権勢によらず、能力によらず、神の霊によって、このことがなされていくようにと、祈りながら奉仕していかなければならないと今一度心に留めます。

    キリストの型である、青銅の蛇を見上げた人は救われたことは、
    たとえ、聖書研究に通じてなくても、深い奥義が分からなくても、
    ただ、罪を悔い改めて、私の為の主イエスの十字架の身代わりの死によって、罪の奴隷であった私を買い取ってくださって、自由の身にしてくださったキリスト・イエスを私の救い主として心に信じ、口で告白し、受け入れるなら永遠の命を受けられることを感謝いたします。

    ただ、信じれば救われるのですが、天のみ国の学者のように、新約からも旧約からも自由に主のみ言葉を引き出して堅い食物を食べることのできる大人になり、み言葉を実行することができ、み言葉の人へと成長したいです。
    雅歌の乙女のように、妹たちや子供たちをみ言葉によって養えるほどになりたいと思います。
    み言葉を学べば学ぶほど、恵み深く、もっと知りたいと飢え乾きます。
    なにより、み言葉に触れている時、主と共に楽しく食事をしているような気持になります。

    天のみ国で、主イエスにお会いした時には、
    「私の花嫁、私にふさわしく、美しく成長しましたね。」と言われるのが理想ですが・・・現実は兎に角、主イエスの十字架の恵みにより頼むことで、
    いっぱいいっぱいのような気がします。
    主にまみゆる日まで、一歩一歩でも主と共に歩めますように。

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