シャローム!
タイミングはとても大切です。一言声をかけるのでも、挨拶するのでも、少しでもタイミングを逃してしまうならその後のことに影響してしまうことがあります。
普段の生活をしていると、私たちのタイミングに意識しがちですが、私たちが気をつけなければならないのは神様のタイミングです。
今日のみことばにある主の例祭は、まさに神様のタイミング、時を知るのに最も適しています。
今日もみことばから教えていただきましょう。
今日の通読箇所:レビ記22章~24章
■アウトライン
時に応じた礼拝
●食べ物:22章
・祭司の汚れ:1-9節
・祭司の食卓:10-16節
・神様の食物の条件:17-33節
●主の例祭:23章
・安息日:1-3節
・春の祭り:4-14節
・初夏の祭り:15-22節
・秋の祭り:23ー44節
●日ごとの礼拝:24章
・燭台:1-4節
・供えのパン:5-9節
・宗教と倫理:10-23節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【22章】食べ物
祭司も人間ですので、食べ物が必要です。しかし、普通の人のようには食卓にあずかれないことがあります。
2節では、民のささげ物を祭司の汚れでけがしてはならないという事が書かれています。
また、今まで見てきた汚れに祭司が触れるときの対処が書かれています。例えば祭司はツァラアトの人が連れてこられたならその患部周辺を触らなければ判断ができないでしょう。そのような場合にこれが適用されます。
祭司はそのようなものに触れるなら夕方まで汚れます。しかし、日没後にはきよくなります。イスラエルでは日の入りが翌日に変わるタイミングなので、日をまたぐと聖くなるということになります。
10節では「一般の者」と書かれていますが、これはアロンの家系以外の者です。祭司のお世話をするために同居している雇い人も聖なるものは食べてはいけませんでした。
ところが祭司に金で買われた者は食べることができます。
12-13節は祭司の娘について書かれています。
人は誰でも間違えてしまうことがあります。14節はその場合どうするかが書かれています。
それは主が主であられ、人々は注意し、祭司は民を見守ることが実行されることでもあります。
続いては祭壇に捧げられるいけにえの条件について書かれています。
19節はすべてのささげ物についての条件です。それは何でしょうか。
ここからは私の意見なので、それぞれが吟味して受け取っていただきたいと思います。
主に捧げられるものは傷の無いいけにえです。そのことで思い出す一つのエピソードがあります。
ある方が「新しい冷蔵庫を買ったので教会に今まで使っていた冷蔵庫を献品します。」と申し出があったところ、ある教会の牧師先生は「神様の聖なる教会になぜあなたの使い古したものを捧げようとするのか。捧げるなら新品の最高のものを捧げなさい!」と断ったそうです。
これは少し厳しすぎるかもしれませんが、考えさせられるお話だとは思いませんか?
31-33節がこれらの命令を守らなければならない理由です。
このように、ささげ物には沢山の条件とチェック事項がありました。それを毎回確認することが大変だと気づいた祭司たちは考え、あらかじめ検診済みのいけにえのみを販売する市場を形成していきました。そのための羊を育てていたのがベツレヘムであると言われています。
つまりそこの羊飼いはささげ物を育てるスペシャリストであり、律法を熟知している者たちでした。その者に御使いが訪れ、救い主の誕生を告げました。
【23章】主の例祭
ここは今まで何度も出てきたところですね。主の例祭を研究するのはこのレビ記23章が最も適しているでしょう。
主の定めた例祭はここに書かれている年に一度巡ってくる大きく三つに分けられる祭りと毎週巡ってくる安息日だけです。
安息日は第七日目、金曜の日の入りから土曜の日没前までです。シャバットと呼ばれる日です。
これは神様が天地創造をされ、第七日目に休まれたことが起源です。しかし、神様は休息されただけで無く、人との交わりを楽しまれました。つまり、私たちの側からすると、生きていくための仕事をストップして神様との楽しい生きた交わりをする日として過ごすことが大切です。
イスラエルの人々は長い歴史の中で安息日を守ることをいのちがけで守ってきました。しかし、いつのまにか手段と目的が入れ替わってしまい、安息日の本質が失われてしまいました。それを元に戻され、安息日の本質を押してくださったのがイエス様です。
イエス様は安息日を破ったりしていません。本質は何かを当時のイスラエルの人々に、そして私たちに問うておられるのです。
4節からは過越の祭です。春の祭りです。
この祭は三つの祭りの中でも最も厳格な祭りです。日本のお正月に感覚が似ています。
ニサンの月の14日の夕方にあの出エジプトの十番目の災いから逃れたことを記念して過越の祭が行われます。私たちを罪から来る報酬である死から贖ってくださったイエス様の十字架を啓示します。
それから7日間は種を入れないパンの祭りです。「春のパン祭り」と覚えておいてください。種とはイースト菌です。つまり、クラッカーのような膨らまないパンを食べ続けます。罪無くこの地上を歩まれたイエス様の地上での生涯を象徴しています。
そして、パン祭りの期間の安息日の翌日、つまり日曜日には初穂の祭りが行われます。イエス様が復活の初穂として死から力強くよみがえられたことを象徴しています。
続いては二つ目の祭り、七週の祭りです。シャブオットとも呼ばれます。「シャブ(バ)」とは「7」を意味するヘブライ語です。ベエル・シェバのシェバも7頭の羊から取られた名前です。
では、なぜ7週の祭りのかと言えば、初穂の祭りから7週間が終わるまで毎日新しい穀物のささげ物を主に捧げるからです。
17節からはそのささげものの内容が書かれているので見てみましょう。一週間は7日ですので7週間×7日で49日、それに1日加え50日目に七週の祭りが行われます。
この日はイスラエルの民がエジプトを出て、荒野に導かれ、モーセが山に登り律法を受け取った日です。
また、イエス様の十字架の後では120人のイエス様の言いつけを忠実に守った弟子たちが体験した聖霊様の力強い注ぎの日、いわゆるペンテコステ(五旬節)です。まずみことばがあり、その上に御霊が注がれます。
最後は秋の祭り、仮庵の祭りです。仮庵の祭りには三つの祭りが含まれています。そして、この祭りがまだ成就していない祭りです。この秋の祭りはイエス様の再臨を啓示する祭りです。
イスラエルの暦において、夏は年末に当たります。ですから、終末とラッパの祭りは密接に関わっています。
この祭りはまずラッパ(角笛)を吹き鳴らすラッパの祭りから始まります。これはこの後ある祭りに供えて目を覚ましなさいという意味の祭りです。
続いては大贖罪日です。レビ記16章でみた、アザゼルが出てくる箇所です。この日は主の最後の審判、さばきに供えて悔い改めることが象徴されている祭りです。
最後は仮庵の祭りです。これは天で花婿なるイエス様と花嫁なる教会が結婚し、永遠に過ごすことを象徴しています。
イスラエルでは結婚の時に新郎と新婦は仮庵の中に入り、結婚の誓約をします。
祭りは毎年、あるいは毎週巡ってきます。毎回同じように感じますが、それはらせん階段のように天に向かって昇っていっているような物です。その時その時に主から注がれる特別な恵みがあります。毎回の祭りを主に期待し、今回の祭りに注がれる主の恵みはなにかに注目しましょう。
このらせん階段のようなサイクルは「マーガル(義の道)」と呼ばれます。主は私たちを産まれてから死までの一直線の道から永遠に登り続ける義の道に導いてくださっています。
【24章】日ごとの礼拝
23章では年ごとの礼拝が書かれていましたが、ここでは日ごとの礼拝が書かれます。
まず最初は燭台に関してです。
1-4節まで繰り返し出てくる言葉があります。それは何でしょうか?
ともしびは絶えずともしておかなければなりません。その火の勢いは決して強くないでしょう。しかし、細々でも絶えずともしておくことが大切です。毎日の礼拝のポイントです。
5-9節はパンに関してです。
5節にはいくつのパンと書かれていますか?それはイスラエルの十二部族を意味します。
このパンはどのような配列でパンの台に置かれたのでしょうか?興味深いところではあります。
私がイスラエルに行ったときに訪れた所に「第三神殿ミュージアム」というものがあります。世界の多くのミュージアムは過去の品を展示していますが、ここではこれから建設される第三神殿で実際に使う様々な器具が展示されていました。
そこでパンの台の前で説明員の方が教えてくれたのは、パンの台の上に5本の棒のような物が二列に置かれており、パンの台の上に2個、そして、棒の上に2個ずつ並べられていました。そして、その二列の棒は神様の御手を意味していると教えてくれました。
10節からは今までと一転、物語のような話が出てきます。エジプト人の父とダン部族の母の息子が主の御名を冒涜してのろったという事件です。十戒の違反です。
本来なら一発アウトで死刑なのですが、この場合は神様の判断を仰ぐために一時的に保護されています。
神様のお答えは彼を宿営の外に連れ出し、殺すことでした。
神の御名を冒涜するのを聞いた者、すなわち証人たちは彼の頭の上に手を置きました。これは「その罪は罪人自身に帰し、証人たちには罪が無いこと、また、裁判が正しいことを示します。そして、証人に手によって石打に、続いて会衆が石を投げて殺しました。
15-16節、神様の御名を冒涜する者に人種の区別はありません。日本ではあまりありませんが、英語などではダイレクトに神様のお名前を冒涜するような言葉があります。本当に恐ろしいことです。
マタイ16章でペテロに渡された御国の鍵は「イエス・キリストの御名」という鍵であり、使徒の働き4章の美しの門でペテロは初めてこの鍵を用い、足のなえた人に癒やしを届けました。主の御名には力があります。ですから、みだりに唱えたり、軽く扱ってはいけません。
17節からは、出エジプト記21章にでてきた事が繰り返されています。自分がしたようにされるというとても理にかなった刈り取りです。
私たちは神様に対して罪を犯しました。言い換えれば、自ら神との断絶を選んだとも言えます。この法則が適応されるなら、私たちは永遠に神様と断絶させられるはずです。しかし、神様は一方的に恵みを注いでくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。感謝してもし尽くせないことです。それ故に、私たちは毎日神様を褒め称え、賛美し、礼拝します。ともしびを絶やさないようにしましょう。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。