聖書通読クラブ Day 28

聖書通読クラブ Day 28【出エジプト記31章〜33章】

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シャローム!

今日の箇所では、大きなコントラストを見ることができます。職人とイスラエルの民です。

大衆の力は一つになると強力だということはバベルの塔の時に見たと思います。今回も民が一つとなり、神とモーセに逆らいます。

その民の心の中心にあったものは何でしょうか?これはイスラエルの民だけの出来事でしょうか?私たちとは無関係でしょうか?

今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:出エジプト記31章~33章

■アウトライン

人の弱さと神のはげまし

●職人と安息:31章
  ・職人:1-11節
  ・安息:12-17節
  ・石の板:18節

●金の牛:32章
  ・アロンの過ち:1-10節
  ・モーセのとりなし:11-14節
  ・モーセの下山:15-29節
  ・民への審判:30-35節

●会見の天幕:33章
  ・先祖の地へ:1-3節
  ・飾り物:4-6節
  ・会見の天幕:7-11節
  ・神との対話とはげまし:12-23節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【31章】職人と安息

何事も夢や理想は、ある意味誰でも語れます。しかし、多くの場合はそれが実現できずに終わってしまいます。
神様が語られた事を実行に移す、また形にする人々は預言者たちに比べたらあまりスポットライトが当たる事も少ないかもしれませんが、そのような人たちによって神の国はこの地に実現していきます。

ここでは神様がモーセに告げられた幕屋を忠実に再現する二人の職人が出てきます。モーセが山で手を上げているときは戦いに勝っていたという出来事の時、片腕を支えたフルの子、ウリの子、ベツァルエルです。
この人物は適当に選ばれましたか?2節を見てみてください。とても光栄なことです。
そして続く3節にはどのように書かれていますか?私は個人的にベツァルエルに与えられた祝福を受け継ぎたいと祈り、願っています。

もう一人の職人を神様は任命されます。
主は「心に知恵のある者に知恵を授けた」とあります。これは名人、また熟練した者という意味です。
私たちがこの地上で与えられている働きを磨いていきましょう。主婦の方であれば食事、掃除、洗濯、買い物など、誰にも負けないくらい最高のものを目指しましょう。
学生であれば学年で一番の成績をとれるように勉強に打ち込みましょう。
お仕事をされている方は業務以外でも自分を磨くことを怠らず、常に一番を目指して生きましょう。
そのような忠実な歩みに主は油を注いでくださると信じます。

彼らによって神の告げられたものは忠実に作られていきます。

12節からは安息に関することが書かれています。
14節にはどのように書かれていますか?もし守らなかったらどうなると書かれていますか?恐ろしいことです。
そして、何度も繰り返されている言葉に気づいたでしょうか。「永遠のしるし」です。
人に与えられた最初の使命「耕し、守る」ということは永遠の契約であり、やがて訪れる新しいエルサレムでは、永遠に尽きることのないまことの安息に入れられます。

【32章】金の牛

この章は人の弱さが露呈する場面です。確かに、不安を覚えることは確かでしょう。しかし、このようなときに人の本当の姿が見え隠れします。

1節を見て、何を感じますか?特に現代は「すぐ」の文化です。信仰は忍耐とセットです。主はおられると言うことを認めて、主に期待する。「認待」という字の方が正しいかもしれません。

2節、この一連の責任はアロンにあると思いました。みなさんはどう思いましたか?いくら民の不満の声があっても、今までモーセと共に民を導いてきたアロンです。彼らの性質をしっていたので、「だめだ」と言うこともできたかもしれません。
それなのに、民に同調するどころか、率先して次の事を行います。リーダーの責任は大きいです。もしかしたら、アロンは「今までモーセがいて自由にできなかったのですが、モーセがいない今なら自分の好きにできる」と考えたのかもしれません。

4節、誰が何をしますか?このことは後ほど出てきますのでしっかり覚えておいてください。

5,6節とさらに恐ろしいことが起こります。まことの神でないものを「主」と呼び、そこで礼拝のような事が行われます。
民は「すわっては飲み食いし、立っては、戯れた。」とありますが、これは不品行を意味します。どんちゃん騒ぎと性的な乱れです。

本物の主に対する礼拝では人々は聖さへと進むはずですが、こちらはそうではありません。派手なもの、人々を興奮させるものだけが選考する礼拝は少し気をつけた方がいいかもしれません。

7節からは主がモーセに山の下での現状を告げられます。
9節には「うなじのこわい」とありますが、この「こわい」は「怖い」ではなく「強い」です。この民の姿は自分の姿でもあります。だからいつも神様に頼り、立ち返る必要があります。

10節、神様のプランはどのようなものでしたか?民を滅ぼすことでした。
ところが11節、モーセはどのように神様に答えますか?モーセもこの民に嫌気がさしていたことでしょう。それなのに、モーセは神様の約束をもう一度神様の御前で述べます。すると、驚くべき事が起こります。14節にはどう書かれているでしょうか?
私たちのモーセのように、とりなすべき分野があるのではないでしょうか?その事で滅びから永遠のいのちに導かれると信じます。

15節、モーセは神様ご自身で作られた大切な二枚のあかしの板を持って下山します。ところが19節、どうなりますか?もし、あなたがこのときのモーセだったらどういう行動を取りますか?しばらく思い巡らしてみてください。
モーセは神様から聞いていましたが、目の前の状況に驚き、このような行動を取ったのでしょう。

20節では金の子牛を砕き、灰にし、それを民に飲ませました。自分のとった行動の愚かさを苦さで感じさせるためでした。人は自分が興奮状態になっているとき、それがエスカレートしても気づきにくい性質を持っています。こういうときに信頼できる複数の信仰の友がいることを感謝します。

21節からモーセはアロンに問いただします。アロンはどのように答えますか?特に24節に注目してください。このことは本当でしょうか?

25節に、アロンの本当の姿が書かれています。
26節、モーセは悔い改めの機会を与えます。それに応じたのはどの部族でしたか?
27節、本当に残酷なことが起こります。これが罪の結果です。こんな事を誰が望むでしょうか。罪とは本当に恐ろしいものです。

30節からは、モーセは再び山に登り神様にとりなしの祈りを捧げます。事実を認めます。そして、32節では驚くべき事が書かれています。永遠のいのちを失っても民を救ってほしいと嘆願します。このような願いを神様は無視されるでしょうか?
そして、アロンとの違いを研究してみましょう。
この後、神様の裁きが下ります。何を礼拝しているか、今一度考えてみましょう。

【33章】会見の天幕

イスラエルの民の不信の罪により、アブラハム、イサク、ヤコブの祝福は途絶えるように感じました。
しかし、神様は残された民を置かれます。その者を通して、神御心を成し遂げられます。

4節では、飾り物が出てきます。これは、イスラエルの民がエジプトを出るときにエジプトの人からもらったものでした。
中にはエジプトの神に捧げられた物や、呪術に使われていたものも合ったかもしれません。
いずれにしても、神様のご臨在がない時に、民は飾り物をつけませんでした。また、神様も飾り物を外せと仰せになります。
外見をどれだけきれいに装っても、心の内がむなしいなら飾り物は何の意味も持ちません。律法学者、パリサイ人はどうでしたか?考えてみてください。

7節からは「会見の天幕」というものが出てきます。これは神様がモーセと出会うところです。
神様がモーセに山で示された設計図によると、この会見の天幕はイスラエルの宿営の真ん中にあるはずです。(民数奇2:2)
ところがこの箇所では宿営の外にありました。おそらく、イスラエルの民の大きな罪により、神様のご臨在は宿営の真ん中から去られていた故に、モーセは宿営の外に会見の天幕を設け、そこで神様と出会ったのでした。

11節、神様とモーセの関係が書かれています。それはどのような者でしたか?私たちも聖霊様の助けによって、神様とこれほどの関係になりたいですね。

12節からは、モーセのとりなしがはじまります。アブラハムと神様の交渉を見ているようです。神様は本当に優しいお方です。

17節、本当にうらやましいと思えるようなことが書かれています。モーセは名指しで神様に呼び出されました。
しかし、私たちも同様に神様に名指しで呼び出された者だと信じます。
ここで、モーセは少し調子に乗ってしまうのでしょうか。今度は個人的な願いを述べます。神様の栄光をみたいと言い出しました。
それに対して神様はどのように答えられましたか?
はいともいいえとも言えない神様の答えですが、その中には神様の愛があふれています。神様の愛を受け取りましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。

 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。

 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。

 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?

 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?

 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?

 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. そして、32節では驚くべき事が書かれています。永遠のいのちを失っても民を救ってほしいと嘆願します。このような願いを神様は無視されるでしょうか?
    そして、アロンとの違いを研究してみましょう。

    はい  (^_^)/  まず二人のことを書き出しました。
    これを学び、まとめていると、
    以前職場でヒヤリハットの報告書を書いた時の心境になりました。
    冷静に客観的に振り返る、結構しんどくて、反省させられる作業でした。
    今回も、悔い改めさせられました。

    まずアロンです
    ①モーセの留守中リーダとして、偶像を造れという民を責め、正しく諭すべきなのに
    神よりも民の声を恐れて、民の言うなりになった人

    ②罪が発覚してモーセに問い詰められると、民を偶像礼拝の罪、
    そこから不品行の罪に落ちる手助けをしてしまった罪を、民に責任転嫁した人

    ③アロンは民が罪に陥っても放っておいた、責め諭す勇気がなかった人

    ④罪に陥った経緯を伝えて、言い訳をした人。

    ⑤アロンが、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にしたのに 火に投げ込んだら子牛の偶像が出て来たいってと嘘をついた人

    ⑥罪を犯し、良心が麻痺してしまっている人。

    モーセ

    アロンと民の罪の破れ口で、神の前に立ち、とりなす人
    A:彼らは神の民だから贖いの故に
    32:11【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
    B:神の栄光の御名の尊厳の為に
    32:12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。

    C:神のみ言葉の約束への信頼の故に
    32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」

    モーセは、神の御心を動かす三つの論点をついてとりなした

    神の書物(命の書)から消し去られても・・とは・・永遠の命がなくなってもいいということなら
    モーセは、自分の命が消し去られて自分は永遠の滅び、地獄に行ってもいいから
    彼らの罪を赦してくださいと神に嘆願しているのですね。
    パウロと同じ祈りですね
    ロマ
    9:1 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、
    9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
    9:3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

    モーセは罪を犯した民の為に命を捧げる意志、決意をもった熱い祈りの人


    モーセは神の御心を行うためには、私情を入れない、正直に従う人。


    33節では神は民と共に行かないで天使を遣わすと言われてしまい、
    罪を犯した結果、神の臨在を失ってしまいました。
    そこで、モーセは罪を犯す前と同じになるまで、
    またもや神に大胆にとりなし祈る人でした。
    A:33:16 私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」


    約束(み言葉)の恵みを確かなものとして、信じ祈り、
    あなたはこういう方です、こう言われました、約束されましたよねと・・
    道を教えてくださいと祈り、
    栄光を見せて下さいと祈ったことは、聖い貪欲を持った人
    恵みある約束に安堵せず、主ご自身を求め
    神の道を知るだけで安堵せず、神ご自身の栄光を求め続ける。
    このような祈りに、神の方がモーセに少しずつ譲っています。

    重大な責任を背負って、民の為に、
    そして、リーダーとしての責任を果たすため自分の為にも
    モーセは、さらに本質に迫った栄光を求める必要があったのだと思います。

    改めて学んでみると、私がモーセの祈りに対して何かを言うのは・・・
    いったいどの口が言っているのと自分でも恥ずかしくなるのですが、
    それでも、あえて子供のように恐れ知らずになって素直に言いますと。
    モーセのとりなしの姿勢が今のこの時代に必要なのだと思いました。

    永遠の命を捨ててまでも、私は地獄に行ってもかまわないだから、民を救ってくださいと神に迫って人々の為に祈っていないし、祈れない私がいます。
    私には何もないけれど、永遠の命があります感謝します、という祈りはしていますが・・・
    モーセは母親に育てられた期間に、神のご性質について学んだのでしょうか?
    どうして、こんなに神の論旨に迫る祈りができるのか?
    それは、民への深い、熱い愛からの祈りだからでしょうか?
    モーセのとりなしは、
    とても人間業だとは思えず、
    ご自身を犠牲にされて人々を救われたイエス様とかぶります。
    ともあれ、モーセの祈りに学んだ神の御心に訴え得る祈りは
    人生の大きな局面の時に、また地域や国など、大きな祈りを与えられた時に
    思い出せるようにしておきたいです。
    今は、小さいことに忠実に、今この現実に必要な祈りにも忠実に
    一つひとつ与えられたことを大切にしていきたいと思わされています。
    聖書を朗読し、学び、御霊によって祈り、言葉で祈り、賛美し、血潮を宣言し・・
    この積み重ねを大切にしていきたいと思います。

    この学びをして、考えることがあります。

    主イエスが与える十字架を担います!とみ言葉を宣言して祈らなくていい
    担いきれるものではないからと
    言っている本人も泣きながら、厳しく苦しい顔をして言われたと聞きました。
    主の十字架を担うということは、批判されても、馬鹿にされても 人前で怒鳴られても
    相手を赦し愛することだよ。そんなことできないでしょうと。
    本当に分かっているのか?と
    その方は相当つらい目に合われ、
    苦労されたのだと思います。
    でも、担う力がないなら、担える力をくださいと祈ることはできると思います。
    どうせできないから、できるものではないからしなくていいと教えるのは
    天の御国では最も小さいものになると主イエスは言われていたのでは?
    人を裁いてしまって、十字架から降りてしまったと気づいた時には、
    悔い改めて、再び、主と共に歩めばいいと思うのです。
    できる事じゃないから初めからしなくていいと教えるのでは、前進できません。
    希望がありません。
    いつまでたっても日本にリバイバルは来ないのではないのかと思います。
    日本が取り残されたままでいいのでしょうか?
    愛する人々が地獄に行くのを何もせず見ているのでしょうか?
    いつまでたっても、二つのものが一つになる、異邦人の完成の時が来ないのでは
    正直いって、アロンの気持ちの方がよくわかり、
    神の前に勇気ある祈りをするモーセが遠い存在に感じられます。
    すみません。偉そうですが、自分に言い聞かせています。
    でも、祈ることはできるでしょう
    何かを頑張ろうというのではなく、どこででもいいから、
    いつでもいいから、主イエスの信仰によってただ愛する人々の名前をあげて祈ればいいいのだと思います。
    示された時には覚えてください、救ってくださいと、神の贖いの中に入れてください、回復してくださいと、み言葉を宣言して、それぞれに示されたことを祈ればいいのだと思います。

    人はそれぞれに、感性、考え方、解釈の違う者同士で、
    たまものも違っていて、育まれたものも違っていて
    教理的なことも、地域的なことも、国も、風習も違っていて、
    一致するのは本当に困難な事だと思いますが、
    一致するところに神の御業がなされることを思うと
    自分の力ではできないけれど、
    権勢によらず、能力によらず、神の霊によって
    このことがなされていくと信じます。
    ダイナミックで、最高にドラマチックな神の歴史の中で
    この大切な時期に王であり祭司として、生かされていることをもう一を確認しました。
    今 確認できたことを感謝します。
    私は蟻よりも小さい存在ですが、
    神に愛されて生きているのだなと思います。
    民が申し開きのしようがない罪を犯して
    神の臨在がなくなる危機の時でさえ
    神の前に誠実で勇気ある祈りをする
    モーセの、生き方に励まされました。

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