聖書通読クラブ Day 357

聖書通読クラブ Day 357【ヨハネの手紙 第一 1章-3章】

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シャローム!

今日からヨハネの手紙を読みます。ヨハネはイエス様の一番近くにいた弟子と言われています。最後の晩餐と言われる過越の祭のときには、イエス様のすぐ隣でイエス様の心臓の音を聞けるような距離にいました。イエス様の十字架を一番側で見ていたのは、弟子たちの中でヨハネだけです。
イエス様を一番近くで過ごしていたヨハネは、何を私たちに教えてくれるのでしょうか?おそらく、イエス様が最も大切にしていたことでは中井かと思います。今日も聖霊様に導かれて、主の御心を受け取って生きましょう。

今日の通読箇所:ヨハネの手紙 第一 1章-3章

■アウトライン

●光りと交わり:1章
  ・いのちのことばについて:1-4節
  ・神は光:5-10節

●とどまる:2章
  ・神を知っている:1-6節
  ・新しい命令:7-11節
  ・肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢:12-17節
  ・反キリスト:18-29節

●互いに愛し合う:3章
  ・神の子ども:1-12節
  ・神の命令とは:13-24節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【1章】光りと交わり

・いのちのことばについて:1-4節
ヨハネの書く書物は、どれも書き出しが印象的です。他の著者とは明らかに違うことがわかります。ヨハネの福音書では「はじめに、ことばがあった」と始まります。ここでは、いのちのことばについてです。1節にはヨハネがこの「いのちのことば」を聞き、目で見、じっと見て、手でさわったと言っています。
このいのちが現れたとあります。ただのいのちではなく、永遠のいのちとあります。このいのちとは誰でしょうか?言うまでも無く、イエス様です。
3節を見ましょう。私たちは人と集まることを「交わる」と言ったりします。しかし、聖書は交わりをどのように定義しているでしょうか?3節後半を見ましょう。単に人が集まるだけでは、ただの集まりです。その中心であり、目的が主との交わりでなければなりません。まず、私たちが神との親密な交わりを持つからこそ、神の家族との交わりを持つことができます。

・神は光:5-10節
ヨハネは神が光りであると言っています。その理由として、光りには暗いところが少しもないからです。光りに暗さがあれば、それは光りではありません。また、どんな小さな光りでも、闇に打ち勝ちます。
ヨハネはこの事を神との交わりにあてはめます。神との交わりがあると言いながら、闇を歩くなら、どうだと6節で言っていますか?
しかし、もし神が光りの中におられるように、私たちも光りの中を歩むなら、どうなると7節にありますか?つまり、交わりが光りの中を歩んでいるかいないかの見分けの実となります。そして、忘れてはならないのは、その交わりに欠かせないのはイエス様の血潮です。御子イエスの血潮は全ての罪から私たちをきよめます。それゆえ、真の交わりへと向かわせます。
ところが、自分の罪を認めない者も中にはいるかもしれません。もし、自分に罪がないと言うのであれば、その人はどのような人でしょうか?8節を見ましょう。また同時に10節も見ましょう。
しかし、もし私たちが罪を認め、自分の罪を言い表すならどうでしょうか?9節を見てみましょう。私たちに罪を認めさせるのは御霊なる主の御業です。

【2章】とどまる

・神を知っている:1-6節
ヨハネはどうしてこの手紙を書き送ったか、その理由が書かれています。これは、私たちにとっても必要なことです。もし、私たちが罪を犯すなら、私たちを弁護して下さる方がおられると書かれています。そのお方は誰でしょうか?このお方はどのようなお方でしょうか?2節を見ましょう。
私たちは神様を知っていると言うかも知れません。しかし、聖書で知るということは、男女が一つとなるほどの親密な関係を指します。私たちはどのようにして神を知っていること、つまり神と一つとされていることを知るのでしょうか?3節を見ましょう。神を知る=神の命令を守ることです。神を知っているといいながら、神の命令を守らないものは何でしょうか?4節後半を見ましょう。
しかし、神のみことばを守っている者はその人に内に何が全うされていますか?そのことによって、私たちのどのような状態がわかりますか?私たちは愛している人の言うことなら守りたいと思うでしょう。最も愛する神様の願いなら、何としても守りたいと思うのが神を知る者の生き方です。
そのためには十字架の道を歩むこともあるかも知れません。人々から理解されず、苦しい思いをするかもしれません。しかし、それはキリストが歩まれた道を歩んでいる証拠です。

・新しい命令:7-11節
ヨハネは古い命令を何と言っていますか?しかし今、ヨハネはそれをキリストを通して新しい命令として書き送っています。イエス様がみことばを成就され、真理の光りが輝きました。
どのような者が光りの中にいるのでしょうか?10節を見ましょう。一方、やみの中にいる者はどうでしょうか?やみは回りが見えませんが、光りに照らされるとわかります。何がわかるのでしょうか?神の戒めは「隣人を愛する」と言うことに集約されると言うことです。

・肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢:12-17節
ヨハネは子どもたち、父たち、そして弱い者にそれぞれメッセージを送りますが、それはどのようなものでしょうか?
その上で、15節を見ましょう。何を愛してはならないと書かれていますか?それは具体的には何でしょうか?それが「目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢」です。これらの欲求は誰から出たと書かれていますか?これらの欲求が神に属さない欲求です。世のほぼ全ての欲求はここに集約されるでしょう。17節を見ると、滅びるものと残るものがあります。それぞれ何でしょうか?

・反キリスト:18-29節
ヨハネはこの時が終わりの時だと言っています。そして、今もなお終わりの時です。ヨハネは終わりの時に何が来ると言っていますか?この時ですら、多くの反キリストがいました。その特長は何でしょうか?ひとつは交わりから出て行く者です。
22節を見ましょう。偽り者とはどのような者のことを指すでしょうか?それが反キリストです。私たちはニュースを見て「あの人が反キリストだろうか」と考えるかも知れませんが、反キリストは私たちの内に潜んでいます。自分の中に偽る心があるなら、私たちが反キリストとなってしまいます。
イエス様もヨハネの福音書15章でぶどうの木のたとえをされました。キリストに留まること、神の家族の集まりに留まることが大切です。それがイエス様が私たちに下さった永遠のいのちだと25節に書かれています。
また、27節を読むと、少し混乱するかも知れません。これはどういう意味なのでしょうか?文字通り読むなら「誰からも教えられなくて良い」となります。しかし、それは危険な行為です。聖書を私的解釈してしまう可能性があります。ここでの意味は、「聖書以外の教えを受ける必要は無い」という意味です。言い換えるなら「誰からの支配も受けなくて良い」という事になります。私たちは聖書の他に信仰書を持って学ぶことがあるかもしれません。素晴らしい書物は沢山ありますが、中には聖書の教えからずれているものもあります。異端のものが混じっていることもあるでしょう。また、この世の教えや方法を教会に持ち込もうとする人もいるかもしれませんが、その様な事はする必要がないと言うのがここの意味です。この注ぎの油、知恵と啓示の御霊は私たちをキリストのうちに留まらせます。
その上でヨハネは28節で何を勧めていますか?その目的は何ですか?もし神が正しいお方であると知っていたら、何がわかりますか?義を行うとは、みことばの通りに行うことです。

【3章】互いに愛し合う

・神の子ども:1-12節
私たちが神の子どもとされていることは、どれほど素晴らしいことでしょうか?ここでは、その素晴らしさを知らないのは御父を知らないからだと言っています。私たちも自分のこの考えられないほどの身分をまだ本当に知らないのかも知れません。父を求めましょう。
キリストが私たちに現れて下さったなら、私たちはキリストに似た者とされていきます。そして、キリストに望みを抱く者は、自分を清くします。4節を見ると、不法の定義があります。それは何ですか?また、罪とは何に逆らいますか?また、イエス様が来て下さったのは何のためですか?罪を取り除くためには、罪なきものが必要でした。それがイエス様です。
ですから、イエス様にとどまる者は罪を犯さないと書かれています。もし、罪を犯すならその者はどのような状態でしょうか?6節を見ましょう。
7節、義を行う者はどのような者ですか?8節、罪を犯している者は誰から出たと書かれていますか?また、神の子が現れたのは何のためだと書かれていますか?
罪を犯さない者にはあるものがとどまっています。9節によるとそれは何でしょうか?神の種です。これはみことばです。みことばが私たちにとどまるとき、罪を犯すことができなくなります。肉体は罪の方向に行きたがるでしょうが、御霊が義の道へと導きます。
10節を見ると、そのことで見分けがつきます。最大の見分けるポイントは兄弟を愛するか否かです。12節、カインはどうして兄弟を殺したのでしょうか?その理由を見てみましょう。私たちは実際に殺人はしていませんが、同じ原理で霊的な領域で兄弟を殺していることはないでしょうか?

・神の命令とは:13-24節
この世界が始まったときから今に至るまで、世は神の子を憎みます。私たちはイエス様の十字架によって死からいのちへと移されました。それは具体的に何によって確かなものとされるでしょうか?14節を見ましょう。
15節を見ましょう。何が人殺しと言っていますか?人を殺す者のうちには何がとどまらないと言っていますか?
私たちはあまりにも簡単に神の家族を見て「あの人はいやだ」と思ってしまうかも知れません。しかし、みことばの基準から見るなら、それは殺人者です。みことばは隣人を愛しなさいと言っています。それには条件はありません。人間的な力ではそのことはできません。ですから、イエス様は私たちに道を示して下さいました。主ご自身がまず、ご自分のいのちを捨て、愛を示してくださいました。このお方ゆえに、隣人を愛することができます。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきだとみことばは語ります。自分のやりたいことを優先するのではなく、むしろ自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従い、隣人を愛します。17節を見ましょう。自分に施す力がありながら、見てみないふりをするなら、良きサマリヤ人のたとえの祭司やレビ人のようになってしまいます。あわれみの心を閉ざす者に、神の愛は留まりますか?私たちの父は気前の良いお方です。
さらに、ヨハネは口先だけでなく、行いによって愛することをチャレンジします。それによってどうなるでしょうか?19節を見ましょう。そして、20節、自分の心よりも神のみこころに従うのです。
私たちは愛を行うことで、神のみこころを行えます。そうするなら、心に責めはなく、大胆に神の御前に出て行くことができます。
イエス様は求めなさいと言われました。22節を見ましょう。また、神の命令とは何でしょうか?23節を見ましょう。これは、何によって知ることができますか?24節を見ましょう。
この事は、議論の余地はありません。「はい」は「はい」と言うのです。良いわけを捨てて、神の戒めであり、御心である隣人を愛することを、共に追い求めていきましょう。


(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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