聖書通読クラブ Day 216

聖書通読クラブDay 216【イザヤ書 40章〜42章】

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シャローム!

今日からイザヤ書の後半に入っていきます。後半は3つの部分に区分されます。一つ目は40-48章、イスラエルを救われる方がどれほど偉大かを偶像と比較しています。二つ目は49-57章、主のしもべなる方における救いの計画が書かれています。三つ目は58-66章、神の国の確立が書かれています。
イザヤ書の後半は主の慰めのことばと、私たちを救ってくださる方がどのようなお方かが沢山書かれています。みことばから主ご自身を教えていただきましょう。

今日の通読箇所:イザヤ書 40章〜42章

■アウトライン

●主を待ち望む:40章(マタイの福音書)
  ・慰めよ:1-5節
  ・すべての人は草:6-8節
  ・神である主は力を持って来る:9-11節
  ・国々は手桶のひとしずく:12-17節
  ・偶像:18-20節
  ・誰がこれらを創造したか:21-26節
  ・鷲のように:27-31節

●地の回復:41章(マルコの福音書)
  ・新しい力を得よ:1-4節
  ・島々は見て恐れる:5-7節
  ・あなたを守る:8-16節
  ・荒野に水を:17-20節
  ・訴えを出せ:21-24節
  ・彼らのなすことはむなしい:25-29節

●主の御名:42章(ルカの福音書)
  ・彼の上に私の霊を授ける:1-4節
  ・これがわたしの名:5-9節
  ・主に向かって新しい歌を歌え:10-13節
  ・彼らを見捨てない:14-17節
  ・その教えに聞き従わない:18-25節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【40章】主を待ち望む(マタイの福音書)

・慰めよ:1-5節
イザヤ書後半は「慰めよ、慰めよ」ということばから始まります。主は知性にだけでは無く、私たちの心にこのように優しく語りかけてくださいます。
一体、どのような労苦が終わるのでしょうか。それは罪、咎からの贖いです。第一義的には、バビロンからの解放です。霊的な意味では、イエス様による救い、贖いです。
3節からは、バプテスマのヨハネが登場したときに語ったことばです。慰められる前に準備が必要です。それがこの3節からのことばになります。王が来られるために道を平坦にしなければなりません。そのためには谷は埋められ、山は低くならなければなりません。これは何を意味しているのでしょうか。私たちの内なる人の状態です。
山とは、私たちの中にあるプライドです。谷とは、私たちが自分を見て「自分はだめだ」と聖書の基準から外れて自分を自己卑下している姿です。それらが整えられたとき、そこを王が通られます。つまり、主が来られることを妨げているのは悔い改めていない私のせいかもしれません。

・すべての人は草:6-8節
ここに不思議なことばが出てきます。「すべての人は草」とあります。私たちは草なのでしょうか。その通りです。たとえ花を咲かせたとしても、草は枯れ、花はしぼみます。つまり、私たちは死んでしまうと言うことです。ところが、神のことばは永遠に立ちます。ここに福音があります。私たちの古い性質はイエス様の御前で草のように枯れてしまいます。そして、主のことばが生きるのです。

・神である主は力を持って来る:9-11節
主がエルサレムに戻ってこられるとき、それを迎える女性、つまり教会とイエス様を信じるイスラエルが喜びの声をあげています。その内容は「見よ。あなたがたの神を。」というものです。
このお方は力を持ってこられます。再臨の主が描かれています。主はその御腕で総べ治められます。報いを持ってこられます。私たちがこの地上で、どれほどイエス様を愛したかという姿です。

・国々は手桶のひとしずく:12-17節
この箇所は何を言っているのでしょうか。神様を創造主として見るとき、物事が正しく見えると言うことです。誰が天の大きさを決めたのでしょうか。誰が山の大きさや場所を決めたのでしょうか。創造主なる主です。三位一体なる主が天地創造の時、相談してすべてを決められました。
しかし、人々は無知のせいで、神に助言をしようとします。知恵の水面となるお方に対して何を助言できましょうか。そのことを「主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。」とあります。

・偶像:18-20節
ここで、主は偶像とご自分を対比されています。人は自分の内にある欲望を形にします。それをいつしか神としてあがめるようになります。それが偶像です。その偶像は神になぞらえ、神に似せて造られますが、神ではありません。美術品であっても、模倣品と本物、どちらに価値があるでしょうか。答えは明確です。

・誰がこれらを創造したか:21-26節
イスラエルの人々は律法を知っています。ということは、創造主がおられ、この方がどのような事をして下さったかを知っているはずです。しかし、主は「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。」と言われています。
彼らはまことの神を知りながら、周りの国を恐れていました。そして、偶像に引き込まれていきました。この箇所を通して、もう一度主はどれ程偉大かを示して下さっています。主は天体に目を向けさせ、神の偉大さを示されています。すべての星々を呼ばれる方が、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっています。

・鷲のように:27-31節
このような偉大な神が、ちりに過ぎない私たちに目を注いでくださっています。なんという恵みでしょうか。
ところが、私たちはこの偉大な方から目をそらせてしまいます。そのことを「私の道は主に隠れ、私の訴えは神に見過ごされている」と表現しています。これは本当でしょうか?隠れていると思っているのは自分だけです。主はすべてをご存じのお方です。
そして、イザヤ書の中でも有名なみことばが出てきます。31節です。主を待ち望むことを鷲にたとえています。待ち望むとはどういうことでしょうか。これはただの待つとは違います。例えば、駅で誰かを待ているのは単なる待つと言うことです。しかし、その人が待ち合わせ時間に遅れたとしてもいつまでも待ち続け、なお、その人が喜ぶであろう贈り物を用意して、今か今かとその人が来るのを待つことが待ち望むことです。
鷲は大きな鳥なので、すずめのように自分で飛び立つことが難しいようです。ではどのように飛び立つのでしょうか。それは、崖の上に羽を広げて、上昇気流が吹いてくるのを待ちます。そして、風が吹いたならその時をみのがさず、一気に上昇気流に乗ってどの鳥よりも高く舞い上がります。
私たちは聖霊様の風を感じたとき、直ぐに舞い上がる備えができているでしょうか。その備えは日々のみことばの朗読と祈りです。これを続けていき、神の時を逃さないようにしましょう。

【41章】地の回復(マルコの福音書)

・新しい力を得よ:1-4節
イスラエルに語りかけられた主は、今度は島々に語りかけられます。その内容はどのようなものでしょうか。「わたしの前で静まれ。新しく力を得よ。近寄れ。語れ。そしてさばきに近づこう」というものです。主はすべての民をさばきの座に導かれています。
ここに書かれている東からの王とは、ペルシアのクロス王です。

・島々は見て恐れる:5-7節
島々や地の果てにいる者はこの王を見て震えています。そして協力し、対抗しようとしています。それで彼らは必死に偶像を作っています。

・あなたを守る:8-16節
主はご自分のお選びになった民を特別に扱われます。ですから、東から王が出てきたときに、他の国がするような反応をしなくても良いと言われています。まわりの諸国にとっては脅威となる王ですが、イスラエルにとっては彼らを解放する王となります。
主はヨシュアに命じたように、「恐れるな」と言って慰めてくださいます。バビロンに捕らえられていた彼らは自由な生活ができませんでした。虐げられていましたが、更に強い国、ペルシャがバビロンを倒しました。そうなると、自分たちは一体どうなるのかと考えるのが自然です。そのような恐れを持っている彼らに主は「わたしがあなたを助ける」と励ましてくださいます。
14節からを見ると、主はヤコブ、イスラエルの人々を虫けらと読んでいます。しかし、彼らが主に贖われるなら、山々を踏みつけて粉々に砕き、丘をもみがらのようにすると約束されています。強烈なコントラストがあります。まるで、福音書の中での弟子たちはいつもトラブルを起こしてばかりのように見えますが、十字架の後、聖霊様を受けてから別人のようになりました。主に贖われ、御霊を受けた人はそのようにされていきます。

・荒野に水を:17-20節
主は人々の心だけでは無く、土地も回復してくださいます。人々の心と土地は比例しているように思えます。歴代誌第二7:14を見ても、人々が悔い改めるなら、主は親しく天から聞いてこの地をいやしてくださるとあります。
主を信じる者は腹の底からいのちの泉が溢れ流れて、人々をいやします。私たちは世の光、地の塩となっているでしょうか?良き証し人になっているでしょうか。キリストの似姿に変えられるよう、みことば通りの生き方ができるよう、祈り求めていきましょう。

・訴えを出せ:21-24節
主はここで挑戦状のようなものを突きつけています。諸国の民に証拠を持ってこいと言っています。「なぜあなたがたは後に起こることを告げられないのか」と言われています。エリヤとバアルの預言者の時のようです。
主は創造主であられ、すべてを治めておられるお方です。ですから、これから起こることもすべてご計画を持っておられるからこそ、性格に後に起こることを告げることができます。

・彼らのなすことはむなしい:25-29節
ここでは北から人を起こすと書かれています。これもペルシャのクロス王の事です。地形的には、ペルシャはイスラエルの東にあります。しかし、ペルシャからイスラエルに来ようとすると広大な荒野を横切らなければなりません。それで、彼らは迂回して北からイスラエルに入ってくるのです。そのことを言っています。ですから、「日の上る所から」と書かれているのです。イスラエルから見て日の上る方は東です。そして、その王は「わたしの名を呼ぶ」と書かれています。ペルシャのクロス王がヤハウェなる主の名を呼ぶというのです。本当でしょうか。歴代誌第二36:23を見てみましょう。確かにクロス王がヤハウェなる主の御名を呼んでいます。

【42章】主の御名(ルカの福音書)

・彼の上に私の霊を授ける:1-4節
クロス王はキリストの一部を指し示しています。イスラエルの民をとらわれから解放するという部分です。クロス王は武力によって彼らを解放しましたが、イエス様はそうではありませんでした。愛をもって、しもべとして来られ、人々を解放されます。
この1節はイエス様を明確に指し示しています。いままでイザヤ書で主が「わたしのしもべ」と言っているのはイスラエルの民です。その証拠に、彼らは盲目にされています。しかし、ここでのしもべはイエス様です。イエス様は天の父に支えられ、人としてこの地を歩まれました。このお方がバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたとき、御霊が鳩のように注がれました。
イエス様は天の父の言われることしか口にされませんでした。2節にあるとおりです。

・これがわたしの名:5-9節
5節に、主がなされたことが一気に書かれています。なと力強いことでしょう。このお方が義を持って召し、手を握ってくださり、見守ってくださいます。人々を解放する働きへと召してくださいます。これはイエス様の働きであり、信じる私たちの働きでもあります。
そして8節、ここに主ご自身がご自分の名を明らかにされています。太文字で「主」と書かれているこのことば、イスラエルの人は口にすることができない聖なる名前ですが、ヤハウェということばです。このことばは、ヘブライ語のヨッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーという四文字でできています。その意味はヨッドが手、ヘーが窓もしくは見る、そしてヴァヴは釘と言う意味です。意味をつなげると「手を見なさい、釘を見なさい」というのが神様のお名前です。これは明確にイエス様の十字架を示しています。イエス・キリスト、このお名前はすべての名に勝るお名前です。主はこのお名前を刻んだ象などにはお与えになりません。御子を信じる者に与えてくださいます。

・主に向かって新しい歌を歌え:10-13節
前で主は新しいことをされると語られています。新しいことをされているのを見る者から出てくるのは新しい歌です。ケダルや、エドムの地セラから声が上がっています。どちらも主がさばかれた国です。主はさばきを宣告された地に同時に公儀を打ち立ててくださり、そこにキリストを遣わされた事を知ることができます。

・彼らを見捨てない:14-17節
主の福音が全世界に伝えられて、ここに書かれているような事が起こり、主は戻ってこられます。イエス様は盲目の人の目を開いてくださいました。そのことを主が再臨される時はすべての人に行われます。イエス様が復活されたとき、完全な体となり、壁もすり抜けることができたほど、また、十字架で打たれた傷がたった三日目なのに癒やされたように、私たちのからだもその日には完全にされます。

・その教えに聞き従わない:18-25節
イエス様はこの地に来られ、盲人の目を開き、耳の聞こえない人をいやし、足なえを癒やされ、死人をも生き返らされました。しかし、一番救い主を待ち望んでいたイスラエル人はイエス様の言われることに耳を傾けませんでした。マタイ11:20-24では、悔い改めなかったカペナウム、ベツサイダ、コラジンの事などを嘆いておられます。
21節から、主はご自分の義があらわされることを望まれました。そのために御子をもこの地に送ってくださいました。
イスラエルの民は、預言者を通して繰り返し語られる主のことばを聞かなかったことでバビロンに連れて行かれました。そのことすらも、主が行ってくださったことです。すべては主の御手の中にあります。このお方に信頼し続けましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

4件のコメント

  1. シャローム(^^)

    みことばは、みことばの解き明かしは、
    私の目を真実に開かせてくれる気がします(^^)

    星々を呼ばれる方は、私達を呼び、
    信頼するようにと、頼ってよいのだと、
    言ってくださるのですね。

    感謝なことだと感じます。(^^)

    話は変わりますが、可能ならば教えて頂きたいです。ユダヤ人は、1日の内で、
    決まった時間に礼拝を捧げると聞いた事があります。また、その時間、時間には、
    それぞれ意味がある(イエス様が十字架にかかった時、など。)と、聞きました。

    詳細を詳しく知りたいと願っています(^^)

    これからも、聖書大学のお働きの上に、神様からの豊かさがありますように。

    祝福が、ありますように。

    1. ご質問いただき、ありがとうございます。
      はい。確かに祈りの時間は決まっています。
      今丁度、その時間に応じて祈る祈りのテキストを作成しております。
      近日ご案内できるようになると思いますので、完成したらぜひお求めください。

  2. >イスラエルの人は口にすることができない聖なる名前ですが、ヤハウェということばです。このことばは、ヘブライ語のヨッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーという四文字でできています。その意味はヨッドが手、ヘーが窓もしくは見る、そしてヴァヴは釘と言う意味です。意味をつなげると「手を見なさい、釘を見なさい」というのが神様のお名前です。これは明確にイエス様の十字架を示しています。イエス・キリスト、このお名前はすべての名に勝るお名前です。主はこのお名前を刻んだ象などにはお与えになりません。御子を信じる者に与えてくださいます。

    主のお名前の話は、何度読んでも心が熱くなり感動します。
    ヤハウエなる主、手を見よ釘を見よなる主
    イエス様の十字架を心から感謝します。

    そして、イザヤ書を感謝します。
    今日もイエス様と出会えたことを感謝します。

    今日もう一度、主のみ前に傷があるかないかを教えていただき、
    悔い改め、その傷を完全に癒していただき
    主が私にたまわる十字架を主の力で負い、狭き門へ進んでいきたいと思わされました。

    そして、サタンに対して最前線で戦っておられる
    日本の主の弟子、特に教職者、リーダの方達の為に、
    貧しさから解放され、人間関係や批判から受けた傷を癒され、
    多忙から解放され、主を見上げ、主のみそばで憩い、
    真の安息を与えられ、自ら悔い改め主のみ言葉に堅くたち
    自ら狭き門を歩み、羊たちを迷わせず、躓かせず、
    主の慈愛を持って狭き門へと導く尊い働きが出来ますようにと祈ります。

    そして、今心に傷を負っている兄弟姉妹が癒されますように
    また教会を離れてしまった兄弟姉妹が、
    主のもとに帰ってきますように。
    主が忍耐して願っておられることを悟ることが出来ますように

    全ての人が救われますように祈ります。

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