聖書通読クラブ Day 88

聖書通読クラブ Day 88【サムエル記 第一 28章~31章】

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シャローム!

今日でついにサムエル記第一が終わります。霊的暗黒期の中から主に召し出されたサムエル、そしてイスラエルの初代王様サウル、それからダビデへと時代が流れていきます。サムエル記第一はサウルの死を持って終わります。彼はどのような人生を歩んできたのでしょうか。そこから学べることはなんでしょうか。

今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:サムエル記 第一 28章~31章

■アウトライン

神に頼るか、霊媒師に頼るか
●霊媒師に頼るサウル:28章
  ・アキシュの出陣:1-2節
  ・サウルに答えない主:3-7節
  ・霊媒の女:8-14節
  ・呼び出されたサウルのことば:15-19節
  ・おびえるサウル:20-25節

●戦いに行けないダビデ:29章
  ・ペリシテの首長の主張:1-5節
  ・戦地から帰るダビデ:6-11節

●ツィケラグの破壊:30章
  ・すべてを奪われる:1-6節
  ・復讐を主に伺う:7-10節
  ・略奪対への案内人:11-15節
  ・略奪物を奪い返す:16-20節
  ・等しい分け前:21-25節
  ・ダビデからの贈り物:26-31節

●サウルの最期:31章
  ・サウルの死:1-7節
  ・サウルの葬り:8-13節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【28章】霊媒師に頼るサウル

この時、ダビデはペリシテ人の王、アキシュに仕えていました。そして、ペリシテがイスラエルと戦うときがやってきました。ダビデはどうするのでしょうか。なんと、アキシュと一緒に戦いに向かいます。すなわち、自分の同朋を打つことになります。それはすなわち、サウル王を打つと言うことになります。
今まであれほどまでしてサウルを自分の手で打つことを避けて来たダビデですが、どうなるのでしょうか。この続きは後ほどみことばと共に見てみましょう。

その時、イスラエルでは何が起こっていたのでしょうか。
3節では霊媒や口寄せということばが出てきます。何かしらの方法で霊的な世界とコンタクトを取る者の事です。彼らは誰とコンタクトを取っているのでしょうか。神の御霊ではない方法で霊的な世界にコンタクトを取ることを神様は強く禁じられています。(レビ記20:27)
サムエルの指導の下、サウルは霊媒や口寄せを国内から追い出していました。
また、サムエルの死はサウルにも、ダビデにも、イスラエルにも大きな影響を与えたことでしょう。霊的な覆いが取りのけられることは私たちの創造を超えてじわじわと影響を与えます。
5節を見てみると、サウルは敵を見て心がひどくわなないたとあります。これもサムエルがいなくなった影響の一つでしょう。
6節を見てみましょう。残念ながら、これがサウルと神様との関係です。救いを求めますが、神様は答えてくださいません。サウルが神様を退けたからです。本当にむなしい人生です。
私たちはイエス様を通して、祈ることができます。すると主は答えてくださいます。これが救いです。
なぜサウルと神様の関係がこのようになってしまったか、もう一度思い返して、自分がそうならないように祈ってみましょう。
7節、そのようなサウルは何に頼るでしょうか。霊媒師です。しかも、かつて自分が追い出した霊媒師です。愚かな選択です。
1サムエルの15:23ではどのように語られていたでしょうか。「そむくことは占いの罪」と書かれています。主のみことばに聞き従わないものの結果がこのように具体的な形として結実しています。

サウルは変装してまで、こっそりと霊媒師のところに行きます。サウルと主との関係は成り立っていないにもかかわらず、サウルは主の名を使っています。恐ろしいことです。私たちは信仰を持っていなくても主の御名を使うことができるでしょう。しかし、それこそ「主の御名をみだりにとなえる」と言うことになります。
主の御心に反していながらも主の御名を用いることができます。これは危険なことです。気をつけましょう。
12節からですが、ここは本当に難解な場所です。霊媒師がサムエルを呼び出すのですが、それが本当なのか、幻の中なのかわかりません。
しかし、サムエルのことばを読むと、本当のサムエルのようです。
正直に言いますと、私もこのところがわかりません。あくまでもこれは予想なのですが、おそらく霊媒という手段を通してでも主はサムエルに何かを伝えたかったのではないかと思います。
霊媒師の女は様々な経験をしてきたと思いますが、12節を見ると、女はサウルを見て叫んでいます。おそらく彼女が経験したことのない方法でサウルが現れたのではないでしょうか。完全に霊媒師のコントロールの域を超えた事が起こっていたのかもしれません。
しかし、一方で霊媒は神様の忌み嫌われることです。申命記13:1-4を見てみましょう。
本当に難解な箇所です。
15節から、呼び出されたサムエルがサウルに語りかけます。サムエルは「なぜ私を煩わすのか」と言っています。おそらく、パラダイスで安息をしていたのに突然呼び出されたのでこう言っているのでしょう。ちなみに、パラダイスはイエス様が来られるまで、信じている者が入れられる一時的な場所でした。アブラハムのふところとも言われます。これを理解することは少し難しいかもしれませんが、イエス様の来られる前の救いの概念です。
私たちは約2千年前のイエス様の十字架の死と葬りと復活を信じています。その時、贖いは確かに完了しました。
問題はその前に生きていた人です。彼らは救いを受け取ることができるのでしょうか。その鍵がパラダイスにあります。
今生かされている私たちも、イエス様の十字架にかかる前に信じていた人も、同じ救い主を信じています。私たちは2千年前のイエス様を信じ、イエス様以前の人はやがて来られる救い主を信じています。しかし、イエス様以前に信じていた人はその時点でまだ贖いが完了していません。ですから彼らは一時的にパラダイスという箇所に集められていました。そして、イエス様が最初に死から復活され、彼らが続いて天の御国に上げられたのです。
私たちはパラダイスを経ることなく、ダイレクトで天の御国に行けることを感謝します。
16-18節、サムエルが生きているときにサウルに言い続けたことをもう一度告げます。すでに答えは語られています。問題は聞く耳を持たないサウルです。しかし、これは私の姿でもあります。へりくだり、人々を通して語られる主からの戒めを聞ける耳を与えていただきたいです。
19節、主からのメッセージで、サウルが「明日」命が取られると言うことがはっきりと告げられています。
そして、サムエルは「あなたも息子たちも私と一緒になる」と言っています。つまり、命が取られると言うことです。しかし、サムエルは地の下にあるパラダイスにいます。パラダイスは地の下にある「よみ」の中に神様が取り分けてくださった所です。サウルはパラダイスでない方に入れられるのでしょう。
でも考えてみてください。この瞬間はまだサウルの命は地上につなぎとめられています。ということは、まだ悔い改めて主に立ち返るチャンスがあります。これは私たちの命が取られてしまった後にはどうすることもできないことです。今日という日に主を求めましょう。

20節から、サウルはこの一連を経験して突然、倒れて地上に棒のようになったと書かれています。使徒の働きに出てくるアナニヤとサッピラのようです。
また、これは主からの強制的な礼拝をも意味しているかもしれません。私たち人はちりから造られました。ですから私たちが信仰を持って、心から神に仕える信仰を持って地面に完全にひれ伏すなら、それは神に対してこの肉体を従わせるという行為になります。そうするなら、私たちの肉体にある神に属さない性質が私たちに留まることができなくなり、私たちから出て行きます。
本来なら自らこの事を行うことが礼拝ですが、神様は強制的にサウルに対してこの事をさせたのかもしれません。
そして、21節からを見ると、なれはての王の姿を見ることができます。自らの手で追い出した霊媒師の女に励まされ、パンまで食べさせてもらっています。これが一国の王の姿でしょうか。結局、これがサウルの最後の晩餐となりました。

【29章】戦いに行けないダビデ

前章の冒頭の続きがここで書かれています。
2-5節を見てみましょう。アキシュはまんまとダビデにだまされてましたが、他のペリシテ人の首領はその嘘を見破りました。
アキシュは難しい選択を迫られますが、ここではペリシテの首領たちの意見を優先しました。これも偶然ではなく、主がアキシュの心を動かしたのでしょう。

8節からを見ると、ダビデは自分のしてきたことを訴え、なぜ一緒に戦いに行けないのかと訴えます。アキシュも優しい言葉でダビデを諭し、家に帰らせます。
ダビデは自分と部下の命を守るために、アキシュに仕え続けることが有効だと思っていたのでしょう。しかし、それが最適解ではありませんでした。
この事が後にどのようになるか、ダビデは次の章で知ることになります。もし、この時戦いに行っていたらどうなっていたでしょうか。同朋を自らの剣で打たなければなりませんでした。もう一つは、次の章の事件に対しての対処が遅くなっており、ダビデにとって命取りになったでしょう。
神様はすべての事を働かせて益としてくださるお方です。

【30章】ツィケラグの破壊

1-6節を見てみましょう。悲劇です。ダビデたちが不在の間、住んでいたツィケラグが襲われ、妻や子どもたちが奪われてしまいました。
ダビデは自分の保身に目が奪われていて、主に目が向いていませんでした。その結果このような形になりました。神様のショック療法です。ダビデの目が覚めました。マルコ8:35を思い出します。
ここからも多くのことを学べます。私たちにも「どうして!」という出来事が起こります。その時どう反応するでしょうか。もちろんあせります。悲しみます。時には怒りがわき上がってくるでしょう。
しかし、最後にはダビデの取った行動に習いたいと思います。「ダビデは彼の神、主によって奮い立った」。これが私たちの力です。腰が抜けてしまい、立ち上がれないほどのショックを受けたとしても、私たちは主によって奮い立つ事ができます。
もし、ダビデがここで失望し、諦めてしまったらどうなっていたでしょうか。この後を読み進めていきましょう。

7節から、ダビデは忘れていた事を思い出します。主への信頼です。すぐさま祭司のエブヤタルにエポデを持ってこさせ、略奪隊を追うべきか否かを伺います。とても正しい選択です。主からの答えは「行きなさい」でした。
ダビデも、また部下もあまりにも失った物が大きすぎます。心の整理がつかないで出陣した者もいるでしょう。
そこで、疲れ切った200人をベゾル川に残して残る400人で出陣します。
11節から、神様の好意を見ることができます。すべてのものを奪われ、今から戦いに行こうとしている最中の血気盛んなダビデたちが一人のエジプト人を助けます。このような戦闘の非常事態にも憐れみの心を持つことができるダビデでした。
このダビデの好意はこの事件の解決へと導きます。なんとそのエジプト人はツィケラグを襲った略奪隊の奴隷だったのです。
身の安全を保証するという約束でダビデは彼に道案内を頼みます。ダビデの好意に主の好意が注がれました。

16節から19節を見てみましょう。主の守りがありました。なんと、奪われたものは何一つ失われていなかったのです。
もしダビデがアキシュと一緒に出陣していたら、もしダビデが打ちひしがれて何も行動しなければ、もしダビデが主に伺うことをしなければこの事は起こっていませんでした。すべて主の導きです。
20節を見てください。この事を通して、ダビデは失った物以上の物を得ました。主がなしてくださることです。

21節から、ダビデのさらなる心の広さを知ることができます。
ベゾル川に残してきた200人と再会します。彼らは奪い返した物を見て喜んだことでしょう。
しかし、面白くないのは戦いに行った者たちです。彼らが命をかけて戦って奪い返した物は彼らの物となることはわかります。しかし、疲れて休んでいた人は何も戦っていないのに、なぜ自分たちと同じ分け前を受けるのかと訴えます。当然のことです。
しかし、ダビデは待っていた彼らにも同じ分け前を与えることを命じます。なぜダビデはこのような事ができたのでしょうか。それは、ダビデ自身が主によって奮い立ち、主によって出陣し、主によってエジプト人と出会い、無事に奪い返すことができたこと、つまり、すべてが主の好意だと知っていたからです。恵みを受けたから人々にも恵みを分かち合うことができます。私たちは受けた物を流し出します。

26節からはベゾル川で待っていた人のみならず、なんとユダの町の人々にもその恵みを分かち合いました。
自分と神様との関係の回復による喜びの結果です。私たちは受けるよりも与える方が幸いです。しかし、その前に私たちは神様からの好意を受ける必要があります。受けただけ注ぎ出すことができます。

【31章】サウルの最期

イスラエルとペリシテ人の戦いがまたあります。今回はペリシテ人に押されます。そしてなんとダビデを心から慕っていたヨナタンも殺されてしまいます。誰よりもダビデが王になることを願っていた人物です。ついにダビデが王になることを見ることができませんでした。
3-6節、ついにサウル王は殺されてしまいます。射手たちに狙い撃ちされました。
4節を見てみましょう。サウルらしい最期です。ペリシテ人に殺されることよりも自害を選びました。
その事がきっかけでペリシテ人は川を渡ってきて住み着いてしまいます。

8節からを見てみましょう。命が果ててしまったサウルは屈辱を受けます。しかし、勇気ある物が立ち上がり、サウルと息子の死体を引き取り、葬り、断食します。
人の人生の最期に、その人の一生を思い返します。サウルは幸せだったのでしょうか?本当は王になどならず、普通に平和な暮らしをしていたほうが幸せだったのではないでしょうか。
自分の使命に生きていない者の苦しみをサウルに見ることができます。もし、自分の人生に葛藤を感じ、苦しみを感じているのであれば、今の自分の生き方が正しいかどうか、聖書を何度も読んで祈ってみましょう。
神様が導かれる歩みは、十字架の道を通されることもありますが、沢山の報いと祝福が伴います。一人ひとりが神様の願われる道を歩めますように。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. 主に聞き従うことが何よりも大切だと思いました。
    今日、生きている時に悔い改めるチャンスが与えられ感謝します。

  2. サウルの罪と同様の罪が私の中にもあると認めます。瞬間・瞬間 み言葉に返らせ悔い改めに導いて下さいますように。聖霊様に感謝します。

    聖書のみ言葉を通して、いつも神様のみ声を拝聴できる恵みに感謝します。
    更に深く悟っていく事が出来ますように。

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