聖書通読クラブ Day 250

聖書通読クラブ Day 250【エゼキエル書 19章-21章】

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シャローム!

主がユダに対してさばきを行われる事が預言されている箇所に入っています。しかし、これはいつまでも行われる者ではなく、24章で全てを語り終え、それ以降はユダについてかたられなくなります。
私たちの人生でも、あるときまでは口うるさいと思えるほど注意してくれますが、あるときから誰からも注意や指摘をされない時がやってきます。ですが、みことばはいつでも私たちの罪の性質を指摘し、正しい道へと導いてくださいます。
今日もみことばを通して、義の道を歩ませていただきましょう。

今日の通読箇所:エゼキエル書 19章-21章

■アウトライン

●悔い改めることができない:19章
  ・母である雌獅子:1-9節
  ・王の杖となる強い枝がなくなる:10ー14節

●繰り返す肉の性質:20章
  ・彼らをエジプトの地から連れ出す:1-9節
  ・安息日を汚した:10-17節
  ・安息日をきよく保て:18-20節
  ・主が主であることを知るため:21-26節
  ・あなたの願いを聞き入れない:27-32節
  ・反逆者を選り分ける:33-38節
  ・自分自身をいとう:39-49節

●主の剣:21章
  ・正しいものも悪者もたち滅ぼす:1-7節
  ・虐殺のために研がれた剣:8-17節
  ・二つの道のしるし:18-23節
  ・廃墟だ廃墟だ:24-27節
  ・出身地でさばかれる:28-32節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【19章】悔い改めることができない

・母である雌獅子:1-9節
主が語られましたが、ゼデキヤ王は悔い改めませんでした。前にいた王たちの悪い行いとその報いを見ても悟らず、目を覚ますことができませんでした。そこで主は哀歌をエゼキエルに与えられます。
この箇所はヨシヤ王の死後、エホアハズのことを言っています。母、雌獅子とはエルサレムです。子獅子とは周辺の諸国です。
ダビデの王座に就く王は神に選ばれた者です。つまり、特別に区別された王です。しかし、エホアハズ王は周辺諸国の王と同じように横暴に振る舞ってしまいました。
私たちは決して高ぶってはいけないのですが、選ばれたものです。主が呼んでくださり、永遠のいのちを贖われた者です。それであれば、それにふさわしい生き方が必要です。ローマ12:2にあるように、この世と調子を合わせたような歩みではなく、神の子としての生き方をしていく必要があります。
5節からはエホヤキンの事が書かれています。エホアハズはユダの人々が決めた王です。それをエジプトのパロが取り除き、その代わりにヨシヤ王の他にいた息子、エホヤキムを王に立てました。
そして、エホヤキムの時代に世界のバランスが変わり、エジプトは衰えていき、代わりにバビロンが盛んになってきました。そうして、エホヤキムはバビロンの勢力の下に置かれました。エホヤキムも死に、その息子エホヤキンが王となりますが、3ヶ月という短期間の王でした。そしてここにあるように、バビロンに連れて行かれてしまいます。人々は彼がバビロンから帰ってくることを期待しましたが、それはかないませんでした。

・王の杖となる強い枝がなくなる:10ー14節
ここではゼデキヤに対することばがありますが、彼がまだ生きている時に哀歌が歌われています。通常、哀歌は人が召され、それを痛み悲しむときに歌われるのですが、なんとも皮肉なことです。
ゼデキヤは水のほとりに植えられたぶどうの木でした。そして、主はもともとエルサレムを滅ぼされることは願っていませんでした。しかし、主は手を変え、品を買えて悔い改めるようみことばを送りましたが、彼らは悔い改めることをしませんでした。それで、主は別のプラン、エルサレムを滅ぼされることを決断されました。
しかし、彼は際立ってきた、つまり、高ぶる心を持ってしまいました。これは17章で見たとおりです。エジプトに背を向け、バビロンから独立しようとしました。
そこで主は引き抜かれました。ユダの王がいなくなったことが嘆かれています。
この哀歌から何が学べるでしょうか。私たちはいつでも悔い改める機会が与えられていると言うことです。天国に行ってできないことがいくつかあります。そのうちの二つは伝道することと悔い改めることです。ルカの16章にある金持ちとラザロの所から知ることができます。彼は家族に福音を伝えたいと願いますが、それはできませんでした。また、燃える火の中で苦しみ、悔い改めますがそれができないのです。今日という恵みの日に悔い改める道を選び取って行きましょう。悔い改めは天の御国の入り口です。

【20章】繰り返す肉の性質

・彼らをエジプトの地から連れ出す:1-9節
この時は第七年、二回目の捕囚から7年目です。エルサレムが滅ぼされるまであと5年です。長老たちの何人かが主の御前に来て尋ねましたが、主は願いを聞かないと言われます。なぜでしょうか。このみtこばが適用されるかも知れません。ヤコブ4:3「願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」
そして、これからは長老たちに対して、エゼキエルが神の御心を示し、判断を示すために、先祖たちの忌み嫌うべき事が語られていきます。
イスラエルが民として形成されたのはエジプトです。ヨセフがエジプトに連れてきたのは彼の家族です。その家族から多くの民が別れ出ました。しかし、エジプトは偶像礼拝の国です。イスラエルの民はそこでヤハウェなる神ではなく、偶像に心を向けました。彼らが生まれ育った所で自然に文化の中に入ってきたそのような偶像に対して、主は「おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。」と言われます。
それでも彼らは主に従おうとしません。主はご自身の名のゆえに彼らを滅ぼされません。彼らがかたくなな心であっても、主は恵みによって彼らを救ってくださいました。

・安息日を汚した:10-17節
荒野での生活が書かれています。この荒野で律法が与えられ、安息日が与えられました。天地創造の時、主が全ての創造を終えて七日目に休まれたことに由来します。この安息日を守ることが、他の民族との大きな違いとなりました。
それなのに、イスラエルの民は荒野で主に逆らいます。主のおきてに従って歩まず、安息日をひどく汚しています。もし、彼らが主のおきてを行えば生きます。ところが、彼らはそうしませんでした。ということは、生きることができないはずですが、ご自分の名の故に彼らを滅ぼすことを思い直されています。

・安息日をきよく保て:18-20節
その様な、エジプトから出てきた第一世代でしたが、彼らの子どもたちに主は仰せられます。まずは禁止事項です。どのようなものがあるでしょうか。まずは父たちのおきてに従って歩むな、彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で実を汚すな。です。そして、主はご自分が主であると言うことを言われた後、今度は行うべき事を仰せられます。それは主のおきてに従って歩むこと、主の定めを守り行うこと、そして安息日をきよく保つことです。この安息日が荒野での神と民の契約のしるしになります。

・主が主であることを知るため:21-26節
ところがやはりその子どもたちも主に逆らいます。同じ事が繰り返されています。彼らは自分の欲望に駆られて、喉が渇いたとモーセに詰め寄り、モーセは二度岩をたたいてしまいました。そのことで、主の神聖を失わせてしまいました。そのゆえに、モーセは約束の地に入れませんでした。
また、主は不平を言う民に燃える蛇を送られましたが、その時彼らは悔い改めました。それでモーセに青銅の蛇を掲げさせ、それを見る者は生きると言われました。
25節からは、エルサレムの人々がバビロン捕囚される決定的な出来事が書かれています。それが子どもたちを火の中をくぐらせると言うことです。彼らは初子を異教の神にささげていました。しかし、律法の規定では初子は神のものとして主に献げなければなりませんでした。主はこの事を見のがすことはできませんでした。

・あなたの願いを聞き入れない:27-32節
この部分が結論になります。なぜ主が彼らの願いを聞かれないかというと、御心をそれたことを祈っているからです。今までの流れを見てきてわかると思いますが、彼らは同じ事を繰り返しています。これが人の肉の性質です。
しかし、主は民を愛するがゆえに、彼らの考えを変えてくださいます。彼らは妥協して、異邦人のようになってしまったらいいじゃないかと考えていましたが、そうならないと主は仰せられます。

・反逆者を選り分ける:33-38節
彼らが何を思っても、主は彼らを愛するがゆえに御心のままに導かれます。例えば、子どもが自分勝手に「こうしたい」と言っても、親はそれが危険であることを知っているので禁じたりすることがあります。主はそのように民を導いてくださいます。
私たちも主に選ばれ、贖われた者たちです。たとえ、主を信じていないような人たちの生活に憧れ、そのように振る舞おうとしても残るのはむなしさです。そして、結局主のところに立ち返ります。これが主の恵みです。

・自分自身をいとう:39-49節
ここでは、イエス様が戻って来られた時の民の姿が書かれています。たとえ彼らが偶像の所に行ったとしても、御霊の声に従い、偶像の満ちに迷い込まなくなっています。そのことで主の聖い御名が保たれます。そして、彼らは主に仕え、主は喜んで彼らを受け入れられます。
主の選ばれた民は四方から集められ、彼らは主こそが彼らの神であることを知ります。
45節からは新しい預言に入ります。イスラエル一体に火を付けよと語られています。

【21章】主の剣

・正しいものも悪者もたち滅ぼす:1-7節
20章の47節にあった緑の木と枯れ木とは、ここに書かれている正しい者と悪者です。その両方が滅ぼされます。どうして正しい者が滅ぼされてしまうのでしょうか。詳しいことはわかりませんが、おそらく、悪者によって迫害されることがここの意味ではないかと思います。
イエス様は最も正しいお方ですが、十字架に付けられ死なれました。もちろん、その後には復活もあったのですが、この事も現しているのでは無いかと思います。
6節では、腰が砕けるほど嘆いています。それほどにエルサレムの滅びは激しいものです。

・虐殺のために研がれた剣:8-17節
ここでの剣はバビロンの剣を指しています。そして、「わたしの杖」とは王権のことです。バビロンが行ったことは、根こそぎユダの国、エルサレムの都を取り除いてしまうほどの恐ろしいことでした。国から杖、主権が取られてしまったら国は滅びます。
14節の剣を二倍三倍にするとは、三度にわたるバビロン捕囚の意味です。エゼキエルも手を打ちなして預言しましたが、主も手を打ち鳴らして預言します。神の怒りがこれで満たされ、これ以上行わないという意味です。

・二つの道のしるし:18-23節
バビロンは勢力を拡大し、パレスチナ地方の国々を征服することを決めます。そこには主に三つの国があり、ツロ、アモン、そしてユダでした。バビロンの人々は動物の内臓を使って占った所、まずユダを攻め取ることを決めました。ここにも主の御手が働かれたのでしょう。

・廃墟だ廃墟だ:24-27節
ユダの人々は動物の肝での占いを見下します。しかし主は占いを用いて彼らを捕らえ、それによって彼らの不義を思い出させておられます。王から冠が取り去れます。
ダビデの座が途切れてしまったように見えます。しかし、主は27節で「わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは」と、こっそりメシヤの到来の預言をされています。
ダビデの座は途絶えてしまったように見えますが、主はそこから新芽のように、ナザレのイエスをダビデの血筋から誕生させられます。

・出身地でさばかれる:28-32節
ここではアモン人が取り上げられています。彼らのそしりについてです。そもそも、アモンはイスラエルの敵です。バビロンが来たことでエルサレムとアモンは同盟を結びましたが、いざバビロンがエルサレムに攻めてきたときにはアモン人は喜びました。しかし、主の民を呪う者を主は放っておかれません。彼らは剣に倒れ、地上から民族は消え去り、誰も思い出すことはないと言っています。上の箇所で、エルサレムの罪は思い出されるとありましたが、ユダヤ人は自分たちの不義を思い出しました。しかし、ユダヤ人は今も生かされています。罪が明らかにされるのはうれしいことではありませんが、そのことで生かされるのです。私たちはアモン人のようになりたいでしょうか。それとも、ユダヤ人のようになりたいでしょうか。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 今日悔い改めることができるように祈ります。主に選ばれ贖われたことを感謝します。

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