シャローム!
今日の通読では、イザヤが正式に預言者として召される所が出てきます。そうです。働き人は誰ひとり自分の力で働きを始める者はいません。まず、主が呼んでくださることが大切です。そのためには何をすれば良いのでしょうか。詳しくは今日の通読から教えられていきましょう。
今日の通読箇所:イザヤ書 4章〜6章
■アウトライン
●ひとりの男:4章
・そしりを除いてください:1節
・残された者:2-6節
●嘆かれる主:5章
・愛する者のために歌おう:1-2節
・なぜ酸いぶどうができたのか:3-6節
・主が喜んで植え付けたもの:7節
・自分たちだけが住もうとしている:8-10節
・無知のため捕らえ移される:11-17節
・罪を引いて寄せている:18-19節
・悪を善、善を悪と言う者:20-25節
・合図されると速やかに来る:26-30節
●天の御座の光景:6章
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【4章】ひとりの男
・そしりを除いてください:1節
ここでも「その日」が出てきます。これは主が定められた時です。もっと具体的に言うとさばきの日です。七人の女がひとりのおとこにすがりつくとはどういう意味でしょうか。これは3章からの続きなのですが、男性が少なくなっている状況です。当時は女性の恥の一つに子どもを持てないと言うことがありました。そこで、自分たちの生活は自分たちでなんとかするので、子どもを作らせてくれと願っている状況です。
このように見ると、「なんてことだ」と思うかもしれませんが、ひとりの男とはイエス様のことです。なぜなら、この後から救い主の預言が続くからです。七人の女は黙示録の七つの教会を啓示しているのかもしれません。イエス様によってそしりは取り除かれます。
・残された者:2-6節
その日、主の若枝は栄光に輝くとあります。若枝とはイエス様を現す表現です。ヘブライ語では「ナツァール」と言います。このことばから派生したのがナザレです。マタイ2:23には「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった。」とあります。しかし、このマタイにある引用はどこを探してもありません。しかし、若枝がナザレにつながることがわかれば、この預言は確かに成就したことがわかります。
3節からは残された者が書かれています。イザヤの中で続けて書かれていることです。シオンに残された者、エルサレムに残った者は聖なる者とされると書かれています。マタイの24章では、その時には山に逃げなさいと書かれています。主の住まう所に留まることが大切です。その者はいのちの書にしるされた者です。
4節からを見ると、主のさばきの霊が娘を浄めています。律法の書を見ると、女性は月のさわりの汚れからのきよめが書かれていますが、そのことをここに当てはめています。水による聖めではなく、霊による聖めです。終わりの時代にも火によるきよめがなされます。「もし誰かの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(1コリント3:15)
そして、出エジプトの時に主ご自身が火の柱、雲の柱としてイスラエルの民を守り、導いてくださったように、主ご自身が災いから守ってくださることが約束されています。
【5章】嘆かれる主
・愛する者のために歌おう:1-2節
愛する者のための歌が書かれています。本物のラブソングです。ぶどう畑のための歌です。ぶどう畑は単に種を蒔けば良いという訳ではありません。地を掘り起こし、石を取り除き、はじめて種を蒔きます。そこにやぐらを建て、酒ぶねを掘り、甘いぶどうを期待していましたが、実際に実ったのは期待外れの酸いぶどうでした。
この事がこの後に説明されていきます。
・なぜ酸いぶどうができたのか:3-6節
ここではエルサレムの住民とユダの人にさばけと命じています。さばかれているのは神様ご自身と神のぶどう畑です。その内容は、神様がどれだけイスラエルの人々に愛を示してきたか、赦してきたか、使えてきたか、良いものを与えてきたか、恵みを施してきたかと言うことです。
主はぶどう畑にしたように彼らにしてきました。良いぶどうの種を蒔いたのですから、良い実がなるのが当然ですが、彼らの不従順により酸いぶどうとなってしまいました。
主は何度も何度も悔い改める機会を与えてくださいました。しかし彼らはそれに応じませんでした。それで主は5-6節に書かれていることを行われます。当たり前だったことが当たり前でなくなる事を私たちは近年体験しているでしょう。
霊的な歩みにおいても、そのような事が起こりえます。教会の中で自分の夢を実現するために集ったり、人と話したいためだけに集まる、つまり、主を第一としていない、主を抜きにした教会での集まりは排除させられるかもしれません。
・主が喜んで植え付けたもの:7節
主は公正を待ち望まれたのに、結果は流血でした。彼らは預言者を迫害し、殺したりもしました。同様に、まことの預言者、救い主も殺してしまいます。イエス様のたとえでぶどう畑に人を送り、最後に息子を送りましたが殺されてしまったという場面を思い出します。
・自分たちだけが住もうとしている:8-10節
このような不正をもたらしている具体的な災いは何でしょうか。一つ目はここに書かれているように所有欲です。レビ記には土地を写してはならないと書かれています。日本でも不動産の土地の価格が決まっていますが、本来はすべて土地は主のものです。律法にも土地を公正に取り扱うことが書かれているのに、それを自分たちの欲で貧しい人から買い取って、その上土地代を引き上げ、貧しい人が土地を買えないようにしています。
このような欲は土地の産物を貧しくさせます。実りが少なくなるのです。ここ20年で各国の労働賃金は2倍以上になっていますが、日本だけ0.1%の成長に留まっています。もしかしたら、このような霊的原則が日本に働いているのかもしれません。
・無知のため捕らえ移される:11-17節
続いての災いは酩酊・遊興です。少量のぶどう酒とこの地で楽しむことは赦されていますが、何が問題なのでしょうか。これらが行き過ぎて主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしないということが問題です。
その報いとして、民は捕らえ移されます。無知のためです。主の御声を聞いても従おうとしない人々にはよみを用意します。すべてがそこに飲み込まれてしまいます。
遊興・酩酊で気分が良くなった人が「それくらい大丈夫、さばきなんてずっと先だから、今を楽しもう」と言っているなら、その人はかがめられ、低くされます。そして、主が高められ、主が主である事を知るようになります。
・罪を引いて寄せている:18-19節
三つ目の災いは嘘・偽りです。今までは肉の事に関することですが、ここから目に見えない心の問題になります。神様は約束されたことを必ず成就してくださるお方です。このお方に偽りはありません。悪魔は初めから嘘つきです。もし、嘘や偽りがあるなら、私たちの父が誰であるかを点検する必要があります。
ここでは「嘘を言って何が悪いんだ。神が何をするというのか。やれるものならやってみろ」という風に神を嘲っています。
・悪を善、善を悪と言う者:20-25節
四つ目は真理を曲げることです。主がとても忌み嫌われることです。嘘の発展版です。極端な例を言うなら、神様に対して「あなたは間違っている」と言うことです。また、人に対しても同様です。つまり、自分が中心となり、自分が神となっている状態です。
・合図されると速やかに来る:26-30節
主が最終的に行われるさばきは遠く離れた国からのものでした。主が合図されると、速やかにやってきます。
ここまでがイザヤのウジヤの時代の預言です。この後6章からはもっと悪い時代、アハズ王の時代の預言になります。
【6章】天の御座の光景
この6章は神様の顕現があります。イザヤは天の光景を見ます。正に黙示録に書かれてある天の光景と同じです。
実は、この6章の時代から、イザヤは正式に預言者としての召命を受けます。5章までの時代も預言をしていましたが、この時からはっきりと神様に語られ、預言者としての働きを始めます。
神様は聖書で二段階のステップを踏まれることが多くあります。イエス様が盲人の目を癒やされる時にも一度ぼんやりしたものを見せられ、その後はっきり見えるようにされます。最初のアダムがきて、第二のアダム(イエス様)が来られます。バプテスマのヨハネがきてイエス様が来られます。イエス様が地上に来られ、その後再臨されます。
イザヤはウジヤ王が死んだ年にまぼろしで、王座に座しておられる主を見ます。これは興味深い事です。なぜなら、地上の王が召されたとき、今まで見えなかった天におられる王の王が見えたからです。つまり、ウジヤ王がいたときには天の御座は見えなかったと言うことになります。イザヤはウジヤ王を信頼し頼りにしていました。しかし、頼りにしていた者が取り去られたとき、本当の意味で主を求めるようになります。
私自身も教会の長老である義父が召される前は彼に頼り切りでした。しかし、主に召された今は、本当の意味でより主に信頼しているのかなと思ったりもします。
さて、ここからは天の光景を見ていきましょう。
御座からの裾が神殿にまで届いています。その上にセラフィムという御使いがいます。六つの翼がありますが、二つは顔を隠し、二つは足を覆っており、のこりの二つで飛んでいます。これは、主の前でへりくだる姿勢を示しています。そしてセラフィムは互いに呼び交わします。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」。聖書ではめずらしい、三回の繰り返しです。これは三位一体の神を誉め称えているのかもしれません。また、完全な聖さをも意味します。そのように主をほめたたえるとき、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされます。
このような主の聖さが現された時、人はどうなるのでしょうか。5節を見てみてください。「ああ。私は、もうだめだ。」と言っています。あまりの神の聖さに自分の汚れがあらわにされているのです。そして、イザヤは何が汚れていると言っているでしょうか。「私はくちびるの汚れた者」と言っています。預言者としてはあってはならないことです。預言者は予言者とは違います。予言者は将来の事を言い当てる人ですが、預言者は神様のことばを聞いてそれを人に取り次ぐ役割です。つまり、ここで人の考えが挟まってはならないのです。つまり、口が汚れていてはこの働きはできません。
私の尊敬する宣教師が以前、教会に来て下さり、メッセージして下さいました。その時、講壇からの第一声が、笑顔で「自分に絶望!」というものでした。私たちが本当に神様と出会うとき、自分に絶望します。それが神を知ることの第一歩です。
自分の口の汚れを悟ったイザヤですが、その時、セラフィムの一人が祭壇の火から取った燃える炭を持ってきました。そしてイザヤの口にその炭をあてがいます。考えただけで痛そうです。祭壇とは何でしょうか。いけにえがささげられる場所です。悔い改めを意味する神殿の器具です。主からの一方的な恵みと憐れみによって、イザヤの口が祭壇の火で聖められます。これで、預言者イザヤの働きの準備ができました。モーセも働きまで80年、様々な所を通されました。ヨセフもそうです。イエス様も働きの前に荒野に行かれました。主に用いられる者は荒野を通され、主の御声を聞いて働きに送り出されます。
8節、主が「誰を遣わそうか」と言われる声を聞きます。すぐさまイザヤは「ここに、私がおります。」と答えました。エリに育てられたサムエルも夜中に主から呼ばれたときにこのように答えたのを覚えているでしょうか。完全なしもべの姿です。主人に絶対服従する態度です。
それで、主はイザヤを遣わされますが、その内容は不思議なものです。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」と民に伝えよと言うのです。一見めちゃくちゃな命令です。
民の心を鈍らせ、耳を遠くし、目を閉ざし、立ち返っていやされることがないようにするためです。
これはイエス様も引用されているところになります。福音を語っても語っても人の心に救いが訪れないということを体験したことがあるでしょうか。そのような状態です。しかし、私たちは時が良くても悪くても福音を伝えなければなりません。人の目に見える成果ではなく、神の恵みに拠り頼む働きが大切です。
イザヤは「主よ、いつまでですか」と聞きます。11節以降がその答えです。これはバビロン捕囚、また、紀元70年の神殿崩壊を指し示しています。しかし、ここにも残された者がいます。イエス様の時代では使徒たちです。彼らこそ聖なるすえであり、私たちもそこに入れられていることを感謝します。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
昼も夜も主が守ってくださることを感謝します。
時が良くても悪くても福音を伝えることができるように祈ります。